小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

西南戦争 この日本史上最後の内戦  12

2007-04-30 15:54:14 | 小説
 熊本城の攻防、田原坂の激戦と西南戦争のヤマ場は最初に来るのだが、戦争は実に7ヵ月に及んだのであった。2月に始まり、終わったのが9月。
 薩軍は熊本から北進するどころか、九州南部つまり肥・豊・日・隈の各所を転走し、結局は鹿児島の私学校跡にもどるのであった。双六でいえば、ふりだしに戻ったのである。
「鹿児島の賊乱は9月24日においてまったく平定に属し、維新の偉業は10年にして初めて大成するを得たり」と戦争終結を高揚した筆致で東京日日新聞に記事にしたのは、福地源一郎(桜痴)であった。犬養毅が郵政報知の従軍記者だったように、福地桜痴は東京日日の従軍記者として健筆をふるっていた。
 その東京日日新聞は戦争の翌年2月25日付の記事で、この戦争に要した政府の軍事費を明らかにしている。
「西南征討総理事務局長官・大蔵卿大隈重信公より、鹿児島征討費計金4千156万7千26円68銭5厘の決算表を太政官に差し出され、本月13日をもってその計算の正確なるを証認せられたり」
 なんと4000万円を越える国費が投入されているのだ。当時の税収は4千800万円ぐらいだったらしいから、ほとんどそれに迫る軍事費なのである。
 ちなみに政府軍の死傷者は1万6千名弱。使った小銃弾薬は3千489万3千531発、大砲弾薬は7万3千710発。薩軍の死傷者も、ほぼ同程度とみなしてよいと思うが、使用弾薬には、桁違いの差があるはずだ。
 なぜなら、政府軍の使った新式のスナイドル銃は一分間に6発以上撃てるが、薩軍の使う旧式のエンフィールド銃は一分間に3発がやっととされるらしいからだ。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  11

2007-04-25 22:34:30 | 小説
 反乱軍の熊本城への攻撃は、2月22日の早朝から始まった。当時、郵便報知新聞の従軍記者だった犬養毅の戦況報告を見てみよう。

 同(2月)22日、賊の先鋒、熊本に達し厳しく攻撃し、城の東南門を攻む。城兵、拒戦よく力め、すこぶる賊の鋭鋒を挫く。爾来賊しばしば攻むれども、城兵ますます固守して屈せず。賊ついに遠く重囲を設けてこれに抵(あた)り、その兵を分かって他の要道に四出す。
(中略)
 27日暁、賊兵、迫間の渡の高瀬口の両道より突至襲撃す。我が兵急にこれに応じ、大砲を高瀬川の堤上に備え対岸の賊に当たる。賊もまた万銃連発、弾丸雨注し、三好少将微傷を負う。(後略)

 4月14日付けの新聞記事からの抜粋である。その記事の日付は品川弥二郎の「熊本籠城日記」で「14日、川尻口の団兵、熊本に入る。城中歓喜の声、山岳を崩す」と書きつけた日だった。
 反乱軍の誤算は熊本鎮台兵の激しい抵抗、とりわけ籠城堅守をやぶれないことだった。
 さすがに西郷も鎮台司令長官の谷干城の指揮を称えたらしい。「この人物とならばともに鋒を争うにたれり」と感称したという。そのことは反乱軍の捕虜が明かしたと、東京曙新聞の記事(4月23日)は伝え、「このたびの戦功を谷少将に帰して第一等とするもあながちに過称にあらざるがごとし」と書いている。
 いや、兵糧が尽きかけているのに、敢闘精神を失わなかった籠城兵を賞賛しなければならない。
 賊兵が「ワイドモは1日に握り飯3個より食うものはなかろう、三日もせずに餓死するぞ、早く降参せよ」と呼びかけるのに、一瞬つまりながらも、やがて握り飯数個を賊兵にむかって放り投げた兵士たちがいるのである。「汝らこそ、粟飯しか食うものはなかろう、官兵はかくのごとき白米を食うぞ」そう叫んだという。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  10

2007-04-24 16:36:26 | 小説
 反乱軍は大旗を掲げていた。その旗がいつ用意されていたのか気になるところだが、次の郵便報知新聞(報知新聞の前身)の記事が3月3日付けであるから、それ以前であることは確かだ。

