小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

新選組・大石鍬次郎ミステリー  1

2007-11-29 20:45:26 | 小説
 新選組隊士だった大石鍬次郎は、明治2年、かっての仲間たちによって捕縛され、新政府の刑法官に突き出されている。
「かっての仲間」というのは三井丑之助と加納道之助である。
 もっとも新選組から独立して御陵衛士となっていた加納にすれば、大石は「かっての仲間」というより憎むべき敵であった。なぜなら、加納は有名な油小路事件で新選組に襲われ、かろうじて逃げのびたものの、同志伊東甲子太郎を殺された恨みは深く胸にきざんでいたからである。薩摩藩に身を寄せていた。
 三井丑之助もまた板橋で薩摩軍に投降し、薩摩藩に寝返った男だった。そして、やはり旧新選組で薩摩藩に属していた阿部十郎(隆明)が大石の捕縛と尋問に関与していたものと思われる。阿部は弾正台に出仕していたからである。
 その阿部に大石捕縛に関する証言がある。実はおおいに問題点のある証言なのだが、長くなるのをいとわず、該当箇所を引用してみる。
〈…近藤が敗北してから大石桑次郎が東京に潜伏しておりました。(略)何分捜索が届きませぬで、その時分に前野五郎という者がありましたので、それは加納道之助と薩州藩になっておりました。それからもう一人、三井丑之助という者が白河の戦で降伏して薩州藩になっておった。三井は大石と懇意な仲でありまして、大石を捜索するにはどうしても三井の手でなければいかぬというので、前野五郎という者を残して加納と三井と探索いたしまして、加納の家へ大石を呼びまして、そうして生け捕りました。
 その時分に東京府に刑罪を司っておる刑法局というものがありました。そこへ大石を捕縛してからやって斬罪になりました。明治2年でございます。弾正台のございました時分のことでございますから、前に坂本龍馬を撃った者でございますから、それにつきまして捕縛いたして斬罪になりましてございます。〉
 明治33年3月の『史談会速記録』の阿部の発言である。大石が薩摩藩サイドの者たちによって捕縛されたことを記憶しておいていただきたい。
 さて、問題点というのは、むろん坂本龍馬に関する部分である。

谷干城の妻

2007-11-25 20:22:54 | 小説
 土佐で育った子供の頃、あぜ道や小川の傍で芹を摘んだ。食べられない毒芹との区別もその頃はよくわかっていたが、いまではそんなことも忘れた。
 西南戦争のおり、熊本城に籠城した熊本鎮台司令官の谷干城夫人が、城内の溝辺で芹を摘んで「おしたし」をこしらえ、兵卒たちに食べさせたというエピソードを読んで、ああ、夫人はやはり土佐の女性だと実感した。昭和生まれの私たちの世代でも、自生する野蒜や芹を摘むのは子供の頃の、いわば遊びのひとつだった。
 さて、谷干城夫人は久満子という。高知藩士国沢七郎の娘であった。19才で谷家の嫁になっていた。熊本籠城にさいしては、干城は妻を東京に帰そうとしたのだが、久満子のほうが頑としてきかなかった。「夫と共に苦楽をするのが当然」というわけだ。
 おかげで、将官6人の夫人たちも帰りそびれた。司令長官の夫人に籠城されては、おめおめ帰れなかったのである。しかし、婦人たちはよく頑張った。
 兵卒の寒さよけに3千人余りの兵卒の足袋を仕立てたり、麻糸で砂袋を作ったりしたのだ。裁縫の得意な久万子が指導したのである。
 谷干城と久満子の結婚は、干城が単身で江戸に遊学中に親同士が決めたことであった。
 土佐に呼び戻されてから、干城ははじめて妻となる女性の顔を見た。「こんなことなら、わざわざ江戸から帰ることに及ばなかった」と独りごちたらしい。干城好みの容貌ではなかったのである。
 干城はひそかに心に決めた。嫁の落ち度を見つけて離縁してやろう、というわけだ。ところが久満子には少しの落ち度もスキもなかった。だいたい、干城のたくらみは見抜かれていたのである。やがて干城は、両親の目がねにかなった嫁に感じ入り、円満な夫婦となるのだった。
 おかしいのは、晩年、夫人が新婚時代の干城のたくらみを他人にばらすことだった。すると干城は「また昔話か…」といたたまれないように、そっと席をはずすのが常だったという。久満子夫人は、ここでもいかにも土佐の女らしいのである。

