小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬の〈危険さ〉

2008-11-27 16:36:51 | 小説
 慶応3年10月13日、大政奉還建白の可否を決定する日、二条城に登城する後藤象二郎に宛てた龍馬の手紙がある。
 その一節。

「…建白の儀、万一行はざれば、もとより必死の御覚悟故、御下城これなき時は、海援隊一手をもって、大樹(慶喜)参内の道路に待受け、社稷(国家)のため不倶戴天(原文は倶の文字が脱字)の讐(かたき)を報じ、事の成否に論なく、先生(後藤)に地下に御面会仕り候」

 この手紙は、龍馬が後藤象二郎にプレッシャーをかけたものとして引用されることが多いが、いま問題としたいのはそのことではない。もし大政奉還が実現しないならば、徳川慶喜を襲撃するという過激な龍馬の発言についてである。
 後藤は登城間際にあわてて返事を書いている。
「…海援隊一手云々は君の時機を見てこれを投ずるに任す」ただし「妄軽挙勿破事」と書き送っているのだ。みだりに軽挙に走らないでくれ、と念をおしているのである。
 この後藤の言葉から読み取れることがある。海援隊は慶喜を襲撃するという武力行動も可能な組織として後藤自身が認識しているということだ。龍馬のたんなるはったりとは受け取っていないから、本気で、軽挙に走るなと懸念しているのである。
 さいわい、慶喜は大政奉還を決定したから、龍馬も海援隊も手紙にあるような行動は起こさずに済んだ。
 さて、大政奉還をうけて、龍馬は「新政府綱領八策」を書いた。
 「第八義」まで箇条書きし、付記した文章は以下のとおりである。

「右、預メニ、三ノ明眼士ト議定シ諸候会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公議ニ違フ者ハ断然征討ス。権門貴族モ貸借スルコトナシ」

 ○○○の伏字で、これまた有名な文章であるが、ここでは伏字のことが問題ではない。「強抗非礼、公議に違う者は断然征討する」という文言の過激さに注目すべきである。「公議」はむろん龍馬の「船中八策」における「万機宜シク公議ニ決スベキ事」にリンクしている。
 その公議によっては政局の主導権を握れないと判断する者たちにとって、、この龍馬の言葉は危険である。たんなる脅し文句ではなく、海援隊という武力行動も可能な組織のリーダーの発言だからである。
「新政府綱領八策」は二通現存していて、ひとつは国立国会図書館憲政資料室、いまひとつは下関市立長府博物館が所蔵している。どうやら龍馬はこれを何通か筆記し、同志たちに配布したものと思われている。
 何が言いたいのかというと、龍馬暗殺者の動機のひとつに、この「新政府綱領八策」の中の文言があるのではないかということである。征討をおそれたものが先手を打ったのであると。
 大政奉還後に龍馬が暗殺される理由がなく、結局は見廻り組が伏見寺田屋での幕吏殺傷を逮捕理由に近江屋に乗り込み、結果的に殺したというような説に落ち着かせようとする論者がいる。そんな単純な事件ではない。龍馬のいわば〈危険さ〉に、いま少し目を向ける必要があると思われる。 

たしかに、あのとき歴史が動いた

2008-11-26 06:15:35 | 小説
 25日の夕方、NHKの「その時歴史が動いた」の再放送を観た。「幕末維新の60日 新政府への道」というタイトルで、どうやら小松帯刀をメインにして、西郷、大久保とのトリオの大政奉還から王政復古の日までの事績をとりあげたかったらしい。しかし、なんとも中途半端な生煮えのような番組だった。当時の政局を薩摩が牛耳っていたことを印象づけただけのようなものである。
 王政復古クーデターの日の小御所会議で山内容堂が異議を唱えたことと、西郷隆盛が「短刀一本で片づくではないか」と言ったということは紹介されるが、それがどういう意味をもつのかまでは踏み込まない。
 会議のありかたそのものに疑念を抱いた容堂に、あの日のかなりの列席者が同意しかけていた。それをひっくりかえしたのが西郷のテロ示唆であり、背景にある薩摩の軍事力だった。
 大政奉還後の次の政治ステップは、諸候会議で盟主を決めることとしていた坂本龍馬は、生きていたら容堂どころじゃなく憤慨しただろうと思う。それで思い出したが、いつぞや、あるブログで歴史作家と称するご仁とコメントのやりとりをしたことがあった。驚いたことにそのご仁は小御所会議を龍馬の考えの延長線上にある肯定的なものと捉えておられた。私には理解しがたいことだった。
 小御所会議については私なりに調べてみた。「自薦ブログ」(右欄)に「おはんの短刀は切れ申すか」とあるのが、その成果といえばいえる。新政府の誕生に、ある種のいかがわしさを感じとれないわけはないのだから、小御所会議を肯定的にとらえる人は、なにか別の意図がおありなのであろう、と思うしかない。
 私などは、安丸良夫氏の次の文章に賛同するものである。

