小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  4

2008-07-30 11:36:59 | 小説
 赤松小三郎の私塾には、福井藩も7名を入塾させたが、その福井藩の元藩主松平慶永(春嶽)に、小三郎は意見書を提出している。意見書は400字詰原稿用紙に移せば6枚にも及ぶ長文だが「東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」の「綱文内容」を要約として、そのまま以下に引用する。

 朝廷を政治の府とし、宰相は将軍・公卿・諸侯・旗本より人材を選び、別に上・下議政局を設け、議員を公選「上局員は堂上・諸侯・旗本より選び、下局員は諸国より選ぶ」して国事を議せしむべき事。其他教育撫民・幣制・軍備・殖産に関し、所見を陳ず。

 これとほとんど同じような内容を記した文書を私たちは知っている。
 そう、坂本龍馬の「船中八策」であり、「新政府綱領八策」である。小三郎は龍馬よりも早く議会政治と宰相を選挙で選ぶという新政府綱領を提唱していたのであった。小三郎が春嶽に意見書を提出したのは慶応3年5月、暗殺される4か月前である。
 さて、彼はなぜ暗殺されたのであろうか。
 桐野利秋が日記に記してある斬奸状には、「罪状如左」とこう書かれている。(四条通東洞院角に一枚、三条大橋に一枚それぞれ貼りつけたというものである)
  
 此者儀兼て西洋ヲ旨とし、皇国之御趣意を失ひ、却て下を動揺せしめ不届之至、不可捨置之多罪ニ付、今日東銅院於五條魚棚上ル所に、加天誅ヲ候ニ付、即其首を取り、さらすべき之処に候得共、昼中ニ付其儀ヲ不能、依テ如此者也。

 なんともしらじらしい文面だが、嘘っぱちといって過言ではない。桐野自身、日記の本文では赤松が「幕奸」であるから斬ったと書いてあるからである。つまり幕府のスパイだから斬ったというわけだが、これまた嘘である。
 

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  3

2008-07-28 21:36:25 | 小説
 海舟の日記には、慶応2年10月3日にも赤松が登場する。
「赤松小三郎・同兄来る、雲州怯弱之説を聞く」と記している。ここで「同兄」とあるのは、小三郎の実兄芦田柔太郎のことである。
 兄もまた秀才だった。藩校の成績が優秀だったから、選ばれて昌平黌に学んでいる。本郷に塾を開いていた蘭・英学者手塚律蔵の門下生にもなっていた。だから、かって安政年間に勝が洋書の翻訳者50数名をリストアップしたときには、芦田柔太郎もふくまれていた。勝は赤松の兄のこともよく知っていたのである。
 ところでこの日記で注目すべきは、赤松兄弟が幕政批判をしていることだ。若年寄の立花種恭が「雲州」なのであるが、彼が「怯弱」と批判したのは、たんなる個人攻撃とは思われない。ある種の幕政批判を兄弟は勝に(勝だからこそ)したのであろう。
 この時期、政局は江戸から京都に移っている。勝と赤松兄弟が会っているのも、江戸ではない。京都である。
 勝は兄弟と会った翌日(10月4日)には大坂経由で江戸に帰るのである。
 赤松小三郎は、慶応2年には京、大坂と江戸を行ったり来たりしていた。兄の方は第二次征長で早くから上田藩兵とともに大坂に来ていたのであった。
 勝に会って間もなくのことだと思われるが、赤松小三郎は京都で塾を開く。
 11月、幕府から赤松小三郎を開成所教官兼海陸軍取調役に採用したいという打診があった。しかし、上田藩京都留守居役の赤座寿兵衛がこの話を断った。まずは藩の銃隊指導と兵制取調のため必要な人材だからという理由であった。
 赤松小三郎はといえば、薩摩藩から『英国歩兵練法』の完訳と実際の練兵を依頼されていた。
 小三郎の塾のうしろに薩摩藩がいることは他藩にも知られていた。このあたりの事情は、なぜか桐野利秋の日記からは消し去られている。このこともあとで触れよう。  

