話を小御所会議に戻そう。『大西郷伝』は書いている。
いよいよ会議の終結を見たのは、夜九ツ時、今日の12時で、諸侯を初め、陪臣一同が、悉く退散し去ったのは、実に12月10日午前3時であった。ここに至って英傑一語の力の、如何に偉大なるかを痛感せずにはゐられない。
此時、此際において、西郷が唯だ一語、
『一劔よく断ぜよ』
と喝破したのは、流石に大機を知るものにあらざれば、能はぬ活語である。
たいそうな大絶賛であるけれども、「おはんの短刀は切れ申すか」という婉曲表現が、ここでは「一劔よく断ぜよ」と断定口調になっているのである。
私はふと石川啄木の詩の一節を思い出す。「はてしなき議論の後の/冷めたるココアのひと匙を啜りて/その薄苦き舌触りに/われは知るテロリストのかなしき、かなしき心を」というあの詩だ。しかし啄木のテロリストは「奪はれた言葉のかはりに/おこなひをもて語らんとする心」の持主であって、だからその「かなしい心」が共感可能であった。
だが小御所における西郷の示唆は逆に言葉を奪うテロであって、かなしさはない。しかも、おはんの短刀は云々というわけで、教唆であって自分は手を下さないのである。『大西郷伝』の著者はじめ史家たちは、こんな西郷に感心して、心情的テロリストになってはいけないのである。
一度戦争をしなければ新国家の「創業」は難しい、「公論」などで新国家のことを議論された日には、中途半端な国家しか生み出しえない、というのが西郷の考え方であった。
同じような考え方だが、王政復古クーデターを2百有余年の天下泰平に慣れすぎた人々へのショック療法だったと、好意的に解釈する史家がいる。鳥羽伏見の戦いは、ではその療法の副作用とでもいいたいのであろうか。
こんな会議のやり方では「天下の乱階を作る」とあの夜、容堂は主張した。その予言は不幸にも的中したのであった。
いよいよ会議の終結を見たのは、夜九ツ時、今日の12時で、諸侯を初め、陪臣一同が、悉く退散し去ったのは、実に12月10日午前3時であった。ここに至って英傑一語の力の、如何に偉大なるかを痛感せずにはゐられない。
此時、此際において、西郷が唯だ一語、
『一劔よく断ぜよ』
と喝破したのは、流石に大機を知るものにあらざれば、能はぬ活語である。
たいそうな大絶賛であるけれども、「おはんの短刀は切れ申すか」という婉曲表現が、ここでは「一劔よく断ぜよ」と断定口調になっているのである。
私はふと石川啄木の詩の一節を思い出す。「はてしなき議論の後の/冷めたるココアのひと匙を啜りて/その薄苦き舌触りに/われは知るテロリストのかなしき、かなしき心を」というあの詩だ。しかし啄木のテロリストは「奪はれた言葉のかはりに/おこなひをもて語らんとする心」の持主であって、だからその「かなしい心」が共感可能であった。
だが小御所における西郷の示唆は逆に言葉を奪うテロであって、かなしさはない。しかも、おはんの短刀は云々というわけで、教唆であって自分は手を下さないのである。『大西郷伝』の著者はじめ史家たちは、こんな西郷に感心して、心情的テロリストになってはいけないのである。
一度戦争をしなければ新国家の「創業」は難しい、「公論」などで新国家のことを議論された日には、中途半端な国家しか生み出しえない、というのが西郷の考え方であった。
同じような考え方だが、王政復古クーデターを2百有余年の天下泰平に慣れすぎた人々へのショック療法だったと、好意的に解釈する史家がいる。鳥羽伏見の戦いは、ではその療法の副作用とでもいいたいのであろうか。
こんな会議のやり方では「天下の乱階を作る」とあの夜、容堂は主張した。その予言は不幸にも的中したのであった。