小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

箱崎の容堂邸

2012-08-21 17:40:07 | 小説
 馬場孤蝶の「古き東京を思ひ出て」(昭和17年刊『明治の東京』所収)というエッセイに次のような箇所があった。
「震災前までは、濱町あたりにはまだ大きい庭のある邸が遺ってゐた。(略)箱崎の土州候の邸も庭が幾分は遺ってゐたらうと思ふ」
 孤蝶は、震災の業火ですっかり変貌し、昔の面影を残していない街の様子を嘆いているのだが、箱崎には土地勘のあるつもりだった私は「土州候の邸」という言葉につまづいた。
 寡聞にして知らなかったのである。
 気になって調べてみたら、維新後、土佐の山内容堂がたしかに箱崎に住んでいた。
 その邸宅はもと田安徳川家の別邸であった。1万7千坪余の大邸地である。
 明治17年(1884)参謀本部陸軍部測量局東京五千分一図(下図)を見ると、箱崎4丁目が山内邸と大きな庭園で占められているのがわかる。
 山内家史料には、この邸宅の写真(下)があるが、なるほど広大で美しい庭園がある。馬場孤蝶ならずも、その跡形も無い現状に寂しい思いがする。
 家人の母は箱崎界隈の出身であるが、倉庫街としての記憶しかないという。庭園はつぶされ、かっての武家地は日本郵船や三井倉庫の用地になったのだ。
 私は一時期短いあいだだったが、この山内邸跡地に建つビルの一室で仕事をしていた。その頃に馬場孤蝶のこの本を読んでいたらと悔やんだが、齢を重ねたものの繰言である。
 言わずもがなだが、馬場孤蝶は土佐出身である。その没年が私の生まれ年だということを、これも最近知った。

維新を予見した朝鮮の儒学者

2012-08-01 14:12:19 | 小説
 安藤智重著『安積艮斎ー近代日本の源流ー(歴史春秋社)』の冒頭部分に次のような文章がある。

〈現在、儒学や朱子学は、正しい理解が無いままに徳川幕府を支えた封建思想、御用学問などと決めつけられ、否定的な評価を受けている。そのような状態なので、江戸時代後期の儒学者たちの歴史的役割については、本来の評価を得ていない。その部分は日本史から欠落し、次に来る福沢諭吉をはじめとした明治期の啓蒙思想家のみが、近代日本を作ったようなことになっている。〉

 儒学というものが、いまどんなふうにイメージされているか、よくわかる文章である。
 もとより儒学は徳川幕府を支えた御用学問という側面だけで語りつくせるものではない。維新の志士たちの教養の根底をなし、人格形成のための主要学問であったのも儒学であったからだ。
 というより維新の思想、もっと砕けて言えば倒幕の思想は儒学そのもののなかに胚胎していた。幕府の採用した学問には、そういうアイロニーが存在していたのである。
 明治維新をさかのぼること百年以上前に、そのことに気づき、維新を予言していた儒学者が朝鮮にいた。
 ソンホ・イイク(星湖李瀷)である。彼は『星湖僿説(せいこさいせつ)』所収の「日本忠義」という短文で、概略こう述べている。(原文は漢文)

 
 日本は西京に天皇がいる。しかし東にいる将軍に権力を奪われている。こういう二重構造の君主制度は儒学的に整合できない事態である。だから事態を憂うる人たちがいるが、じゅうぶんな政治勢力になっていない。だが時を待って、ゆくゆくは太守(諸大名)に声をかけて、西京にいる天皇が権力を取り戻すだろう。

 見られるとおり、まさに王政復古と明治維新の筋道を予見しているのである。
 イイクは1,681年生まれで、1,763年に没している。1,763年といえばまだ10代将軍家治の時代で、日本では宝暦年間である。つまり明治維新より百年以上前に死んだ外国の人物の予見であるということが重要である。なぜこのような予見ができたのか。
 それは彼自らが記して、山崎闇斎や浅見絅斎らの日本の本を読んだからだとしている。つまり日本の儒学者の思想を研究すれば、そうならざるを得ないとしているのだ。
 儒学に、維新の思想が胚胎していたと述べたゆえんである。
 安藤智重の安積艮斎の入門書的な著作を読んで、儒学を見なおす必要性があると痛感していたとき、ソンホ・イイクのことを知った。吉田光男編『日韓中の交流』(山川出版社)所収「朝鮮後期の日本観」(ロナルド・トビ)の記述によってである。学恩に感謝し、私自身のメモとしてこれを書いた。