 維新政権が天皇の権威性とそのもとでの「公論」実現をどれほど強調しようとも、事態をリアルに見れば、王政復古の過程は、薩長と一部公卿、とりわけ薩摩藩の「奸臣」の政権横奪の陰謀によるものであった。(岩波講座『日本通史』第16巻35ページ)

 安丸氏がカッコつきの「奸臣」で、誰と誰と誰あたりをイメージしているのか、言うまでもないだろう。 

安徳天皇生存説

2008-11-19 20:59:04 | 小説
 東西に長い高知県のほぼ中央部、高岡郡越知町に横倉山という山がある。標高744メートル、その山頂に県下で唯一の宮内庁所管地がある。昭和元年、国から安徳天皇御陵参考地として指定された陵があるのだ。
 平家の落人伝説に濃厚につつまれた横倉山には、一度だけ私も登ったことがある。もう25年ぐらい前のことだから細部の記憶は薄れているが、峻険な山頂の陵の、ただならぬ雰囲気だけは今でも鮮やかに思い出すことができる。まさに要害の地に作られた陵なのだ。人目を忍ぶなどというより、人を拒んでいるような厳しさがあった。
 伝承では、安徳天皇は横倉山で23歳の短い生涯を閉じたという。むろん定説での天皇の生涯はもっと短かった。
 安徳天皇は知承2年(1178)生まれで、没年は寿永4年(1185)とされている。よく知られているように源平合戦のおり、壇ノ浦に入水して亡くなれた。数え年で8歳だった。
 その幼帝が実は生存していて、23歳まで土佐におられたというのである。
 一応、といっては不謹慎かもしれないが、安徳天皇の陵として明治22年に治定されているのは山口県下関市阿弥陀町にある阿弥陀寺陵であって、幼帝の遺骸は下関の小門の瀬戸で引き上げられ、阿弥陀寺(現赤間神宮)に手厚く葬られたというのが定説なのである。
 ところが陵墓参考地は高知だけではなく各地にある。いったい、どうしたことか。各地に安徳天皇生存説が流布しているからである。たとえば徳島では16歳まで生存説、鳥取県では2か所終焉地があり、それぞれ10歳、17歳まで生存説、鹿児島では13歳と、硫黄島の64歳まで生存説といったようにだ。
 すべて平家の落人伝説とからみあっているのだが、以上のことはウエブ上で検索をかければ容易に知りうることがらである。
 私がもっとも気になるのは、実は以上のどの生存説でもない。安徳天皇は宇佐大宮司公通の嫡子公仲と入れ替わっていたという説である。壇ノ浦で海に没したのは公仲であって、安徳天皇は公仲として生涯を全うしたというものだ。
 ほかならぬ宇佐社の宮司宇佐氏に伝わる伝承だけに、むげにはできないのである。
 ともあれ安徳天皇生存説は検証の余地がたくさんあって、私には少し時間をかけてみたいと思う課題のひとつである。 

