小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

昭憲皇太后、ふたつの誕生日

2010-04-24 21:04:33 | 小説
 フリー百科事典「ウィキペディア」で「地久節」を検索してみると、以下のように説明している。

地久節(ちきゅうせつ)は、大日本帝国時代(明治維新から第二次世界大戦まで)の祝日の一つで、皇后の誕生日を祝う日。天皇誕生日(天長節)と異なり、国の祝祭日として勅令で定められることはなかったが、女子校などにおいて休日として祝われた。

 地久節が御儀として初めて行われたのは明治22年であった。そのことを明記してくれれば、より親切な説明になるところだが、問題は明治の地久節の日付である。「ウィキペディア」は「5月9日」としている。
 明治天皇の皇后、つまり昭憲皇太后は嘉永2年(1849)4月17日が誕生日である。旧暦のこの日付は西暦では、たしかに5月9日となる。
 しかし、実際の地久節は、5月28日だった。この日、女学校が休日だったという記録はいくつかネット上でも確認できる。
 私は過去にブログでも小説でも、皇后の誕生日は5月28日だと書いてきた。地久節が5月28日だからである。
 なぜ、皇后には誕生日がふたつあるのか。
 皇后は公式には、生年は嘉永3年と実際より1年遅くされているからだ。皇后は明治天皇より3歳上であったが、3歳上は「世俗四つ目と称して之を忌む」との理由で、嘉永3年4月17日生まれとなっているのである。(参照:『皇室事典』皇室事典編集委員会編・角川学芸出版刊)
 さて嘉永2年には4月の次に閏4月があった。だから嘉永3年の4月17日を西暦にすると5月28日となるのであった。
 そんなわけで明治22年の初めての地久節は5月28日であった。むろん以後、明治にはこの日付が地久節であり、皇后の誕生日を祝う日だった。こういう厳然たる事実があるのだから、地久節を「5月9日」とするわけにはいかないのである。

小説の予告

2010-04-23 15:18:07 | 小説
 龍馬の妻のお龍さんの物語『月琴を弾く女』を、幻冬舎文庫で6月上旬に刊行するはこびとなった。出版プロデューサーの福島茂喜さんのご尽力で、温存していた原稿が陽の目をみることになったのである。
 にわかに、また小説が書きたくなっている。かねて芭蕉の妻について小説化のアイデアを抱いていたが、そろそろ本気になるべきか。実はずいぶん前に以下のような文章を書いていた。再掲して、自分自身を励ましてみようと思う。


