小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

おはんの短刀は切れ申すか 完

2007-05-27 15:11:27 | 小説
 話を小御所会議に戻そう。『大西郷伝』は書いている。

 いよいよ会議の終結を見たのは、夜九ツ時、今日の12時で、諸侯を初め、陪臣一同が、悉く退散し去ったのは、実に12月10日午前3時であった。ここに至って英傑一語の力の、如何に偉大なるかを痛感せずにはゐられない。
 此時、此際において、西郷が唯だ一語、
『一劔よく断ぜよ』
 と喝破したのは、流石に大機を知るものにあらざれば、能はぬ活語である。

 たいそうな大絶賛であるけれども、「おはんの短刀は切れ申すか」という婉曲表現が、ここでは「一劔よく断ぜよ」と断定口調になっているのである。
 私はふと石川啄木の詩の一節を思い出す。「はてしなき議論の後の/冷めたるココアのひと匙を啜りて/その薄苦き舌触りに/われは知るテロリストのかなしき、かなしき心を」というあの詩だ。しかし啄木のテロリストは「奪はれた言葉のかはりに/おこなひをもて語らんとする心」の持主であって、だからその「かなしい心」が共感可能であった。
 だが小御所における西郷の示唆は逆に言葉を奪うテロであって、かなしさはない。しかも、おはんの短刀は云々というわけで、教唆であって自分は手を下さないのである。『大西郷伝』の著者はじめ史家たちは、こんな西郷に感心して、心情的テロリストになってはいけないのである。
 一度戦争をしなければ新国家の「創業」は難しい、「公論」などで新国家のことを議論された日には、中途半端な国家しか生み出しえない、というのが西郷の考え方であった。
 同じような考え方だが、王政復古クーデターを2百有余年の天下泰平に慣れすぎた人々へのショック療法だったと、好意的に解釈する史家がいる。鳥羽伏見の戦いは、ではその療法の副作用とでもいいたいのであろうか。
 こんな会議のやり方では「天下の乱階を作る」とあの夜、容堂は主張した。その予言は不幸にも的中したのであった。

おはんの短刀は切れ申すか 14

2007-05-24 19:47:41 | 小説
 さて、各国公使あての王政復古の布告文案を起草したのは大久保であった。その文案には「朕ハ大日本天皇ニシテ同盟列藩ノ主タリ」とある。また「大日本ノ総政治ハ、内外ノ事共ニ皆同盟列藩ノ会議ヲ経テ後、有司ノ奏スル所ヲ以テ朕之ヲ決ス」となっていた。
 まさにこの文言によって、大久保は自縄自縛となった。ならば文案どおり同盟列藩の会議を経た上で布告すべきではないか、一方的な布告はおかしいだろうと、議定の松平慶永(春嶽)が副署を拒否したのである。天皇はサインしたにもかかわらずだ。結果、この布告文は用をなさなかった。
 春嶽や容堂の拒否と反対にあって、屈辱にまみれたのは大久保だった。
 芝原拓自は『世界史のなかの明治維新』(岩波新書)に書いている。

「天皇の政府」が対外的に日本を代表するという宣言すらが、阻まれてしまったのである。それは同時に、王政復古政府が、対外的・国際的にも認知されない、非公式の権力でしかなかったことを意味している。
 
 追いつめられたのは岩倉や大久保・西郷らだった。12月の初めには優勢だった事態が尻すぼみのようになって、年が明けた。
 芝原拓自の記述をもう一度引用しよう。
 
 1868年(明治元年)1月3日、おいこまれた大久保は、悲愴な決意で岩倉にたいし、即時開戦をせまる意見書をだした。徳川家や会桑二藩への弱腰の処遇、慶喜の大坂城での割拠や外交権独占への放置、慶喜の議定就任への妥協など、「三大事」のすべてに失敗すれば、「皇国ノ事凡テ瓦解土崩、大御変革も尽ク水泡・画餅ト相成ルベキハ顕然明著トいふベシ」。いまや挽回する道はただ一つ、「勤王無二ノ藩、決然干戈ヲ期シ、戮力合体非常ノ尽力」のほかにはない。かれはこのように切言している。

