小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 15

2014-04-18 12:20:35 | 小説
 八郎の暗殺された文久3年4月13日は、現行歴に換算すれば1863年5月30日である。
 暗殺された時刻は『官武通紀』に「夕七ツ時頃」と記し、増戸武兵衛の談話では「七ツ頃、即ち今の午後四時頃」、泥舟も「薄暮」と語った。
 七ツ頃というのは確からしい。しかし、増戸の「今の午後四時頃」というのは、筆録者の付けたしではないだろうか。
 1863年5月30日の江戸の「日の入り」は午後6時50分であった。すると、この日の7ツという時刻は午後5時頃に相当しそうである。つまり、八郎が暗殺されてから日没まで1時間50分しかない。
 暗殺現場の一の橋から石坂の宿舎のある馬喰町の井筒屋までは、およそ6キロ。ふつうに歩けば1時間15分かかる。なにが言いたいかというと、石坂に知らせた者も急ぎ、石坂も急いだとしても、石坂の現場到着は日没後になるのではないだろうか、ということだ。
 だが『石坂翁小伝』には、暗くなって到着した様子はない。
「……一の橋の所に苞を冠せてサウして番人が居る。即ち有馬と松平と両家から出て厳重に取締って居ります。近寄って見やうと思っても近寄せませぬ」
 石坂は、屍は拙者の仇であるから、一太刀恨ましてくれろと、抜刀して八郎の死骸に近づく。
「私の心配なのは五百人の連判帳夫れが幕吏の手に渡ったならば五百人皆尋ねられますから夫れを取りたいのが第一の望む所で懐中に手を入れて見ますと今の五百人の連判帳がチャンとありましたから夫れを第一に自分の懐中に収めて、さうして首を斬って二寸程着いて居りましたのを落して夫れを八郎の羽織に包んで夫れから自分の付属の者に此首を小石川の山岡鐡太郎の所まで持って行け、(略)」
 と指示したと述べている。
 よく石坂本人が八郎の首を持ち帰ったと書かれる評伝があるけれど、この石坂談話によると、別人が持ち帰っているのである。
 もとより石坂の関心は、八郎の首の奪回ではなかった。彼が気にしていたのは、「連判帳」であった。
 その朝の八郎と石坂の会話を思い出していただきたい。
 八郎は金子の家に同志徴募の件で行くと言っていた。だから、八郎は金子に見せる連判帳を持参しているはずと石坂は思ったのである。

清河八郎暗殺前後 14

2014-04-08 16:30:58 | 小説
さて、泥舟は八郎暗殺の様子について次のように述べている。

「(金子の家から)薄暮正明大酔して坐に堪へず、漸くにして辞し去り、帰途芝赤羽を過る時、佐々木只三郎に邂逅し、互いに一礼を表す、正明痛く頭を下げて礼をなす、忽ち魁偉の一男子、正明の後に現はれ、大喝一声電光一閃の間に、倐忽として正明の肩背を斫る、事不意なるを以て、正明刀を抜くに遑なく、惜乎終に斃る、是れ実に速見又四郎なり、其他永井某、高久某も亦之に與り、事成るを見て遁逃す」(『泥舟遺稿』)

 すすめられた駕籠を断って、歩いて帰ると言ったらしい八郎だから、大酔していたなどというのも泥舟一流の誇張であるが、前にあらわれた佐々木に挨拶するところを、後ろから迫った刺客に斬られたというのは、増戸武兵衛が目撃した傷の状況とも合致している。
 おそらく「一向二裏」という赤穂浪士も使った戦術に、八郎ははまったのである。正面の相手に気を取られているときに、後ろの二人の敵に斬られたのであろう。
 ところで泥舟はもとより目撃者ではない。では誰からこの様子を聞いたのであろうか。刺客たちからか。その可能性もあるが、私は別の人間から聞いたと推測している。石坂周造である。
 石坂周造の『石坂翁小伝』に、こう書かれている。

「清川(ママ)八郎が赤羽橋で暗殺されたと云ふことを仄に聴くや否や其の時分は人力と云ふものはございませぬで急ぐ時には四手駕籠、是に乗って飛ばして……」

 誰かが急いで告げにきたのならば、石坂はその人物名を忘れることはないだろうし、「仄に聴くや」などという微妙な言い方をしなくてすんだはずだ。石坂は現場近くにいたことを隠そうとしているとしか思えない。
 馬喰町の石坂の宿舎で一報を聞き、一の橋の現場へ駆けつけたにしては、石坂の到着はあまりにも早すぎるのである。
 大川周明は『清河八郎』で、「石坂周造は、馬を駆って飛ぶが如く現場に駆け付けた」と書いているが、そう書きたくなる気持ちもわからないではない。しかし石坂に伝えた者の所要時間もあるわけだから、石坂の到着はどっちにしたって早すぎるのである。