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  2

2008-07-24 20:23:27 | 小説
 暗殺されたとき37才だった赤松小三郎の経歴を見ておこう。今日的な言い方をすれば、理系の、いかにも学究肌の人物であることがわかるはずである。
 天保2年(1831)、信州上田藩士芦田勘兵衛の次男として生まれた。
 通称清次郎。だから、もとの姓名は芦田清次郎である。
 叔母の夫に算法の学者がいた影響か、幼少のころから算学好きだったという。
 18才のとき江戸に出て、大久保の内田五観(いつみ)のマテマチカ塾に学んだ。
 マテマチカすなわち数学である。つまり数学を基礎とした測量学、天文・暦学、航海術などを学んだのである。内田五観は高野長英の弟子で、「微分」「積分」は彼の名づけた用語だとされている。
 清次郎つまりのちの小三郎は、この内田の塾で6年間学び、さらに内田と親交のあった下曽根金三郎のもとで砲術も学んだ。
 23才のとき、同じ上田藩の赤松弘の養嗣子となった。だが、まだ赤松清次郎である。
 信州上田に帰国した赤松は、藩の数学助教兼操練世話役となるが、すぐにふたたび江戸に出て、こんどは勝海舟の内弟子となった。
 安政2年(1855)10月、勝にしたがって長崎海軍伝習所に行く。安政6年2月、井伊大老によって伝習所が廃止されると、やむなく帰藩した。
 彼は咸臨丸の渡米の一行に加わりたかったようだが、希望はかなわず、失意のまま上田で逼塞した。
 渡米組の中には同姓の赤松大三郎という人物がいた。彼はおそらく自嘲気味に、清次郎を「小三郎」と改名した。よほど咸臨丸に乗りたかったのである。
 元冶元年の秋、赤松小三郎の姿は横浜にあらわれる。長州藩征討の命をうけた藩のために、火器、軍用品の買付けの役目だった。買付けの合間をぬって英国公使館付騎兵大尉アプリンと接近したりする。英国歩兵練法の翻訳のためのサゼッションをアプリンからうける目的だったようだ。
 この年の師走、赤松は海舟を訪ねている。
 海舟日記に「我古き門生上田藩赤松清次郎来る」(12月18日)とある。

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  1

2008-07-23 20:59:58 | 小説
「前へ習え」とか「右向け右」の号令は、小学生の頃の朝礼や運動会の整列のとき以来かけられたおぼえはないが、あの号令は子供心にも軍隊の教練の応用だろうとは気づいていた。
 その号令が幕末の洋式兵学者である赤松小三郎の翻訳書『英国歩兵練法』に由来していることを、このほど初めて知った。
 赤松小三郎の訳した原書のタイトルは「Field Exercises & Evolutions of Infantry」つまり歩兵の野外演習のあり方の教本であった。
 赤松小三郎は、この教本を最初は慶応2年3月に金沢藩士浅津富之助と共訳で出版している。しかしこの共訳書は未訳の部分があり、全訳本ではなかった。それを今度は赤松単独で完訳し、慶応3年5月に『重訂英国歩兵練法』として出版した。
 版元は薩州軍局である。つまり薩摩藩の依頼で翻訳したのである。赤い表紙なので赤本と呼ばれたが、薩摩はこの赤本の他見を許さず、流出には神経をとがらせていたらしい。
 薩摩藩は赤松に訳述を依頼しただけではなく、実際の練兵をも依頼していた。
 慶応3年9月3日の夕刻だった。赤松小三郎は洛中で暗殺された。ちなみに大政奉還の40日ほど前、さらにいえば坂本龍馬暗殺の70余日前の出来事となる。
 東洞院通りの現和泉町辺りで、赤松は前に立ちふさがった刺客のひとりと対峙する。刺客が抜刀したから、とっさに懐のピストルに手をやったが間に合わなかった。左肩から腹にかけて太刀をあびた。よろめくところを後ろから別の刺客がなぎはらうように斬った。倒れたところを、ふたりの刺客がそれぞれとどめを刺した。
 前から襲った刺客が薩摩藩士中村半次郎、のちの桐野利秋、後ろから斬りつけたのが同じく薩摩藩士田代五郎左衛門である。
 なぜ暗殺の状況がわかっているかというと、当事者の中村半次郎が日記に克明にそのときのことを書いているからである。
 奇妙な克明さなのだが、そのことは後でふれよう。

