小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

漱石『それから』の三千代  〈ヒロインシリーズ 19〉

2012-10-08 21:27:17 | 読書
 男の家を訪ねた人妻は、心臓を病んでいた。降りはじめた雨に濡れまいと急いで駆けつけたものだから、胸が苦しい。男がうろたえて水を持ってこようと台所に行ったすきに、彼女はスズランを活けてあった花瓶の水を飲んでしまう。
 漱石の小説の4番目に『それから』を読み、この場面に強い衝撃をうけた中学3年生の私は、いわばバーチャルの世界の女性に初めて恋に似たあこがれを抱いたものだった。少年には毒薬のような効き目があって、成人してからも解毒はむずかしかった。
『それから』は30歳で独身の代助と23歳の人妻三千代のせつない愛の物語である。結末は暗示的で、さまざまな読み方ができる。角川源義のように姦通小説と評する人もいるが、冗談ではない、代助と三千代は唇さえ合わせていない。
 三千代は代助の友人の妻であるが、もともとは今は亡き代助の親友の妹であり、彼女が17,8歳の頃からの付合いであった。はじめから肉体的交合などを超えた強い慕情で結ばれていた。妙な言い方になるが、プラトニックな不倫小説とも呼ぶべきであって、官能描写はいっさいなくても不倫小説の成り立つことを漱石は明治の昔に証明しているのである。
 漱石はわざとふたりを肉体的に結ばせない。花瓶の水をごくりと飲む三千代、あるいは「死ねとおっしゃれば死ぬわ」と代助に言う三千代の思い切りのよさを読者に示して、代助の指がちょっとでも彼女に触れたらどうなるだろうと想像させながら、緊張感を維持するのである。
 天意にはかなっても、人の掟にそむく恋は、恋の主の死で社会に認められるしかないと代助は嘆く。たぶん三千代は病をこじらせて死ぬのであろう。代助よ狂うなよ、死ぬなよと声をかけたくなるのは私だけだろうか。
 さて、その三千代の風貌。「三千代の顔を頭の中に思い浮かべようとすると、顔の輪郭が、まだでき上がらないうちに、この黒い、うるんだようにぼかされた目が、ぽっと出てくる」と漱石は書く。具体的な描写はなにもしていないのである。
 しかし、あの少年の日、三千代は明確な姿かたちをして胸の奥深くにひっそりと棲みついたはずだった。この三千代はいったいどこからやってきたのか。

村上春樹『ノルウェイの森』の緑 〈ヒロインシリーズ 18〉

2012-10-07 06:57:56 | 読書
 緑は大学生。ずっと女子校育ちなので、男に関して深甚な興味があった。
 男の子は何を考え、その体の仕組みはどうなっているのか。性的というより、ほとんどアカデミックな興味なのだが、彼氏からは淫乱だとか挑発的だとか欲求不満だと思われがちだ。
 その彼氏よりも好きな学生(小説の主人公)ができて、正直にそのことを彼氏に告げて別れ、男とつきあうようになる。「大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいることを知ってるから別に何も期待しないわよ」と言って。
 それは少し嘘である。「私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね」これが本音だ。
 緑の部屋で男は同じ布団の中で「世界の成り立ち方からゆで玉子の固さのの好みに至るまでのありとあらゆる話」をする。男は体を重ねない。「頑固な人ね。もし私があなたならやっちゃうけどな。そしてやっちゃって考えるけどな」と緑は言う。これも嘘がある。緑は男のこういうところが好きなのである。
 男は頭の中で他の女のことが整理がついていない。だから緑の体の中に入ってこないのである。緑は自分の手で、男の精液を出させる。少しのヒワイ感もないすぐれた描写があるのだが、引用するには長すぎる。誤解をおそれずにいえば、『ノルウェイの森』はザーメンの匂いが濃厚にただよう小説である。凡俗のポルノからは決して匂い立たない、アミノ酸構成物のかなしい栗の花のような匂い、あるいは青春そのものの匂い。
 精神病院にいる男の恋人直子も、直子の療養仲間であるレイコさんも、みんな男はそれぞれのかたちで愛してきたけれども、長く苦しい遍歴のはてに、男は緑の大切さを悟る。
「世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかも君と二人で最初から始めたい」この男の電話の悲痛な呼びかけを、緑はどんな思いでうけとめたか。
 それは書かれていない。
ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)
村上 春樹
講談社

