小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

私の三島由紀夫体験 3

2005-07-30 16:17:10 | 読書
 三島由紀夫の自死を、政治的になんら有効性のない愚挙だと決めつける論調は、事件後すぐにあった。しかし、これは的外れな批判と言うべきだろう。事件の一年前に、三島氏は朝日新聞の夕刊に寄稿した『仮面はがれる時代━「国を守る」とは何か』のなかで、こう述べている。
「1969年の今、私が政治に参加しないといふ方法論はほぼ整った。私は精神の戦ひのためにだけ私の剣を使ひたい」
 そうなのだ。あの事件の本質は「精神の戦ひ」としてとらえなければ理解しがたいのである。かって、三島氏は吉本隆明の評論集の帯に推薦文を寄せ、吉本隆明のことを「観念の闘牛士」と形容したことがあった。その形容になぞらえれば、三島由紀夫は観念の武士であったのだ。
 それにしても、事件後に野次馬的発言やしたり顔のコメントで賑わった中で、見事としか言いようのない態度を示したのは大岡昇平だった。大岡氏はただひと言「凶事については語らず」といい、親交のあった三島由紀夫のことについて一切言及しなかったのである。この大岡氏の態度は際立っていた。一再ならず、私も三島由紀夫論を書こうかと思ったことがあるけれど、そのたびに大岡氏の「マガゴトニツイテハ語ラズ」という呟きが聞こえ、意欲そのものがそがれてしまうのだった。
 ただ私自身は、心の内側に残る三島由紀夫の影響という塗料を少しずつ剥がしてゆく作業をしなくてはならなかった。

私の三島由紀夫体験  2

2005-07-28 23:49:38 | 読書
 あの日起きた事件の衝撃はいまだに昨日のことのように鮮明に思い出されるけれど、あれから35年が経っている。今年は三島由紀夫没後35年の節目の年なのだ。
 自衛隊にのりこんだあげく、切腹なんて死に方は意外も意外だったが、実は三島氏は近く死ぬだろうという予感は漠然とあったのである。たぶん、熱心な読者の中には、そういう予感を抱いた人が数多くいたはずだ。たとえば、瀬戸内寂聴さんは、三島氏の死をはっきりと予感していたと書いている。
 私の場合は、『独楽』という氏のごく短いエッセイというか、掌編小説というか、事実ともフィクションともつかぬ奇妙な文章を読んだとき、〈このひとは死ぬな〉と思ったのである。その小品は、氏のフアンと称する高校生(だったと思う)が突然三島邸に押しかけて来る話だ。フアンの少年は最初黙りこくっているので、氏が質問があるならひとつだけ聞こうというふうに促すと、「先生はいつ死ぬんですか?」と言うのであった。むろん氏はこんな質問をはぐらかすのだが、内心はたじろいたという告白だった。三島氏が夭折に憧れていたことは、読者なら誰もが知っている。そして氏は45才になろうとしていた。
 この『独楽』という小品では、珍しく三島由紀夫はあれほど毛嫌いした私小説作家的である。そして赤裸々にさらされた心のうちに名状のしがたい痛ましさがあった。ここまで書くか、ああ、この人は近く死ぬな、と思わざるをえなかったのである。

私の三島由紀夫体験  1

2005-07-27 23:08:10 | 読書
 三島由紀夫氏を二度見かけたことがあった。一度目は銀座の近藤書店の専門書コーナー(いま洋書売場になっている階)で、三島氏はぽつんとひとり椅子に座っていた。サイン会がひけて、つかのま休息しているといった風情だった。二度目は国電の中。きちんとネクタイを締めたスーツ姿でボストンバックを提げ、私の目の前の座席から立ち上がり、水道橋で下車された。ははあ、ボディビルのジムに行くんだなとすぐわかった。そしてエッセイに書かれたとおり、タクシーとか自家用車は使わないんだなと納得した。小説家なんだから、大衆というものを直接観察できる交通機関をなるべく利用するように心がけていると、どこかに書いていたのだ。
 ボディビルといえば、私が三島由紀夫という作家の存在を初めて知ったのは10代の頃で、当時流行り始めたボディビルの雑誌でだった。いわゆるビフォアーモデルとして上半身裸のボディビルを始めたばかりという男の写真が載っていて、それが三島氏だった。こんなところで肉体をさらすような作家の書くものなど読みたくもないな、というのが子供心に抱いた感想だった。
 ところがしばらくして、今度は映画雑誌で、ジエームス・ディーンの夭折について、すばらしい文章を書いている三島氏を発見、あっというまに氏の文章のとりこになった。ジエームス・ディーンが好きだったこともあるが、私以上にディーンを愛する作家がいるという感激もさりながら、氏の文章は私がいままで目にしてきた種類のものとはまるで違うという驚きがあった。
 三島文学との出会いがこんなふうであったから、以後、私は氏の小説よりもエッセイや評論を愛してきた。そのジャンルでは、たぶんに影響を受けていると思う。一時期、ひと目で三島由紀夫ばりとわかる文章を書いていたのだ。

