小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

最後の将軍の弟  23

2009-02-25 16:10:49 | 小説
 明治2年8月7日、水戸藩知事となっていた昭武は、蝦夷地開拓に従事することを新政府に願い出ている。
 この年、政府は開拓使を設置し、北海道の大部分を諸藩に分領支配させる政策を打ち出すが、ロシアに対する領土の保全を諸藩の武力に頼ろうとする意図が裏にあった。昭武の申請は、むろん願ったり叶ったりで、水戸藩には天塩郡苫前、天塩、上川、中川、麟島の5郡の管轄が認められた。
 昭武は北海道に自らおもくのだが、北海道行きにどうしても随行させたい人物がひとりいた。ほとんど強引に、その人物を同行させることに成功している。
 その人物とは静岡藩預かりの身柄となっていた高松凌雲である。そんなわけで凌雲は、昭武一行に途中で合流した。
 昭武と凌雲の再会の場面を、吉村昭は小説『夜明けの雷鳴』で次のように書いている。
「昭武が休息をとっている茶屋に入った凌雲は、昭武の前で平伏し、パリで医学修行を許してくれた厚情に対し、感謝の言葉を述べた。昭武は、背丈が伸びて体もがっしりとしていて、凌雲は、青年らしくなった姿に眼頭が熱くなるのを感じた。昭武は、なつかしそうに声をかけ、箱館戦争での労をねぎらった」
 作家は凌雲側から描写しているけれど、眼頭が熱くなったのは昭武のほうではなかっただろうか。心の中で泣いていたのは昭武のほうではなかっただろうか。
 もっとも北海道における諸藩の分領支配は、明治4年8月の廃藩置県によって一斉罷免となったから、昭武の開拓事業そのものは、結果的に挫折したような形に終わる。
 凌雲はのちに、貧民を無料で診療する同愛社を立ち上げ、その同愛社に寄付をする篤志家を「慈恵社員」と呼んだ。のちにというのは、同愛社設立が明治12年だからであるが、慈恵社員の中には、徳川昭武の名があり、渋沢栄一の名があった。そして明治15年3月の同社の総会の来賓のなかには、榎本武揚の姿があった。

最後の将軍の弟  22

2009-02-23 23:35:35 | 小説
 よく知られているように、榎本ら脱走軍を「authorities de facto」と認めたのは、11月に横浜から箱館に派遣された英仏軍艦の両艦長だった。この時点で「デ・ファクト(事実上)の政権」と、対外的に承認させるところまでは、徳川脱走軍は、うまく事を運んでいたのである。
アメリカとプロシアも榎本政権を認めようとしていた。
 ふたたび保谷徹『戊辰戦争』から借用。
「脱走軍側が長期的にどのような構想をもって蝦夷地支配にのぞんだのかは、いささか図りかねるところがある。結果論的には無謀としか思えないが、国際港であった箱館を掌握し、諸外国の承認を得て北方ロシアとの緩衝地帯を形成、蝦夷地開発によって旧徳川家臣団を養うという大義名分に依拠したことは間違いない。しかしこのためには、列強による内戦継続・交戦団体としての認定が不可欠であり、さらに列強を仲介者とすること以外に新政府側と対等に張り合うことはできなかった」
 しかし、昭武の出兵受諾で列強の態度はあっさりと榎本軍を「賊徒」とみなす方向に転換したのであった。
 戊辰戦争最後の決戦である箱館戦争の詳細について語る必要はもはやないであろう。
 明治2年5月11日の新政府軍の箱館総攻撃がヤマ場だった。その翌日の12日、箱館病院の院長だった高松凌雲のもとに薩摩藩士池田次郎兵衛と村橋直衛が降伏勧告の仲介を依願している。凌雲の人柄は薩摩藩士にも信頼感を与えたもののようだ。
 五稜郭開城は5月18日である。
「成敗は兵家のこと 何ぞ苛論を為すを須いん」
 榎本は漢詩を詠み、その最終行を、そう結んだ。
 徳川脱走軍の敗北を、昭武がどんな思いで噛みしめたか。自分たちのために戦っている兵士たちを、結果的に追い詰めたという自責の念のようなものは、どこかにあったはずである。
 だから贖罪のように昭武は、榎本武揚の意志をある意味で継ごうとする。
 北海道開拓である。 