 参照:岩崎徂堂『明治大臣の夫人』(明治36年・大学館)

中村半次郎のアリバイ

2007-11-20 20:07:13 | 小説
 龍馬暗殺の実行犯に薩摩藩士中村半次郎がいたと思い込んでいる人は、案外に多いらしい。確たる根拠もないのだが、こういう思い込みに常々不快感を抱いていたらしい桐野作人氏は、中村半次郎のアリバイを直近のブログで書きつけておられた。それが前回で触れた、いまも凍結されている氏の『膏肓記』 である。私はそのブログに「異を唱えた」と思わせぶりなことを書いたから、そのことを明らかにしておこう。桐野氏はこう書いていた。

 彼(中村半次郎)の『京在日記』を見てほしい。近江屋事件当日、中村は藩邸の長屋に午後8時頃に帰宅している(事件は午後10時頃)

 おやおやと思ったのは龍馬の暗殺時刻が午後10時などという遅い時間ではないのに、桐野氏はなにをもって午後10時と断定されたのか、ということだ。学研の歴史群像シリーズ『幕末大全下巻』に桐野氏は「龍馬暗殺」という一文を寄稿されている。そこでは、暗殺の時刻は午後8時頃から1時間の間だと推定されている、と書かれていた。1時間延長の理由はなんであろうか。
 しかもこれでは、かえって中村半次郎のアリバイにならない。藩邸を抜け出せば近江屋にじゅうぶん行けるではないか。
『京在日記』の11月15日に中村半次郎は、むろん「午後8時頃帰宅」などとは書かない。「夜五ツ前帰邸」と記している。
 ところで龍馬暗殺の時刻も、ほぼ証言は「五つ頃」に集中している。中村半次郎の五つを午後8時と解釈するなら、龍馬暗殺の時刻も午後8時でいいわけであって、龍馬のほうはなぜ10時となるのか。
 当時の時間の数え方に幅があるとしても解釈が恣意的にすぎるのである。龍馬の暗殺時には、ちょうど半次郎は藩邸に帰っていた頃だから、それでアリバイ成立でよろしいではないか。
 ちなみに陰暦の慶応3年11月15日の京都の夜の五つ時は、午後8時より早い。7時頃である。(不定時法は季節と場所によって同一ではない)
 中村半次郎の『京在日記』は事件後の11月17日、「坂本龍馬、一昨晩何者トモ不相分、無体ニ踏込ミ…」と暗殺に言及している。「無体に踏み込み」という表現に義憤が感じられ、彼が当事者でないことはじゅうぶんに感じられるのである。
  

ある歴史ブログの行方

2007-11-19 06:46:27 | 小説
桐野作人氏のブログ『膏肓記』に11月16日、「坂本龍馬・中岡慎太郎の命日に寄せて」という記事が書かれていた。17日の土曜日の朝8時頃に、その記事を読んで、はじめてコメントを投稿させていただいた。(ほかの場所で桐野氏とはコメントをやりとりしたことはある)
 さてその日の夕刻近くに、もしかしたら、お返しのコメントが付いているかもしれないとブログを覗いたら、凍結されて表示されない。桐野氏のブログはFC2ブログなのだが、凍結理由は「規約上の違反」か「多数のユーザーに迷惑をかける行為を行った」などとしている。そんなバカな。歴史ブログであり、凍結されるような内容のものはあろうはずがない。
 ところで私としても、なんとなく後味が悪い。というのも桐野氏の記事に二点ほど異を唱えたコメントを投稿したからである。私のコメントも読まれないうちに凍結されたかもしれないが、いったいなにがあったんだろうか。FC2は通知なしに突然凍結するらしいが、理由はあきらかにすべきだと思う。
 不思議なことに16日の記事のキャッシュがグーグルの検索では残っていた(たまたま保存した)のに、すぐに消えて『膏肓記』のキャッシュは12日の記事しか見られない。(追記:22日には16日のキャッシュが検索できた)
 「ブログ凍結」で検索していたら、「突如として凍結解除となった」などという人もいるが、すべてにわたってなんとも釈然としないことである。 