ホントはおかしい『葉隠』の「忍ぶ恋」  2

2005-07-24 12:02:24 | 読書
「忍ぶ恋」は、『葉隠』で二回語られている。前後の文脈の中では、奇妙な感じを読者は受けるはずだ。常朝が「恋」というとき、それは男と男の恋、つまり男色のことであり、あるいは主従の関係をさしているからだ。
 三島由紀夫は『葉隠入門』にこう書いている。「恋愛についても『葉隠』は橋川文三氏のいうように、日本の古典文学の中で唯一の理論的な恋愛論を展開した本といえるだろう」
 三島も橋川文三も、どうかしているとしか思えない。『葉隠』のどこをどう探せば「理論的な恋愛論」が見つかるというのか。
『葉隠』は徹底したリアリストであった山本常朝が後輩の藩士に語った処世訓である。封建社会のもと、武士という奉公人の心得を説いてはいるが、恋愛に限らず、およそ理論などというほどのものはない。当時のハウツー書ではあっても、理論書では決してない。女色におぼれては武士としての働きが鈍るからと男色をすすめ、女はただ跡継ぎの子を得るための道具とみなす風があったりする。
 この書から、ある部分だけを取り出してみると、人の心を呪縛する迫力ある箴言めくところが不思議だが、要するにそれだけのことだ。常朝の思想は、しょせんは鍋島藩という小さな世界の井の中の蛙の思想だ。
『葉隠』の原典の数巻を読んで、その後味の悪さにうんざりしたが、その後味の悪さには恋の至極は忍ぶ恋」という章句にしばられていた私自身のおろかさを自嘲する苦さが混じっていた。
 男ならば、惚れた女がいれば、お前に惚れたと素直に口に出して言えばよいのである。生きて、愛して、つまずけばよいのである。忍んでいては何事も始まらない。人生はまず生きてみなければならない。「善か悪か懸念せずに愛すること、ナタナエル、きみに情熱を教えよう」私にはジイドのこの言葉の方が、やはり腑に落ちる。 
  

ホントはおかしい『葉隠』の「忍ぶ恋」  1

2005-07-23 12:18:05 | 読書
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ」
『葉隠』の中の有名な章句である。呪縛のようにひとをたじろがせる言葉だ。思いを内に秘して決して外にあらわさないことが恋愛の究極の境地だという、このストイックさ。そして、その究極には死がある。
 三島由紀夫は書いている。「そこにはいつも死が裏づけとなっていた。恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるという考えが『葉隠』の理想的な恋愛である」と。
 かっては、戦地におもむいた若者たちに『葉隠』の中の章句「武士道とは死ぬことと見付けたり」が呪縛の言葉であった。『葉隠』は武士道の教科書とみなされていたからだ。
 だが、ほんとうにそうなのか。ひとはみなこの書物を断片でしか理解していない。
 佐賀鍋島藩士の山本常朝の7年間にわたる談話の聞き書き、全11巻1343章、こんな膨大な書物をまるごと読んだ人は少ないだろう。なにしろ、出版物そのものが抄本という形をとったものが多い。(かく言う私も全部読む気はしない)全巻の編集体裁から判断するに、武士道の教科書というよりも、ひとりの藩士の回想録といったおもむきのものだ。常朝自身、他人に見せずに火中すべし」といったように、つまり私的記述が多いのだ。
 常朝は徳川の封建体制が固まった泰平の時代に生きた人だ。父親が70才のときに生まれたせいか、病弱な子供時代を送り、そのことがコンプレックスになって、たえず武士とは何か、武士として生きるということはどういうことか問い詰める内省の人だった。その山本常朝の生涯を知るにつれて、三島由紀夫が『葉隠』に寄せるシンパシーが私にはよくわかった。常朝は三島に似ているのである。