「戮力合体非常ノ尽力」とはなにか。これもまた「短刀一本」の思想(あえて思想といっておこう)の延長線上にあるものだ。対話の否定、相互理解の拒絶、約束された合意事項を遮断し、合意の継続を困難にすること、「戮力」という純粋暴力の肯定、すべてテロルの概念に当てはまるではないか。 

おはんの短刀は切れ申すか 13

2007-05-23 23:06:39 | 小説
 朝廷側が22日に諸藩に示した告諭には、驚くべき文言があって、容堂や慶喜サイドが俄然有利になっていることがわかる。
「朝廷ニ於テ万機御裁決遊候ニ付テハ、博ク天下ノ公議ヲトリ偏党ノ私ナキヲ以テ衆心ト休戚ヲ同フシ、徳川祖先ノ制度美事良法ハ其儘差置、御変更無之候間、列藩此聖意ヲ体シ」とあるのだ。
 徳川祖先の制度は変更しないから、よろしく頼むといわんばかりである。この告諭を引用し、

 これは、王政復古大号令の「諸事神武創業ノ始ニ原キ」の原則を自己否定したものと解される。諸藩からの不信と不服従に孤立をふかめている天皇政府の苦境が如実に表れた告諭であり、白旗を掲げたのも同然で、クーデターはほとんど骨抜きになり、事実上大政奉還路線に立ち帰ったわけである。いまや慶喜の立場は断然有利になった。時間はかれに味方していたから、このまま大阪城で自重していれば、いずれクーデターは内部から崩壊し、慶喜側の政治的勝利となるのは確実であった。

 と書いているのは毛利敏彦『明治維新政治外交史研究』(吉川弘文館)である。
「状況は明らかに慶喜サイドに有利に、大久保ら薩藩対幕強硬派に不利な方向にいきつつあった」とこの頃の情況を書いているのは家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)である。
 ところが、現実はそのように進展しなかった。戦争になって慶喜は敗れた。それは周知のとおりである。だから、王政復古クーデターは正しかった、というような思い違いが生じるのである。
 慶喜は、テロルの挑発に乗ってしまったのである。思えば情況を短刀一本で片づける、という考え方は初源的なテロリズムであった。

おはんの短刀は切れ申すか 12

2007-05-22 16:41:09 | 小説
 教科書的記述では、小御所会議で王政復古の朝議が決し、あたかも幕藩体制が終ったかのようになるが、はたしてそうか。この王政復古のクーデターは全きクーデターといえるのだろうか。
 たしかに天皇を盟主にした臨時政府のようなものは出来たが、外交権は依然として慶喜が握っていた。王政復古後も政体はまだ定まっていないという慶喜の主張を、諸外国(といっても6カ国だが)は認めるのであった。
 慶喜は12月16日、大阪城にイギリス、フランス、イタリー、アメリカ、プロシア、オランダの公使を招き、内政不干渉を要請、「追々全国の衆論を以て我が国の政体を定むるまでは」条約の履行など外交事務は「余が任」と言明、各国公使もそれを承認したのである。
 12月19日になると、こんどは慶喜は総裁の有栖川宮に宛てる王政復古大号令取消し要求の文書すらしたためる。自分が大政奉還を決意したのは、「天下ノ公議輿論ヲ採リ」新しい国是が定められると期待したからだ。それができないのなら旧態に戻せというわけだ。「天下列藩ノ衆議ヲ尽シ、公明正大ノ理由ヲ以テ正ヲ挙ゲ奸ヲ退ケ」るべきだと、ここでも岩倉や薩摩討幕派にとっては痛いところを衝くのであった。
 要するに「短刀一本で片づく」ような拙速の会議をしたから、しっぺ返しが来ているのだ。諸藩の不信感をかってしまい、慶喜をかえって強気にさせているのだ。
 小御所では孤立した容堂だったが、形勢は逆転し始めている。 

