熊本城の攻防、田原坂の激戦と西南戦争のヤマ場は最初に来るのだが、戦争は実に7ヵ月に及んだのであった。2月に始まり、終わったのが9月。
薩軍は熊本から北進するどころか、九州南部つまり肥・豊・日・隈の各所を転走し、結局は鹿児島の私学校跡にもどるのであった。双六でいえば、ふりだしに戻ったのである。
「鹿児島の賊乱は9月24日においてまったく平定に属し、維新の偉業は10年にして初めて大成するを得たり」と戦争終結を高揚した筆致で東京日日新聞に記事にしたのは、福地源一郎(桜痴)であった。犬養毅が郵政報知の従軍記者だったように、福地桜痴は東京日日の従軍記者として健筆をふるっていた。
その東京日日新聞は戦争の翌年2月25日付の記事で、この戦争に要した政府の軍事費を明らかにしている。
「西南征討総理事務局長官・大蔵卿大隈重信公より、鹿児島征討費計金4千156万7千26円68銭5厘の決算表を太政官に差し出され、本月13日をもってその計算の正確なるを証認せられたり」
なんと4000万円を越える国費が投入されているのだ。当時の税収は4千800万円ぐらいだったらしいから、ほとんどそれに迫る軍事費なのである。
ちなみに政府軍の死傷者は1万6千名弱。使った小銃弾薬は3千489万3千531発、大砲弾薬は7万3千710発。薩軍の死傷者も、ほぼ同程度とみなしてよいと思うが、使用弾薬には、桁違いの差があるはずだ。
なぜなら、政府軍の使った新式のスナイドル銃は一分間に6発以上撃てるが、薩軍の使う旧式のエンフィールド銃は一分間に3発がやっととされるらしいからだ。
薩軍は熊本から北進するどころか、九州南部つまり肥・豊・日・隈の各所を転走し、結局は鹿児島の私学校跡にもどるのであった。双六でいえば、ふりだしに戻ったのである。
「鹿児島の賊乱は9月24日においてまったく平定に属し、維新の偉業は10年にして初めて大成するを得たり」と戦争終結を高揚した筆致で東京日日新聞に記事にしたのは、福地源一郎(桜痴)であった。犬養毅が郵政報知の従軍記者だったように、福地桜痴は東京日日の従軍記者として健筆をふるっていた。
その東京日日新聞は戦争の翌年2月25日付の記事で、この戦争に要した政府の軍事費を明らかにしている。
「西南征討総理事務局長官・大蔵卿大隈重信公より、鹿児島征討費計金4千156万7千26円68銭5厘の決算表を太政官に差し出され、本月13日をもってその計算の正確なるを証認せられたり」
なんと4000万円を越える国費が投入されているのだ。当時の税収は4千800万円ぐらいだったらしいから、ほとんどそれに迫る軍事費なのである。
ちなみに政府軍の死傷者は1万6千名弱。使った小銃弾薬は3千489万3千531発、大砲弾薬は7万3千710発。薩軍の死傷者も、ほぼ同程度とみなしてよいと思うが、使用弾薬には、桁違いの差があるはずだ。
なぜなら、政府軍の使った新式のスナイドル銃は一分間に6発以上撃てるが、薩軍の使う旧式のエンフィールド銃は一分間に3発がやっととされるらしいからだ。