道鏡の素性 その3

2005-07-20 23:27:07 | 小説
「八幡神については、うかつに語るな」というタブーのようなものが神道界にはあるらしい。ある著名な神道学者がそう語ったと別府大学の後藤重巳教授は書いている。日本の神社の三分の一は八幡社とされるのに、実はその八幡神の正体は明らかではない。
 いや、神道学者の言葉がタブーを意味しているのならば、明らかに、あえてされなかったのだ。ちなみに八幡神はハチマンであり、応神天皇のこととする通説は奈良末期か平安初期のことで、原初の形のヤハタ神がわからないのである。
 ヤハタ神は、韓半島のカヤ地方から移住してきたシャーマンの家系の辛嶋氏が信仰の対象ととしていたらしい。もともとは韓半島の神であったかもしれない。だからこそ、うかつに語るななのではないのか。
 ところで、カヤ地方の王子であったツヌガアラシトが逃げた美女を追って、九州の豊国までやってきたという話が『日本書紀』にある。この美女は難波でヒメコソの神となり、さらに豊国に移り、姫島のヒメコソの神になったという。豊国の宇佐のヒメ大神は、このヒメコソとまったく無縁だろうか。それにしても、ツヌガアラシトを和風の語呂合わせで「角(つの)がある人」と解釈した史書があるくらいなら、ヤハタの神をヤマタの神つまりヤマタイの神と解釈してもよさそうだ。神社縁起によれば、6世紀にあらわれた八幡神は、体はひとつだが頭は八つある鍛治の翁であったという。まるで、ヤマタのオロチではないか。
 さて、道鏡である。(こういう口調は司馬遼太郎の真似)宇佐神宮が道鏡を天皇にと推したのは、道鏡はヤマタイ国すなわち倭の皇胤であり、宇佐神宮は倭国の信仰社であったといいたいのである。道鏡の時代、まだ倭と日本の併合から日がまだ浅く、皇胤という考え方にも混乱があったと、類推するのである。この私の考えは、倭イクオール日本で国号が変っただけと思っている方には、たぶん理解がむつかしいだろう。
 

道鏡の素性 その2

2005-07-19 20:21:08 | 小説
 道鏡は「俗姓 弓削連(ゆげのむらじ)、河内の人なり」と『続紀』にある。しかし親の名も、生年を知る史料もない。ただ物部守屋を先祖として仰いでいたことは記録に残っている。守屋は妹の亭主にあたる蘇我馬子に殺された人物だが、母方の姓を名のって弓削大連守屋と称したことがあった。
 物部氏といえば豪族中の豪族だった。もともとは九州の筑後を拠点とし、筑後川をさかのぼって九州の東海岸に出、のち四国に進出(ちなみに高知には物部という地名が現存し、物部川が流れている)、四国北岸から海を渡って河内地方に移動した氏族である。石上(いそのかみ)神社とも関係が深く、石(いそ)つまり邪馬台国時代の「伊都」国に出自が求められるという説もある。
 ところで道鏡は禅師つまり仏教徒である。いかに神仏習合がこの頃始まったとしても、仏教徒である道鏡を天皇にせよ、と神社がお告げを発するとは容易ならざることである。宇佐神宮は道鏡によほどの思い入れがなくてはならない。
 宇佐神宮は、いまも全国に4万社を超えてある八幡社の総社である。三神三殿の形態を持つのが特徴で、応神天皇と神功皇后とヒメ大神がまつられている。三神をまつる場合、真ん中が最高神となるが、そこに位置するのはヒメ大神。ヒメ大神は謎の女神で、作家の井沢元彦氏はじめ幾人もの人がこのヒメ大神をあの邪馬台国の女王卑弥呼だとする説を打ち出している。私は少し違う見解を持っているものの、宇佐神宮が倭国の宗廟であったという意見には惹かれるものがある。
 さて、称徳天皇の時代に、皇祖神をまつる伊勢神宮をまるでカヤの外において、しきりと宇佐神宮の神託をきかねばならなかったのはなぜか。この事態の奇妙さはもっと強調されてよいはずだ。