龍馬の妻のアイヌ語辞典

2008-11-17 17:19:52 | 小説
 坂本龍馬の妻のおりょうさんはアイヌ語を勉強していた。
晩年、彼女はこう回想している。
「北海道ですが、アレはずッと前から、海援隊で開拓すると云って居りました。私も行く積りで、北海道の言葉を一々手帳に書き付けて、毎日、稽古して居りました。或日、望月さん等が白の陣幕を造って来ましたから、戦争も無いのに幕を造って何(ど)うすると聞けば、北海道は義経を尊むから、此幕へ笹龍桐の紋を染ぬひて持って行くと云って居りました」(『千里駒後日譚』)
 池田屋事件で死んだ望月亀弥太の名が出てくるが、龍馬らが北海道開拓(むろん当時は蝦夷地開拓)をめざして盛り上がっていたのは、池田屋事件の直前であった。
 さて、おりょうさんの言う「北海道の言葉」とは、アイヌ語にほかならない。いったい、誰からアイヌ語を習って、(たぶん)単語を、いちいち手帳に書き付けて暗記していたのだろうか。どうも周辺にアイヌ語に堪能なそれらしき人物が見当たらない。独学なのだ。
 ということは、この時代すでにアイヌ語辞典らしきものがあって、入手可能でなくてはならない。調べてみると、やはりあった。
 おりょうさんのアイヌ語独学の教習本として、私が推測するのは上原熊次郎の『蝦夷方言藻汐草』である。おそらく文化元年刊行のものを入手したと思われる。さらに推測をたくましくすれば、北海道における義経生存伝説も知っており、蝦夷地の事情に詳しい望月から、その本を借りたような気がする。
 龍馬は北海道開拓計画を死ぬまで諦めてはなかった。しかし最初は池田屋事件で頓挫し、その後も諸事情で後回しになって実現はしなかった。龍馬の決意はおりょうさんが一番よく知っていたから、彼女は本気でアイヌ語を勉強していたのである。
 そもそも「海援隊」の規約には「…(脱藩ノ者)、海外ノ志アル者此隊ニ入ル」とあった。「海外ノ志」とは海外開拓の意味が含まれており、その対象地は蝦夷地であった。つまり北海道開拓は海援隊の目的のひとつであった。

恋闕の人・真木和泉  完

2008-11-16 17:00:52 | 小説
 真木和泉の自刃について、山口宗之氏は次のように書いている。

「現天皇の意志に反する戦いをあえて起こし、しかも敗れたことによって現実における尊王の名分を決定的に失い違勅のかたちになってしまった以上、尊王家和泉にとって死以外には考えられなかったのであろう」(『真木和泉』) 
 そして山口氏は真木らの行動を、三島由紀夫『英霊の声』の二・二六事件の青年将校の心情と重ねた。
「『恋して、恋して、恋狂いに恋し奉』る積極的・能動的な尊王にあって『その至純、その熱度にいつわりがなければ、必ず陛下は御嘉納あらせられる』という願望は、それが『片恋のありえぬ恋闕の劇的なよろこび』である限り、対象者としての天皇の好悪・是非の感情に左右され、“赤誠・至純”の尊王一転して逆賊と化す例はしばしば国史の上に存在した」

 庶民はいつの時代も、熱烈な尊王家の情念のもたらす矛盾と悲劇性を、皮膚感覚のようなもので感得していた。
 だから自刃した真木らは「残念さん」なのである。
 真木和泉は、死の年の6月、『天闕へ上奏』という文章を書いていた。そこで「十余年来御確定之聖断」は、たとえ富嶽崩れ湖水涸るとも動揺すべきではない、と悲痛な思いで上奏していた。天皇がぶれてはいけない、と諫言したのである。
 真木和泉における禁門の変は、ただそのことを自死をもって伝えるための戦いだった。