おはんの短刀は切れ申すか 11

2007-05-21 20:55:13 | 小説
 会議のあり方と慶喜の処遇をどうするかということは、実はひとつの問題であった。とりあえず小御所では、慶喜に「辞官納地」を要求することを決めた。慶喜の内大臣辞職と領地領民の返還を、慶喜の意向もたださず決めたのである。
 休憩後に再開された会議では、容堂はもうなにも意見を述べなかった。岩倉が容堂と刺し違える覚悟を決めていると浅野長勲が後藤象二郎に伝え、後藤が容堂をなだめたからである。
 容堂は御所を固めた薩摩藩兵の存在を意識して弱気になったという論者がいる。命が惜しくなって意見を引っ込めたとでも見なしたいのだろうか。御所で血を見ては、大政奉還までこぎつけた苦労が水泡に帰するではないか。だから、あの場では陰険な恫喝に屈するしかなかったのである。御所を囲む兵士に不快感を漏らしたのは、それが異常な状況だったからに過ぎない。実のところ容堂は、内心、巻き返し可能と踏んだはずである。龍馬も説いた公議尊重の路線をあくまでも守ろうとしていた。
 小御所会議は「更始一新」の意を欠いていると身にしみて感じた容堂は12月12日提出の建白書で、そう批判した。
 その同じ日、十藩の重臣たちが連名で建白書を出した。これも小御所会議批判である。「公平正大、衆議の帰するところを以て御施行これ有る」ようにと懇願している。その建白書は中根雪江が写し取って『丁卯日記』に載せている。以下に連名の十藩重臣の名を紹介しておく。龍馬と志を同じくする人たちという思いをこめてだ。「衆議の帰するところ」というのは、まさしく龍馬のいう「公議」だった。
 松平阿波守内 蜂須賀信濃、松平美濃守内 久野四郎兵衛、細川越中守内 溝口孤雲、松平中務大輔内 山村源太郎、南部美濃守内 西村久次郎、立花飛騨守内 十時摂津、丹羽左京大夫内 田辺市左衛門、松平肥前守内 酒村小兵衛、宗対馬守内 扇 源左衛門、溝口誠之進内 窪田平兵衛。

おはんの短刀は切れ申すか 10

2007-05-20 23:24:15 | 小説
 龍馬の『新政府綱領八策』には「諸侯会盟の日を待って云々 ○○○自ら盟主と為り」という有名な伏字があった。政権の代表者は諸侯の会議で選出するわけだから、龍馬がこれを文書化した11月の時点では、むろん盟主は未定である。だから、○○○なのである。たまたま三文字だから、龍馬は誰それを想定していたなどという推測にうつつを抜かしても仕方がない。
 龍馬の文言で刺激的なのは、むしろ「強抗非礼 公議に違う者は断然征討す」という箇所である。しかも彼は、それは「権門貴族」といえども容赦しないと公言した。
 さて、この小御所にいる「貴族」の中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、それに岩倉具視は「討幕の密勅」作成に関与した者たちである。密勅は薩長両藩主にだけ出されたのだが、さらにここには、その請書に署名した大久保がおり、西郷がおり、むろん島津久光がいる。
 井上勲流に言えば、「密奏と宸裁の仮構をともなった偽勅」(『王政復古』中公新書)によって、作成者とこれを受け取った者の間には共同正犯が成立しているのである。この時点で、見合わせ沙汰書がだされているとしても、そんなことはおくびにも出さずに、慶喜の処遇を議論しているのである。容堂にすればいい面の皮なのだ。もとより、15才の天皇は何も発言されない。
 しかも武力で御所を固め、外部はもとより内部の会議参加者にも無言の圧力をかけ、あまつさえ議事の流れを変えるためには刀を使うぞと恫喝するような会議が、「公議」といえるだろうか。言えるわけがない。だから容堂は動いた。
 小御所会議の三日後、この会議のいわば、いかがわしさを告発する意見書を容堂は出している。「議事公平ノ体早々御顕肝要」というわけだ。 

