小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

内田樹『日本辺境論』を読む

2009-11-30 21:47:39 | 読書
 不敵な「まえがき」(正確には、はじめに、)がある。「…どのような批判にも耳を貸す気がないと言っているわけですね」あるいは「この仕事はボランティアで『どぶさらい』をやっているようなものですから、行きずりの人に懐手で『どぶさらいの手つきが悪い』とか言われたくないです」
 私は内田先生の本は、ほとんど読んできたし、ブログの熱心な読者でもあるから、断じて行きずりの人間ではないと自負している。懐手どころか、随所で手をうって、その玄妙なレトリックに感嘆していた。いつも思うことだが、概念を指示する語彙をこれだけ豊富にあやつる執筆家は、昨今、内田先生ぐらいしかいないのではないか。
 もっとも内田先生自身はこう述べておられる。
〈本書が論じているのは、「地政学的辺境性が日本人の思考と行動を規定している」という命題ですから、当然さまざまな学術用語や専門用語を駆使しなくては論じられない。けれども、私はそれをできるだけ具体的な生活言語を使って論じようとしています。〉
 いえいえ、具体的な生活用語とは決してなじまない「圭角のある概念」をあらわす語彙が散りばめられている。しかし、それらの語彙には文脈のなかで強いイメージの喚起力があるのである。
 ほんとうは言葉では伝え難い内容を語るⅢ章の「『機』の思想』以外は、たぶん行きずりの読者でも比較的に気軽によめるだろう。
 当初、僕は、という人称で書かれていたのを、途中で、私は、という人称で語るように書き換えたと明かし、その理由を述べている個所がある。この理由に納得のいかない読者は、おそらくこの本を理解できないだろう。
 不敵とみえるまえがきは、あらかじめ予想される偏見と誤解への先回りかもしれない。私には、しごくまっとうな意見だけが綴られているように思われたのだが。
日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹
新潮社

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おりょうさんの子供?  完

2009-11-23 21:53:49 | 小説
 松兵衛の実子であるならば、「養嗣子」などとして届けなくてもよかったのである。松之助入籍の4か月以上前の明治8年7月2日、松兵衛はすでにおりょうさんを妻として入籍していた。ふたりの実子であるならば、そう届ければすんだ話なのである。
 時代は国民の戸籍がしだいに整備されつつあった頃のことだ。明治8年に、おりょうさんの入籍、松之助入籍が相ついでいるのは、おそらく「平民苗字必称義務令」と無縁ではない。これが布告されたのは、明治8年2月13日。まだ苗字のない者がいたから、国民全員が苗字をつけて、戸籍を完全なものにせよという明治政府の太政官布告であった。
 さて、では松之助は誰の子であったのか。先の除籍簿から推測されるのは、大阪にいたおりょうさんの母の貞が面倒をみていた幼児だったということだ。貞の孫とされているから、おりょうさんの妹弟の子であることはたしかだ。
 妹の中沢光枝の子であった、と推測するのは、鈴木かほる氏である。
 鈴木氏が入手した松之助の過去帳の写しには「西村松平子」の右側に添え書きがあって、「京都ノ住人中沢依頼也」とあったという。これが傍証である。
 どういう事情からそうなったかは不明だが、光枝の子が西村家の養嗣子としてむかえられたとして間違いないだろう。
 ただ、この添え書きについて、過去帳を見た筈の宮地氏はいっさい無視している。そして鈴木氏の入手した写しのほうには、宮地氏のいう「十九歳」という年齢の記載がない。このあたりがどうもすっきりしないことは付言しておかねばならない。
 いずれにせよ、おりょうさんの回顧談に大阪から母を引き取る話は出てきても、松之助のことは出てこない。松之助がもし実子であるならば、おりょうさんの母性は、どこかで彼に言及したはずだと信じたい。宮地氏の説に異をとなえるゆえんである。
 ちなみに鈴木氏は、おりょうさんが東京に出てきたのは明治6年とし、作成された年表にもそう記入しているが、私は明治5年には、すでに東京にいたと思っている。『千里駒後日譚拾遺』の次のくだり。
「お登勢の死んだのは確か明治五年でした。私は東京に居たですから、死に目には得逢はなかったのです」
 これは寺田屋おとせの死んだ年を間違っているが、明治5年におりょうさんが東京にいたとする記憶には誤りはないと思うからである。
 築地にしばらくいて、それから横須賀に移ったのである。横須賀で仲居をしていて松兵衛と知り合ったなどというのは、誤説もいいところである。築地時代に松兵衛と再会(ふたりは伏見の頃からの知合い)したという証言がある。しかし、それはまた別の物語である。