凌霜隊の悲劇  完

2008-07-12 13:57:16 | 小説
 凌霜隊の隊員たちが放免となって年が明けた明治4年、廃藩置県が施行された。
 矢野原与七は明治6年には岐阜県庁に入り、同9年以降は裁判所書記に転じ、62才で退官、明治34年まで生きた。享年70才。
 一方、廃藩置県後に郡上を離れた速水小三郎は速水正雄と改名し、明治10年には東京に出た。同13年には宮内省系譜掛雇いとなり、のちには宮内省図書寮に勤務している。
 矢野原や速水の職歴は、彼らの資質によくあっていたように思われる。ふたりとも記録を残すということに情熱をかたむけるというタイプの人物だったからだ。凌霜隊の消息を後世の私たちが知りうるには、このふたりのお陰といっても過言ではないのである。
 郡上八幡の有名な盆踊り「郡上おどり」は400年続くというが、いまの盆踊りには「凌霜隊伝」という歌も挿入されている。歌詞を見るに、コンパクトに凌霜隊の歴史をまとめている。
 岐阜県郡上郡八幡町の八幡町教育委員会の編集発行による『凌霜隊戦記「心苦雑記」と明治維新』(高橋教雄・編著)は、本稿の主要参考文献であるが、この本を郡上八幡旧庁舎記念館に発注し、郵送されたときに担当の方からの添え書きがあった。
「7/12から郡上おどりがスタート致します。7/28には凌霜隊をしのんで郡上おどりが納められます。ぜひ郡上八幡にお越し下さい」
 というものだった。
そうだ、今日7月12日は33夜にわたる郡上おどりの幕開けの日だった。
 郡上には私はかって一度も足を踏み入れたこともなく、今年も行けそうにはないけれど、一度は郡上おどりの歌をじかに聞いてみたいと思っている。
「郡上の八幡を出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる」
 その歌詞がどんな哀調をおびて歌われるのか、聞いてみたいではないか。

凌霜隊の悲劇  11

2008-07-10 23:00:51 | 小説
 降伏した凌霜隊が郡上藩に送られるため、千住から品川沖へ伝馬船に乗せられたことは前に書いた。
 伝馬船は岸辺のさんざめきを横目で見ながら、暗い水面をゆるやかにすべっていった。
 矢野原与七は、いや凌霜隊の面々は岸辺のそのさんざめきに、彼らの直面したのとはまったく違う日常のあることを思い知らされている。
 両国を通過するときには、軒をならべた茶屋茶屋から、三味線の音色も聞こえたのであった。
「幕張芝居や見世物の、はや夜になりて、かしづまりて、左右に見ゆる川岸の茶屋の二階に燈す提灯と障子にうつる人影は、柳橋辺の美人ならん」
 と、さすが江戸詰で盛り場にも詳しい矢野原は『心苦雑記』に書いている。
 戦闘の場面よりも印象に残る記述である。
 新大橋を過ぎて永代橋へさしかかると、仮宅通いの四つ手かご、またほうかむりのひやかし、夜明かしの茶めしやあんかけ豆腐を売る店、永代だんごの焼き火などが見え、都々逸や角づけの三筋の音まで川面に響いた、と矢野原は描写している。
 それにひきかえ凌霜隊員は大きな声もできないとは「思えば情けなき身分なり」と言うのである。
 江戸の盛り場の賑わいも現実ならば、悲惨な戦闘も籠城も現実であった。
 なんのために戦っていたのか。
 矢野原の胸中に去来したせつなさを敷衍すれば、戊辰戦争そのもののむなしさにつきあたるはずである。
 ところで藩に対する怨嗟の声は、凌霜隊の面々からは聞こえない。藩の密命で会津に加勢にでかけ、その藩から幽閉されるわけだが、彼らの処分についての指令はすべて新政府の兵部省から出ていることを知っているからである。さらにはもともと小藩のサバイバルのための密命ということを、彼らはよく承知していたからである。 

凌霜隊の悲劇  10

2008-07-08 22:15:51 | 小説
 この禁錮生活のあいだに綴られたのが『心苦雑記』である。けれども最初の草稿では『辛苦雑記』であったもののようだ。「辛苦」というありふれた用語でおさまりきらない思いが矢野原の胸の内には湧いてきたのであろう。『心苦雑記』となった。
 凌霜隊の全員が禁固解除となったのは明治2年9月23日であった。ただし、その後も自宅謹慎を命じられ、その謹慎が解けて、はれて放免となるのは明治3年2月19日のこととなる。
 かえりみれば、彼らが脱藩して江戸を発ったのは慶応4年の4月のことだった。戦争と籠城と幽囚のこの長き日々…
 放免された明治3年の8月、速水小三郎は藩庁に会津参戦のいわば収支報告書を提出した。
 朝比奈藤兵衛から渡された金と会津候から渡された金についての金子勘定帳と金見帳である。
 それを郡上藩参事月番の九鬼圀と会計の綾部誠一郎に提出したのだ。律儀なことであるが、速水にすれば遅くなった出張収支報告書だったのであろう。
 脱走兵が出張経費を報告するのも変だが、むしろ困ったのは藩庁のほうである。表向きは藩の命令ではないので、「勘定には及ばない」としている。
 ところが金見書はお渡し金200両のうち残り22両2分2朱の預かり書であるから受け取る、という態度だった。
 おかしな話である。藩では明治元年10月の時点で、凌霜隊派遣にともなう財政的支出(武器購入なども含む軍資金)800両は、紛失金として処理済みだった。おまけに会計責任者として三浦勇助、川俣小太郎、先山佐五右衛門の3人を処断していた。
 だから速水から残金を受け取る必要もなかったのであるが、あるいは藩財政の窮乏からそうもいかなかったのかもしれない。
 いずれにせよ、速水という人物の高潔さがよくあらわれている話で、おそらくこうした志操のかたさは凌霜隊全員に共通していたものと思われる。