おはんの短刀は切れ申すか 9

2007-05-18 18:30:56 | 小説
 以下は『大西郷全伝』に記されている後日の岩下と西郷の会話である。長い引用になるが、西郷のセリフのおしまいの部分に、要注目である。私は思わず、あっと叫びそうになったものだ。

「あん時、おはんが、戦争のことは、方寸の中にあるといったので、ホッと安心はしたが、一体あの時どんな用意があったのか。おはんの方寸といふのは、何うする考へでごわしたか。」
と聞いた時に、西郷は、
「ああ、あの時の方寸でごわすか。実は何にもごわせん」
と驚く岩下を制しながら、容(かたち)を改め、襟を正して曰く、
「岩下どん、少しく考へても見られよ。先候島津斉彬を初め、藤田先生や、橋本先生や、幾多勤皇の先憂が、命を捨てて国事に奔走されたのは、果して何の為でごわすか。唯だ夫れ妖雲を払ひ、天日を仰ぐ、今日あらんが為ではない乎。皇政古へに復し、天朝の大御代に復へさんが為にこそ、生前万難を排し、幽囚獄に悩むを辞せず、刑場の露と消ゆるも怨まず、皆な妻子眷属を捨て、一身一家の栄辱を顧みず、君国の為に死なれたのではないか。今や、夫等の先憂の志の報ゐらる時が来たのである。我等、此時に死せずして、将た何の日にか死せん。嗚呼、この一機会こそ、千載失ふ可からざるの大機会である。さればこそ、西郷は、一剣よく断ぜよと申したのでごわす。爾後の対策の如き、豈に敢て問ふところならんや。月照和尚が死なれたのも、坂本・中岡両君を殺したのも、ただ今日の天日を拜せんが為でごわした。」

 どきりとしたのは「坂本・中岡両君を殺したのも」という箇所である。
 いわば言葉のアヤであって、西郷の意志でそうしたという告白ではないだろう。とはいえ、一瞬、
(やっぱり、あなたでしたか、西郷さん)
と、岩倉流にいえば「心語」したものだ。

おはんの短刀は切れ申すか 8

2007-05-17 17:53:38 | 小説
「岩下の急使によって非蔵人口まで出て来た西郷を見ると、固より袴も何も穿かず、着流しに両刀を差したぎりで、草鞋ばきか何かで、ノソノソとやって来たものらしい」と書くのは『大西郷全伝』の雑賀博愛である。
 さて、最初に引用した井上清の文章を読み返していただきたい。「筒袖の着物に野戦用の袴をつけ、刀を一本さしただけの西郷は」とあった。こちらは刀は一本、袴を着けている。
 西郷の格好は文献によって、まるで違うのである。見てきたような嘘を書いているのはどっちだろう。
 土佐の土方久元に回顧談がある。馬場鉄中が『南洲手抄言志録解』に紹介していて、それをそっくり『大西郷全伝』は転載しているが、そこでは西郷と岩倉が直接話をしたことになっている。以下は岩倉と西郷のやりとりである。

「西郷さん、あんたにお任せ申せば、ドナイニ為(シ)ヤハルノデスカ」
といふと、西郷は、只、黙した儘、懐中から短刀をチラリと出した。
それで岩倉は、是は容易からんことだ。此処で薩・土の間に事を生じては、一大事なりと観て取ったから、
「それぢゃア、西郷サンは、土佐を殺すとユワハルノデスカ」
「ハイ、(略)容堂候は、元来が勤皇佐幕ヂゴワスが、万一、朝命に背く幕府であっても、それを土州が助けるチウなら、九寸五分の外には、致し方ゴワハン」

