小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

有吉佐和子『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の亀遊

2012-09-20 18:52:41 | 読書
 幕末、横浜の岩亀楼にいたおいらん亀遊は、思いかけずも死んでから有名になった。攘夷志士たちのいわばアイドルになってしまうのだ。
 吉原から横浜に流れたものの、ろくに稼がないうちに病気になり、あんどん部屋に寝ついて借金をふくらませている、しがない遊女が亀遊だった。それでも恋する男がいた。通訳で、西洋医学修得のためアメリカ密航を企てている藤吉という男だ。藤吉のくれた薬のおかげもあって、亀遊はふたたび客の前に出られるようになる。
 岩亀楼は、日本人相手と外人相手の娼妓は、はっきりと区別されていて亀遊は外人の相手はしなかった。ところがたまたま登楼していた米人イルウスの目にとまり、大金で身うけの話が持ち上がる。なんとそのイルウスの通訳を藤吉がするものだから、衝撃をうけた亀遊はほとんど発作的に剃刀で喉を切って死ぬ。
 その死は、アメリカ人に屈しない「攘夷女郎」の抗議の自死のように伝わりはじめ、剃刀は懐剣に変わってしまう。深川の町医者の娘だったのに、武士の娘と語られるようになる。無学で、文字も読めなかったのに、辞世の歌まで作っていたことになる。

   露をだもいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)
           ふるあめりかに袖はぬらさじ

 岩亀楼は攘夷志士たちの人気で大繁盛となり、主人の工作で亀遊の虚像づくりはさらに手がこんでくるのだが、むろん最初の仕掛け人は攘夷思想を高揚させたかった者である。
 彼らは、ごく私的な亀遊の死を、政治目的のために利用したのである。さびしく、痛々しい風情で、あまり客に売れなかった亀遊の実像は、彼らがでっち上げた「烈婦」にはほど遠い。
 亀遊はほんとうは藤吉と駆け落ちでもしたかったのではないか。しかし、作中の誰かのセリフではないが、志のある男は女にむごいのであった。


(もう15年ほど前になるが、マイナーな会報紙に「わが愛しのヒロインたち」というタイトルで小説(とは限らないが)のヒロイン100人をとりあげ短いコラムを連載した。そのときの原稿が妙なところから出てきた。何人分か選んで、こちらのブログにあげておこうと思う)


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