最後の将軍の弟  21

2009-02-21 12:50:09 | 小説
 さてところで「昭武は箱館に行くことになった」と書いて、「行った」とは書かなかった。そのことについて述べなければならない。
 宮永孝氏は前掲『プリンス昭武の欧州紀行』の最終章で、こう書いていた。
「明治元年11月23日(1869・1・5)昭武は皇居(東京城)において明治帝に拝謁し、ヨーロッパの体験談を語った、翌日箱館征討の命を受け出征し、戊辰戦争が終わるや北海道の開拓に着手し、明治7年陸軍少尉に任官。(後略)」
 ごらんの通り宮永氏は出征したと書いている。しかし、この記述は正しくない。
 まず新政府の行政官が昭武に宛てた「箱館表賊徒」の追討沙汰書は、12月に出されており、宮永氏のいう11月24日に「命を受け出征」とは、ずれているのである。実際はどうだったのか。
 榎本軍の追討を、徳川家に命じるというのは、新政府のまことに巧みな高等戦略だった。榎本軍の大義名分は消滅するからである。
 最初は静岡の徳川亀之助(家達)に討伐出兵を命じたのであった。これが11月5日。ところが15日になって、家達の後見松平斉民が家達の幼弱を理由に断ったのである。そこで徳川慶喜その人を出兵させるべきだという案が浮上した。これには勝海舟や大久保利通が乗り気だったらしいが、慶喜を起用するには彼の謹慎を解除しなければならず、この代案もつぶれた。
 もしこれが実現していれば、榎本軍は抵抗せずに降伏していたかもしれず、内乱はもっと早く終結していただろう。勝の狙いはそこにあったはずだ。
 いずれにせよ昭武の出兵案は第3案であったのだ。昭武はここでも慶喜のいわば名代であるけれど、彼を青森口総督を兼ねていた清水谷公考箱館府知事の指揮下に入れることが決まったのは、11月27日だった。先の行政官の沙汰書が「12月」というのは、平仄が合うのである。
 ところがこの沙汰も正月になって取り消され、水戸藩としては200の兵を青森に送ったにすぎなかった。
 では昭武に追討令が下ったことは、何の意味ももたらさなかったかというと、そうではない。
 保谷徹氏『戦争の日本史18 戊申戦争』(吉川弘文館)の一節を以下に借用しよう。
「出兵令に対する昭武の請書(受諾書)は、写しが作成されて各国へ手交された。このことによって、脱走軍が文字通り主君をもたない反乱軍であることを各国へ印象付けようとしたのである。実際、英国公使パークスは、東北諸大名の降伏によって内戦は終結したと認識しており、列強が日本の領有主体と見ていたのはまさに幕藩領主であって、幕府でも朝廷でも大名でもない武装集団が彼らの支持なく行動を起こしてもこれを容認しうるものではなかった」 