道鏡の素性 その1

2005-07-18 16:18:40 | 小説
 道鏡は一介の僧侶から太政大臣に相当する太政大臣禅師という前例のない官職につき、さらに法王となって称徳天皇とともに政権の担い手となった。それどころか、あわや天皇にまでなろうとした。
「道鏡を天位につかしめば天下泰平ならん」と宇佐八幡の神託があったのだ。
 道鏡を寵愛した女帝称徳天皇も、さすがにこのお告げだけには確認を入れた。神職団のひとりが宮廷に伝えた神託が本当かどうか、和気清麻呂とその姉を九州に派遣、再度神託を得ようとしたのである。ところが九州から帰った清麻呂は、こう報告した。お告げの内容は「わが国家は君臣定まりぬ、臣を以って君と為すことは未だあらざるなり、無道の人はよろしく掃除すべし」というものだったと。女帝は、偽りの宣託を報告したとして、清麻呂らを断固処罰する。清麻呂の背後にはアンチ道鏡派がいた。女帝も自分と道鏡との政治に不満を持つ抵抗勢力の動向を無視できなくなっており、結局、道鏡には天皇の位を譲らなかった。抵抗勢力の中には、かっての女帝の教育係で、おそらく女帝の初恋の人であろうと思われる吉備真備もいたのである。
 それにしても臣が天皇の位をねらえるものであろうか。道鏡は実は天智天皇の孫だったという説がある。いずれにせよ、皇胤であったからこそ宇佐八幡のお告げがあったと考えるほうが自然である。つまり、清麻呂はよけいな脚色をしすぎたのである。道鏡は無道の人ではないことを女帝は知っており、ただ皇位についたら天下が泰平になるかどうかということに力点をおいて再度の神託を得ようとしたのに、臣が云々などというものだから、清麻呂の報告に女帝は激怒したのであろう。
 ともあれ、この神託事件の翌年、女帝は病で死ぬ。53才だった。そしてこれを契機に道鏡の運命も下り坂になるのだが、そもそも彼はどんな素性の人間だったのか。そしてなぜ宇佐八幡の神託なのか。
 
 

道鏡巨根伝説の真偽 その2

2005-07-17 10:44:47 | 小説
 奈良時代には僧侶も医療に当った。呪験力に頼る祈祷師のようなものだが、道鏡もまた「看病禅師」とよばれる僧医のひとりとして宮中に招かれ、女帝と出合った。
 762年4月、平城宮の改修のため近江の滋賀郡石山(現在の大津市国分)の保良宮にいた女帝が病み、道鏡は「宿曜秘法」をもって平癒させた。ここからふたりの関係が始まるのだが、女帝の病とは何だったのか。
 藤原一族が天皇の外戚特権を維持するために、無夫を義務づけて独身のままワンポイント・リリーフ的な天皇(実際は二度なったけれど)にしたのが女帝だった。実権は長い間、女帝にはなく
母の皇太后と従兄の藤原仲麻呂に握られていた。おそらく、もろもろの抑圧によって、女帝は欲求不満のかたまりとなっていた。とりわけ性的な欲求不満から自律神経の失調を来たしていたのであろう。道鏡の治療でそれが治った。
 だから道鏡は直接的な方法で女帝の性的欲求不満を解消させたのであろう、あるいはその後女帝が道鏡にのめりこみ、彼を異常なまでに取り立てたのは、その持物がよほど立派だったからであろうというのがゲスのかんぐり的な道鏡巨根説のゆえんである。
 しかし、道鏡の「宿曜秘法」に実は目をつけなくてはいけない。インド天文学に由来する一種の占星術なのだが、道鏡の行ったのは催眠療法とマッサージを兼ねたもののようだ。むろん体にも触れるのだが、もっと恐ろしいことが治療のひとつだった。古代インドの医学では鬱病の治療などに大麻を使った。インドの大麻を使う薬物療法、あるいはそうした治療法を記した書物が、帰国した遣唐使を通じて、この頃の日本には伝わっていた。道鏡は当時の最新の学問であったサンスクリット語を修めたインテリのひとりであった。道鏡が女帝に大麻を使った可能性はじゅうぶんにあるのだ。
 巨根が武器だったのではない。彼の使ったクスリやある種の器具(たぶん性具)が女帝をとりこにしたのというのが真相ではないのか。



