慶応3年10月13日、大政奉還建白の可否を決定する日、二条城に登城する後藤象二郎に宛てた龍馬の手紙がある。
その一節。
「…建白の儀、万一行はざれば、もとより必死の御覚悟故、御下城これなき時は、海援隊一手をもって、大樹(慶喜)参内の道路に待受け、社稷(国家)のため不倶戴天(原文は倶の文字が脱字)の讐(かたき)を報じ、事の成否に論なく、先生(後藤)に地下に御面会仕り候」
この手紙は、龍馬が後藤象二郎にプレッシャーをかけたものとして引用されることが多いが、いま問題としたいのはそのことではない。もし大政奉還が実現しないならば、徳川慶喜を襲撃するという過激な龍馬の発言についてである。
後藤は登城間際にあわてて返事を書いている。
「…海援隊一手云々は君の時機を見てこれを投ずるに任す」ただし「妄軽挙勿破事」と書き送っているのだ。みだりに軽挙に走らないでくれ、と念をおしているのである。
この後藤の言葉から読み取れることがある。海援隊は慶喜を襲撃するという武力行動も可能な組織として後藤自身が認識しているということだ。龍馬のたんなるはったりとは受け取っていないから、本気で、軽挙に走るなと懸念しているのである。
さいわい、慶喜は大政奉還を決定したから、龍馬も海援隊も手紙にあるような行動は起こさずに済んだ。
さて、大政奉還をうけて、龍馬は「新政府綱領八策」を書いた。
「第八義」まで箇条書きし、付記した文章は以下のとおりである。
「右、預メニ、三ノ明眼士ト議定シ諸候会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公議ニ違フ者ハ断然征討ス。権門貴族モ貸借スルコトナシ」
○○○の伏字で、これまた有名な文章であるが、ここでは伏字のことが問題ではない。「強抗非礼、公議に違う者は断然征討する」という文言の過激さに注目すべきである。「公議」はむろん龍馬の「船中八策」における「万機宜シク公議ニ決スベキ事」にリンクしている。
その公議によっては政局の主導権を握れないと判断する者たちにとって、、この龍馬の言葉は危険である。たんなる脅し文句ではなく、海援隊という武力行動も可能な組織のリーダーの発言だからである。
「新政府綱領八策」は二通現存していて、ひとつは国立国会図書館憲政資料室、いまひとつは下関市立長府博物館が所蔵している。どうやら龍馬はこれを何通か筆記し、同志たちに配布したものと思われている。
何が言いたいのかというと、龍馬暗殺者の動機のひとつに、この「新政府綱領八策」の中の文言があるのではないかということである。征討をおそれたものが先手を打ったのであると。
大政奉還後に龍馬が暗殺される理由がなく、結局は見廻り組が伏見寺田屋での幕吏殺傷を逮捕理由に近江屋に乗り込み、結果的に殺したというような説に落ち着かせようとする論者がいる。そんな単純な事件ではない。龍馬のいわば〈危険さ〉に、いま少し目を向ける必要があると思われる。
その一節。
「…建白の儀、万一行はざれば、もとより必死の御覚悟故、御下城これなき時は、海援隊一手をもって、大樹(慶喜)参内の道路に待受け、社稷(国家)のため不倶戴天(原文は倶の文字が脱字)の讐(かたき)を報じ、事の成否に論なく、先生(後藤)に地下に御面会仕り候」
この手紙は、龍馬が後藤象二郎にプレッシャーをかけたものとして引用されることが多いが、いま問題としたいのはそのことではない。もし大政奉還が実現しないならば、徳川慶喜を襲撃するという過激な龍馬の発言についてである。
後藤は登城間際にあわてて返事を書いている。
「…海援隊一手云々は君の時機を見てこれを投ずるに任す」ただし「妄軽挙勿破事」と書き送っているのだ。みだりに軽挙に走らないでくれ、と念をおしているのである。
この後藤の言葉から読み取れることがある。海援隊は慶喜を襲撃するという武力行動も可能な組織として後藤自身が認識しているということだ。龍馬のたんなるはったりとは受け取っていないから、本気で、軽挙に走るなと懸念しているのである。
さいわい、慶喜は大政奉還を決定したから、龍馬も海援隊も手紙にあるような行動は起こさずに済んだ。
さて、大政奉還をうけて、龍馬は「新政府綱領八策」を書いた。
「第八義」まで箇条書きし、付記した文章は以下のとおりである。
「右、預メニ、三ノ明眼士ト議定シ諸候会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公議ニ違フ者ハ断然征討ス。権門貴族モ貸借スルコトナシ」
○○○の伏字で、これまた有名な文章であるが、ここでは伏字のことが問題ではない。「強抗非礼、公議に違う者は断然征討する」という文言の過激さに注目すべきである。「公議」はむろん龍馬の「船中八策」における「万機宜シク公議ニ決スベキ事」にリンクしている。
その公議によっては政局の主導権を握れないと判断する者たちにとって、、この龍馬の言葉は危険である。たんなる脅し文句ではなく、海援隊という武力行動も可能な組織のリーダーの発言だからである。
「新政府綱領八策」は二通現存していて、ひとつは国立国会図書館憲政資料室、いまひとつは下関市立長府博物館が所蔵している。どうやら龍馬はこれを何通か筆記し、同志たちに配布したものと思われている。
何が言いたいのかというと、龍馬暗殺者の動機のひとつに、この「新政府綱領八策」の中の文言があるのではないかということである。征討をおそれたものが先手を打ったのであると。
大政奉還後に龍馬が暗殺される理由がなく、結局は見廻り組が伏見寺田屋での幕吏殺傷を逮捕理由に近江屋に乗り込み、結果的に殺したというような説に落ち着かせようとする論者がいる。そんな単純な事件ではない。龍馬のいわば〈危険さ〉に、いま少し目を向ける必要があると思われる。