最後の将軍の弟  20

2009-02-19 14:49:24 | 小説
 昭武が帰国したその8日前の10月26日、箱館五稜郭は旧幕軍によって占拠されていた。旧幕軍とは、いうまでもなく榎本武揚らの徳川脱走軍である。
 徳川海軍の副総裁であった榎本が艦隊(開陽ほか8艦)を率いて品川沖を脱し、北方をめざした大義は、檄文「徳川家臣大挙告文」に明確にされている。「徳川氏家臣のため蝦夷開拓のことを請い求めた」のである。ただ彼は「今唱うるところ王政なるものは、真に天下の輿論を尽くせしものならずして、わずかに一、二強藩の独見私意に出て成れるもの」と新政府を痛烈に批判した。
 勝海舟は、これより前に榎本の自重をしきりにうながしていたが、ついになだめることはできなかったのである。勝は日記で嘆いた。「嗚呼、士官輩わが令を用いず」
 ところで、この旧幕軍にはフランス軍人たちも加担していた。幕府の軍事顧問をしていたブリュネ砲兵大尉、カズヌーヴ伍長ら、それに上海から箱館に直接やってきた砲兵らを含め10人のフランス人がいたのである。
 さらに榎本軍には高松凌雲も参加していた。昭武の渡仏のさいのお付き医師兼パリ留学生であった。昭武より早く慶応4年4月にパリを発った帰国組のひとりで、5月には日本に帰っていた。
 高松は福岡県小郡の出身、もともとは慶喜の奥詰医師で、幕府への恩義から榎本艦隊に身を投じていた。武士の魂を持った医師と称される。箱館戦争では敵味方の区別なく戦傷者の治療に専念した。この魅力的な人物のことは吉村昭が小説『夜明けの雷鳴ー医師・高松凌雲』(文春文庫)に書いている。
 さて私は何を言わんとしているのか。昭武の帰国途中の上海で、米田某が昭武の箱館行きを勧めたことは前に書いた。昭武にしても、高松がおり、フランス軍人とは言葉も通じるし、うってつけではなかったかと思うのだ。まさに五稜郭でも、昭武の到来を待っていたかもしれない。
 榎本が新政府に送った嘆願書の趣旨は以下のようなものであった。
「私たち徳川家臣は30万人余り、それが70万石に領地を縮小されては、みな飢え死にします。ですから、この蝦夷地を私たちに下賜してほしいのです。そうしていただければ同胞を呼び寄せ、原野を開拓し、朝廷のため北方の警備を引き受けしたく存じます。箱館府との激突は、清水谷府知事のもとに嘆願におもむいたら賊徒の悪名をこうむり、夜襲をうけたので仕方なく応戦したまでで、他意はありません。蝦夷地に徳川血統の者1人お遣わし下さい。さすれば私たちは一層奮発して朝廷への忠勤に励みます。第一にお国のため、第二に徳川のため、どうぞこの願いをお聞きとどけ下さい」
 徳川血統の者昭武は箱館に行くことになる。しかし、榎本が期待したようなかたちではない。なんと皮肉なことに脱走軍討伐側としてであった。 

最後の将軍の弟  19

2009-02-18 22:56:17 | 小説
 マルセーユを発って54日後、船は揚子江河口にあるウーソンに着いた。上海北方の町である。小さな船に乗り移って上海まで行き、その夜はフランス系のホテルに泊まった。
 そこで昭武は衝撃的なニュースを耳にする。
 当日、つまり明治元年10月28日の昭武の日記の一節。
「…夜、4人の日本人に会い、日本の様子を聞く。不幸にも会津公子は完全に敗れた」
 昭武は会津戦争とその結果を知ったのである。
「会津公子」というのは会津藩主松平容保の養子松平喜徳のことだが、幼名は余九麻呂。そうなのだ、幼名余八麻呂だった昭武の弟であった。
 昭武の日記は、いつでも感情の抑制がきいていて、凛とした資質がうかがえるけれども、この日も彼はくだくだと書かない。相当に心は乱れたはずだが、「不幸にも」という言葉をはさんだだけで、もろもろの想念を封じ込めたのである。
 渋沢栄一の書いたものと突き合わせると、会津落城を知らせた日本人は米田圭次郎(長野慶次郎)、そして一柳幾馬と2名までは姓名がわかるが、あとの二人はわからない。
 米田らは武器商人スネル(注)に同道して上海に来ていたらしい。ここで米田は、昭武をこのまま箱館にお連れして旧幕軍の首領と仰げば全員の士気があがると、熱っぽく説いたというが、渋沢は拒絶した。
 昭武がどういう思いで、この話を聞いていたか、さっぱりわからない。ともあれ上海からそのまま箱館に行くのは、いかにも無謀だと判断はできたであろう。なにしろ兄の慶喜は恭順の態度をくずしてはいないからである。
 翌日、ふたたび乗船して、11月1日には九州をのぞみ、「悪党薩摩めの岸に沿って進む」と日記に書いたことは、前に紹介した。
 横浜に着いたのは11月3日の夕刻5時だった。ここで上陸した。
 フランスに宛てる手紙の下書きには「やっと懐かしい故国に帰ってきました」とあるけれど、その故国の動乱はまだ落着いてはいなかった。
 箱館戦争が待っていた。