『京都守護職始末』について

2007-11-15 22:06:28 | 読書
 梅田望夫の近著『ウエブ時代をゆく』(ちくま新書)を読んでいたら、こんな文章にぶつかった。

「時代の大きな変わり目」を生きているかもしれないという予感を抱きつつも、目の前の現実を眺めれば何も変わってないようにも見える。江戸末期の幕府関係者の意識や庶民感覚もそんなものだったろう。そもそも江戸末期なんてことは後世の高みから言っているだけのことで、同時代を生きていた人にはただ現在があるだけだった。
  
 ジャンル違いの本であるが、ふと立ち止まるような気分になったのは、歴史を語るとき私たちは「後世の高み」から、勝手なことを言いいすぎてはいないか、という「歴史」に関する思いにとらわれたからである。実は並行して山川浩の『京都守護職始末』を読んでいた。明治44年に刊行された再版本を底本として詩人の金子光晴が口語訳し、遠山茂樹校注の東洋文庫版(平凡社)である。
 山川浩、言わずと知れた旧会津藩士で、彼と戦った敵将の谷干城が男ぼれした男、明治の廃藩置県後は谷と親交を結び、西南戦争では谷の救出劇を演じた男である。この『京都守護職始末』は山川浩の遺稿を弟の健次郎が書き継いだもののようであるが、ほんとうは明治35年に出版しようとしたのを、旧長州藩士の三浦梧楼(陸軍中将、貴族院議員)が圧力をかけて差し止めたらしい。だから刊行が延びたのである。
 なぜなら、この書物には孝明天皇が松平容保にあてた宸翰の存在が明らかにされており、容保と会津藩の誠忠の事実が記されているからであった。会津藩は「朝敵」ではなかったと主張する書物は、とりもなおさず薩長閥で構成された新政府のいかがわしさをあぶりだすことになるからである。
 全編の主調低音をなしているのは、山川浩のかなしさと静かな無念さである。
 東洋文庫版の遠山茂樹の「解説」が良い。遠山はこう書いている。

 明治維新の過程を尊王対佐幕、攘夷対開国の対抗からとらえ、いかなる政治勢力が真の尊王であったかを究明することを主眼とする維新史観が学問的に成り立ちえないことは、著者(山川浩のこと)の意図とは別に、本書の内容自体が史実を通して証明しているということができる。

 ほんとうに、なにが勤王でなにが佐幕かという気になってくる。とりわけ明治も遠くなった今日、後世という高みから、幕末維新を私たちは単純な概念に抽象化して理解した気になってはいないか。たとえば「一会桑」などという当時の略語を歴史的用語のように見なして、会津をその中にくくってみたところで、むなしくはないか。 
 遠山茂樹は解説をこう結んでいる。

 …本書の読者は、興味と感動とをわきおこさせる何物かがあることを知るだろう。それは、明治政府的維新史観が今日もなお力をもっており、それをくつがえす政界裏面の真相を知ることの興味であるかもしれない。個々人の誠意とか誠実とかを無残にふみにじってゆく政治のしくみにたいして抱く感懐かもしれない。あるいは政治の犠牲に供される悲劇の中にあって、なおそれに抵抗してやまない人間の善意と努力との美しさへの感動であるかもしれない。 