 賊将西郷隆盛は「新政厚徳」と大書せし大旗を押したて、沿道の人民を諭すに務めて偽仁政を唱えて撫育すと。

 ご一新からちょうど10年目の節目の年の明治10年である。世の中はよくなったのか。いや、ちっともよくなっていないではないか、もう一度ご一新すべきではないか。そんな気分は士族の方に強かった。おそらく、その意味での「新政」である。余談だが銘酒の新政(あらまさ)のネーミングはここからである。別に「厚徳」という銘柄もある。
 明治6年から9年にかけての秩禄処分は武士の経済的特権を奪うものだった。もともと武士は非生産的な種族であって、彼ら「世襲座食の士」を支えてきたのは平民であった。その平民たちは、徴兵によって、武士の軍事的機能や貢献度を自分たちで代替えできるとわかった。機能的に立場が同じになりうるものが、まだ武士を養っていかねばならぬとしたら不平不満が出て当然である。まして、不平士族の存在など、なにをいまさらと苦々しく思うだけだったろう。
 西南戦争は武士の終焉とならざるをえない内戦だった。
 3月13日の東京日日新聞の記事には、こんな一節が載った。

 …賊将桐野の持論に、兵は武士にあらざれば役に立たずといえるも、今実地に平民の編成軍に当たりて見て強かれば、もはや自己の自惚論を悔ゆるならん。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  9

2007-04-23 16:59:36 | 小説
 薩軍は最高時には4万200人に達したという。熊本はじめ各地の民権派士族が呼応して参軍、さらに徴募兵を加えると、そのような数になる。ある意味では少なすぎた。
 戦争を九州以外に拡大させないように、政府が迅速かつ的確な手をうったからである。そのことに最も尽力したのは西郷隆盛の弟だった。そう、西郷従道は兄を征討する政府軍の中枢にいたのである。
 たとえばその動向が警戒されていた高知の立志社への牽制。従道は高知県内の小銃1500挺、焔焇および雷管など取りまとめて陸軍に買い上げさせていた。もしも板垣退助率いる立志社1万人のメンバーが呼応し、馬関あたりで政府軍の背後をつきでもしたら戦況はがらりと変っていたはずだった。ともあれ板垣は立たなかった。
「さらに海軍による海岸線の警備、四国への巡査の派遣、四国との連絡の最短の地である豊後の警備なども、従道の直接采配するところであった。従道が警戒したのは、西郷軍に加担するものが出て、戦乱が九州以外に波及することであった」(猪狩隆明『西郷隆盛』岩波新書)
 西郷らを九州に閉じ込めて、東京で花見などさせないようにしようとしたのは、ほかならぬ西郷従道だったのだ。戦国時代の真田家ではないが、西郷家では家の存続のためには、戦さにおいてはあえて血族が敵味方にわかれたのであろうか。いや、従道は私情によって動いていないと言っておこう。
 それにしても思い出されるのは、西郷を敬愛する薩摩人たちの川路利良に対する憎悪である。実の弟だって敵側にいるのに、なぜ川路に辛く当たるのだろう。戦乱のさなか、川路の出身地の比志島では、非戦闘員の川路の親族7人が暴殺され、川原でさらし首にされた。「ある者の鼻には麦の穂が差し込んであり、道行く者の中には、唾を吐きかけて行く者もあった」(肥後精一『川路利良随想』)

