新選組隊士だった大石鍬次郎は、明治2年、かっての仲間たちによって捕縛され、新政府の刑法官に突き出されている。
「かっての仲間」というのは三井丑之助と加納道之助である。
もっとも新選組から独立して御陵衛士となっていた加納にすれば、大石は「かっての仲間」というより憎むべき敵であった。なぜなら、加納は有名な油小路事件で新選組に襲われ、かろうじて逃げのびたものの、同志伊東甲子太郎を殺された恨みは深く胸にきざんでいたからである。薩摩藩に身を寄せていた。
三井丑之助もまた板橋で薩摩軍に投降し、薩摩藩に寝返った男だった。そして、やはり旧新選組で薩摩藩に属していた阿部十郎(隆明)が大石の捕縛と尋問に関与していたものと思われる。阿部は弾正台に出仕していたからである。
その阿部に大石捕縛に関する証言がある。実はおおいに問題点のある証言なのだが、長くなるのをいとわず、該当箇所を引用してみる。
〈…近藤が敗北してから大石桑次郎が東京に潜伏しておりました。(略)何分捜索が届きませぬで、その時分に前野五郎という者がありましたので、それは加納道之助と薩州藩になっておりました。それからもう一人、三井丑之助という者が白河の戦で降伏して薩州藩になっておった。三井は大石と懇意な仲でありまして、大石を捜索するにはどうしても三井の手でなければいかぬというので、前野五郎という者を残して加納と三井と探索いたしまして、加納の家へ大石を呼びまして、そうして生け捕りました。
その時分に東京府に刑罪を司っておる刑法局というものがありました。そこへ大石を捕縛してからやって斬罪になりました。明治2年でございます。弾正台のございました時分のことでございますから、前に坂本龍馬を撃った者でございますから、それにつきまして捕縛いたして斬罪になりましてございます。〉
明治33年3月の『史談会速記録』の阿部の発言である。大石が薩摩藩サイドの者たちによって捕縛されたことを記憶しておいていただきたい。
さて、問題点というのは、むろん坂本龍馬に関する部分である。
「かっての仲間」というのは三井丑之助と加納道之助である。
もっとも新選組から独立して御陵衛士となっていた加納にすれば、大石は「かっての仲間」というより憎むべき敵であった。なぜなら、加納は有名な油小路事件で新選組に襲われ、かろうじて逃げのびたものの、同志伊東甲子太郎を殺された恨みは深く胸にきざんでいたからである。薩摩藩に身を寄せていた。
三井丑之助もまた板橋で薩摩軍に投降し、薩摩藩に寝返った男だった。そして、やはり旧新選組で薩摩藩に属していた阿部十郎(隆明)が大石の捕縛と尋問に関与していたものと思われる。阿部は弾正台に出仕していたからである。
その阿部に大石捕縛に関する証言がある。実はおおいに問題点のある証言なのだが、長くなるのをいとわず、該当箇所を引用してみる。
〈…近藤が敗北してから大石桑次郎が東京に潜伏しておりました。(略)何分捜索が届きませぬで、その時分に前野五郎という者がありましたので、それは加納道之助と薩州藩になっておりました。それからもう一人、三井丑之助という者が白河の戦で降伏して薩州藩になっておった。三井は大石と懇意な仲でありまして、大石を捜索するにはどうしても三井の手でなければいかぬというので、前野五郎という者を残して加納と三井と探索いたしまして、加納の家へ大石を呼びまして、そうして生け捕りました。
その時分に東京府に刑罪を司っておる刑法局というものがありました。そこへ大石を捕縛してからやって斬罪になりました。明治2年でございます。弾正台のございました時分のことでございますから、前に坂本龍馬を撃った者でございますから、それにつきまして捕縛いたして斬罪になりましてございます。〉
明治33年3月の『史談会速記録』の阿部の発言である。大石が薩摩藩サイドの者たちによって捕縛されたことを記憶しておいていただきたい。
さて、問題点というのは、むろん坂本龍馬に関する部分である。