おりょうさんの子供?  2

2009-11-22 12:42:32 | 小説
 おりょうさんの墓のある横須賀市大津町の信楽寺の過去帳には、彼女の母の貞の記載がある。明治24年条に「楢崎太一郎母」(注:太一郎はおりょうさんの弟)とあって、1月31日に死去したことが確認される。確認されるというのは、おりょうさんが『反魂香』で語っている母の死亡年月日に合致しているということだ。この過去帳を宮地氏は直接見たらしい。母の記載から「数枚めくると記帳に」と、こう書いている。

〈「明治二十六年九月九日 見応松道信士
  西村松平子 十九歳」
 とある箇条を見付けた。即ち逆算してみると、明治七年、お龍三十四歳の頃、松兵衛との間に一男を儲けたことが明らかになった。〉

 ところがである。鈴木かほる氏の『史料が語る坂本龍馬の妻 お龍』(新人物往来社)によれば、「西村松平子」の戒名は「明治24年条」にあるという。つまりおりょうさんの母の死亡した同じ年に死んでいるのだ。鈴木氏は、信楽寺の新原千春住職から過去帳の写しを頂いたとして、そう記述しているのだが、「よこすか龍馬会」が同寺におさめた「見応松道信士」の位牌も「明治二十四年九月九日」となっている。
 宮地氏はなにか勘違いをされたのか、と思われそうだが、ここで腑におちないことがある。宮地氏が、「逆算」して、この子を明治7年生まれとしたことである。これはぴったり合っているのである。つまり過去帳の「十九歳」を、宮地氏が捏造するわけはなく、事実そう記載されているのなら、この子は明治24年に死亡したことにはならない。過去帳の実物の写真でも公表されれば、いいのにと思う。
 いずれにせよ、この子、名は松之助は、宮地氏の逆算どおり明治7年8月15日の生まれであった。このことは松兵衛の生地である滋賀県近江八幡市の除籍簿写しで明らかである。その除籍簿写には、

 明治八年十一月二十三日 大阪府下大六第九一小区上本町 楢崎て以ノ孫入籍 
 養嗣子松之助 明治七年八月十五日生
 と記載されている。

「て以」というのは、むろんおりょうさんの母の貞のことであって、その孫であるからして、やはりおりょうさんの子ではないか、というわけにはいかない。問題は「養嗣子」の文言である。 

おりょうさんの子供?  1

2009-11-21 23:27:41 | 小説
 坂本龍馬の妻だったおりょうさんと再婚相手の松兵衛の間に生まれ、17歳で死んだ息子の名と墓の場所を知りたい、という投稿がミクシィのコミュニティのひとつにあった。それは養子の松之助のことでしょうと私はコメントさせていただいたが、ふと気になって、「ウイキペディア」で、おりょうさんのことを検索してみた。「楢崎龍」の項目に、案の定、以下のような記述があった。

〈30歳のとき旧知の商人西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬との間に子はなかったが、明治七年(1874年)34歳の時に松兵衛との間に男児を出産後入籍(戸籍に届けた名前は西村ツル)するも、その息子は明治24年(1897年)17歳で死去〉

 この項目のライターは、まず宮地佐一郎氏の記事を根拠にしていると思われる。
 宮地氏は「お龍に子がいたのである」で始まる記事を昭和55年7月10日付けの高知新聞に発表、昭和61年7月発行の『随想坂本龍馬』(旺文社文庫)に収録していた。さらに平成3年8月発行の『龍馬百話』(文春文庫)の「第87話」で、ほとんど同様の内容を披露している。ただし、こちらのほうは「お龍に子供がいた」で始まる。文章はこう続く。

〈そして明治の中葉まで生きていたのである。勿論、慶応3年(1867)11月、彼女の数え年27歳で死別したので、龍馬の子を生んだわけではない。第二の夫西村松兵衛との間に生れた子供であった〉

