明治2年8月7日、水戸藩知事となっていた昭武は、蝦夷地開拓に従事することを新政府に願い出ている。
この年、政府は開拓使を設置し、北海道の大部分を諸藩に分領支配させる政策を打ち出すが、ロシアに対する領土の保全を諸藩の武力に頼ろうとする意図が裏にあった。昭武の申請は、むろん願ったり叶ったりで、水戸藩には天塩郡苫前、天塩、上川、中川、麟島の5郡の管轄が認められた。
昭武は北海道に自らおもくのだが、北海道行きにどうしても随行させたい人物がひとりいた。ほとんど強引に、その人物を同行させることに成功している。
その人物とは静岡藩預かりの身柄となっていた高松凌雲である。そんなわけで凌雲は、昭武一行に途中で合流した。
昭武と凌雲の再会の場面を、吉村昭は小説『夜明けの雷鳴』で次のように書いている。
「昭武が休息をとっている茶屋に入った凌雲は、昭武の前で平伏し、パリで医学修行を許してくれた厚情に対し、感謝の言葉を述べた。昭武は、背丈が伸びて体もがっしりとしていて、凌雲は、青年らしくなった姿に眼頭が熱くなるのを感じた。昭武は、なつかしそうに声をかけ、箱館戦争での労をねぎらった」
作家は凌雲側から描写しているけれど、眼頭が熱くなったのは昭武のほうではなかっただろうか。心の中で泣いていたのは昭武のほうではなかっただろうか。
もっとも北海道における諸藩の分領支配は、明治4年8月の廃藩置県によって一斉罷免となったから、昭武の開拓事業そのものは、結果的に挫折したような形に終わる。
凌雲はのちに、貧民を無料で診療する同愛社を立ち上げ、その同愛社に寄付をする篤志家を「慈恵社員」と呼んだ。のちにというのは、同愛社設立が明治12年だからであるが、慈恵社員の中には、徳川昭武の名があり、渋沢栄一の名があった。そして明治15年3月の同社の総会の来賓のなかには、榎本武揚の姿があった。
この年、政府は開拓使を設置し、北海道の大部分を諸藩に分領支配させる政策を打ち出すが、ロシアに対する領土の保全を諸藩の武力に頼ろうとする意図が裏にあった。昭武の申請は、むろん願ったり叶ったりで、水戸藩には天塩郡苫前、天塩、上川、中川、麟島の5郡の管轄が認められた。
昭武は北海道に自らおもくのだが、北海道行きにどうしても随行させたい人物がひとりいた。ほとんど強引に、その人物を同行させることに成功している。
その人物とは静岡藩預かりの身柄となっていた高松凌雲である。そんなわけで凌雲は、昭武一行に途中で合流した。
昭武と凌雲の再会の場面を、吉村昭は小説『夜明けの雷鳴』で次のように書いている。
「昭武が休息をとっている茶屋に入った凌雲は、昭武の前で平伏し、パリで医学修行を許してくれた厚情に対し、感謝の言葉を述べた。昭武は、背丈が伸びて体もがっしりとしていて、凌雲は、青年らしくなった姿に眼頭が熱くなるのを感じた。昭武は、なつかしそうに声をかけ、箱館戦争での労をねぎらった」
作家は凌雲側から描写しているけれど、眼頭が熱くなったのは昭武のほうではなかっただろうか。心の中で泣いていたのは昭武のほうではなかっただろうか。
もっとも北海道における諸藩の分領支配は、明治4年8月の廃藩置県によって一斉罷免となったから、昭武の開拓事業そのものは、結果的に挫折したような形に終わる。
凌雲はのちに、貧民を無料で診療する同愛社を立ち上げ、その同愛社に寄付をする篤志家を「慈恵社員」と呼んだ。のちにというのは、同愛社設立が明治12年だからであるが、慈恵社員の中には、徳川昭武の名があり、渋沢栄一の名があった。そして明治15年3月の同社の総会の来賓のなかには、榎本武揚の姿があった。