「九寸五分」とは江戸言葉で「匕首」の代名詞である。西郷がそんな言葉を使うだろうかと首をかしげたくなるが、それよりもなにより、土方久元は小御所会議には出席していないから、この状況も伝聞に基づくものなのだ。
 西郷が容堂を刺せ、と示唆したのは事実であろうが、どうやらそれぞれの話に尾ひれがつきすぎている。
 ともあれ、西郷は岩下と話をしたのであった。岩下の証言はないのか。なくはなさそうである。
「廉前の御評議に、迎え血を浴びろといふか。それもよいが、之が為に天下動乱の巷となるは必定、その場合にどうしたらよいか。何か確たる勝算でもごわすか」
 そう言って、岩下は心配そうに西郷の顔を覗きこんだ、と雑賀博愛は書いている。取材源のある描写のように思われる。西郷は「御心配のことはごわせん、それから先のことは、西郷が方寸の中にごわす」と答えたという。
 その後日談がある。


(注:『大西郷全伝』では引用文献名を明示していなかった馬場鉄中(禄郎)の著書は国立国会図書館でも保護袋に入っていて、複写禁止で別室で閲覧しなければならない。大正12年に発刊したものを昭和2年に増補訂正したものだ)

おはんの短刀は切れ申すか 7

2007-05-16 20:02:59 | 小説
 それなりに暖はとっていただろうが、陰暦12月9日の京都の夜の寒さは想像に難くない。小御所での会議は「暮時前」(中根の表現)から始まって、深夜に及んだ。この日の早朝には小雪が舞っていたという記録もあるくらいだから、夜が更けるにつれて寒さは厳しさを増したはずである。
 しかし議論は沸騰していて、誰もが寒さを忘れていたに違いない。慶喜の処遇と会議のあり方をめぐる容堂と岩倉の対立は、そのまま後藤と大久保の議論の応酬となって、だぶっていた。岩倉・大久保のペアは実際のところ劣勢だった。達弁家の松平慶永が土佐の主張を補強しているからである。(それにしても薩摩候のかげの薄いこと)
 公卿方は、ほとんどおろおろしているばかりだった。議事進行役の中山忠能は尾張の徳川慶勝に「卿の意見はいかが」などと聞いている。聞かなくたって、慶喜の味方をするに決まっているだろう。案の定「春嶽(松平慶永)容堂と同論なり」と答えた。忠能はこんどは薩摩候に同じ質問を発する。むろん、こちらは岩倉・大久保と同意見だという。
 中山忠能はつと座をたち、こんどは実愛、博房、信篤らとなにごとか私語しはじめた。これを見て岩倉がきれた。
「聖上親臨し、群議を聴き給う。諸臣よろしく肺肝を吐露し、もって当否を論弁すべし。なんぞ漫に席を離れて私語するを用いんや」
 まじめにやれよ、と公卿たちを叱りつけたわけだが、岩倉のいらだちがよくわかる。しかし、この岩倉発言に、おそらく中山忠能は、むっとしたのである。それではいったん休憩にしようとなった。
岩下が西郷に相談できる休憩時間となるのだった。

(注:中根の記述によれば浅野は容堂の論に与したはずが、岩倉公実記や自叙伝では岩倉側についたとしている。浅野の口述を記録した手島益雄の潤色が両文献に影響していると思われる。これだけでなく手島益雄編の浅野長勲に関する記述には矛盾点がある)

おはんの短刀は切れ申すか 6

2007-05-15 21:44:42 | 小説
 越前の中根雪江は12月9日付けの『丁卯日記』に書いている。「土州老侯は今日御上着、御旅装の儘御参内」と。
 容堂は旅姿のまま、あわただしく駆けつけた印象を与えているのである。その容堂は前日の8日夕刻、御所の洛東にある妙法院に入っていた。小御所会議の当日は、朝から酒を呑んでいたともいわれる。たぶん、やりきれない思いで会議に出席したのである。
 出席すると最初に「この小御所会議に、すみやかに徳川内府を召して、朝議に参与せしむべし」と発言した。容堂の第一声をそう述べるのは浅野長勲であった。このクーデターは陰険である、と容堂が発言したと書くのは『丁卯日記』である。「陰険」という言葉を実際に容堂は使ったと思える。浅野長勲も、こう述懐しているからである。
「今日の挙すこぶる陰険に渉る。諸藩人戎装して兵器を擁し、以て禁闕を守衛す。不祥もっとも甚し。王政施行のはじめに於いては、廟堂よろしく公平無私の心をもって百事を措置すべし。しからざればすなわち天下の衆心を帰服せしむること能わざらん」
 これに続けて例の「幼い天皇を擁して権柄を盗もうとするのか」という発言になるのだった。
 この時、明治天皇は15才、実際に容堂の言うとおりなのだ。クーデターの企画側としては痛いところをつかれたわけである。そのとおりだからかえって岩倉や大久保が容堂に反発した。
 ほどなく越前の松平慶永が容堂の援護射撃的発言をし、中根雪江によれば、「薩を除くの外は、悉越土二侯と同論なり」という状況にいたるのだった。