西南戦争 この日本史上最後の内戦  8

2007-04-22 17:48:40 | 小説
 西郷と勝もやはり士族であったとしか言いようがない。戦さというものは士族の専売特許と思っていたわけではなくても、どこかで戦さの主役は士族と決めつけていたのではないだろうか。
 戊辰を戦い抜いた精鋭士族の薩軍と、徴兵によって農民や町人のいわば寄せ集めの政府軍とが戦えば、薩軍が勝つに決まっていると予断したふしがある。「土百姓の人形兵」と政府軍を侮る雰囲気は、おそらく薩軍そのものにもあった。
 しかし、その「人形兵」たちに近代装備があり、敢闘精神があったのである。
 大雪の降った2月15日、鹿児島を出陣した薩軍は、3月には東京で花見ができるというようなことまで言っていたらしい。本気でそう言っていたとしたら、あきれるばかりの認識の甘さである。
 鹿児島の大山県令は、西郷の名で熊本鎮台に文書を発した。陸軍大将(妙なことだが西郷の身分はまだ陸軍大将のままである)が通過するのだから、薩軍が「通過の節は、兵隊整列指揮を受けらるべく」という文書である。熊本鎮台兵は城外に整列して西郷を迎えて当たり前だろう、という趣旨なのである。さすがに西郷は、この文書の取り消しを命じたらしいが、2月19日、文書は熊本鎮台に届いている。その2月19日は天皇が行幸中の京都から、西郷らの征討令を発した日であった。
「鹿児島県下暴徒兵器を携へ、熊本県下へ乱入反跡顕然に付き、征討仰出され、有栖川二品親王へ征討総督仰付けられ候旨、本日行在所より電報これあり候条、この旨心得のため相達し候事」
 当日の右大臣岩倉具視署名のあるお達し文である。
 西郷らは「暴徒」となった。その数1万3000。やがて、その数はふくらむ。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  7

2007-04-19 20:23:06 | 小説
「今般政府へ尋問の筋これあり、明○○(空欄なのである)当地発程致し候間、御含みのため此の段届け出候。尤も旧兵隊の者共随行、多数出立致し候間、人民動揺いたさざる様、一層御保護御依頼に及び候也」
 西郷がこのように大山県令に桐野利秋、篠原国幹連名で願い出たのが2月7日である。
「政府へ尋問の筋これあり」は有名な文言であるが、まるで西郷らしくない言葉である。
 評論新聞の寄稿者で、どちらかといえば西郷寄りだった福沢諭吉が、さすがにこの言葉をとらえて戦争の名分にならぬと批判している。
 西郷と大久保の仲ではないか、尋問したいことがあれば大久保にひとりで会いにゆけばよいのである。兵隊など連れずにである。そのうえで俺を殺したいか、と以前の西郷なら言えたはずだ。なにしろ征韓論では、自分が韓国でわざと殺されるから、それを口実に韓国を攻めろと言ったではないか。かって蛤御門の変のときも自分を長州に暴殺させて、長州追討の名分にせよというようなことを言っていた。自分の死を政治目的に利用するというのは、西郷の十八番ではなかったのか。そういういい方が許されるなら暗殺おおいに歓迎だったはずだ。それが、このたびは戦って生きたかったのであろうか。もしかしたら、この戦さ、負けるはずがないと踏んでいたのか。
 東京にいる勝海舟も、この戦さ、どうやら薩軍が勝つと思っていたらしい。西郷も勝も、あるいは同じような読み間違いをしていたかもしれない。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  6

2007-04-18 17:01:28 | 小説
 伊集院出身の少警部中原尚雄は、当時31才だった。帰郷組のメンバーの中では年長のほうである。
 たそがれ時の路上でいきなり暴漢たちに襲われて、鹿児島県の広小路にある第一分署に拉致された。襲うほうも、私学校の支配する警察なのである。中原をはじめ川路の部下たちは、ことごとく捕らえられて牢にほうりこまれるのであった。
 中原が捕まったのが2月3日。その夜から三日間、中原には凄惨な拷問が加えられるのだが、さて、2月3日というこの日は西郷が大隈半島の兔狩りから自宅に帰った日だった。その西郷はまだ大隈の小根占に滞在していたとき、私学校の生徒たちの暴発の知らせを受けている。色を変えて「しまった」と口走ったというのは有名な話だ。
 暴発は1月29日の夜に起きた。鹿児島北郊の陸軍弾薬所を私学校の生徒数十人が襲撃、弾薬を略奪したのだ。さらに二日後の31日、磯の海軍所管の兵器製作工場を襲って、弾薬および大砲用の信管などを奪取していた。
 鹿児島にある弾薬類を大阪に移送しようとした政府の動きに、機先を制したつもりだった。政府の火薬庫を襲ったわけだから、公然たる反逆である。
 このことを聞かされて西郷が「しまった」と天をあおいで嘆息したのも当然である。もはや、後へはひけなくなったのだ。ただし挙兵の名目には「西郷暗殺計画」の存在が必要となった。
 中原尚雄は苛酷な拷問に、しばしば失神しながら、それでも暗殺計画を認めようとはしなかった。彼の手の指は皮と肉がそがれて白い骨が露出していたが、その手に墨をつけて強引に口供書に拇印を押させた。むろん捏造した口供書である。その日付は2月8日である。
 ところですでに2月4日、県令の大山綱良は県庁の有り金すべてを私学校党の軍費にあてるよう手配を整えていた。中原の口供書を挙兵の名目にするのは、いわば後付であったことは一連の日付を確認すれば明らかである。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  5