水上勉『五番町夕霧楼』の夕子  〈ヒロインシリーズ 17〉

2012-10-06 17:04:17 | 読書
 夕霧楼は京都西陣の五番町にあった。19歳の夕子は、木樵りの父とふたりで、そこの女主人に懇願して娼妓となった。3人の妹がいて、母親は肺病を患っている。生活の窮乏と母の医療費のために、すすんで体を売ることになったのか。いや、それだけではない。
 夕子は有力な帯問屋の主人で竹末という旦那に水揚げされ、女道楽の限りを尽くした竹末をさえ、たちまち夢中にさせてしまう。竹末という後ろだてを得て、夕子はいちげんの客をとらなくてよくなるが、なぜか彼女は客をとる。そして、やがて学生の馴染み客をつくる。
 学生の実態は、京都でも格式の高い寺の修行僧だった。彼の登楼の費用は夕子が自分で出したりする。
 男は重度の吃音者で、小さいときから人と話をするのが苦痛な、かなり鬱屈した青年である。実は夕子の幼馴染だった。兄妹のように過ごした時期があった。与謝半島に育った夕子が、夕霧楼に自分を売ったのは、この男に会うという目的もあったと思われる。
 しかし、夕子は母と同じく肺をやられ、吐血して入院する。男とは会えなくなるのであった。
 ある深夜、夕子は病院の窓から遠くの火事を見る。火事が男の仕業だと知っているのだ。
 国宝の建築物が炎上する歴史的な瞬間を目撃する夕子は、このとき実在的なモデル性をおびるけれども、金閣寺放火犯の僧徒に、なじみの遊女がいたかいなかったか、そんなことはどうでもよろしい。物語はあくまでヒロイン夕子のものである。(注:金閣寺は1950年放火によって炎上。その5年後の1955年に再建された)
 夕霧楼のおかみや朋輩たちから、まるで身内の人間のように可愛がられ、世話をやかれ、放火犯との心のつながりを理解してもらうことのできた、心やさしい夕子の物語である。
 男は逮捕され、取調中に自殺する。夕子はそのことを知ると、病院を抜け出し、故郷の樽泊村まで帰る。帰って、男の育った海の見える寺の墓地で毒をあおって死んだ。百日紅の樹の下で、そこは少女の頃の夕子の遊び場だった。
五番町夕霧楼 (新潮文庫)
水上 勉
新潮社


〈蛇足のような補遺〉作者水上勉は、舞鶴の教員時代にこの金閣寺放火犯と面識があったらしい。それはどうでもいいが三島由紀夫の傑作とされる『金閣寺』とこの作品を読みくらべてほしい。どちらがより感動的であるか。三島作品の僧徒も魅力的であるけれど、哀切さではこちらにかなわない。なお司馬遼太郎はこの放火事件の記事を書いたとされる。司馬は新聞記者だった。