〈芭蕉に妻がいたという事実は意外に知られていない。漂泊の俳聖は僧形をしているから、妻など持たぬ身であったろうと、思われやすくもあるのだ。彼に忍者説のあることを、ほのかに知 っている人でも、妻子の存在を知ると驚くのである。
 そう、芭蕉には妻もいたし、子供もいた。
 もっとも、妻の本名はわからない。彼女は寿貞尼という法名で芭蕉の手紙の中に登場する。尼なのである。尼が人妻になるわけはなく、妻だった女性が尼になったのだ。ということは芭蕉とその妻は、ある時点から夫婦の関係を断ったのである。なぜ彼女は尼になったのか。芭蕉の出家とセットであろうと論じる学者もいるが、はたしてそうか。芭蕉の出家そのものがたしかなことではない。自分を慕う女に尼寺に行けといったハムレットを思い起こすのだけれど、芭蕉とその妻にも男女の葛藤のドラマがあった、と考えられる。 
 後に芭蕉と呼ばれる青年松尾甚七郎宗房が伊賀上野から江戸に来たのが29歳のとき。この江戸くだりに妻を同伴した形跡はない。だから寿貞尼とは江戸で知り合ったと考える人がいる。いや、彼女は芭蕉と同郷で、芭蕉を追ってあとから江戸に来たと考証する人もいる。たぶん、同郷説が正しい。なぜなら、彼女は死んでから伊賀上野の寺で供養されているからだ。
 ともあれ芭蕉より10歳以上年下の女性だったらしい。3人の子を産んだ。二郎兵衛、まさ、おふうである。長男で二郎兵衛というのは変だから、あるいは幼くして死んだ男の子がいて、実は4人の子を産んだのかもしれない。        
 寿貞尼は自分の子供たちに加え、芭蕉が養子にしていた桃印(やんぬるかなこの男の本名もわからない)さらには理兵衛なる人物らと一緒に暮らしていた。この理兵衛について、ある芭蕉研究家は寿貞尼の父親と推測し、別の研究家は弟だと推測する。 史料がないから、ほとんど推理と推測の世界である。推理するなら、もっと大胆に踏み込むべきではないか。この理兵衛にあてた芭蕉の手紙があり、理兵衛の細工もこの頃はないからという文節をとらえて、理兵衛は季節的な竹細工か何 かの職人であったろうと推定している。こういう点では研究家の意見は一致するのだが、この理解でよろしいのか。
 私は、これこそ芭蕉忍者説を裏付ける一証拠だと思ってしまう。問題は 「細工」という言葉だ。これは忍びの仕事という意味もあるのだ。江戸城御庭番の役職名に細 工頭というのがある。さらには「細人」と書いて「しのび」と読ませる古典がある。つまり細工(術 策)をする人は忍び者なのである。
 理兵衛は芭蕉の諜報活動上の手下なのである。そういう人 物と同居していて、伊賀上野出身で俗名の決して明らかにされない寿貞尼という女性を、いわゆるクノイチ忍者とみなしていけない道理があろうか。
 芭蕉忍者説については、奥の細道に芭蕉と同行した曽良 を調べることで、私なりに納得したことがある。いわば、搦め手からであるが、まだ誰も言及し ていない状況証拠を発見した。だから、諜報活動者の妻としての寿貞尼を書く。しかも魅力的 なことに寿貞尼には芭蕉の養子桃印との不倫説がある。さらに、時代背景として、有名な八百 屋お七の火事がある。この火事、私はたんなる一女性の放火と思ってはいない。政治的な放火事件であるはずだ。これを絡める。
 小説の企画だけで、出版エージェントと契約できる米国 のようなわけにはいかないから、こんなことを高言してもいたしかたないけれど、妙に心が昂ぶるから、つい予告編みたいなコラムになってしまった。〉   
 

                
 

村上春樹『1Q84』BOOK3を読む

2010-04-18 17:38:39 | 読書
発売日の4月16日の朝、10時開店と同時に近所の書店に飛びこんで、平積みしてある本を一冊手にとった。レジに直行したら、すぐあとに3人の客が並んで、それぞれ同じ『1Q84 BOOK3』を持っていた。
 私の場合、いちはやく確認したかったのはヒロインの生存だった。作中人物に、こんなに熱い思いを抱いたのは久しぶりだった。銃口を口に含んで、自殺をはかろうとしていたヒロインは、やはり引き金をひくのをやめていた。彼女の人生は続いていた。
 彼女はいわば女・必殺仕事人である。村上春樹は案外と芸能娯楽面に通暁しているのではないかと思われる。謎の美少女深田絵里子は「ふかえり」と呼ばれるが、なぜか深田恭子や「さとえり」を連想させるネーミングだ。BOOK3に登場する小柄な看護婦の名が安達クミ、これが安達祐実のイメージに重なる。たぶん故意に俗っぽいスパイスをきかせているのだ。それはちょっとキザな衒学趣味を中和させるスパイスとしてである。衒学趣味というのは、たとえば、プロの殺し屋が同じ殺し屋で自宅で逼塞するヒロインに差し入れする本がプルーストの『失われた時を求めて』であったりするからである。プルーストを読む殺し屋!
 物語は表向き、ハッピー・エンドのように終わる。けれども胸騒ぎのするような暗い予兆のある終わり方だ。ほんとうの物語はこれから始まるのではないか。内田樹の本のタイトルではないが『村上春樹にご用心』である。
 ところで内田樹はこの本で、こう述べていた。
〈私たちの世界はときどき「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」が入り込んできて、愛する人たちを拉致してゆくことがある。だから、愛する人たちがその「超越的に邪悪なものに損なわれないように、境界線を見守る「センチネル(歩哨)」が存在しなければならない……というのが村上春樹の長編の変わることのない構図である〉
 この構図は、『1Q84』にもあてはまる。
 邪悪なものは、まだ蠢き始めたばかりである。この物語は終わっていない。