(注)スネルについては以前に書いた『幕末の「怪外人」平松武兵衛』を参照。


最後の将軍の弟  18

2009-02-17 13:18:14 | 小説
 昭武がフランスを離れるのは慶応4年9月4日になった。
 明治改元の4日前である。
 帰国にいたるまでの経緯は割愛するが、朝廷からも再度の帰国命令が届いていた。
 帰国の当日、ヴィレットはマルセーユまで見送りに来た。
 昭武は日記に書いている。
「朝、紅茶を飲んでから、中佐・伊東・三輪・小出氏と共に散歩する。まずノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院を訪れ、眼下に広がるマルセイユの美しい景観及び海を眺める。またプラドと呼ばれる庭園を見る。そこからの眺望も絶佳。一度ホテルに戻り、昼頃再び外出。マルセイユの市街の写真を数枚買う。中佐は記念に、いつまでも死なない花、インモルテルの花束を私にくれた。河岸を少し歩く。船が多いが、ル・アーヴルほどではない。雨が降ってきたので、すぐにホテルに戻る。3時に、中佐・渋沢・山高・伊東・小出・井坂・服部・菊池・三輪らと馬車でホテルを出発。ペリューズ号というフランスの郵船に乗船。4時頃ヴィレット中佐に心からのお礼とお別れの言葉を述べた。中佐はそこで我々と別れた。夜8時頃、船は動き出した。海が少々荒れる」
 ヴィレットが昭武に贈った花インモルテルは、キク科の花で、「インモルテル」には「不死」あるいは「永遠」という意味があった。ヴィレットの思いが込められている。
 もしヴィレットが自分たちの師弟愛は永遠だという意味を込めたとしたら、この師弟の関係はたしかにここで途切れたわけではなかった。10年後に再会するのだが、そのことは後で触れよう。 
 結局、昭武がフランスに滞在したのは約1年半、帝王学を学ぶための留学は当初3年から5年を予定していたから、志なかばに終わったのである。
 彼がナポレオン3世に別れの挨拶をするためにピアリッツの離宮を訪問したさいの皇后の言葉はあたたかかった。
「せっかくはるばると御修業に見えたのに御国の大変でとうとう途中で帰国されるのは、いかにも残念です。是非もありません。行末頼もしいご成人を遠くから祈ります」
 昭武は港を離れる船の甲板に出て、暗い海と空をただ黙って見つめていた。

最後の将軍の弟  17

2009-02-15 14:14:33 | 小説
 さて、「ヴィレットはよほどこの少年が気に入っていたと思われる」と前に書いた。ヴィッレトはこんどはル・アーブルで開かれていた海洋博覧会へ昭武を誘ったのである。ヴィレットにすれば、昭武の帰国をなんとか先延ばしにさせたいのである。
 慶応4年7月7日(西暦8月24日)の昭武の仏文日記には
「朝7時、中佐、渋谷、三輪、小出各氏と共に、馬車でホテルを発つ」
とある。
 中佐はむろんヴィレット、お供は渋沢栄一、、それに水戸藩士三輪信昭だが、小出とあるのは横浜の仏語伝習所の生徒であった小出涌之助のことである。幕府の第二次フランス留学生として、慶応3年11月にパリに着き、昭武の学友となっていた18歳の少年であった。
7月8日、昭武は海洋博覧会を見学する。当日の彼の日記から。
「11時に海岸で食事。食後、海洋博覧会を見学。面白いものが多々ある。特に、大水族館の見物がそれであった。アザラシ3頭を見る。ついで絵画館を一周する。3時半、ホテルに戻る。1時間後に私は海水浴をした。快い。夕食後、浜辺を散歩。小出氏と共に水切り石投げをして興じる」
 水切り石投げとは、ほほえましい光景だが、少年昭武のほんとうの心のうちは覗けない。
 長兄の訃報に接し、水戸藩の行く末も気がかりだし、なにより次期将軍という運命を打ち砕かれ、学業半ばににして日本へ帰らなければならないのである。しかも新政府が、帰国後の自分をどう扱うのか、さっぱりわからないのである。
 異国の黄昏の浜辺で、水切り石投げをしている少年は、つかのま思考停止の至福を味わったかもしれない。けれども水面をはじけ飛ぶ小石が海底に消えてゆくように、未来が暗い大きな闇にのみ込まれようとするのを彼は感じていたに違いない。