おはんの短刀は切れ申すか 5

2007-05-14 22:21:01 | 小説
 徳川慶喜が政権を朝廷に帰一(返上)すると上表したのは、10月14日であった。この大政奉還の決断について、勇気と自信を得たのは容堂すなわち土佐藩の建白書だったと、慶喜は後年述懐している。
「上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思」ったというのである。つまり土佐藩の公議政体創設の案に賛同して、慶喜は大政奉還に踏み切ったわけである。
 その慶喜を、小御所での会議になぜよばないのか、と容堂は怒っているのである。
 大政奉還を受けて、朝廷では10万石以上の大名に11月末日迄の上洛を命じていた。50余人も該当するのだが、期限までに上洛したのは、たったの16名。しかも、そのうちから、手持ち無沙汰になって帰藩するものが出てくる始末。さらに上洛を拒絶する諸侯もいた。徳川家との君臣の関係を優先して、王臣になるのはおかしいからと妙な理屈をこねる者もいたのである。
 どだい朝廷側に、諸侯会議を実現させようという真剣さと強固な意志が見当たらない。なにしろ、慶喜が大政奉還の上表を提出した10月14日、その同じ日に「賊臣慶喜を殄戮(てんりく)せよ」という「討幕の密勅」が出されているのだ。密勅は薩長の討幕派が受け取っていた。その請書に署名した西郷や大久保が小御所会議にいるのである。
「諸侯会盟の日を待って」盟主を決めよう、と提案したのは龍馬だった。しかし小御所会議に参加した藩数は前述のとおり、五藩にしかすぎなかった。大政奉還で元首は天皇と決まり、次の政治日程は諸侯会議という「公議」いわば議会になるが、元首と議会の間にある政府をどうするか。政府の担い手、龍馬の言う「盟主}を誰にするのか、ほんとうはそれを話し合わねばならなかった。ところが盟主も天皇にしてしまうのが、このクーデターであった。
 しかもクーデターの最初の予定日は12月5日だった。容堂の上洛が遅れるので、それをなんとか8日に変更してほしいと、ねばりにねばったのが土佐の後藤象二郎だった。あやうく容堂抜きの会議になりそうだったのである。8日をさらに9日に延ばし、やっと容堂は間に合った。