道鏡巨根伝説の真偽 その1

2005-07-15 17:20:06 | 小説
 天皇に二度なった女性がいる。藤原不比等の孫娘、高野姫こと阿倍内親王だ。第46代孝謙天皇と第48代称徳天皇は彼女である。最初に天皇になったとき31才の処女で、生涯独身で終ったこの女帝との性的関係の類推から、天下の怪僧道鏡の巨根説は生まれた。
 江戸時代の川柳に「道鏡は人間にてはよもあらじ」というのがある。つまり道鏡の男性自身は馬なみで人間ばなれをしていたという風評が後世まで伝わっているのである。ほんとうにそうなのか。
 道鏡が女帝に最初に出会ったとき、女帝は45才。道鏡の年齢は確定できないが、60才前後だったはずだ。肉体関係があったかどうか、実は少しあやしいのである。しかし、ある不適切な関係があったことはたしかで、誤解を生じて道鏡は妖僧、怪僧などと呼ばれるようになったのだと思う。
 鎌倉時代の史書『古事談』には、あたかもポルノのような、あられもない話が書かれている。大要は次の通りだ。女帝は道鏡のそれをなお不足に思って、山芋でその形を作って用いた。ところが中で折れた。そこでその手が赤子のような百済の尼が手に油を塗って取り出そうとした。しかし藤原百川がこの尼は霊狐であると剣を抜いて尼に切りつけたから、中のものは取れず天皇はそのために崩御したというのだ。
 おそれおおいことに、女帝が自慰行為のせいで死んだというのだ。同様な記述は『水鏡』にもある。道鏡が女帝を満足させようと「おもいもかけぬものをたてまつった」ら、あさましいことが起きたと。

わがトニオ・クレーゲル

2005-07-14 07:32:09 | 読書
 トーマス・マンの名作『トニオ・クレーゲル』とは、私は十代の頃に出会った。そのときの感動をいまだにひきずっている。平野謙流に言えば、小説には二種類ある。我を忘れて読む小説と、我がことのように身につまされる小説のふたつ。私はこの小説を我がことのように読んだのである。
 長じて物書きとなるトニオが、少年の頃に憧れた少女が金髪のインゲボルグだ。快活で屈託のない美しい少女。この金髪の少女がトニオを悩ます。すでに物書きの卵として内面にひび割れを抱えていたトニオにとって、決して戻ることのできない世界を象徴しているのが少女だったからだ。
 小説を書くということは、非現実の世界を創り出すことである。作家は日常という現実の世界と非現実の二つの世界の住人にならなくてはいけない。文壇史的なテーマでいえば「芸術と実生活」の問題に、トニオはいちはやく悩んだのである。「いねましものを踊らんとや」やすらかに寝ていればよいものを意識はいつも踊っている、それが物書きの内面だ。そして物を書くということに、たえずうしろめたさを感じている。なぜなら、現実という日常をちゃんと生きていなくて、なんで非現実つまり非日常の世界を創造しうるのかと自分をさいなむのである。
 芸術家になるには何か牢獄のような事情に通じていなければならない、堅気の銀行家は決して小説なぞ書かない、というのは作者マンの悩みでもある。(現代のわが国には銀行家出身の小説家がいる。彼が堅気ではなかったか、あるいは彼の書くものは小説と呼べるものではないのかのどちらかだ)
 内面にひび割れを持つ物書きなぞが決して持ち合わすことのできない屈託のなさ、人生をまるごと肯定的に生きることのできる明るさ、それが狂おしいほどにトニオを悩ましたインゲボルグであるが、人生の節目節目で再読してきたにもかかわらず、彼女の具体像が浮ばない。やはり彼女は世間と言うものの象徴としかいいようがない。
 再読のたび、胸がしめつけられるような気がするのだが、この作品には吉行淳之介や北壮夫など作家のフアンも多くて、『トニオ・クレーゲル』が好きだと言う人に出会うと、私はその人が好きになってしまう。