追記:小出のことを初出では佐賀藩の小出と早とちりしていたのを、訂正した。 

最後の将軍の弟  16

2009-02-12 21:28:24 | 小説
 昭武の旅は10日間続いた。
 シェルブールからカーン経由でル・マンへ。ル・マンからブルターニュ地方に入り、そしてロワール河畔の都市ナントへ。
 昭武のフランス語日記は、それまでの和文日記とうってかわって、精彩を放っている。よほど楽しかったのである。
 植物園に行ったり、美術館に行ったりもした。誰の絵を見たのだろうか、闘牛の絵にひどく感銘を受けている。
 旅の終わりの6月22日(西暦8月11日)の記述。
「朝7時、汽車でナントを離れる。ほぼロワール川に沿って走る。正午頃トゥールで昼食。車窓から麻を植えた大平原が見える。ロワール川が足元を流れる丘の上には、古い城がそこかしこにある。うっとりするような道中。4時パリに着く。有益で楽しい旅であった」
 おぼえたてのフランス語で、これだけの作文ができたのであった。
 しかし、その「うっとりするような」楽しさは、日本からの手紙によってすぐに打ち消された。訃報が届いていたのである。水戸中納言慶篤(よしあつ)の死の知らせだった。
 慶篤は水戸藩10代藩主で、いうまでもなく昭武の長兄だった。つまり水戸藩9代藩主斉昭の長男が慶篤であり、7男が慶喜、18男が昭武だったのである。
 昭武は5日間、喪に服した。
 おりしもナポレオン1世の誕生日を祝う大祭があって、パリは賑わったけれども、昭武は外には出かけなかった。夜のシャンゼリゼ大通りの両サイドにガス燈が連なり、錦の帯のようになった美しい夜景を、渋沢栄一は凱旋門の上から眺めていたらしいけれど。
 ちなみに昭武はのちに11代水戸藩主となる。なぜかこの少年には、あまり実態がともなわず、短期に終わる役回りがいつもついてくるのであった。

最後の将軍の弟  15

2009-02-11 23:58:33 | 小説
 ヴィレット中佐が最初に案内したのは、映画「シェルブールの雨傘」で私たちにもなじみのある、あのフランス西北部の港湾都市だった。
 昭武のお供は、渋沢栄一と水戸藩の小姓頭取だった菊地平八郎のふたりだけであった。
 慶応4年6月14日、西暦でいえば真夏の8月2日の日曜だった。朝8時にホテルを馬車で発って、サンラザール駅で汽車に乗った。
 シェルブールに着いたのは夕刻の5時頃だった。ホテルの部屋に入って、鏡に映った自分の顔に、昭武はびっくりしている。「まるで黒人だ」
 汽車でふたつのトンネルをくぐったのだ。長い方のトンネルは2365メートルあった、と昭武は日記に書いている。ヴィレットが教えたのであろう。蒸気機関車だから、窓を閉めなければ煤煙が車内に流れこんでくるのだ。 これは私も少年の頃に経験がある。ジーゼル化される前の土讃線は、夏には乗るものではなかった。高松から高知までトンネルだらけなものだから煤煙で白いワイシャツなどはいっぺんに汚れた。煤けた姿で私は帰省したものだった。昭武の驚きが、私には望郷の思いと重なりつつ、よくわかる。
 昭武らは翌日、海軍の造船所を訪問、さらにフランス海軍の戦艦などを見学してホテルに戻った。
 以下は昭武が当日のことをフランス語で記したものの訳文(注)である。
「夕食後、町を散歩し、ナポレオン一世の像を見る。この像のナポレオンは、イギリスの方角に威圧的に手を伸ばした格好で作られているために、イギリス人には不評とのことだ。海岸で気持ちよくコーヒーを味わう」
 なんとも暗示的な記述である。ナポレオンはイギリス侵攻を果たせなかったが、その怨念の像に、昭武はイギリスと薩長に敗れたフランスと幕府をみたのではなかったのか。
 それでも海岸では夕風に涼がとれて気持ちよく、コーヒーは苦かったけれど、彼のフランス語は、そうは書かなかったのである。
「気持ちよくコーヒーを味わう」


