小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

お蓮と清川屋

2012-06-15 11:48:45 | 小説
 昭和49年に刊行された清河八郎の評伝がある。小山松勝一郎『清河八郎』(新人物往来社)である。この本のグラビアに、八郎がお蓮に宛てた手紙、というより恋文の写真が掲載されている。
 その手紙は「鶴岡市清川屋所蔵」とされており、現物を見たいものだと私はかねてから思っていた。
 清川屋はご当地では有名な特産品専門店の老舗であって、山形県内に7店舗、宮城県内に2店舗あり、傘下に菓子製造工場も保有している。この5月にJR鶴岡駅前の清川屋でお土産を買って、宅配の手続きをしているときも、あの手紙の所有者は、このお店のことだなと心のなかで呟いていた。
 さて、荘内日報社の橋本社長から清川屋の伊藤社長をご紹介できるというメールを頂き、この6月にまた鶴岡に行ってきた。橋本社長と伊藤社長は高校の先輩後輩の間柄ということもあって、私の面談意向は円滑に実現したようである。
 清川屋13代目の伊藤秀樹社長は、同社の沿革を「清川屋の系譜」という冊子にまとめておられた。その冊子の文章を以下に引用する。

〈…旅篭を兼ねた茶屋を営んできた「茶勘」(注:茶屋勘右衛門)が「清川屋」と名前を改めたのは、幕末になってからであり、助蔵が最上川沿いの清川村から「茶勘」に婿入りしたのがきっかけだといいます。
 (略)清河八郎は、三軒隣のうなぎ屋の長山亭さんにもらい受けられたお蓮(後の妻となる)さんに会うために、よく宿泊したそうであり、その印として、清河八郎の手紙が家宝として代々受け継がれております。〉

 お蓮さんが長山亭にいたというのは私の知る限り、どの文献にも出ていない。私には、ほとんど衝撃の新証言だった。
 当時の清川屋は鶴岡市内を流れる内川の大泉橋のたもとにあったが、そのたもとに現在もうなぎ屋長山亭はある。あるどころか伊藤社長とお会いする前日の夜、ホテルから徒歩で来て、私はここで食事をしていた。
 荘内日報社の橋本社長には、お蓮さんに呼ばれたんだとからかわれたけれど、その長山亭は分家筋の方が継いでいて、本家は市内で薬局を経営している、と伊藤社長から教えられた。伊藤社長には本家筋との連絡がつくようご尽力いただいたが、残念ながら長山亭の後裔のかたには、お蓮さんに関する家伝は残されていなかった。
 正直なところ清川屋さんとお蓮さんがこれほど濃密にかかわっていると予想していなかった私は、いま小説の構想の軌道修正を迫られている。

〈追記〉その後、長山亭に取材すると、お蓮さんのいたのは長山亭ではなく、すぐ近所にあった松露庵という、やはり鰻を出す店だと分かった。