おはんの短刀は切れ申すか 4

2007-05-12 22:51:52 | 小説
 小御所会議には、五藩が参加していた。すなわち、薩摩、土佐、安芸、尾張、越前の各藩であり、薩土芸尾越と略記される。ちなみに長州藩はこの会議によって復権が認められるのだが、この時点では誰も列席していない。
 さて、越前藩士の中根雪江は、おそらく会議の成り行きを冷静に観察していたひとりだった。会議の様子を知るに足る手記を残してくれている。『丁卯日記』である。中根によれば「芸候は土老に同ず」とあるから、浅野長勲は容堂と同意見だったはずである。岩倉の切り崩しにあったものとみえる。ともあれ、中根の手記には西郷の剣あるいは短刀云々の話は出てこない。
 面白いのは、『岩倉公実記』や『浅野長勲自叙伝』で、容堂の発言に真っ先に異を唱えたのは大原重徳宰相、そして岩倉となっているのに、中根は大久保一蔵だったと書いている。大久保の意見を「附尾してその説を慫慂し」たのが岩倉だったとしているのだ。
 すると、岩倉が最初に「御前である。粛慎すべし」と容堂を叱りつけたという有名な話は、いささか疑ってかかってもよさそうである。たしかに容堂は大声を発して弁じたと中根も書いてはいる。しかし、「諄々と」弁じて、みんな容堂の意見に傾きかけたと述べてもいるのだ。
 その雰囲気ががらっと変るのが、休憩後なのであった。
 ここで当夜の出席者をあらためて記しておこう。
  有栖川宮、山階宮、仁和寺宮、中山忠能前大納言、正親町三条実愛前大納言、中御門中納言、万里小路右大辨、岩倉具視前中将、大原重徳宰相、長谷信篤三位、橋本実麗少将、以下武家で尾張前大納言徳川慶勝、越前宰相松平慶永、薩摩少将松平茂久(島津忠義)、土佐前少将松平豊信(山内容堂)、安芸新少将松平茂勲(浅野長勲)、それに五藩の重臣、荒川甚作、丹羽淳太郎、田中邦之助(以上尾藩)、中根雪江、酒井十之丞、毛受鹿之助(以上越藩)、後藤象二郎、神山佐太衛、福岡藤次(以上土藩)、岩下方平、大久保一蔵、西郷吉之助(以上薩藩)、辻将曹、桜井又四郎、久保田平司(以上芸藩) 

おはんの短刀は切れ申すか 3

2007-05-11 22:35:45 | 小説
 容堂の提言をめぐって甲論乙駁、「小御所会議」は紛糾し、いったん休憩となった。
『岩倉公実記』に気になる記述がある。
 岩倉は
「休憩室に入り独り心語す。豊信(容堂)猶ほ固く前議を執り動かざれば、吾れ霹靂の手を以て事を一呼吸の間に決せんのみ。乃ち非蔵人に命じ茂勲を喚ばしむ」
とある。
「霹靂の手」で「一呼吸の間に決」めるとは、つまり容堂を刺すということなのであった。このとき岩倉に呼ばれた茂勲こと浅野長勲(ながこと)の口述とあわせ読むと、状況ははっきりする。安芸藩からは浅野長勲が会議に出席していたのであった。

 此の日、西郷吉之助は、夜の会議には警戒諸軍の指揮の任についてゐて、議席には列しなかったが、同藩の者から会議の真情を聴き、更に驚く気色なく、『已むを得ざる時は之れあるのみ』と剣を示したそうである。
 此の西郷吉之助の言を聴いた具視退きて休憩室に入り、独り心語して曰く、『豊信猶ほ固く前議を執りて動かざれば、吾れ霹靂の手を以て、事を一呼吸の間に決せんのみ』と。乃ち非蔵人に命じ、余を喚ばしめ、一室に誘って申されるには、『薩土の間、議大いに衝突す。之れに因り、遂に維新の事業も水泡に帰せん』と、之れを深く憂慮せられ、余に後藤象次郎を説諭せよと依頼された。(手島益雄編『浅野長勲自叙伝』平野書房・昭和12年)
 
 どうやら西郷の示唆したところを、岩倉は浅野に伝えたことが、これでわかる。さらにそのことを土佐の後藤に話せ、と言っているのだ。
 それにしても『岩倉公実記』と『浅野長勲自叙伝』は、まったく同じ文章があるのに、西郷の示唆が書かれているのは浅野の自叙伝の方だけである。浅野は大正10年に東京芸備社から刊行した小冊子『王政復古の事情』でも、西郷は剣を示したと書いていた。
 短刀ではないのである。

(注:『岩倉公実記』はカタカナ表記をひらがなに変え、原文にはない句読点をつけてある) 

