小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

石川啄木殺人事件 ⑧

2005-02-07 19:40:59 | 小説
 生前の啄木は、自分の歌が読者の圧倒的な支持を得ているとは思っていなかった。文壇でも啄木の評価はさほど高くなかったのである。大正8年、土岐哀歌(善麿)が新潮社の佐藤義亮のところに啄木全集の刊行企画をもちこんでいるが、新潮社は最初は渋ったのである。佐藤社長は、結局、哀歌の熱心さに負けて出版に踏み切るものの、採算割れを覚悟していたらしい。ところが、全集は売れに売れたのであった。
 むろん、啄木のあずかり知らぬところである。啄木はこれよりはるか前の明治45年4月13日に死んでいる。26才2カ月の若さだった。前年の2月から闘病生活を続けていたが、当時は解熱剤を服用するしかなかった肺結核は、なによりも滋養をとることが大切だった。しかし、そのための金が石川家にはなかった。妻と父と若山牧水に看取られて彼はひっそりと死んだ。
 そのとき幼い長女は門前で無心に桜の花びらを拾っていた。桜の花の散る季節だったのだ。
 節子夫人が義妹に宛てた手紙の一節。
「死ぬことはもうかくごして居ましても生きたいといふ念は充分ありました。いちごのジャムをたべましてねー。あまりあまいから田舎に住んで自分で作ってもっとよくこしらへようね等と云ひますので、こう云ふことを云はれますとただただ私なきなき致しましたよ」
 これを読んで、私も不覚にも泣きそうになった。
 啄木は、もしも健康が回復するならば、たとえば田舎で苺を栽培する農夫にでもなって、ありふれた生活者として生きることを痛切に願っていたのではないか。文学、とりわけ自分の歌の読者の多寡等どうでもよくなっていたのではないのか。物書きなどに、なにほどの価値があろうか。むしろ、ありふれた生活者として生を全うしたかった、と。

  くだらない小説を書きてよろこべる男憐れなり初秋の風

 自嘲のように苦く投げやりな歌。

 最後にもう一度書きつけておく。啄木が殺したかったのは他人ではない、自分自身、すなわち我が内なる〈天才と詩人〉だったのだ、と。

石川啄木殺人事件 ⑦

2005-02-06 20:23:22 | 小説
啄木の歌の中で好きな歌を選べといわれたら、少し迷うけれど私は次の3首をあげる。

 不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし15の心
 やはらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
 函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花

 いずれも地名が読み込まれていて、今日では、なんだご当地ソングの演歌の歌詞と大差ないではないかと思う向きが多いだろう。演歌の歌詞の方が啄木を模倣しているのだ。啄木の歌は通俗性ぎりぎりのところで成立し、大衆性を獲得したのだが、演歌の歌詞にも多大の影響を与えているのだ。ただし啄木をたんなる抒情詩人だと思ったら大間違いである。啄木自身は歌に重きをおいていなかった。彼はなんと一晩に百数首の歌を作ったこともあるが、ほんとうは小説家として大成したかったのである。
 しかしおそらく鋭敏な言語感覚がわざわいして小説という長丁場は彼には不向きだった。小説がうまく書けないことの憂さばらしに、彼はほとんど投げやりに歌を作った。歌はまさしく、啄木の〈悲しき玩具〉だった。
 失意と経済的なひっ迫という現実を逃れるように、性のさすらい人ともなった啄木なのだが、やがて彼は自分を厳しく見つめ直すようになる。
「詩や歌や乃至はその外の文学にたずさはることを、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴いことのように思う」のは「迷信」だと自覚しはじめるのである。
「詩人たる資格は三つある。まず第一に〈人〉でなければならぬ。
第二に〈人〉でなければならぬ。第三に〈人〉でなければならぬ」と主張しはじめるとき、啄木はホンモノになった。ホンモノという謂いをくだくだしくは言うまい。物書きなどになにほどの価値があろうかと自覚した物書きであれば充分だと、さしあたって書きつけておこう。
 啄木は、かくして我が内なる〈詩人〉を殺したのである。

  こころよく我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ
 

石川啄木殺人事件 ⑥

2005-02-05 20:34:48 | 小説
   友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ

 若き日の吉本隆明がこの歌を好きだったように、私もこの歌が好きだった。ただ〈妻としたしむ〉というのを、ほほえましい夫婦の団欒と解釈していたのは甘かった。〈妻としたしむ〉というのは妻とセックスすることと読み込むのが正しいと知り、この歌のイメージは一変した。そういえば啄木は、たえずセックスによって、刹那的に渇いた心を癒そうとする人だった。
 原文はローマ字でつづられた秘密の日記に、次のような記述がある。
「いくらか金のあるとき、予はなんのためらうこともなく、かの、みだらな声に満ちた、狭い、きたない町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ13、4回も行った。そして10人ばかりのインバイフを買った。(略)予の求めたのはあたたかい、やわらかい、まっ白なからだだ。からだも心もとろけるような楽しみだ」これからあとは引用をはばかる卑猥な描写が続き、「強きシゲキを求むるいらいらした心は、そのシゲキを受けつつあるときでも予の心を去らなかった」とある。女を買うことによって啄木の心はますます荒れて、逆に渇いていくのであった。
 それにしても「いくらか金のあるとき」とはよくも言ったものである。借金するしかなかったはずだ。このプライドの高い男が、だれかれとなく頭を下げて、金を借りなければならなかったのである。そして、その相手に、殺意に似た感情を抱いてしまうのである。

  一度でも我に頭をさげさせし人みな死ねといのりてしこと
 
 

石川啄木殺人事件 ⑤

2005-02-04 21:30:39 | 小説
日下ミステリーはしかし、ここでエンターティメントとしての限界をみせざるをえなくなる。実は、香山定子の死後も、植木貞子は啄木日記に登場するのである。植木貞子は啄木よりはるかに長生きをしているのだ。昭和(昭和ですぞ)11年、ある啄木研究家が大連の料亭で働いていた植木貞子その人と会っている。彼女は啄木との交情を洗いざらいしゃべり、子供の教科書に載っている啄木のことを知って、身のすくむような思いがしたと語っているのだ。
   
  何か一つ大いなる悪事しておいて知らぬ顔していたき気分かな

 啄木にこんな歌がある。〈大いなる悪事〉はしょせん願望でしかない。啄木が殺した女などいなかったのだ。しいて啄木が殺した女をあげれば、啄木と同じ肺結核という死因で、啄木没後の翌年に彼の後を追うように死んだ節子夫人ということになるだろう。啄木が感染させたのだ。啄木の才能を最後まで信じ、貧困と夫不在の日常に耐えに耐えた節子夫人。
 さて、話を啄木の結婚式すっぽかし事件にもどそう。彼はなぜ式に出ることをためらったのか。現代的にいえばマリッジブルーである。啄木には、とりわけこの頃の啄木には現実逃避的な心情が色濃い。彼はその資質からも、よき家庭人にはなりにくいところがあった。現実逃避の向こう側に彼の文学があり、さらに性的な耽溺癖があった。
「僕の最も深い弱みを見せようか。結婚したってことよ!」と啄木は友人に語ったことがある。

  人みなが家を持つてふかなしみよ墓に入るごとくかへりて眠る

 啄木は家庭に束縛されることを嫌い、家庭を持った自分自身を嫌悪するような、こんな歌もよんだ。そうかと思えば、あの有名な歌がある。

石川啄木殺人事件 ④

2005-02-03 19:28:57 | 小説
 植木貞子と一緒に新詩社の演劇会に参加していた女がいた。日下ミステリーは啄木日記のその「香山とかいう美術学校のモデルだという狂気染みた女」に焦点を合わせて意外な運びとなる。
 またしても都新聞の明治41年5月25日付けの記事が紹介される。見出しは「女人縊死」
「昨24日夕刻、深川西大工町小名木川に屍体が浮沈すと届出る者あり。推定20歳の女にて、足首をゆわへ、袂に小石あり。又一丁程なる万年橋に、きちんと揃へた下駄と、父様母様ご不幸をお許し下されたくと、鉛筆にてしたためたる遺書あるに、この女は、日本橋久松町5番地香山定子と判明せり」
 なるほど定子と貞子は符号しなくもない。香山定子こそが、せん亡きあとの日記の登場人物だと日下圭介はいうのである。
 貞子と定子、いずれもサダ子と読める。これが不思議なところだが、啄木の長姉で母代わりに彼を養育してくれて、彼が異性として心理的な執着を最初に抱いた女性の名がサダ。そして、啄木が8才の頃の初恋の相手の名が2才年上の沼田サダ。10才で死んでいる。
 サダという名、あるいはサダと読める名を持つ女性に、なぜか啄木は惹かれてきたのだ。
 ともあれ啄木のかかわった〈サダ〉は長姉を除き、死に方が尋常でない。
 さて、都新聞で自殺者として報じられた香山定子が、はたして啄木の知っていた美術学校のモデルで〈狂気染みた女〉の〈香山〉と同一人物であったか否か、これまたさだかではない。日下ミステリーは、香山定子が植木せんこと貞子を殺害し、のちになって自殺したのではないかと示唆する。その自殺もただの自殺ではない。啄木が彼女と心中するとみせかけて、彼女ひとりを死なせたというふうに匂わせる。