 明治5年正月、朝廷は真木家に永世祭祀料として年々米10石を下賜、24年4月和泉に正四位を追贈した。

恋闕の人・真木和泉  11

2008-11-14 15:04:07 | 小説
 19日朝、鷹司邸に入った真木ら清側義勇軍は、福井藩兵からの狙撃にあい、ついで蛤御門の戦いを終えて駆けつけた会津・彦根・薩摩の諸兵らと戦闘になった。
 久坂玄瑞が死んだ。乱戦のさなか、真木和泉も股を撃たれて負傷した。
 午後になってようやく天王山に逃れた。ここで益田弾正ひきいる第4隊と合流するためだったが、第4隊はいなかった。敗色濃厚とみて、長州へ引き揚げるべく、ひと足先に逃走していたのである。
 残っていた長州藩士宍戸九郎兵衛は、和泉らにも退却をすすめる。いったん長州にしりぞいて再起をはかろうというのだが、和泉は聞かなかった。
 自分はここで死ぬ、他の者は早く退却せよ、というのであった。しかし、和泉と生死を共にしたいと懇願する17名が残った。
 20日朝、郡山藩から使者や家老がきて、退却をすすめるが、和泉はこれも断った。彼は髪を切って地中に埋め、辞世の歌を詠んだ。

  大山の峰の岩根に埋めけり わが年月の大和魂

 21日、会津藩兵と新選組が天王山を攻めた。山頂に至ると和泉以下17名が自刃していた。
 旗を真ん中に立て、各々甲冑を脱ぎ、訣別の杯をくみかわし、みごとに割腹していたと伝えられている。
 社殿には和泉以下17人の連署で、決死の理由書が貼りつけてあった。
「甲子秋七月 出師討会賊 不利引還 我輩不忍徒去京師 屠腹所営之天王山 欲陰護至尊也」
 和泉とともに自刃した17名のなかに、むろん長州人はいない。久留米藩の者4人、以下熊本藩6名、土佐藩4名、宇都宮藩2名、福岡藩1名である。いずれも20代から30代の志士たちだった。
 ちなみに土佐藩出身者の中には海援隊千屋寅之助(管野覚兵衛)の従兄弟の千屋菊次郎28歳がいた。
 彼らの遺体は会津藩兵が村人に命じて宝寺塔前に穴を掘って埋めた。竹垣で四方を囲み、長州賊徒の墓としたが、近郷の者たちの参詣があとを絶たず、幕府はこれをきらって庶民の登山を禁じた。
 彼らは庶民から「残念さん」と呼ばれたのである。

恋闕の人・真木和泉  10

2008-11-13 13:58:56 | 小説
 元治元年3月の時点で上京進発は4月上旬と決められていたが、結局は6月に延期になった。
 元治元年6月といえば、5日にあの有名な池田屋事件が起きている。池田屋で自藩の有能な志士を幾人も殺された長州としては、上京進発の名分に、池田屋事件の暴行者詮索ということも加えた。長州藩の入京は勅命によって禁じられていたから、名分は多くあるにこしたことはないのである。その上京進発の主たる名分は、攘夷の歎願、政変後謹慎を命じられている長州藩主父子の冤罪の哀訴であった。
 6月16日、5隊からなる軍勢1500人が三田尻を出発した。第1隊の浪士隊は300人、清側義軍と称し、真木和泉と久坂玄瑞が総管となった。隊士の内訳をみると、真木と同じ久留米藩出身者が9名、対馬藩から13名、土佐藩から8名、福岡藩から6名、肥後藩から4名、そして、和歌山藩、津山藩、小松藩、三池藩、宇和島藩、膳所藩、姫路藩などの脱藩浪士で構成されていた。
 5隊の軍勢は6月下旬にはそれぞれ洛外3か所に集結、入京許可を要請するけれども、孝明天皇はあくまでこれを許さない。ついに一橋慶喜に長州征討を決意させる。
 7月18日、征討の議を知った進発開始を決定、和泉は『討会上奏』『幕府へ上書』『在京諸藩へ通告』などを書き、宣戦布告をした。
 禁門の変である。
 真木和泉らは、あっけなく敗北した。禁門の変は、たとえば次のように要約される。
「蛤御門の変ともいうように、戦争は烏丸通りへの出口となる蛤御門周辺で戦闘となった。主として薩摩・会津藩兵と長州藩兵の戦闘である。後で西郷隆盛が薩摩藩兵がいなければ危うかったといっているが、確かに急遽汽船で派遣した精鋭の薩摩藩兵の働きが大きかった。戦争は夜明けから始まって、昼前にはほぼ終わった」(佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』講談社学術文庫)

