生前の啄木は、自分の歌が読者の圧倒的な支持を得ているとは思っていなかった。文壇でも啄木の評価はさほど高くなかったのである。大正8年、土岐哀歌(善麿)が新潮社の佐藤義亮のところに啄木全集の刊行企画をもちこんでいるが、新潮社は最初は渋ったのである。佐藤社長は、結局、哀歌の熱心さに負けて出版に踏み切るものの、採算割れを覚悟していたらしい。ところが、全集は売れに売れたのであった。
むろん、啄木のあずかり知らぬところである。啄木はこれよりはるか前の明治45年4月13日に死んでいる。26才2カ月の若さだった。前年の2月から闘病生活を続けていたが、当時は解熱剤を服用するしかなかった肺結核は、なによりも滋養をとることが大切だった。しかし、そのための金が石川家にはなかった。妻と父と若山牧水に看取られて彼はひっそりと死んだ。
そのとき幼い長女は門前で無心に桜の花びらを拾っていた。桜の花の散る季節だったのだ。
節子夫人が義妹に宛てた手紙の一節。
「死ぬことはもうかくごして居ましても生きたいといふ念は充分ありました。いちごのジャムをたべましてねー。あまりあまいから田舎に住んで自分で作ってもっとよくこしらへようね等と云ひますので、こう云ふことを云はれますとただただ私なきなき致しましたよ」
これを読んで、私も不覚にも泣きそうになった。
啄木は、もしも健康が回復するならば、たとえば田舎で苺を栽培する農夫にでもなって、ありふれた生活者として生きることを痛切に願っていたのではないか。文学、とりわけ自分の歌の読者の多寡等どうでもよくなっていたのではないのか。物書きなどに、なにほどの価値があろうか。むしろ、ありふれた生活者として生を全うしたかった、と。
くだらない小説を書きてよろこべる男憐れなり初秋の風
自嘲のように苦く投げやりな歌。
最後にもう一度書きつけておく。啄木が殺したかったのは他人ではない、自分自身、すなわち我が内なる〈天才と詩人〉だったのだ、と。
むろん、啄木のあずかり知らぬところである。啄木はこれよりはるか前の明治45年4月13日に死んでいる。26才2カ月の若さだった。前年の2月から闘病生活を続けていたが、当時は解熱剤を服用するしかなかった肺結核は、なによりも滋養をとることが大切だった。しかし、そのための金が石川家にはなかった。妻と父と若山牧水に看取られて彼はひっそりと死んだ。
そのとき幼い長女は門前で無心に桜の花びらを拾っていた。桜の花の散る季節だったのだ。
節子夫人が義妹に宛てた手紙の一節。
「死ぬことはもうかくごして居ましても生きたいといふ念は充分ありました。いちごのジャムをたべましてねー。あまりあまいから田舎に住んで自分で作ってもっとよくこしらへようね等と云ひますので、こう云ふことを云はれますとただただ私なきなき致しましたよ」
これを読んで、私も不覚にも泣きそうになった。
啄木は、もしも健康が回復するならば、たとえば田舎で苺を栽培する農夫にでもなって、ありふれた生活者として生きることを痛切に願っていたのではないか。文学、とりわけ自分の歌の読者の多寡等どうでもよくなっていたのではないのか。物書きなどに、なにほどの価値があろうか。むしろ、ありふれた生活者として生を全うしたかった、と。
くだらない小説を書きてよろこべる男憐れなり初秋の風
自嘲のように苦く投げやりな歌。
最後にもう一度書きつけておく。啄木が殺したかったのは他人ではない、自分自身、すなわち我が内なる〈天才と詩人〉だったのだ、と。