幕末の「怪外人」平松武兵衛 完

2007-11-11 20:20:37 | 小説
 しかし、スネル兄弟と陸軍省もしくは新政府とのかかわりを、これ以上追及するてだてはない。ヘンリーあるいはエドワルドの没年も不明である。日本で死んでいるのならば、青山の外人墓地、または外人が埋葬されたという谷中の墓地などに眠っている可能性もある。
 ともあれ兄弟にそれぞれ暗殺されたという噂があるのは、どこかで彼らが尋常な死に方をするわけがないという周囲の思惑が反映しているのであろう。
 エドワルドと相馬藩の確執の経緯を、付記しておく。
 相馬藩は慶応4年7月、エドワルドと武器購入契約を結び、9千55両を手付金として払った。契約書では違約した場合は手付金倍返しであった。
 この契約、エドワルド側の契約不履行に終わっていた。
 当然、相馬藩はエドワルドに賠償を迫った。
 明治2年2月、相馬藩は倍返しは譲歩し、実質的な被害額である9千55両のうち、6千両を速金返済、残る3千55両は月賦返済でよいとまで譲歩する。
 ところがエドワルドはのらりくらりとして、4月に3千580両、10月に20両しか払わなかった。
 結局、相馬藩は9千55両の債権のうち、回収できたのは半分にも満たない3千600両にしか過ぎなかった。
 この債権回収に当った相馬藩の担当者には、エドワルド抹殺の動機はじゅうぶんにある。なにしろ相馬藩は一挺の銃も到着しないまま、新政府の軍門に降服したのであった。その屈辱感は金銭にまつわる憎悪以上のものを相馬藩に醸成させていたはずだ。恨みは10年やそこらで消えるものではない。
 むろん、小説化して整合性をもたせるのならば、彼ら兄弟がかって芝田町で起こした銃撃事件とからめてもいいかもしれない。鼻緒屋に仇をうたせるのである。
 それにしても兄弟がいつ来日したのか、ほんとうはそのことに、そもそも謎があるのであった。 

幕末の「怪外人」平松武兵衛 9

2007-11-08 15:57:56 | 小説
 イギリス人ジャーナリストのブラックによって、明治5年3月、築地居留地において創刊された邦字新聞があった。「新真事誌」という。その新真事誌の明治7年1月22日号に、スネルの名が登場する次のような記事があった。
 タイトルは「佃島でコロップ砲試射」である。

 客冬12月9日佃島に於て、大砲放射の試験を天覧ありしは、普国(プロシア)にて新発明の「コロップ」という砲にて(略)神器なり。我が政府より普国へ御誂えとなり、新たに鋳造して輸入する処の二門なり、その価2万円なりと。爆弾装置、放射の術、器械運用の方法迄教授のためスネル氏を遣わす。

 記事の「コロップ」砲というのは、ドイツのクルップ社製の大砲のことであろう。天覧とあるから、明治天皇御臨席のもとに試射が行われているのである。
 さて、この記事に登場する「スネル氏」を、私はヘンリーではないかと思うのである。
 プロシア公使館に勤めていたのはヘンリーの方だったから、「スネル氏を遣わす」のなら、まさに兄の方が適任のはずだ。
 さらにスネル兄弟は、兄のヘンリーと弟エドワルドで役割分担がはっきりしていた。会津藩の軍事参謀となるほど軍事好きだったのはヘンリー平松の方であり、弟エドワルドはもっぱら武器調達に徹していた。つまり弟はあくまで商人であった。そのエドワルドがクルップ砲に関する操作のノウハウを取得するため、プロシアに行くような人物とは思えないのである。
 アメリカから帰った平松武兵衛は、結局、軍事に関係する仕事に戻ったのではないのか。
 

幕末の「怪外人」平松武兵衛 8

2007-11-07 11:14:56 | 小説
 外交史料館所蔵の明治の「外務省記録」に当っていて、それとの関連で防衛省防衛研究所の陸軍省大日記からスネルを検索してみた。すると明治10年8月から11月にかけて、次の3件の公文書にスネルの名が出てきた。
 1、 8月「外務へ榎本公使書状通達方依頼」
 2、10月「硫酸規尼涅御買上相成度伺」
 3、11月「横浜税関より薬用烏片云々申進」
 注目すべきは、1であって、「和薬商社スネル」(画像参照)として、エドワルドの会社が登場することだ。いわゆる「死の商人」から脱して、どうやらエドワルド・スネルは薬品の輸入商に転じて、陸軍省と取引を始めたもののようである。
 明治10年にはコレラが流行っていた。そのコレラ対策に硫酸キニーネが必要だった。陸軍省(参謀近衛病院)では、硫酸キニーネの輸入を「在東京オランダ人スネルへ注文」したと書かれているのが2である。
 3は陸軍省病院で「烏片50キロ」の輸入を「オランダ商スネル」に依頼したから通関差し許しをよろしくといった内容の文書である。「烏片」というのは漢方の強壮薬「首烏片」のことで、おそらく「首」の文字が脱落したものと思われる。
 このようにエドワルドは、武器商人から薬品輸入商にあざやかに転身しているのだが、ここで気になるのが兄ヘンリーのことである。
 実は明治7年のある史料に登場する「スネル」は、兄のヘンリーつまり平松武兵衛のほうではないだろうかと、わたしは疑っている。 