チャンドラーの言葉

2005-07-12 07:01:53 | 小説
「私は作家という仕事に生涯を捧げたわけではない。私が生涯を捧げたのは、人間として生きることだ」
 チャンドラーの言葉だ。この20世紀の探偵小説界の巨匠は、こんな言葉を吐くのである。
 彼の妻の名はシシー。こんな文章もある。
「これまで一度も、自分の文章がシシーの手を暖めるための火以上のものであるなどと考えたことはなかった。そして、彼女は私の文章をあまり気に入ってくれなかった」
 これは、さりげなくだが物凄いことをいっている。自分の書いた原稿用紙をホゴにして火をつければ妻の手を暖めることはできるだろう、つまり自分の書くものにはそれ以上の価値はないだろうといっているのだ。
 おのれの文章が社会的役割をはたしていると自惚れているやから、あるいは自分の文章が読者に受け入れられていると自惚れている物書きどもは、恥じるべきである。あの文章家のチャンドラーにして、かくも謙虚な言葉があるのだ。
 こんなことが言えるから、チャンドラーの文章はほんものなのである。それにしても、チャンドラーにこんなことを言わせたシシーという女性はどんな人だったのだろう。チャンドラーの作中人物の有名なセリフがある。
「タフでなくては生きていけない。優しくなければ生きている価値がない」
 これは「タフなくせに優しくもあるのね」と言った女性に私立探偵のヒーローがこたえるセリフであるが、私はこれがチャンドラーに言ったシシーのセリフのように思われる。
 私もなにがしかの文章を書く。書くという行為に根拠を与えるために、ずいぶんと遠回りして理論武装して書きはじめた。ただ、ひとりでいい、そのひとの心に私の文章の断片がとどくことができるなら、いつ死んでも本望だというほどの思いで書く。

4人の葉子  その4『或る女』の葉子

2005-07-11 08:27:29 | 小説
 川端康成、大岡昇平、吉行淳之介とならべてくると、いずれも感性の鋭い文体を持つ作家たちであることに気づく。その作家たちが、奇しくもヒロイン名を同じ「葉子」とした作品を、それぞれ発表しているのは、たんなる偶然だろうか。
 しかも彼らに先行して、同一名のヒロインの登場する作品がある。大正8年に完成した有島武郎の『或る女』のヒロインは、まさしく葉子というのだ。すなわち「4人の葉子」と題したゆえんである。
 さて、『或る女』の葉子。多感でエキセントリックな女だ。上野の音楽学校に入るや短期間でヴァイオリンの腕を上げる。ところが米国人の老校長に「お前の楽器は才で鳴る。天才で鳴るのではない」と評されると「そうでございますか」といって、ヴァイオリンを窓の外に放り投げる。そして、そのまま退学してしまうというような女だ。モデルがある。有島武郎の友人の許婚者だったが、のちに国木田独歩の最初の妻になった美貌の才媛佐々城信子である。その気になれば、佐々城信子の肖像写真も見つけることはできると思うが、いまだにそうしようとは思わない。葉子たちはすべて、私の心の中に結んだ肖像だけで充分だからである。
 それにしても『或る女』の葉子は別にして、他の3人が温泉地の芸者、銀座のホステスといわゆる水商売の女という点で一致しているのも不思議な偶然である。いずれにせよ、4人に共通しているのは、決して屈託のない陽気な女たちではなく、それぞれが哀切な陰翳をおびていることだ。「葉子」という名をヒロイン名に選んだとき、4人の作家を結ぶ見えない糸が張られているような気がしてならない。
 こういう事情を心得たうえで、あなたは葉子というヒロインの登場する小説を書けるか。かりにそんな問いが発せられたら、私はひそかに手を上げたいと思う者である。十代の頃の若書きの『葉子』を成熟した女性として蘇生させたい、それは心の片隅にいつも巣くっている欲望のようなものである。(この稿、終る)