 宮地氏といえば、龍馬研究の第一人者であるから、誰しもこれは鵜呑みにしたくなる話だ。
 宮地氏については思い出がある。氏の編述による『龍馬の手紙』(PHP文庫版)にサインをお願いしたら、名前を聞かれた。名のったら、「あなただったの」と顔をまじまじとみつめられた。その言葉で、私の龍馬に関する小論を氏が読んで下さったことがわかり、嬉しくなって「はい」とだけ答えた。氏は私の名を書きつけ、サインされた。平成14年6月のことで、氏がまだ御元気だった頃である。
 さて、しかし宮地氏の、おりょうさんの子供説には、異をとなえなければならない。

龍馬とアメリカ彦蔵

2009-11-12 16:02:08 | 小説
 龍馬とアメリカ彦蔵(ジョセフ・ヒコ)は、面識・交流があったとする説がある。そうであったら、いいなあとは思うけれど、私は少し懐疑的である。
 松岡司氏の近著『異聞・珍聞 龍馬伝』(新人物往来社)に「ジョセフ=ヒコ」という項目があって、「さてそのヒコ、龍馬と交流があったこと、知ってます?たぶん、私の本以外にほとんど書かれたものはないと思いますので、以下、紹介」とある。そして「つまり彼(龍馬)のまわりには、ときとして英米民主主義を深く理解したヒコがいて、重要な示唆をときに応じてなすことがあった。そのことが、龍馬の大統領制、議会制、また民主主義の受容に役立っていた可能性があるのです」とまで述べている。
 松岡氏の主張とそっくり同じ主張は田中彰『幕末史の研究』(吉川弘文館)の中にもある。しかし、ここまで言い切れるものだろうか。
 龍馬側の史料にも、アメリカ彦蔵の史料、たとえば自伝にも、ふたりが交流したという根拠を見出すことはできない。
 松岡氏や田中氏が論拠とする『改訂肥後藩国事史料』の「荘村助右衛門」の龍馬との談合報告書を、いま読み返してみた。たしかに龍馬、助右衛門、それに彦蔵が同席して、それぞれ語り合った内容のようにみえる。しかし、これは、龍馬対助右衛門、さらに彦蔵対助右衛門のそれぞれ時点が違った談話の報告書とみなしたほうがよさそうだ。
 三人が同時に話し合っている内容ではないのである。だから「此事窃ニ為君今日発し候」という彦蔵の言葉が書きつけられているのだ。つまり、君にだけ話すという重大な内緒話が、傍に龍馬がいては意味をなさないのである。さらにこの場所は龍馬の宿舎であって、ほかに八、九人の同席者がいたと助右衛門自身が報告しているのである。
 このことについては、以前「アメリカ彦蔵と呼ばれた男」でも詳しく書いた。右欄の「自薦ブログ」に追加しておいたので、ぜひあわせてお読みいただきたい。 

松岡・龍馬本と「皇后の夢」の情報源

2009-11-09 22:13:34 | 小説
 松岡司『異聞・珍聞 龍馬伝』(新人物往来社)を読んだ。松岡氏は高知県佐川町の青山文庫名誉館長でもあるが、本書は「高知新聞」に平成20年4月1日から6月14日まで連載されたものに、「(補)松浦玲『坂本龍馬』」を付して構成されている。
 この巻末の、松浦本へのクレーム?のつけ方が興味深かった。松岡氏はこう書いている。
「海舟と龍馬が深くかかわる前半は濃密に書きつつも、後半は文庫本のせい?か拙著『定本坂本龍馬伝』など参考に、全体流しているような感じです」
 そして自著を評価してくれた松浦氏に対し「どれほど御読みくださったのか。ニ、三点だけながら、ひっかかるものがあります」とし、実質的には5点の批判を箇条書きにしている。ま、研究者としては微細な点も見逃さない真摯な態度だとは思う。
 ところで、松岡司氏のひそみにならえば、私もまた『異聞・珍聞 龍馬伝』の「皇后瑞夢の真相」に若干引っかかるものがあった、と言いたくなる。
 松岡氏はあきらかに、私がかって本名の近藤功名義で高知龍馬研究会の会報『龍馬研究』(平成11年1月25日発行・NO.191)に寄稿した「『皇后の夢』の真実」を参考にしておられる。
 氏はこう述べている。
〈私は、話は、やはり皇后本人より出たと思っています。皇国の行く末を想う皇后は真剣に日露戦争を案じていました。案じていましたから二月に葉山で小川陸軍中将を謁見させたさい、『かって、日清戦役のときの牙山勝報を聞かせらりしも、この葉山行啓中なるぞ。これ天佑、よき兆候!」
 と言って激励したのです〉
 こんな流した書き方では、読者はよく呑み込めないのではないだろうか。
 国会図書館で明治37年の報知新聞2月18日付の「皇后陛下の御感」という小川陸軍中将の記事を発見したとき、私は、ああこれで皇后の夢の情報源がわかった、と思ったものだ。先の拙論に記事の全文は載せた。「今回海軍の勝利に付御物語あらせられ」そして「かって日清戦争云々」と続くのである。この「御物語」が龍馬が夢枕に立ったという話であろうと、私は推定したのであった。
 どうやら松岡氏は私の推論に御賛同してくださったようだが、「御物語」を皇后から小川中将が聞いたと、なぜ明記されなかったのか。