(注)前掲『徳川昭武幕末滞欧日記』所収

最後の将軍の弟  14

2009-02-10 18:34:22 | 小説
 その後の昭武の日記を見てみよう。
 慶応4年4月14日(西暦では5月6日)付。「今日 日本より之手紙着す。但大に悪新聞也」
 当日、慶喜恭順の報が届いたようである。
 同年5月15日付。
「昼後 日本より之手紙着。但上様御引取、水戸え(一字判読不能)入被為御謹遊候様、御所御沙汰に為る」
 この日、パリの空は陰鬱に曇っていた。彼は午前中にはジムに通っていたが、館に帰ってきて、兄である上様の無事を、ともかく確認したわけである。
 よく知られているように、慶喜は上野東叡山寛永寺、大慈院に謹慎し「億万の生霊塗炭の苦を免れ候様致したきと」ひとえに恭順の意をあらわし、のち水戸に移り、さらに駿府に移って宝台院で謹慎した。ちなみに謹慎の解けるのは、明治2年9月28日だった。
 昭武の5月15日付日記には続きがある。夕方になって、エラールが昭武宛ての御書付を届けに来たのだった。
「私共初帰国之由御沙汰に為る」と彼は記している。
 伊達少将と東久世前少将連署の「御書付」は、王政御一新につき帰国せよとの達し書だったのだ。
 宛名は「徳川民部大輔殿」となっていた。
 昭武は「民部大輔」という官位を持っていたのだ。だから、海舟などは彼のことを「民部」と呼んで回想している。
 昭武の教育係のヴィレット中佐は、すぐに帰るなと昭武にいう。フランスに帰ってくるロッシュと会って、よく事情をただしてから帰国しても遅くないという意見だったのである。
 しかし昭武は帰国の決心をした。ヴィレットはよほどこの少年が気に入っていたと思われる。名残を惜しんだのである。せめてフランス国内をもっと見学して、軍港なども視察して帰るべきだとすすめた。むろん同行する気でいる。
 昭武もその気になった。

最後の将軍の弟  13

2009-02-10 00:13:41 | 小説
 ここで渋沢栄一の養子平九郎の手紙に触れておこう。
 3月8日付でパリの渋沢栄一に宛てたその手紙に昭武の名が書かれているからである。以下は渋沢華子氏の著書(前掲)からの孫引き。
「…徳川氏が滅亡しましたが、この手紙を読まれる頃に日本はどんなことになっているか、ただ悲しんで泣くだけでございます。旗下以下有志たちは、官軍が迫ってきた時は死をもって謝罪しますが、それを聞いてくれない時は、上野の山で慶喜公にお伴いたして滅びる覚悟でおります。私はただパリの昭武公子にのぞみを託しているのみで、帰国されるまでは草の間に忍んででも生きていたいと思っております。しかしながら早いお帰国は不満に思ってております。一度は関東は薩長のものとなりますが、必ず混乱するでしょうから、そのときを狙ってお帰国されてほしいと思っております。この手紙がお別れになるかも知れません」
 哀切な平九郎の心情は、読みやすくされた引用文からも、じゅうぶんにうかがうことはできる。
 しかし平九郎は昭武についに会うことはなかった。5月23日、武州血洗島近くの黒山村で官軍に追われて自決するからである。
 さて平九郎だけではなかったはずだ。パリの昭武に、幕府の起死回生の期待と望みを託したのは。
 ところが、日本では平九郎が手紙を書いた5日後には江戸城明渡しが決定し、その翌日には五箇条の誓文が交付されている。3月14日である。前に引用した昭武の当日の日記の「悪き新聞」はむろん、このことではない。鳥羽伏見での幕府軍の敗退のことであった。
 もはや昭武を擁して云々などということは望むべくもない状況になっていた。
 しかも慶喜びいきで、たえず幕府の味方をしていた駐日公使ロッシュは本国政府から解任され、フランスの対日政策はがらりとと変ったものになっていた。 