4人の葉子  その3 吉行淳之介『技巧的生活』の葉子

2005-07-10 07:55:56 | 読書
 この葉子は21才である。
 銀座の高級クラブ「銀の鞍」には、ママとバーテンダー、それに12人のホステスがいる。葉子は新参で、たまたま「よう子」という名の先輩ホステスがいたので、店での名前は、ゆみ子となった。
 葉子は、はじめて飛び込んだ夜の世界で、観察力の鋭さを発揮する。店に入ってくる客を一瞥するバーテンダーの表情から、その客と店との関係の深浅さを探ったりすることができる。
 そして奇妙なことに気づく。ホステスのひとりが明らかにコールガールを兼ねており、客とのつなぎ役をバーテンダーがしていることにだ。
 葉子はそのコールガールの代役をさせられそうになったりするが、間一髪で危機をすりぬける。うぶだった葉子は、しだいに虚飾の世界で生きてゆく技巧を身につけはじめる。とりたてて物欲が強いわけでもなく、いわゆるおミズの世界での上昇志向があるわけでもない葉子。なぜホステスになったか不思議なくらいだ。
 妙な成り行きがあって、客のひとりと関係を持つ。葉子にとっては二人目の男だ。妊娠して、無理やり男を同道させて中絶のため病院に行くけれど、葉子のお腹の中に胎児はいない。実は想像妊娠だった。
 このことが男にとんでもない思い違いをさせてしまう。想像妊娠するほど、俺の子供が欲しかったのかと男は感動してしまうのである。そうではない。葉子は最初の男のとき、中絶して辛い別れをした経験がある。その過去の妊娠や中絶へのこだわりと恐怖感が、逆に想像妊娠の原因になったにすぎない。
 葉子は、男からほんとうに愛されているとは思っていない。男は葉子にホステスをやめさせて「一緒に暮らそうよ」とささやくけれど、葉子はその日もわざと銀座の路地裏伝いに歩いて、「銀の鞍」に出勤しようとするのだ。りりしくもあり、哀しくもある後姿をみせながら。

4人の葉子  その2 大岡昇平『花影』の葉子

2005-07-08 21:06:04 | 読書
 この葉子は38才である。拾いっ子同然に血のつながりのない養母とその母つまり義理の祖母に育てられた。女学校を中退して、最初に百貨店の食堂の女給(用語が古いのは原作に準ずるからである)、次に銀座のビアホールの女給、そしてバーのホステスに転じ、水商売一筋で男たちの間を泳いできた。銀座で20年生きてきたのである。男に貢がせて店の一軒も持っていて不思議はないのに、同輩からは雇われマダムの才覚すらあやぶまれるほどの、人の好さがある。
 白痴美と形容されたハリウッドの女優ダニエル・ダリュウに似ていると言われたのは、その白い肌と美貌もさりながら、「無智、感情のとめどないだらしなさ」と「子供のまんまに固まってしまったような人の好さ」によるのではなかったか。男から見ると慈母観音のような女性。男たちは吸い寄せられるように惹かれるのだが、なにしろ葉子は男の交通整理が下手だ。しかも、煩わしくなってくると死ぬ気になるから困る。
 葉子が精神的に唯一の頼りとしている骨董商の高島は、経済面では逆に葉子のヒモのような存在だ。その高島が骨董の売買代金を詐取して、葉子の新しいパトロンの話を壊してしまう。それが葉子の自殺の引き金になる。
 しかし死んでしまおうとは、葉子の少女の頃からの夢だった。
「好きな時、いつでも死ねると思わなければ、この歳になって銀座に出られるはずはない」と独白したこともある。
 生まれながら幸せ薄く、男運も悪く、流されるようにけだるく虚無的に生きてきた葉子。そんな葉子が、凛として美しく行動するときが来た。いつも誰かに相談せずには物事を決められなかった葉子が、このときばかりは自分の意思だけをまっすぐみつめている。それが、自殺の支度であるというのは、かぎりなく哀しい。最終章の冒頭、「ずっと前から、支度はすんでいたのである」その一行は、ずんと読者の胸にこたえるのである。
 葉子には実在のモデルがあって、その女性が自殺したとき、作者の大岡昇平は号泣したという逸話が残されている。涙をはらって作者はこの作品を仕上げたのである。ききすぎるほど抑制の効いた文体に、作者の「葉子」への鎮魂歌がかくされている。まぎれもなく昭和文学の傑作のひとつだ。