2007-04-17 23:14:24 | 小説
 いわゆる征韓論政変で西郷は下野し、帰郷した。「大久保政権」と関係を断ったのである。政変後の政府は、各地の士族の動向に目をひからせるようになる。太政官の密偵たちが活躍したのであった。
 たとえば明治8年10月作成の『鹿児島県探偵書』(『三条家文書』)などという史料があるのだから、西郷の身辺は太政官の密偵によって探索の対象になっていたのである。その『鹿児島県探偵書』によれば、私学校の連中に政府要人の暗殺計画があったらしい。岩倉公は誰々、参議大隈は誰々、大久保は誰々と暗殺実行者まで選出していて、その計画を西郷に見せたら、西郷から叱責されて計画を断念したという。密偵は西郷を抑止力として報告しているのだ。
 その抑止力となる西郷を、はたして政府側が逆に暗殺するだろうか。しかも警官を使ってである。太警視川路利良が部下に西郷暗殺を命じたというようなことは、まずありえなかったと私は思う。
 私学校の連中は、しかし川路が西郷を殺そうとしていると思い込んでいた。なにしろ東京では「評論新聞」が西郷暗殺の風評を流していた。だから西南戦争の火付け役は評論新聞だという、吉井友実のような発言も出てくるのである。
 川路は鹿児島出身の部下二十余名を休暇というかたちで帰郷させ、私学校党の宣撫工作に当たらせたのであった。郷士たちがあらたに私学校党に加わらないように説得活動をする役目もあった。
 その彼らを私学校党が狙った。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  4

2007-04-16 16:20:28 | 小説
 すでに明治5年に、政府は士族が土地を知行することを廃止していた。県庁を通じて禄米を支給する制度に切りかえていたのである。ところが鹿児島ではそうでない。知行制が続けられていた。農民と士族の関係は実質的には変っていなかったのだ。
 画期的な廃藩置県を断行した政府の立役者西郷隆盛の鹿児島が、政府の施策をサボタージュしていたのである。いや、西郷隆盛がいるからこそ、治外法権がなりたっていたと言い換えてもよい。
 西南戦争の直前には、いわゆる伊勢騒動に代表されるような一揆が地方で起きていた。地租改正をめぐって民衆運動が発生していたのある。政府に不満を抱くものは不平士族ばかりではなかったのだ。けれども西郷たち私学校党の蜂起に、民衆の支持は得られなかった。士族の反乱なのである。西郷たちの戦の名分は民衆に納得し難いものだったと思われる。
 むしろ、戦禍を被った民衆の中には、西郷を揶揄するものも現れた。「薩摩狐にだまされて、西郷べかふだ」という者がいた。「最後っ屁 嗅いだ」の意である。
 官軍の中には徴用された農民が多かった。彼らの間で、こんなざれ歌が唄われていたらしい。

   西郷隆盛 いわしか じゃこか
   たいに追われて 逃げ回る

「逃げ回る」が「逃げかねる」となった紹介文もどこかで見たが、まるで逆の内容の歌もある。「西郷隆盛」のところが「大久保、川路」になっているのだ。しかし大久保を鯛(軍隊)に追われて逃げたというのはおかしいから、元歌はやはり西郷を茶化したものであろう。
 さて、西南戦争を西郷隆盛と大久保利通の私闘という見方もある。そうは思わないから大久保についてはあまり触れない。ただ川路については書いておかねばならない。大警視川路利良のことだ。川路の密偵の動きが、西南戦争の勃発におおいにからんでいるというのが定説であるからだ。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  3