最後の将軍の弟  12

2009-02-08 22:24:21 | 小説
 昭武が兄慶喜の大政奉還を知った日、つまり慶応3年1月3日は、鳥羽伏見の戦いが勃発した日だった。当時の通信事情では、これだけの時間のずれがあるわけだが、風雲急を告げていた幕末史のいわば蚊帳の外に、昭武らはいた。
 昭武は相変わらず、馬術、ジム通いなどの留学のメニューを淡々とこなしていた。表向き、日記からは昭武の日常はそう見える。
 しかし彼が心に葛藤ををかかえていなかったはずはない。なんのための渡仏留学だったか、意味がなくなっているからである。日本の主権者の名代としてナポレオン3世に謁見し、スイス大統領に会い、オランダそしてベルギー、イタリアの国王にそれぞれ謁見、イギリスではヴィクトリア女王にも会った。女王に謁見したのが慶応3年11月9日だった。その頃はすでに兄は政権を返上していたのだ。
 昭武が鳥羽伏見の戦い勃発と、慶喜の敗北を知るのは、3月になってからである。
 3月14日付日記の記述。
「朝馬術を修行す。今悪き新文(ママ)有り」
 3月16日付日記の記述。
「昼前 日本より之手紙を受とる。但悪き新聞也」
「17日(4・9)の夕刻4時、栗本、フリューリ・エラール、カションらはペルゴレーズの館に集まると、ヴィレット中佐ほか昭武のお付きのものたちと一緒に協議をはじめた。議題の中心は栗本のパリ逗留をめぐってのものであり、当人は日本の現状を考えた結果、全権としてパリにとどまる意味が薄いと判断し、帰国の肚(はら)を決めた。昭武もこれまでは貴人としてあつかわれてきたが、諸経費を節約するためにも、ふつうの留学生とおなじようにし、留学生たちの住居があるセルシミジー街に移ってもらうといった方針をたてた」
 引用は前掲の宮永孝『プリンス昭武の欧州紀行』からだが、栗本の全権としての立場よりなにより、昭武の立場そのものがなくなっているのである。少年昭武は黙って栗本らの意見を聞いたに違いない。兄が心配だから私も帰る、などと言い出した気配はない。

最後の将軍の弟  11

2009-02-05 21:42:20 | 小説
 大政奉還のニュースがパリに届いたのは慶応4年1月2日だった。
 経費節減のため一足先に日本に帰っていた杉浦愛蔵(外国奉行支配調役)が渋沢栄一に手紙で知らせたのである。
 杉浦の発信日は慶応3年10月21日。帰国してほどなく幕府の終焉という「変革」に接した杉浦だが、彼自身が驚ろき、かつ困惑したはずである。江戸表では京都の状況がよくわかりかねる、と渋沢に訴えている。そして昭武が帰国して、徳川幕府を挽回することを期待する、といったことも付け加えた。
 渋沢は、その2日付の日記に「夕5時半、御国御用状着、御政態御変革之儀其外品々申し来る。夜栗本安芸守来、御用状相廻す」とある。
 栗本は向山に代って駐仏公使となっていた。前掲の渋沢華子氏の著書『渋沢栄一パリ万博へ』には、その夜のことがこう描写されている。

〈その夜、栗本安芸守は仮屋形でみなを集めてこの用状を見せた。
 みな愕然として「うそだ!」と連発していた。ヴィレットは誤報ですと昭武を慰めていたが、栄一は、京都でも拙劣な幕政に悲憤し、また、パリ万博での薩摩藩の巧妙な政略を知っているので、当然のことと驚かなかった。
 しかし、かって倒幕を企てた栄一は、幕臣の身となって遠い異国で幕府瓦壊の報を知り、運命の皮肉と自らの無力さを痛感しただろう〉

 ここで「ヴィレット」とあるのは、フランス政府任命の昭武の教育係レオポルト・ヴィレット参謀中佐のことである。
 ところで昭武は、ほんとうに、この場にいたのであろうか。
 昭武の2日の日記では「昼後留学生之旅宿え参り、夕七時帰館」となっている。彼がニュースを知るのは翌3日である。
「昼前馬術を修行す。夕刻日本より悪き新聞有り」と記しているのだ。
 渋沢はシャルグランの借家にいて、昭武とは別の場所で寝泊まりしていたことがあった。2日の夜、渋沢と栗本は、昭武の館ではなく、つまり昭武ぬきで政変について語り合ったのではないだろうか。そして昭武には一日、間をおいて知らせたのではないかと思う。少年昭武の運命にかかわる一大事であることもさりながら、彼の前で慶喜を論評することは避けたかったに違いないからだ。