恋闕の人・真木和泉  9

2008-11-11 16:14:11 | 小説
 政変後、孝明天皇は真木和泉らを「浪士暴論之輩」と決めつけた。
 しかし、和泉にすれば、直接自分の耳で聞かなければ納得のいくことがらではなかったはずだ。なにしろ自分の行動原理は天皇の意志にかなったものだと確信していたからである。政変前の7月には、天皇に『五事建策』を叡覧、銀15枚を賜ったではないか。文久2年5月には、幕府が攘夷を実行しなければ、親征すると言ったのは、天皇ではなかったか。
 孝明天皇がシャイで気弱(家近良樹氏の評)で、その言動にぶれのあるハムレット型の人間であることに和泉は気づかなかった。というよりも、神官和泉にとって、天皇の人間性はそもそも忖度すべきことではなかったかもしれない。
 クーデターを起こした新しい側近、つまり中川宮らが悪いとみなした和泉は、君側の奸を払わなければならないと決意する。
 以下、彼の「略年譜」(山口宗之『真木和泉』巻末)から抜粋してみる。

 いったん長州に退いた真木和泉は、
 9月3日、毛利敬親に挙兵上京を建策。
 9月15日、毛利敬親、三田尻にきたり七卿と会見。和泉、敬親に挙兵上京の必要を述べる。
 9月22日、長州藩に使し、すみやかに出兵せんことを迫る。また津和野藩におもむき、藩主玆監に奮起をうながす。
 10月22日、実力による京都奪還策を論じた『出帥三策』を6卿に上程 。
 
 見られるとおり、真木和泉は京都奪還に躍起となっている。中央政局の主導権を公武合体派から奪還して、あくまで討幕の方向に向かおうとするのだ。和泉の考えに賛同した高杉晋作に、藩主が動かなければ奇兵隊を借りてでも上京したいとまで言った。
 年が変って元治元年、上京進発は遅れに遅れた。
 

恋闕の人・真木和泉  8

2008-11-09 20:49:03 | 小説
 8月18日の政変は文久政変ともいう。長州藩を主軸とする尊攘派を京都から一掃したクーデターであった。いわゆる七卿落ち、三条実美ら尊攘派の公卿らが朝廷から追放されたのも、このときのことだ。
 にわかに薩摩藩と会津藩が提携し、両藩の在京兵力を背景に中川宮を中心とする尊攘派追い落とし組織によって、政局を一転させたのであった。
 むろん大和行幸は中止となった。では、大和行幸の、つまり攘夷親征の詔勅はなんであったのか。
 孝明天皇は8月26日、小御所において在京諸候と対面している。そのときの勅語にいわく。
「これまではかれこれ真偽不分明の儀これあり候へども、去る18日以後申し出づる儀は真実朕存意に候間、この辺諸藩一同心得違ひこれなき様の事」
 なんと政変以前の勅、つまり大和行幸の詔勅は「真実の存意」ではなかったと発言されたにひとしいのである。
 これをして、大和行幸の詔勅は、そもそも偽勅だったとする説がある。天皇のあずかりしらぬところで捏造された勅という意味での偽勅というのなら、それは違う。天皇はたしかに詔勅を発したのである。以前に書いた「『天誅組』の悲劇」を参照いただきたい。
「綸言(りんげん)汗の如し」という中国の格言がある。
 皇帝がいったん発した言葉(綸言)は、取り消したり訂正することができない、という意味だ。いったんかいた汗を引っ込めることができないようにだ。
 これは皇帝が発した言葉は、かりに誤っていても、それを訂正するようでは、皇帝そのものの絶対無謬性を否定し、皇帝の権威失墜につながるのだから、軽率な発言をしてはいけないという教訓でもある。
 綸言汗の如し、この格言をないがしろにしたのは孝明天皇であった。
 大和行幸のさきがけならんと挙兵した天誅組、平野國臣らの生田挙兵、そしてこれから述べようとする真木和泉らの悲劇、それらはすべて大和行幸の詔勅に端を発して加速した。
 天皇は政変以前の勅語を「真偽不分明」と奇妙な弁解をされた。
 しかし、政変後の勅語こそ偽りではないかという疑惑を、かえって尊攘派に抱かせもした。
 格言は正しかったのだ。勅語の神聖さが失われてしまったのである。のちに討幕の密勅が簡単に偽造されるのも、ゆえないことではないと思われる。 