2007-04-15 22:44:18 | 小説
 西南戦争の前年の明治9年には、熊本では神風連の乱があり、山口では萩の乱、福岡では秋月の乱があった。それぞれ西南戦争の序幕のような事件である。
 なかでも神風連の乱を起こした敬神党の太田黒伴雄らは、島津久光に期待をかけていたらしい。島津にもう一度維新をやり直してもらうために決起するというようなところがあった。
 その〈太田黒らのモットーは「天下の大事は人力を超える。人力の及ぶところではない。人事は末也、神事は本である。したがって随神の大道に従って事を行う」というものだった〉(小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』中公新書)
 このモットーに触れて、これとそっくりな文言のあることを私は思い出した。「神事」や「隋神」を「天」に変えて読めば、ほとんど同じ趣旨になるのだ。それは『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)のなかにあった。寄道のようになるけれど、そのことについて書いておきたい。

 道は天地自然の物にして、人は之を行ふものものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛す心を以って人を愛する也。
 人を相手にせず、天を相手にせよ。

 そうなのだ、西郷隆盛の座右の銘とされる「敬天愛人」である。唐突な印象をもたれるのは承知で書く。西郷の「敬天愛人」は、ふつう、天を敬い、人を愛すると対句のように解釈されるが、むしろ真意は〈「人を愛する天」を敬う〉というワンフレーズだと私は思う。でなければ引用箇所の次に続く「己れを愛するは善からぬことの第一也」という言葉が生きてこないのだ。
 西郷隆盛は人に、とりわけ下級士族以外の民衆に、決してやさしかったわけではない。

西南戦争 この日本史上最後の内戦  2

2007-04-14 14:59:31 | 小説
 かって西郷隆盛を「彼は謀反をする奴じゃ。とうてい薬鍋かけて死ぬ奴ではない」と評したのは、鹿児島では国父とよばれた島津久光だった。
「薬鍋かけて死ぬ」というのは病死のことである。要するに、畳の上で死ぬような人間ではない、と言いたかったのであろう。島津久光の予言の当ったのが西南戦争における西郷の死であった。
 ところで西南戦争は、その島津久光ぬきで始められた。鹿児島で士族が蜂起したとなれば、その先頭には島津がいて当然と思うのが世間である。しかし官・薩軍の激突に、島津久光は動かなかった。
 それどころか鹿児島が戦場になりそうな気配になると、島津久光・忠義父子は桜島に非難していた。戦争勃発の年の5月のことだった。実は3月には、勅使柳原前光が久光を訪れていた。久光には自重するようにという勅書が渡されていたのである。政府は「国父」の動きを牽制したのであった。
 鹿児島では廃藩置県後も士族が県政を牛耳っていた。士族が平民を圧迫して権力を維持するという図式は、藩政時代と変りはなかったのである。ただし士族の実権は上層士族から下級城下士に移っていた。西郷は士族の特権を解体したようにみえるが、実際は下士に特権を移して温存したといってよい。
 いったい鹿児島の士族の多さは驚くほどである。文久2年頃の人口統計では、なんと武士が40%を占めていたらしい。もともと薩摩は士族王国だったのである。
 とりわけ明治の鹿児島は士族王国たらざるをえなかった、という見方もある。東京政府の軍隊への派遣兵士の供給源となっていたからだ。そんなわけで鹿児島ではたえず軍隊制度を強化する必要があった。
 西南戦争勃発の直接のきっかけとなったのは、よく知られているように「私学校」の暴発だった。その「私学校」は明治7年に鶴丸城厩跡に創設された銃隊学校と砲隊学校、それに西郷らの賞典禄を資金として設立された賞典学校(前身の集義塾は明治6年東京で設立、これを移転)、明治8年設立の吉野開墾社の総合呼称であった。
 さて、当時の政府の抱えていた不安要因の最たるものは不平士族の存在だった。 