凌霜隊の悲劇  9

2008-07-07 17:56:10 | 小説
 城明渡しは9月22日と決まる。
 その日、大手先には「降参」という幟が立った。会津公父子が凌霜隊の前に姿をあらわす。城の主が凌霜隊にどんな言葉をかけたのか矢野原はなにも記録していないが、こう書いている。
「御様子見上げ奉り一統恐れ入り、涙を流さぬものはなし」
 彼らはここで泣いたのであった。自分たちの運命よりも、会津公父子の運命に泣いたのであった。
 22日の城明渡しは翌23日にずれた。あとかたづけと武器類の取りまとめに手間取ったからである。
 その日、凌霜隊は埋門から隊列を組んで場外に出た。昼頃である。官軍の注視を浴びながら猪苗代まで行く。午後6時過ぎ、菓子屋と町医者の家に分宿謹慎させられた。このときはまだ帯刀は許されていたが、24日には大小刀は取り上げられ、それから10月11日までの19日間を猪苗代で厳寒の謹慎生活となった。
 10月12日、大垣藩の護衛のもとに江戸に向けて出発する。
 千住に到着したのが10月24日の朝だった。ここで彼らは旧藩お預けの処置となり、郡上へ護送されることになった。
 千住より伝馬船二艙に分乗し、隅田川を下って品川沖へ出、翌日の早朝、淡路帰りの千石船に移乗した。
 遠州灘でおおしけにあい、救船に移るなど、彼らの帰郷は波乱含みだった。
 志摩明神浦に上陸したのが11月2日であった。破船のおりに路銀を失っており、ここで7日間足止め。
 なんとか郡上に着いたのは11月17日であった。(ちなみに尾州船に助けられた4人のみは11月8日に先着している)
 即日、揚屋入り禁固となった。
 親類縁者との面会、通信も禁じられた。

凌霜隊の悲劇  8

2008-07-04 23:14:36 | 小説
 正確にいうと、日向内記は凌霜隊の米沢小源治(35才)を呼び出している。 そして、塩川(福島県塩川町)まで来ている仁和寺宮嘉彰(奥羽征討総督)にすでに降伏の儀を申し上げた、と米沢小源治に伝えたのであった。
 ついては凌霜隊も隊員各位の年齢を記した名簿を提出してほしいというのが日向の用件だった。
 さすがに日向は直接に隊長の朝比奈茂吉に切り出せず、米沢をクッションにしたのかもしれない。
 以下、矢野原の記述はそっけない。
「日向氏申し聞かされ候段、米沢より朝比奈氏へ申し渡す。これにより同人屯所へ一統呼ばれ、右の段申し談ぜられる。一統にも存じよりこれ無き段申し渡す」
 淡々とした記述に終始したのは、あまりの無念さゆえに、感情が記録の奥深くに沈潜してしまったのだろうか。誰かが嗚咽し、誰かが激高したとでも書かれていれば、私たちはたぶんそちらのほうにリアリティを感じたはずだ。だが、事実は「一統にも存じよりこれ無く」つまり誰も異を唱えることなく、冷静に「降伏」をうけとめたのである。あるいは降伏するしかない情況をみんなが冷静に認めあったということである。
 その冷静さは、たぶん放心状態に似ている。どんなに苛酷な状況下に彼らが置かれていたかを、かえって想像させるに足る「存じより」の無さなのだ。
 このそっけない淡々とした記述に、私はむしろ胸をつまらせた。
 矢野原がどれだけの感情を押し殺して、これを記述したのか。あれこれと書きたい思いはやまほどあっただろうにと、その抑制力に敬意を表したい。
 さて、日にちは前後するが、9月12日に征討軍参謀が味方の各藩に出した警告文がある。驚くべき内容が書かれていた。
「打ち取り候ところの賊死体の腹を屠り肉を刻み、残酷の振舞あるいはこれ有る趣相聞け、以ての外の事に候、賊といえども同じく皇国の赤子、右ら粗暴の処置これ無きよう兵隊末々迄申し渡す旨御沙汰候事」
 人肉食がどうやらあったらしい。
 敵であっても同じ日本人、最低限の尊厳はまもって、残酷な行為はするなと参謀がいましめなければならなかった。そういう戦いを戦い、籠城していたのが会津人や凌霜隊であったのだ。