恋闕の人・真木和泉  7

2008-11-07 14:26:35 | 小説
「膺懲」(ようちょう)という難しい言葉がある。悪人や敵国を討ってこらしめることの意味だが、文久2年5月、孝明天皇は「もし幕府、十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師をなさずんば、朕実に断然として……親征せんとす」と宣言していた。この時点で天皇は、幕府が攘夷を実行しなければ、「親征」するという意志を表明していたのである。
 攘夷を幕府に委任するのではなく、天皇が直接に天下に号令するという、真木和泉のいわゆる「攘夷御親征」案は、したがって天皇の意図と違ったものではなかった。
 安政大獄を「正義ノ士是ニ於テ尽ク」と批判し、桜田門外の変に参加した浪士たちを「深ク外夷ノ跋扈ヲ憤怒シ、幕府ノ失職ヲ死ヲ以テ諫ムルニアリ」と賞賛し、共感を寄せたのは孝明天皇だった。
 これらのことは、和泉はじめ尊攘派志士たちは、よく知っていた。不謹慎な言い方かもしれないが、孝明天皇は尊攘派志士たちのスーパーアイドルだったのである。
 たとえば和泉の盟友ともいえる平野國臣などは、孝明天皇を「古今無類の聖徳」を備えた「深大天淵の英志」とあがめたのであった。
 その天皇が攘夷親征をついに決断、文久3年8月13日、大和行幸の詔勅が発せられた。
 和泉にすれば、待ちに待った天皇の決断だった。大和行幸とは、和泉にすれば討幕の決行と同義語であるから、彼は黒子のように行幸準備に奔走する。もとより朝廷の命によってである。桂小五郎、宮部鼎蔵、久坂玄瑞、山田亦助ら、そして諸公卿らとの実行方策会議、さらには在京諸大名らへの行幸供奉への呼びかけ、細かいところでは関白以下の供奉の列決めなどなど。
 ところがである。この行幸は中止となった。
 世にいう8月18日の政変である。
 大和行幸の詔勅が発せられて5日目、和泉には信じがたい事態が起きたのである。

恋闕の人・真木和泉  6

2008-11-05 13:55:30 | 小説
 学習院は、いうまでもなく現在東京にある学習院の前身であるが、弘化4年(1847)京都御所日御門前に開講されている。もとより公家の子弟たちのための教育機関だった。開講は父の仁孝天皇の遺志を継いだ孝明天皇の手によってなされたのであった。
 さて、その当時の学習院について、たとえば野口武彦氏はこう書いている。
「…学習院は、草莽微賤の徒にも時事を建言させるといって諸藩士に出仕の道を開いた。尊攘志士たちは争って入り込み、真木和泉・久坂玄瑞・轟武兵衛といったオソロシイ連中が、政治的にウブな公卿のお坊ちゃんの耳に激烈な討幕思想を吹き込んだ。学習院は政治集団のアジトになった。学習院過激派が生まれていたのである」(新潮新書『大江戸曲者列伝 幕末の巻』所収「学習院過激派・中山忠光」の項)
 野口氏はまた、その著書『長州戦争』(中公新書)においても「学習院は事実上、朝政を切り回す政治堂と化していた」(同書26ページ)と述べている。
 ところで野口氏はその著書において、学習院の設置開講を仁孝天皇の弘化3年としている。これは正しくはない。
 開講は前述したように弘化4年の3月9日である。(学習院大学のホームページの沿革でも、この年次を記している)
 たしかに仁孝天皇が公家子弟のために学習所の創設を思い立ち、弘化2年に幕府の了解を得て講堂の建設を進めたが、天皇は開講を見ずしてお亡くなりになっている。開講したのは孝明天皇なのである。
 なぜそんな細かいことにこだわるかというと、学習院と孝明天皇との関係を、薄まったものにしたくないからである。
 孝明天皇は熱烈な攘夷論者であった。すくなくとも真木和泉はそう思っていた。天皇のひとすじの意志である攘夷を、のらりくらりとして実行に移さない幕府は倒さなければならない、真木和泉の行動原理はそこにあった。
 いかし彼は、その孝明天皇によって悲劇の終幕に追いやられるのであった。
 