大原富枝『婉という女』 〈ヒロインシリーズ 16〉

2012-10-05 20:13:17 | 読書
 4歳のときに獄舎に入れられ、40年間幽閉された女性が実在した。17世紀の高知のことである。
 母、兄弟、姉妹とともに門外一歩を禁じられ、他人との面会も許されず、むろん結婚もできず、40年を幽居で過ごした女は、純粋培養された植物のように美しかった。それが婉だ。
 獄舎の中で思春期をむかえ、兄のひとりに恋情をおぼえ(なにしろ他人の男がいない)懊悩した婉。しかし、その兄が死に、弟が死に、男の血筋が絶えたときに赦免となる。なぜ婉の家系はこうまで断罪されねばならなかったのか。
 父の野中兼山のせいである。兼山は若干22歳で土佐藩の執政となり、30年間藩政を掌握した学者政治家であった。治水と殖産事業で土佐24万石を実収30余万石にした男だ。そのことが幕府の不興を買った。地方の一藩に、こういう男がいては幕府は困るのである。枕を高くして寝ていられないのである。だから兼山失脚の背後には、幕府の陰謀があったと思う。
 ともあれ兼山は激越な理想家だった。一族が子孫断絶の厳しい処分をうけたのも、兼山の血の続くことが、政敵たちにとっては怖かったからである。
 婉は父のことを調べ、ほとんど父と同じタイプの南海朱子学(南学)の学者に、ほのかな思慕の念を抱く。妻ある学者で、むろん実ることのない恋であった。
「この空しく、虚ろな美しさ、男によって仕合せになった歴史も、不幸になった過去をも持たない…不犯の女の若さ、瑞々しさは、美しいよりも不気味であることを」婉は知っている。その自覚が痛々しくも哀しい。
 いつの年だったか高知に帰省したおりのことだ。高知市の西郊を走る路面電車に乗っていたら、隣に座っていたご婦人が「ああ、お婉さんのうちの前じゃ」と声を発した。赦免後の婉の住居跡の前あたりを、なるほど電車は通過するところだった。現代の女性が、まるで知り合いの女であるかのように呟く婉は、決してたんなる過去の、たんなる歴史上の、そしてもはやたんなる小説上のヒロインではない。
 眉も剃らず、歯も染めず、娘時代のまま振袖姿で晩年を過ごした婉は、彼女自身、時間を超越していた。
婉という女・正妻 (講談社文庫 お 6-1)
大原 富枝
講談社

中平まみ『ストレイ・シープ』のエム子 〈ヒロインシリーズ 15〉

2012-10-04 11:12:43 | 読書
「感受性ばかり鋭い女ができることは、何だろう。過敏な神経をもった女が生きていくには、どんな方法があるだろう」と考えて、エム子は小説を書こうと決意する。
「思い石をつけて沈めてしまいたい記憶の数かずも、書けば、書きさえすれば、光り輝く星々となり、みずからも救われるのではないか」
 これが作品の結語である。エム子つまりM子とは、作者まみその人だ。中平まみの父は日活黄金期の映画監督中平康であった。
 エム子のパパも映画監督で、彼女が8歳のとき、家を出てほかの女と暮らしはじめた。成人したエム子は、テレビ局のニュース番組のアシスタントになるが、短期間で解雇される。妻子ある報道部の記者と不倫関係になり、そのことが影響した。エム子には初めての男だった。「こんなに開かなければならなかったの。こんな恰好をするんだったの」とウブだった彼女を女にして、そしてつれなくした男。
 海外赴任を明日にひかえた男のもとに、エム子は電話して、一目会いたい、一分でもいいと訴えるが、男は会おうとしなかった。あたりをはばかることなく「抱いて欲しいのよ!」と叫んでも。
 テレビ局を解雇された翌年、中平まみの父中平康は死ぬ。52歳だった。だからエム子も24歳でパパの遺児となった。
「ひどいパパだとしか思えなかったこともある。しかし今、エム子はパパが分ると思う。ずっと映画を撮れないで、お酒と薬漬けになっていたパパの辛さがエム子には分る。…パパほど困った人はいなかったかもしれないが、またパパほどいい人もいなかったかも知れないということ。ディア・パパ」
 こういう箇所に私は弱い。作品を書き上げた中平まみにそっくりエム子が重なってしまう。
 中平康は私の郷里と縁があった。こんなお嬢さんがいたとは知らなかった。迷える羊なんかになるなよ、エム、いや、まみさん。 