凌霜隊の悲劇  7

2008-07-03 18:20:52 | 小説
 大砲は一昼夜に1000発から1500発撃ちこまれたと矢野原は記す。
「昼夜の砲声止む時なし、敵は夜に入るほど厳しく発射す」という有様だった。 この破裂音は籠城している者たちの神経を狂わせ、心理的に追いつめたようである。
「厳しく戦争致すときは勇気満ちてあるゆえ格別恐れず、かように籠城し、そのうえ味方は発射せず、番兵ばかりするゆえ、追々勇気おとろえたるは会候の御運の尽きなり」
 として、具体的なことがらを矢野原は書いてはいないが、自殺者なども出たのである。たとえば会津藩士のある妻は火薬庫が爆発すると、7才の子を刺して、自分も喉をついた。
 籠城者は男女あわせて5000人内外。多人数であるから便所はたちまちつかえ、掃除する者もなく、このため道端、屯所の脇など排泄物で足の踏み場もない状態になった。
 大書院を負傷者の病院にあてていたが、そこも糞の臭いやその他の悪臭で充満し、手負いになってここに入ると、2、3日は食事もできないほどだった、と矢野原は書いている。彼が負傷した様子はないから、誰かから聞かされたのであろう。
 凌霜隊では20才の石井音次郎が胸壁から小便に出て戻るときに、小銃弾に被弾した。
 弾は脇腹に入った。血へどを吐いて苦しむ彼の腹を裂いて、弾を取り出し介抱したが、夜が明けると死んだ。
 城を包囲する軍勢は3万余にふくれあがっていた。
 会津が援軍を求めた米沢藩は帰順し、仙台藩は9月15日降伏した。
 その前日の9月14日に城は包囲軍からの総砲撃をうけた。50門の火砲による砲撃だったから、最初の頃の着弾数とは比べものにならない。
 9月21日夜、日向氏より凌霜隊に「降伏する」旨の話が届く。


【追記】澤田ふじ子氏の小説『葉菊の露』では石井音次郎を「石井音三郎」としている。また被弾したのは頭部としているが、改変の意図が私にはよくわからない。

凌霜隊の悲劇  6

2008-07-01 21:45:43 | 小説
 城内に入った『心苦雑記』の筆者・矢野原与七は書いている。
「さて、日向内記隊は白虎隊とて若年血気のもの五十人也」そして「白虎隊、凌霜隊持場は四五十間にして土塀内へ胸壁を築き、深さ三尺程掘り上げ、この土を以て土手となし、はさまはさまをめいめいの持場を決め、敵来らば防戦すべしと待ち懸かる」
 この作業には凌霜隊総がかかり、つまり隊長の朝比奈茂吉も参加したようだ。山川健次郎に強い印象を残した光景はこれであろう。
 白虎隊はさておき、矢野原が感心しているのは婦女子の参戦である。髪を切り襠高袴(まちたかばかま)に一刀を帯し、勇ましい恰好をした女兵たちを「この藩の女兵は天晴れの働き也」と評している。
 城に駆けつけなかった女性たちは老母を刺し殺し、自宅に火をかけて自害したものあり、と彼は聞かされたらしい。「後世賞すべきもの也」と書きつけている。
 それに反して、だらしのない家来たちがいたらしい。200石・300石、なかには500石くらいの家臣が200余人(注)も山中に逃げたというのである。「禄盗人というべし」と矢野原は罵っている。
 当の矢野原はたかだか6石取り(慶応3年には7石になってはいるが)の下級武士だった。郡上藩では長く右筆をつとめており、戦争の記録者としてはまさに適任者であった。
 当時39才で、彼からすれば白虎隊の隊士は息子のようなものだった。だから「若年血気のもの」と形容することもできたのである。
 少年と婦女子が城を守っているのである。 
 9月14日5つ時頃、官軍は七日町の方から5、6門、小田山の方から5、6門の大砲を発射、と矢野原は冷静に記録している。
 本丸、西出丸その他どこということなく、間断なく烈しく着弾した。
 その厳しさは大雷の落ちかかるようだった、と書き、「諸隊の窮すこと言語に絶し、地獄の責めとはこの事ならんかと一統申しける」
 と伝えている。
 しかし、地獄の責めは、むしろこれから始まるのであった。



(注)星亮一氏によれば、「200人という数字は会津藩の記録には見られない。勇武を誇る会津藩としては衝撃の数字である」(前掲『偽りの明治維新』)としている。