最後の将軍の弟  10

2009-02-04 23:20:11 | 小説
 さて、話を戻さなければならない。
 慶応3年8月6日、西暦では秋の9月3日になるけれど、パリは晴れていた。早朝6時に昭武ら一行はペルゴレーズ街の借家を出て、列車でスイスに向った。ちなみに、この借家は資金節約のため、高級ホテルから移った館で、ロシア人貴族の屋敷だったらしい。
 夜5時頃に、バーゼルに着いたと、昭武は日記に書いている。ライン川沿いの景色に心を奪われたのであろう、「景色尤善し」と記している。
 いったい昭武の日記は、簡潔にして無駄がない。なさすぎるほどである。現代でいえば中学生の年齢で、実際パリで撮影された衣冠姿の彼は、あどけない顔をした背の低い少年である。ところが日記は、なかなかに大人びていて、その聡明さと感性の豊かさがはしばしににじんでいる。慶喜が自分の後継者として、そして代理人としてヨーロッパに送り、彼に帝王学を学ばせようとしたのも、なるほどとうなづける。
 絵もなかなか上手である。たとえば仏文日記に添えられた香港のスケッチなどは、もしかしたら画家の才能もあったのではないかと思わせる。そのスケッチの技法は画学教師のティソに教わったと推測されているが、立派な現代風スケッチである。
 ともあれ、資金のめどがついたから、パリを発ち、各国巡歴にいたるわけだが、最初にスイスを訪問し、オランダ、ベルギーを巡り、いったんパリに戻り、次にイタリア、英領マルタを訪問、またパリに戻って、最後にイギリス訪問と続いた。
 ロンドンからドーヴァー経由で、パリに戻ったのが11月22日であった。
 くどいようだが慶応3年11月22日である。
 本国日本ではなにがあったか。
 わかりやすい例をあげれば、この月に坂本龍馬はもう暗殺されている。前月の10月には、将軍慶喜が大政奉還をしていた。

最後の将軍の弟  9

2009-02-03 06:39:30 | 小説
 パリ万博が終われば、昭武一行は、条約を結んだ欧州諸国を歴訪しなければならなかった。なにしろ昭武は「大君」の弟にして、代理である。パリでの宮廷外交ばかりでなく、日本の主権者のプリンスとしてのお披露目が目的のひとつでもあった。幕府の存在意義を認めさせる歴訪で、すでに該当国には訪問通知済みだったのた。
 ところがパリ滞在で持参した5万ドルは使い果たしたのである。エラールとクレーから3万ドル借りたが、それでもパリで立ち往生という格好になった。
 結局、オランダの貿易会社のハンドル・マスカペーから5万ドル、イギリスのオリエンタル・バンクから5000ポンドを借りることになった。ともに窮状を知らされた幕府の留学生が奔走している。アムステルダムには赤松大三郎がいた。渋沢栄一らがアムステルダムまで金を受け取りに行っている。イギリスのほうは、ロンドン留学中の川路太郎や中村敬輔らが橋渡しをした。
 少年昭武の日記からは、以上のような背景を知ることはできない。ほとんど毎日のように馬術の稽古に通っていて、「馬術を修行す」という記述だけで終っていたりする。ピストルを買った、などという記事もある。あるいは、お付きのものも買ったのではなかろうか。
 年が変って、慶応4年の日記(パリ留学中)に、実は赤松と川路の名があらわれる。
 慶応4年4月4日「朝馬術を修行す。夜四半時頃、阿蘭陀之留学生大三郎来る」
 慶応4年21日「昼後川路太郎ロヲンドンより来る」
 それぞれ当日の記述がこれだけである。
 昭武は彼らの尽力によって、パリを発つことができたのを知っていただろうか。たぶん知っていたと思う。
 彼はパリでフランス語を習得し、仏文で帰航日記をしたためるまでになるのだが、注目すべき記述がある。
 話は先に行きすぎるけれども、明治元年12月14日付の書き付けだ。
 訳文(前掲の『徳川昭武幕末滞欧日記』所収)は「朝、故国の陸が見える。正午頃、あの薩摩めの岸に沿って進む」とある。
「あの薩摩め」でニュアンスはわからなくもないが、訳者はなぜこんな薩摩に遠慮がちな意訳をしたのだろう。
 原文は「gredin satouma」となっている。「悪者薩摩」でよろしいのではないか。
 昭武は薩摩に煮え湯を飲まされ、資金に窮したことも知っていて、思わずこういう表現になったものと思われる。日本の陸地を見て、まず最初の感慨が薩摩への憎しみだったのである。