ハナ・グリーン『デボラの世界』のデボラ  〈ヒロインシリーズ 14〉

2012-10-03 16:35:05 | 読書
 デボラは分裂病の少女で、その闘病記という体裁をとっているのがこの作品だ。原題は、I Never Promised You A Rose Garden。
 佐伯わか子と笠原嘉の共訳で、私は笠原嘉の『精神科医のノート』という著作に教えられるところが多かったから、その訳者名にひかれて、この作品を読んだ。そして圧倒的な感動を味わった。もうずいぶん前のことだ。ちなみに笠原嘉には「人間は困難に直面して内へひきこもるかわりに外にアクト・アウトしてにぎやかに身をまもることもある」などという卓見がある。
 さて、デボラは純粋で愛くるしい少女、それでいて現実世界に適用しないいたましい少女である。
 精神病院の患者といえば、どうしようもなくある種の固定観念で見てしまうのだが、この作品にあらわれる狂人たちのコミュニケーションには驚くべきほどのいたわりや優しさがある。デボラをはじめこの精神病院の患者たちは愛すべき人物ばかりなのである。
 この作品の後半にいたって、なんど胸をあつくしたことか。思わず涙ぐんだ場面もあった。そんなわけで、デボラは私の愛しのヒロインとして忘れえぬひととなったが、そのデボラの絡む哀切な会話を以下に引用する。
「どうかしらね。隠すために人間は忘れることもできるし、別のことが起こったふりをするとか物ごとをわざとゆがめることだってできますよ。どれも真実から逃げ出すいい方法ですよね、真実がつらいときにはね」
「隠れて身を守るのがどこが悪いの?」
「そうすれば気違いになる」
 真実がつらいときとは悲しい言葉だ。真実がつらいとき、ひとは自殺を選ぶこともできる。けれども根源的なところで生への執着があれば、ひとは狂人になってでも生きる。〈症状〉とは、身体面でも精神面でも、生体のとる防衛機序のひとつであるからだ。
デボラの世界―分裂病の少女
ハナ・グリーン
みすず書房


〈追記〉いまでは分裂病という言い方はせず、統合失調症と呼ばれる。アマゾンの画像ファイルをクリックすると古書しかない。新訳ないし重版で「統合失調症」と変更されるかどうかはわからない。

鷺沢萌『帰れぬ人びと』の恵子  〈ヒロインシリーズ 13〉

2012-10-02 20:33:02 | 読書
 恵子は「小心な、絶えずびくびくしているような娘」だった。男はそんな彼女に好印象をもった。「女でも男でも、まわりを慮って少しびくびくしているぐらいの方がいい」と思っていたからである。
 男の勤める編集下請け会社にアルバイトに来た女子大生が恵子だ。知生と書いてトモモリとよむ珍しい恵子の姓が、男を驚かせた。彼の父親が「あいつだけは許せん」と口癖にしていた人物の姓が知生であったからだ。
 男が10代のときに父親は自殺に近い死に方をした。男たちの家を乗取った人物が知生という人物だった。その人物の娘だろうか、そうでなければいいのにと男は悩む。やがて、やっぱり仇敵の娘だとわかる。恵子はそんなことは知るよしもない。
 ある夜、ふたりで食事をした。別れぎわ、タクシーの中に恵子を強引にひきいれて、男は自分のアパートに連れて帰った。男は自分が「何をしているのかしっかり理解しないまま、その夜恵子を抱いた」
 明け方、恵子はひとり服を着て窓際にすわり、ベットの中にいる男に向かって身の上話をし始める。
 恵子は、かって男の住んでいた大きな家になじめなかったという。そして恵子の父親もまた、うさんくさい生き方のせいで哀れな末路をたどったと告げる。
 男は、父親があれほど恨みに思っていた人物の娘の哀しみがわかってしまう。だが、自分と娘の運命的な接点をあくまでも明かさない。明かすことができない。
「…あたしは帰る」と恵子はいう。「電車も動き始めてるみたいだし、服も着替えたいし…」
 男は少しまどろみながら言う。「ああ、そうだね。君は帰りなさい」と。男の心のうちには、自分には帰るところがない、という感慨がある。しかし小説の題名は「帰れぬ人びと」である。帰るところがないのは男だけであるわけはない。しかし、ロミオとジュリエットでもあるまいし、「仇の娘」などと時代がからずに、男は素直に恵子の胸に帰ればいいではないか、、薄幸な恵子に寄り添い、親たちの怨念を断ち切ればよいではないか。読者にそう思わせる。そう思わせるけれど、作者はそうしなかった。


〈追記〉この作品を書いたとき、鷺沢萌は作中の恵子と同じぐらいの年齢だった。これは芥川賞の候補作になり、たしか吉行淳之介が誉めていたと記憶している。年齢を裏切るしたたかさに言及していたはずだ。2004年、ニュースで鷺沢萌の自殺を知ったときは、信じられなかった。なぜ?という思いはいまだに続いている。彼女はまだ35歳だった。