おはんの短刀は切れ申すか 2

2007-05-10 21:23:22 | 小説
 いわゆる小御所会議で、会議のありかたそのものがおかしいと言いはじめたのが、土佐の山内容堂であった。その容堂を、いざとなれば刺殺せよというエピソードなのであるから、まことに穏やかではない話なのである。
 小御所会議と、いまでもいう。詐術のようなものだ。これは「会議」などというものではなかった。とりわけ、前月の15日に暗殺された坂本龍馬が思い描いた諸侯会議とは、ほど遠かった。土佐側はそのことを主張しているのである。
 龍馬は「強抗非礼 公議に違う者は断然征討す」と『新政府綱領八策』に書いた。それほどまでの覚悟で実現させたかった「公議」を見ずして、先手を打たれて自分が征討されていた。そして、この日12月9日、こんどは山内容堂に「強抗非礼」な危機が迫っていた。もしもこの夜、容堂が自説に固執しつづけたら、彼は刺されたのであろうか。
 西郷の言葉を直接聞いたのは、薩摩藩家老岩下方平(通称佐次右衛門)ただひとりである。
 岩下の創作で、西郷がこう言ったと鼓舞した可能性だってあるわけだが、岩下にどうやらそのような機転と器量があったとは思えない。
「短刀一本で立派に片がつくではごわせんか。岩倉サンへも一蔵ドンへも、西郷がおはんの短刀は切れ申すかと訊ねたと、おはんからよろしういふて下され」
 と書くのは『大西郷全伝』4巻(雑賀博愛著・昭和13年 大西郷全伝刊行会)である。
 西郷の言葉を岩下経由で伝え聞いたのは、たしかに岩倉具視と大久保利通のふたりであろう。
 大久保は、さすがにクーデターの夜の裏事情を手記その他、記録に残すようなへまはしない。
 問題は岩倉のほうなのである。 

おはんの短刀は切れ申すか  1

2007-05-09 18:25:55 | 小説
 同じことがらを叙述した三つの文章を、異なる著者の新書から、以下に引用する。王政復古クーデターの日の夜のことである。
 
 朝議はいつまでも平行線をたどった。12時すぎ、いったん休憩となり、三職と陪臣の藩士はそれぞれのひかえ室に下った。会議のなりゆきを心配した岩下は、ひかえ室の外に出てひそかに西郷をよびむかえ、どうしたものかと問うた。
 筒袖の着物に野戦用の袴ををつけ、刀を一本さしただけの西郷は、むぞうさに
「短刀一本あればかたづくことではないか。このことを、岩倉公にも一蔵(大久保)にもよくつたえて下され」
と言っただけで、すっと出ていった。
 岩下はただちに岩倉をたずね、西郷のことばを耳打ちした。岩倉はううんとうなった。よし、容堂があくまで抗論するなら、御前ではあっても、一瞬の間に成否を決しようと、ひそかに短刀をふところに呑んだ。(井上清『西郷隆盛〈下〉』中公新書・昭和45年8月)

 新政府の問題の焦点は徳川慶喜のあつかいであった。公議政体派の土佐藩主山内容堂が、新政府に慶喜が入るべきであることを論じ、討幕派の岩倉や大久保利通と激しい論戦となった。平行線のまま、会議は夜にいたったが、これに決着をつけたのはやはり西郷であった。西郷は無造作に「短刀一本あればかたつくこと」といい、その覚悟を岩倉・大久保にうながしたという。(猪狩隆明『西郷隆盛』岩波新書・平成4年6月)

 クーデター当日、小御所会議の冒頭で、公議政体派の山内豊信は、クーデターを批判、従来の幕政を弁護し、慶喜を議定に参加させるよう要求する。クーデターは「幼沖[幼い]の天皇を擁して、権柄を盗もうとするもの」と言い切った。
 すかさず岩倉が「御前」(天皇の前)と一喝する。休憩中、座外で兵を総指揮していた西郷が、岩倉に「短刀一本あれば片づく」と伝え、豊信もゆずった。これまで、西郷にふさわしい、殺気を含んだこの一言こそが、新政府を生みだしたと評価されてきた。(井上勝生『幕末・維新』岩波新書・平成18年11月)

 大佛次郎 も『天皇の世紀』で、西郷と短刀のエピソードに触れているが、その典拠はわからなかったらしい。(ちなみに『天皇の世紀』は昭和42年の正月から朝日新聞に連載され、48年に作者の死によって未完となった)
 さて、この短刀の話の典拠はなんであったか。