追記:「注」硫酸キニーネはマラリアの薬としては知られており、コレラ用というのは奇異な感じもするが、幕末からこの頃にかけてはコレラにも使われたようである。

幕末の「怪外人」平松武兵衛 7

2007-11-06 21:46:57 | 小説
 いや、明治10年の公文書にもスネルの名は登場する。
 もしかしたら、これは新発見かもしれない。
 吉川弘文館『国史大辞典』の「スネル」の項で、明治「9年以降の事蹟は詳かでない」と担当の田中正弘氏は記しているからだ。
 今回のブログでは田中氏のスネル研究、とりわけ「武器商人スネル兄弟と戊辰戦争」(宇田川武久編『鉄砲伝来の日本史』所収・吉川弘文館)に負うところが大きいけれど、田中氏はここでも明治10年の事蹟には言及されていない。
 ともあれ、エドワルド・スネルは明治5年には新政府に対して損害賠償を訴えている。
 米沢藩、会津藩など旧藩の武器代未払い分と新潟港陥落のおりに官軍に略奪された物品代あわせて12万5000ドルの償却要求であった。翌年には全額とまではいかなかったが、4万ドルの賠償金は手にしている。
 明治5年1月の陸軍省大日記によれば、「元大泉県より英す子ルエトワルトへ銃器買い入れ約定折柄廃藩置県に付右銃器買上願の件」という文書が宮内省兵部省宛に出されている。
 どうやら小銃620挺がロンドンを出港、キャンセルできない事態となっており、大泉県つまりもとの庄内藩の発注分を新政府が引き受けたもののようである。
 明治6年7月1日にはエドワルド・スネルは築地居留地4番の所有権利をあるイギリス人から譲り受けていた。「居留地台帳」によれば、「シュネル(オランダ)に譲渡」となっている。
 居留地4番といえば、現在の築地7丁目であろう。私の住む街から勝鬨橋を渡って右折すればすぐのところにエドワルドは住んでいたのであった。こんな近くにいたのか、と奇妙な親近感をおぼえて、その消息を詳しく知りたくなり、私は明治の公文書を漁りはじめた。
 そして明治10年の記録の中に、彼を見つけたのである。


追記:外務省史料と陸軍省大日記の史料を混同していたので一部文章を訂正した。

幕末の「怪外人」平松武兵衛 6

2007-11-05 19:15:33 | 小説
 ところで平松武兵衛の年齢を、甘糟は30才前後と踏んでいたわけだが、実際は24才だったはずである。外人の年齢を当てるのは容易ではないが、青年ヘンリー平松は、それなりに成熟した印象を与えていたのであろう。
 日本語で手紙も書けたらしい。よほど若くして日本語を本格的に勉強しているのである。
 そのヘンリー平松は、どうやら日本人妻を得たらしい。会津藩士小野権之丞の日記によれば、「ス子(ネ)ール妻子ニ贈物遣ス」という記述がある。会津若松の籠城戦から逃れて、仙台に到着したおり、妻子を伴っているのだ。子の年齢はわからない。いずれにせよ実子ならば幼児のはずだ。
 小野権之丞はスネル(表記はス子ール)と書いて、平松武兵衛とは書かないが、敗色濃厚となった戊辰戦争末期には、スネル自身が日本名を捨てていたのかもしれない。
 戦争が終って、明治2年になると、ヘンリー・スネルは渡米する。
 一家だけではない。会津若松人約40名をひきつれてである。スネルが勧誘しての移住である。
 カリフォルニア州エルドラド郡コルマのゴールドヒルに「ワカマツ・コロニー」を建設、農園経営をはじめるのであった。
 日本から持ち込んだ茶やミカンなどの栽培、ほかに菜種、桑、竹などを繁殖させようとしたが、失敗。一年足らずで移住民はばらばらになっている。
 その中には、この地で死んだ19才のおけいという女性もいた。会津出身の作家早乙女貢氏に「おけい」という小説がある。残念ながら私はまだ読んでいない。
 ヘンリーはその後、妻子を連れて日本に帰ったという説がある。ただし消息は不詳である。
 弟エドワルドに目を向けてみよう。彼には、明治5年、6年、7年と断片ながらも消息を知る史料がある。