開高健『花終る闇』の弓子  〈ヒロインシリーズ12 〉

2012-10-01 11:39:33 | 読書
題は決めたが、一行も書けずに一年間も呻吟している作家がいる。「書きたいことは何もないから書けないのではない。たくさんあるから書けないのである」
 この焦りはよくわかる。物書きが行き詰まったとき、ひとはややもすると泉が涸れたように思うが、逆のケースもあるのだ。泉どころか湖のような豊かな水量をもてあましているときがある。必要なのはコップ一杯の清澄な水であるとき、湖のどのあたりをすくえばよいのか。いや違う。湖まるごとの水量をコップ一杯の水に変換するマジックはないものか。そう思いはじめると何も書けなくなるのである。物書きが自分でこしらえる陥穽なのである。
 ほぼ開高健とおぼしき主人公は、放置したままの新作をたえず気にしながら、女との情事にのめりこんでいる。
 弓子は作家の古くからの愛人である。貧しい宝飾品のデザイナーで、ご馳走目当てに友人の代りに出席した立食パーティーで、その高名な作家と出会った。むしろ弓子のほうが仕掛けて、ふたりはパーティーを抜け出し、酒場を二軒ハシゴした。弓子は男に送られるけれど、雨に降られてびしょ濡れになる。梧桐の幹にもたれ、雨にうたれながらキスをする。
「女は私の求めを察すると従容として雨のさなかレインコートのベルトをはずし、スカートをまくりあげ、パンティをおろして足を少しひらいた」
 そんな奔放さも持ち合わせているが、弓子の本質は「従容」という形容がよく使われるところにある。
 弓子は自室に風呂もトイレもない共同アパートに住んでいた。見かねた男が金を渡そうとすると、ひたすら拒む。
「約束もなく誓いもない自由を保とうとしているのに金がからまると感謝したくなるし、依存したくなる。それは一つの束縛だ」
 そう考える弓子は、もとより男を束縛しない。気まぐれにやってくる男と、ただ従容と愛をかわす。
 弓子は少しおどけた一人称を使い、自分のことを「あっちゃあ」という。
 ベトナム戦争に従軍記者として赴く作家の男のために、Tシャツに千人針を刺して手渡す。裏には古銭を探して五銭玉を縫いつけた。四銭(死線)を超えるという縁起担ぎである。連日、夜を徹して作った。なにしろ、ひとりで千人針だ。Tシャツを男に渡して、「あっちゃあ、疲れたよ」とたおれこむ。
 泣かせる女なのである。
 弓子と男はベトナム戦争の頃から付合い、10年になる。男は世界を旅し、気まぐれに弓子のもとに来るから「船乗りの恋」あるいは「つぎはぎだらけの恋」と弓子はいう。
「どちらか一方が飽いたらその場でひとことそういえばいい。それで別れることにしよう」知りそめの頃、ふたりはそんなことを言い合ったことがある。
 さて、男に若い愛人ができ、刺激の少なくなった弓子と別れの予感がある。
 ほんとうに別れるのか。この母性そのものような女、最後の寄港地のような女と。この作品、未完である。せつない小説だ。開高健がベトナム体験で、深く深く傷ついていることのわかる小説だ。
 世界中を旅し、釣りを楽しみ、一見ノンシャランに生活を謳歌しているように見える作家の内面は、意外なほどナイーブで傷つきやすいのである。
 作品が未完に終ったのは、ベトナム体験の重さにひきずられたからという見方が一般的だが、もう一つ別の要因がありそうだ。3人の女が登場し、早々と弓子との別れを暗示させた。それで苦しくなったのではないか。男は弓子のもとに帰らなければならなかったのだ。いかに通俗的な結末になろうと、そうしなければならなかった。しかし開高健にはそれができなかった。ただ未完のまま終わらせることによって、弓子に、あのセリフをもう一度言わせることもなかった。
「あっちゃあ、疲れたよ」あのおどけた嘆きの声のことである。