西南戦争 この日本史上最後の内戦  1

2007-04-12 18:25:03 | 小説
 奄美諸島で明治8年に「勝手世」運動というのが起きている。島の名産である黒糖販売の自由化を求める運動だった。廃藩置県後に明治政府は奄美地方の砂糖の自由販売を許可したにもかかわらず、士族によって設立された「大島商社」が砂糖を専売、藩政時代と変らない搾取を行っていた。その不法を島民に訴え、運動のリーダーとなったのはイギリスから帰郷したばかりの26才の丸田南里だった。丸田はグラバーに誘われて慶応初年に密航していたというから、先進国のありようをつぶさに見聞していた。彼から見れば、奄美の島はまだ中世だった。運動は、いくらか半植民地闘争に似ていた。
 だから明治10年1月、島民の陳情団、一次、二次合わせて総勢55名が鹿児島に向かうと、県庁は全員を投獄してしまうのである。
「大島商社」の設立には西郷隆盛が力を貸していた。その西郷は島に流されているときに、愛加那という島妻を得、ふたりの子供までなしていた。陳情団の中には西郷と親交のあった者たち、また愛加那の親類も含まれていた。西郷の助力に期待するところもあったのである。しかし、旧城下士によって理不尽にも投獄されたのであった。
 そして西南戦争が始まると、陳情団の中から35名が強制従軍させられ、6人が戦死、14名が行方不明となった。もとより彼らは戦死するために鹿児島に来たのではなかった。けれども、これが西南戦争の一断面である。
 今年、西南戦争から130年の節目に当たる。西南戦争というものを振り返ってみようと思う。パッチワークのように断片をつなぐような作業になりそうだけれど。

谷干城は誤解されていないか 補遺

2007-04-11 16:00:10 | 小説
 藤井九成の手記にこだわって、「谷干城は誤解されていないか 8」の末尾にカッコでくくった文章を付記して以来、どうも喉に小骨が刺さったような感じが続いていた。
 ふと、かっての家永教科書裁判の論点にもなったことがらを思い起こし、やっとすっきりしたので補遺として書く。あやうく、あの裁判の文部省の教科書調査官みたいな石頭になるところだった。
 
 慶応4年1月、半貢半減令が相楽総三(建白者である)らの赤報隊に太政官において坊城大納言より渡されたという記述(「赤報記」らによるもの)に、教科書調査官が書き直しを迫ったのだ。この時点で太政官は存在していないこと、坊城はまだ大納言になっていないことを理由にしてだ。ところが太政官代というものが存在していて坊城は1月末には、その太政官代に出仕していた。(大納言になるのは4月だが、記録時の呼称としては坊城大納言と言いたくなるだろう)
 つまり太政官代を3ヵ月後の太政官と実質上同一とみなす史料が「赤報記」以下、ほかにもあり、そうであるならば藤井九成の手記も同様にみて、とりたてて不都合なところはなくなるわけである。 
 

谷干城は誤解されていないか  完

2007-04-09 18:14:26 | 小説
 谷は戊辰の会津戦線では、いわゆる日光口の戦いで苦戦を強いられた。山川浩の部隊の巧妙な防戦にあって、どうしても会津西街道から会津へ突入することができなかったのである。そこで谷は会津側の捕虜に尋問している。「いったい誰が指揮をとっているのか」と。すると捕虜は山川浩の名を誇らしげに答えたから、まずその名を彼は胸にきざんだのであった。その山川は、会津籠城戦に参加するため引き返すときに、本陣に次の和歌を掲げて谷らに訣別した。