左行秀と龍馬  完

2009-11-08 13:50:09 | 小説
 龍馬は天保6年(1835)生まれである。天保9年(1838)生まれの近藤長次郎より3歳年上だった。つまり左行秀が、10歳の長次郎のパトロンになったとき、龍馬は近所の13歳の少年だった。
 さて、この頃の龍馬はどんな少年だったか。
 龍馬は自宅から近い小高坂の楠山塾という寺子屋に通いだしたが、すぐに退塾していた。いじめにあっていたという伝承があって、いまで言えば不登校の少年となっていた。その気になれば他にも通学可能な寺子屋はいくつもあるのに、通っていない。10歳すぎても寝小便をしていたとか、洟垂れの泣き虫だったとか、とかく評判のかんばしくないのが、この頃の龍馬少年だ。
 左行秀が、こういう噂を耳にしていないはずはない。
 長次郎の事件を聞いた行秀の胸をよぎった憤怒のようなものは想像がつく。あの愚鈍だった龍馬に、神童だった長次郎を殺されたという理不尽な無念さである。
 さて、以上のことをもって、龍馬に対する左行秀の私怨といいたいわけではない。いまひとつの要因がある。
 左行秀はもっぱら刀工として今では語られるが、彼が鉄砲鍛冶であったことを思い起こしていただきたい。いわば国産鉄砲の製造業者のひとりであったのだ。
 これに反し、龍馬は鉄砲輸入業者のひとりだった。
 慶応3年9月、龍馬はオランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺購入、そのほとんどを土佐藩に届けている。
 行秀が職人支配として、せっせと製造するより、輸入銃であっという間に揃えられるのであった。こういうわけで龍馬は行秀の職業的立場をもおびやかす存在だったともいえるのであった。
 明治になると行秀はなぜか「東虎」と改名、晩年は居所を転々とし、不遇だったらしい。明治29年3月、75歳で没している。

左行秀と龍馬  4

2009-11-05 23:03:04 | 小説
 近藤長次郎は、龍馬の「かげの才知」(前掲『土佐人物ものがたり』)あるいは龍馬の「影を生きた男」と評されることがある。薩長間の実務的なとりまとめでは、よく働いたのであった。
 長州藩主毛利敬親父子が薩摩の島津久光父子に宛てた礼状(慶応元年9月8日)に、だから彼の名が出てくる。上杉宗次郎としてである。
「委曲は上杉宗次郎に相咄候間、御聞取可被下候」
 詳しいことは長次郎に話してあるから彼から聞いてください、ということは、長次郎は大藩の長州の藩主とも直接会い、さらに薩摩藩主にも引見されるという身分になっていたということである。
 かっては士分でもなんでもない饅頭屋の息子が、歴史上の舞台でスポットライトをあびているようなものだ。自らの才知と学問でここまで来たのである。そういうことが可能だった時代であるが、上昇志向の急激な実現は、劇薬の副作用のように長次郎をしびれさせた。
 自分を過信しすぎたのである。他の海援隊隊士はみな自分より劣等生に見えていたと思われる。
 抜け駆けのようなイギリス留学計画は、彼自身の強い意志から出たものか、それとも薩摩の小松帯刀らのすすめによるものかは、わからない。わからないけれども、学費をパトロンから得ることは、左行秀の例で慣れっこであった。その学費充当金がリベートという形で供与されようとも、自分に対する報奨金として、さしたる罪悪感はなかったはずである。
「もし一己の利益のためこの同盟の約にそむく者あらば、割腹してその罪を謝すべし」という海援隊の前身亀山社中結成時の規律など、彼はほんとうは納得していなかったかもしれない。一言の弁明もせずに、腹を切った。
 さて左行秀と近藤長次郎は同じ町内のごく近所に住んでいたことは前に書いた。町名は違うが、龍馬の実家もまた彼らの近所にあった。昭和の高知城下に育った私のおぼろげな記憶では、饅頭屋跡地と龍馬の実家は、200メートル強しか離れていないように思われる。
 何が言いたいかというと、左行秀は土佐における龍馬のことも良く知っていた、ということだ。
 その龍馬が、息子のように目をかけて先行投資した長次郎を殺してしまった、と左は「噂」を信じた。 