恋闕の人・真木和泉  5

2008-11-04 17:42:13 | 小説
 学習院に出仕したのは、わずかひと月足らずの短い間だった。しかし、真木和泉の人生の中で、もっとも充実し仕合せな光彩を放った日々だった。
 なにしろ、それまでの彼は不遇に過ぎたからである。
 嘉永5年(1852)、40歳の時、久留米藩の藩政改革を企てて失敗、以後10年の長きにわたって蟄居させられていたのだった。国政の趨勢を、久留米の片田舎で、切歯扼腕して眺めていたのであった。
 藩役人を恫喝して脱藩したのが、文久2年(1862)のことであった。薩摩藩に接近、この年の4月の「寺田屋の変」のときには、彼もそこにいた。ただし別室にいたのだが、むろん薩摩藩士たちの同士討ちは目撃したはずだ。真木和泉の討幕のもくろみは、ここでもまた齟齬をきたしたのであった。
 彼は薩摩藩の鎮撫使によって、いったんは京都の薩摩藩邸に収容され、久留米藩に引き渡されたのである。せっかく脱藩したのに、逆戻りさせられたのであった。

 二月霞を破って南、薩に入り
 帰程千里 既に秋風
 屡々時機を失う是れ誰が罪ならんや
 空しく辱む西州忠士名

 ふたたび久留米藩に拘禁されることになったときの真木和泉の詩である。
「屡々時機を失う 是れ誰が罪ならんや」とは、まことに哀切である。あたかも彼の最期を暗示しているかのようではないか。
 和泉の拘禁が解かれるように、正親町三条実愛らが尽力し、久留米藩主に朝命が下ったのは11月21日。和泉が実際に自由の身となったのが文久3年2月のことであった。
 そうした経緯があっての学習院出仕であったのだ。

恋闕の人・真木和泉  4

2008-11-01 17:34:18 | 小説
 その恵まれた体躯のせいもあってか、真木和泉は武芸を好んだらしい。柔術は目録、弓術は日置流道雪派の目録以上で、とりわけ薙刀が得意だったという。ちなみに龍馬も薙刀が得意だったことはよく知られている。
 ところで神官の武芸というものに、いささかの違和感を抱いたものだから、私の関心はあらぬ方向にそれて、真木和泉を離れた。
 しかし、調べてみれば、わが国の剣術の創始者とされる人物も神官(祝部)であったのだ。鹿島神宮の神官・国摩真人の剣の技法が関東七流の淵源だった。西の京八流の源流は陰陽師であった。
 もともと武芸は神事ときわめて近い関係にあったようだ。
 真木和泉の剣の腕前は不詳だが、いにしえぶりの好きな彼のことだから、剣も熱心に学んだのではないかと思われる。
 思えば天誅組挙兵メンバーの中にも、神官は幾人もいた。幕末の神官、医師、国学者ら知識人は、その政治活動においては武闘派であったのだ。
 以前、このブログで「天誅組の悲劇」を連載したとき、私は真木和泉を孝明天皇の「大和行幸」の仕掛け人と書いた。文久3年6月、和泉は上京し、学習院に出仕していたからである。
 山口宗之は『真木和泉』に書いている。
「この一時期彼の言動は京都政局の動向を大きくリードしていたのである。七月六日久留米藩士加藤幾次郎・同若林岡上右衛門へ宛てた書簡には、上京後長州人が和泉を尊ぶことひとかたでなく、公卿たちの受けもよろしく、いりいろ相談を受けることも多い。鷹司関白のごときはいつ参上しても必ず合ってくれ、羽二重一疋をも拝領したほどであるとしるし(後略)」
 つまり彼は得意絶頂だったのである。
 志士たちは彼のことを「今楠公」と呼び、「大人」あるいは「王人」とあがめた。