 時ありてしばしはひけり梓弓 もとの手ぶりにかへさざらめや

 谷干城は、この歌をなんども口ずさみ、感心しきりだったらしい。土佐藩の教育を独り占めした「谷門の学」の祖の学者谷秦山の子孫である干城の琴線にふれる歌であり、山川の行動であったのだ。山川はさらに鮮やかな行動をみせる。新政府軍に囲まれた会津城に奇策をもって無血入城するのだ。郷土芸能の彼岸獅子の一隊を編成し、笛や太鼓で惑わしながら、あれよあれよという間に自軍を城内に入れたのであった。
 廃藩置県後、くすぶっていた山川を探しあてて「国家のために尽くしてはどうか」と陸軍入りをすすめたのは、かっての敵将谷干城であった。
 その山川が、またしても敵に包囲された城に突入するのが西南戦争である。こんどは自分の人生を大きく転換させた人物谷干城を救出するためである。
 明治10年2月22日、1万2000の薩摩軍は熊本城に総攻撃を加えた。守るは熊本鎮台司令官谷干城ら3500人。(人数は熊本城公式ホームページによる)薩軍は四方から攻めて激戦三日を経るも一兵も城内に入れない。兵糧攻めに変え、包囲軍を残して主力を田原坂に進軍させた。
 谷らは4月になってもまだ籠城に耐えた。もう籠城も限界に近くなった4月14日、山川浩は選抜隊を自らひきいて薩軍を蹴散らかし熊本城に突入する。味方が敵軍かと思ったほどの電光石火の早業だった。味方の救援だとわかった兵士たちは号泣したと言う。
 谷は流れ弾で首筋を負傷していて、ベッドに横たわっていたが、山川が入室すると起き上がった。ふたりは目と目を合わせたまま、ともに言葉を発しなかった。ふたりとも感極まって、言葉が出ないのであった。
 山川は西南戦争に参戦するとき、「薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)がさげはく太刀のときかにぶきか」と詠んだ。会津人として薩摩に対しては戊辰戦争の深い恨みを抱いていたが、土佐の谷とは盟友となった。谷という人物の人柄を判断する材料になりうるのではないか。
 晩年、谷は教育界に転じて学習院院長になった。山川もまた東京師範学校(現・筑波大学)校長、そして東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大学)校長を兼任する。ついでにいえば、山川浩の弟山川健次郎は東京大学、京都大学、九州大学の三帝大の総長を歴任した。

(最初に山川の左手の負傷を熊本城でのことと記したが、その前の佐賀の役の出来事だった。思い違いをしていた。なお、山川浩については中村彰彦氏の著書で教えられた。今回も氏の『会津武士道』所収の山川浩の項を参照させていただいた。熊本城での谷・山川の場面はやっぱり泣けてくる) 
 

谷干城は誤解されていないか  8

2007-04-07 17:25:18 | 小説
 さて、谷の明治39年の講演『坂本中岡暗殺事件』をめぐって、谷を悪しざまに批判したのは今井幸彦であった。刺客今井信郎の孫に当たるジャーナリストである。昭和46年に『坂本龍馬を斬った男』(新人物往来社)を刊行した今井幸彦は、その著書で、自分の祖父を谷が「売名の徒」と決めつけたとして、激しい口調で論難したのであった。冷静を欠いていたのは今井幸彦なのである。
 谷は、今井信郎の実歴談という『近畿評論』の記事の内容があまりにも事実と違うので、その実歴談は信用できないとしたのであった。それもそのはず、記事は捏造されたものだった。今井信郎から話を聞いた結城礼一郎が話に尾ひれをつけて面白おかしくし甲斐新聞に載せた記事を、こんどは甲斐新聞元記者の岩田鶴城が今井の手記のようにして、『近畿評論』に載せたのものである。
 事実と異なることが多いから、谷につっこまれても仕方ないのである。谷を論難するのは筋違いというものである。
 谷はその講演でも述べているが、近江屋で起きた暗殺事件後に、刺客が残したと思われる刀の鞘の持ち主を探した。そして薩摩藩邸にいた元新選組隊士から新選組の原田佐之助のものらしいと聞かされ、新選組犯人説に傾いたのだった。ただし黒幕は紀州藩だと思っていた。例のいろは丸衝突事件で龍馬は紀州から莫大な賠償金をせしめていた。その恨みをかって、紀州人が新選組をそそのかして暗殺を実行したと考えたのである。
 したがって、坂本と中岡の暗殺に関して、新選組局長近藤勇を目の仇にするよりも、むしろ紀州人に深甚な恨みを抱いていたはずだ。
 ともあれ、谷の『東征私記』も、講演記録『坂本中岡暗殺事件』も共に、先入観なしに虚心坦懐に読まれるべきものだと、くどいようだが書きつけておきたい。
 次には口直しのように、谷と山川(あっ、字面まで合ってる)の友情の劇的な一場面を書いておこう。


(前回に紹介した藤井九成の手記は、原文を見ていないのでなんとも歯がゆいのだが、太政官宛の文書の写しという点では、おおいにひっかかるもののあることを付記しておく。気になって調べてみたが、太政官という言葉が復活したのは明治元年閏4月、すると近藤の処刑後である。内容に齟齬が生じるのだ)