左行秀と龍馬  3

2009-11-04 22:49:53 | 小説
 たとえば司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(産経新聞連載)以前に、龍馬ブームを起こした明治年間の坂崎紫瀾の新聞小説『汗血千里駒』(土曜新聞連載)は、龍馬の実伝として読者に受けとめられたが、坂崎は、長次郎を難詰する龍馬を描写している。「けだし孔明涙をふるうて馬謖を斬ると同一の心事」などと書いている。たぶん坂崎は「噂」を真実だと思いこんだのである。
 あるいは長次郎の商売相手だったグラバーの回想を聞き出して筆録した維新史編纂委員の中原邦平によれば、長次郎が茶屋で遊んでいるところに龍馬があらわれて彼を咎めたことになっている。どうやらグラバーは龍馬の名を出していないのに、中原が勝手に「海援隊」を「龍馬」に置き換えたらしい。これも「噂」が流布していたせいであろう。
 龍馬は、慶応2年1月10日には京都をめざして、下関を出航していた。長州の三吉慎蔵、そして土佐の池内蔵太、新宮馬之助らと一緒だった。
 16日に神戸に着いている。風潮不順で日数がかかっているが、要するに近藤長次郎が自刃した14日は、龍馬はまだ航海途上だったのである。瀬戸内の船の中にいたのだ。
 龍馬が長次郎の事件を知るのは、京都に着いてしばらくしてからであった。松浦玲氏の『坂本龍馬』(岩波新書)に詳しい記述がある。長くなるが引用しておこう。

「龍馬滞在中の京都の薩摩藩邸に上杉宗次郎自殺の報が届く。桂久武日記の二月十日で見ると、小松家抱えの錦戸広樹が野村宗七書簡を持参したのである。その書状が西郷に廻り、次いで桂のところへ来た。桂は『誠ニ遺憾之次第也』と日記に記し、翌十一日には小松邸へ出向いて詳しく話を聞いた。使者に立った錦戸も、野村書簡では尽せない事情を知っていたのだろう。自殺の原因は桜島丸=乙丑丸についての違約を長崎の薩摩藩士に咎められて腹を切ったというものと、秘かにイギリスに留学する手筈のところを社中に知られて詰腹を切らされたというものがあり、桂久武が小松家まで出向いて聞いた詳細がどういうものだったか残念ながらこれ以上はわからない」

 しかし、龍馬はその詳細を聞かされたと思う。そのうえで「術数余り有って至誠足らず」と手帳に書きつけたのであろう。なんとなく中味の想像がつく評言だ。
 松浦氏が「桜島丸=乙丑丸」と書いているのはユニオン号のことである。薩摩名義になったときに桜島丸、その代金を長州が払えば、長州は乙丑丸と名付けようとした。ユニオン号については船名だけでなく、薩長間でなにかと話がこじれたのである。