石川啄木殺人事件 3

2005-02-02 21:42:01 | 小説
 植木貞子と啄木は明治38年4月に知り合ったばかりである。新詩社の演劇会に出ていた16歳の女優の卵のような女性だった。その後、渋民や北海道時代も文通が続いている。つまり、植木せんと植木貞子とは別人である。
 明治41年、啄木は単身で再び上京するのだが、このおり植木貞子と再会し、啄木の日記にひんぱんに登場しはじめる。彼女は芸者になっていた。
 さて、啄木は森鴎外の紹介で春陽堂という出版社に小説を売り込み、22円という原稿料を手に入れる。持ち込み原稿の全てが採用されたわけではなかったこともあり、啄木があてにしていた金額には満たなかった。しかし、家賃も滞納状態にあったから、その稿料はともかく生活費の足しにしなければならなかった。けれども啄木はそれができない。どうせ中途半端な金ならば、ぱっと遊びに使ってしまえというふうになる。北原白秋を誘って浅草で女を買うのである。新松緑という小料理屋で一杯のみ、近所の蕎麦屋でハシゴし、そこで芸者を呼ぶ。米松と寿美子というふたりの芸者だ。その米松こそ、植木貞子なのである。寿美子はその妹であった。啄木と白秋は彼女たちを連れて末広屋という旅館に移り、午前2時まで痛飲、そして啄木は米松と白秋は寿美子と寝るのであった。支払い16円、ほとんど破滅的な散財である。
 明治42年4月21日の啄木の日記に「関係していた女を予は間もなく捨ててしまった。・・・今は浅草で芸者をしている」と書いている。この頃には彼女との仲は終わっていたもののようだ。
 植木せんという被害者はもしかしたら植木貞子の姉妹(たとえば双生児)の可能性もなくはない。しかしそうだとすれば、せんという女の殺人に関与し、なおかつ貞子とこんなふうに付き合えるだろうか。
 日下圭介のミステリーは、しかしながら植木貞子と植木せんをあくまで同一人物として、展開する。同一視の根拠として、啄木日記に京橋の大鋸町の貞子の家の表札に〈植木千子〉という名があったと記述されていることをあげている。貞子の本名は千子であって、通称〈せん〉といったのではないのかとする。とすれば、せんが殺害された後、しきりに啄木日記に登場する貞子とは、いったい何者か。

石川啄木殺人事件 ②

2005-02-01 20:47:59 | 小説
 結婚式をひかえて東京でぐずぐずしていた啄木を、友人たちが見るに見かねるようにして、盛岡に帰したのが5月20日のこと。30日の結婚式までまだ10日の余裕があった。ところが彼は仙台で途中下車し、土井晩翠夫人から借金をして遊びまくり、宿泊費も夫人のつけにして10日という日数を空費する。30日には汽車には乗ったが盛岡を通り越し、好摩という駅に下車し、行方をくらますのである。ともかく結婚式に出たくないのである。

  一すじの黒髪をもて南北に我を引くなり女と女

 こんな啄木の歌がある。北の女と南(東京か)の女ふたりの間で、啄木の心は引き裂かれていたのであろうか。一部の友人に啄木は愛人の自殺について語っているが、聞かされた方が嘘だと断定している。友人たちに不義理をした言い訳に愛人の話をデッチあげたというのだ。(ちなみに仲人を引き受けた上野広一は結婚式すっぽかしで啄木と絶交している)
 しかし日下圭介は愛人自殺説どころではない、啄木の殺人事件関与をほのめかしている。明治38年5月23日付けの「都新聞」の記事を日下圭介は提示するのだ。見出しは「築地川に女の刺殺体」。
 その内容は22日の早朝、万年橋の橋げたに16、7歳ぐらいの若い女性の死体が漂っていたというもの。胸、腹、首筋などに5ヶ所の刺し傷があり、死後3、4日経過している。帯にはさんであったお守りから身元が判った。京橋区大鋸町(今の新富町)に住む植木せんという評判の美人だった。
 さて、啄木が植木という姓の女性を知っていたことは事実である。気になるのは、この被害者が死後3、4日経っていることだ。たしかに啄木在京中に殺されていることになる。植木せんという名の女性が啄木のメモにも登場するというが、私は現物を確認できていない。
 啄木がかかわった植木という姓の女性は、貞子といって、この時点では死んではいない。