フリー百科事典「ウィキペディア」で「地久節」を検索してみると、以下のように説明している。
地久節(ちきゅうせつ)は、大日本帝国時代(明治維新から第二次世界大戦まで)の祝日の一つで、皇后の誕生日を祝う日。天皇誕生日(天長節)と異なり、国の祝祭日として勅令で定められることはなかったが、女子校などにおいて休日として祝われた。
地久節が御儀として初めて行われたのは明治22年であった。そのことを明記してくれれば、より親切な説明になるところだが、問題は明治の地久節の日付である。「ウィキペディア」は「5月9日」としている。
明治天皇の皇后、つまり昭憲皇太后は嘉永2年(1849)4月17日が誕生日である。旧暦のこの日付は西暦では、たしかに5月9日となる。
しかし、実際の地久節は、5月28日だった。この日、女学校が休日だったという記録はいくつかネット上でも確認できる。
私は過去にブログでも小説でも、皇后の誕生日は5月28日だと書いてきた。地久節が5月28日だからである。
なぜ、皇后には誕生日がふたつあるのか。
皇后は公式には、生年は嘉永3年と実際より1年遅くされているからだ。皇后は明治天皇より3歳上であったが、3歳上は「世俗四つ目と称して之を忌む」との理由で、嘉永3年4月17日生まれとなっているのである。(参照:『皇室事典』皇室事典編集委員会編・角川学芸出版刊)
さて嘉永2年には4月の次に閏4月があった。だから嘉永3年の4月17日を西暦にすると5月28日となるのであった。
そんなわけで明治22年の初めての地久節は5月28日であった。むろん以後、明治にはこの日付が地久節であり、皇后の誕生日を祝う日だった。こういう厳然たる事実があるのだから、地久節を「5月9日」とするわけにはいかないのである。
地久節(ちきゅうせつ)は、大日本帝国時代(明治維新から第二次世界大戦まで)の祝日の一つで、皇后の誕生日を祝う日。天皇誕生日(天長節)と異なり、国の祝祭日として勅令で定められることはなかったが、女子校などにおいて休日として祝われた。
地久節が御儀として初めて行われたのは明治22年であった。そのことを明記してくれれば、より親切な説明になるところだが、問題は明治の地久節の日付である。「ウィキペディア」は「5月9日」としている。
明治天皇の皇后、つまり昭憲皇太后は嘉永2年(1849)4月17日が誕生日である。旧暦のこの日付は西暦では、たしかに5月9日となる。
しかし、実際の地久節は、5月28日だった。この日、女学校が休日だったという記録はいくつかネット上でも確認できる。
私は過去にブログでも小説でも、皇后の誕生日は5月28日だと書いてきた。地久節が5月28日だからである。
なぜ、皇后には誕生日がふたつあるのか。
皇后は公式には、生年は嘉永3年と実際より1年遅くされているからだ。皇后は明治天皇より3歳上であったが、3歳上は「世俗四つ目と称して之を忌む」との理由で、嘉永3年4月17日生まれとなっているのである。(参照:『皇室事典』皇室事典編集委員会編・角川学芸出版刊)
さて嘉永2年には4月の次に閏4月があった。だから嘉永3年の4月17日を西暦にすると5月28日となるのであった。
そんなわけで明治22年の初めての地久節は5月28日であった。むろん以後、明治にはこの日付が地久節であり、皇后の誕生日を祝う日だった。こういう厳然たる事実があるのだから、地久節を「5月9日」とするわけにはいかないのである。