左行秀と龍馬  2

2009-11-03 18:05:01 | 小説
 行秀の高知城下における住居(鍛練場)は、水通町(すいどうちょう)にあった。その10軒先に饅頭屋があった。饅頭屋の長男はおそろしく頭のいい少年だった。
 35歳の左行秀は、その10歳の少年の才気を愛し、彼が成長するまで学費を援助している。
 その少年とは、のち海援隊隊士となる近藤長次郎(上杉宗次郎)である。饅頭屋長次郎と呼ばれた。
 彼は土佐藩お抱え絵師の河田小龍に薫陶を受け、外国事情を教わるとともに、日根野道場で剣を学び、やがて上士の若党となって江戸に出た。そして漢学を安積艮斎に、洋学を手塚玄海に、砲術を高島秋帆に学んでいる。
 なんとも知識欲と向上心の強い若者であったが、25歳のときに苗字帯刀を許されている。その彼の学費は行秀から出ていたというのである。行秀にすれば、将来が楽しみな息子のようなものだった。
 しかし、近藤長次郎は慶応2年正月14日、長崎で自刃した。よく知られた事件であるが、自刃というより、海援隊規約によって、詰め腹を切らされた、といったほうがいいかもしれない。
『土佐人物ものがたり』(高知新聞社)の「近藤長次郎」の項の記述を借りよう。

「長次郎は龍馬の命を受け、伊藤俊輔・井上聞多らと談合、英人グラバーからユニオン号の買い取りに成功し、薩摩藩籍のまま長州に貸与した。操船は亀山社中。交渉は難航したが、長次郎のねばり強い才知がこれをのり切った。薩長土の連合は成功した。
 その矢先、長次郎のイギリス洋行計画が表面化した。費用は長州藩の謝礼ともグラバーの申し出ともいわれるが、この個人プレーは亀山社中の盟約に違反していた。長次郎は社中の申し合わせにより、長崎・小曾根家の離れで腹を切った。」

 ユニオン号の購入代金は当初の取り決め額よりはね上がったが、そこに長次郎個人に対するリベートが上乗せされた、と疑われたのでないだろうか。真相はよくわからない。
「術数余りあって至誠足らず、上杉の身を滅ぼす所以なり」と龍馬はひそかに彼を評した。近藤長次郎の切腹は龍馬の留守中のことで、彼を難詰したのも龍馬ではない。しかし、噂は龍馬が詰め腹切らせたとなって一部に流れた。  

左行秀と龍馬  1

2009-11-01 17:39:46 | 小説
 慶応3年10月18日、つまり龍馬暗殺の一か月前に、板垣退助は谷干城に一通の意味深長な手紙を書き送っている。以下はその抄録である。

「…過日豊永久左衛門関東より僕が中村への私簡を携来り、榎派に合して姦を為し申候。実に無由にて今に始めず殆ど姦術に係り申し候。(略)然るに右久左衛門なる者近日又東行仕趣、、京師に至ても何等の姦を為し候も難図、関東迄も同断之義ニ付精々御用心可被成、其故に申上候間屹度御覚悟被成度奉存候。心事固ヨリ筆頭に難尽候。御推察可被下候。恐惶再拝。
                               退助    」

 この手紙を谷干城が講演『坂本中岡暗殺事件』で披露したことは、前回の『龍馬暗殺事件・考』で書いた。「(土佐の)頑固党の勤王派に対する軋轢の情態を、証拠をあげてお話して置きたいと思ふ。ちょいと面倒でありますが、板垣の慶応三年十月に寄越した手紙を読みます」
 といって、彼は全文を読み上げ、いきなり「是から此両人(坂本・中岡)の殺された実況を御話申ますが、」と本題に入るのであった。
 さて、板垣の手紙が意味深長なのは「心事もとより筆頭に尽くしがた」いから、あとは推察してくれといっている点である。ともあれ板垣の言いたいことは、近々京都に行って、なんらかの姦計をなすかもしれない豊永久左衛門に注意しろということだ。
 この時点で予想された豊永久左衛門の「姦」とは何か。どうしても龍馬暗殺とリンクしてしまうではないか。
 豊永久左衛門はもと筑前の浪人であった。『明治維新人名辞典』によれば、左行秀(さのゆきひで)という項目で記載されている。筑前の伊藤五佐衛門の二男だが、なぜか伯父筋の豊永姓を名乗った。刀工佐文字の流れをくむところから左を称したらしい。
 土佐に来て弘化3、4年頃、幡多郡入野郷で鍛刀に従事、安政3年5月に刀工・鍛冶職として山内家に仕官し、職人支配となっている。万延元年2月から慶応年間には江戸詰になっていた。鍛冶職というのは鉄砲づくりである。彼は鉄砲製造に熟練していたというのだ。
 この左行秀には、おそらく龍馬に対する私怨があった。