小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

相楽総三と赤報隊を考える  3

2008-08-30 21:08:09 | 小説
 相楽総三は、文久3年の桃井可堂(深谷の吉田松陰ともいわれる)の赤城山挙兵、そして翌年の元治元年の水戸天狗党の筑波山挙兵にそれぞれ参加していた。関東における尊王攘夷の挙兵(注)であるが、いずれも挫折している。
 むろん相楽は、これらの事件では脇役でしかない。とりわけ筑波山の挙兵では、水戸の内部抗争の実態に嫌気がさして戦線を離脱している。しかし相楽は、つまり青年小島四郎は、こうした過激な政治行動に参加することによって、したたかな尊攘派の草莽の志士として頭角をあらわしてゆく。
 相楽総三と薩摩藩の接近に、一役かったのは土佐の板垣退助であった。ふたりは、たぶん江戸で知り合っているのだが、慶応3年の相楽の上京で、薩摩藩との関係は決定的なものになった。
 相楽について後に板垣退助はこう語っている。
「それから薩摩に附くか土佐へ附くか、元土佐邸に居ったものであるがどちらに附くかと云ふ話で、当人の望に任せやうと云ったら、私は薩摩に附くと云ふ、それから薩摩の方へ附いて居た」(『板垣退助 大政返上建議前予が西郷君に於ける討幕の密盟〈抜〉『史学雑誌』大19編第9号所収)
「私は薩摩に附きます」といったのが相楽である。京都では最初は土佐藩邸にいたらしいことがわかる。
 おそらく、相楽は板垣とすでに江戸において知り合いだったはずだ。平田国学の塾では、土佐藩士もおり、先に引用した平田延胤の日記には、板垣退助の名も「乾退介」として登場するからである。

(注)長谷川伸は『相楽総三とその同志』の「自序」で、「関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は討幕、東は援幕と印象づけられがちだが、その二ツとも実相ではない」と書きつけている。たしかに関東でも討幕運動はあったのである。 

相楽総三と赤報隊を考える  番外 補遺

2008-08-27 14:17:15 | 小説
「番外」を書いた時点では、私はまだ有名な長谷川伸の労作『相楽総三とその同志』を読んでいなかった。私なりの思惑があって、読むのを後回しにしていたのだ。だが、ふと長谷川伸も相楽の手紙には言及しているのではないかと思い立ち、このたび目を通してみた。
 はたせるかな、次のような記述があった。

「京都に四郎がいたのは慶応ニ年三月二十七日から翌年九月下旬までである。その間に江戸の姉はまが送った手紙が一通だけ現存している。四郎が上京した年の十ニ月十五日付のものである」

 さて、繰り返しになるけれど、3月19日付の手紙に「京都には3月27日に着いた」と書いてあるから、それは前年のことであろうと推測せざるを得ないわけだが、正しい日付が3月29日ならば、わざわざ不自然な前年到着としなくてよいのである。
 ところで年次不詳とされている姉のはまの手紙を、長谷川伸はなぜ慶応2年と特定されたのであろうか。
 旅に出たまま家に帰らぬ弟をいさめた内容だが、「木曽路の谷の丸木の橋のあやふさおもひやり」とあるように京都にいる相楽に宛てたものとは思われない。しかも、こんな手紙を貰っていれば、相楽もなんらかの言葉を返したはずだが、3月29日の手紙では「姉上様方も何も替る義は無之義と奉存候」とあるのみだ。だいたい、もしも慶応2年の12月の手紙なら、姉は相楽の息子の様子などを知らせたはずだが、嫁や息子についてはいっさい書かれてない。たぶん、この姉の手紙は相楽がまだ独身の頃のものだ、と思われる。
 ちなみに長谷川伸は「姉はまの手紙は十二月二十五日付であるから、明らかに慶応二年のものである」と別の個所でも断定している。
 ほら、ここでも誤植(注)がある。
 姉の手紙の日付は「極月十余り五日」つまり12月15日であって25日ではない。前の文章では正しく15日付となっているから、誤植以外のなにものでもないのだ。
 相楽総三の年譜を見たことがないが、年譜の作成をされる場合は、以上のことは留意されるべきだと思う。

(注)引用は講談社の『日本歴史文学館16・長谷川伸』所収の『相楽総三とその同志』からである。

相楽総三と赤報隊を考える  番外

2008-08-26 23:01:20 | 小説
 話を進めるにあたって、ここで少し史料上の検討をしておきたい。番外とするから、読み飛ばしてもらっても結構である。

 野口武彦氏は『赤報隊哀歌』(文藝春秋刊『江戸は燃えているか』所収)で次のように書かれている。

「慶応二年(一八六六)三月二十七日から翌慶応三年(一八六七)の遅くとも五月六日まで四郎が京都にいた事実は、江戸の家族に宛てた手紙によって裏付けられる」

 四郎(相楽総三)が家族に宛てた手紙2通が『相楽総三関係史料集』に収められており、野口氏もこの手紙に準拠している。
 1通目にたしかに「去三月廿七日京師へ着仕候」とある。
 しかし。これは慶応2年ではなく、慶応3年の3月27日と解釈すべきだと思う。活字では、手紙の日付が「三月十九日昼書」となっているから、おそらく野口氏は「去三月廿七日」を去年の三月廿七日と解釈されたのではないだろうか。
 手紙の日付は「三月廿九日」が正しく、たぶん誤植なのである。そのことを証明しているのは二通目の手紙である。
 二通目の手紙は「卯年五月六日認」とあるから慶応三年と特定できる。その手紙の冒頭に「三月二十九日出の御書状四月十一日落手ニ相成り候委細御書面拝見仕先々大安心仕候」と書いてある。
 自分が3月29日に出した手紙が4月11日に届いたという返事をもらって安心したというわけだ。19日ではないのである。
 したがって、京都に着いたという3月27日は、慶応3年と解釈すべきなのである。
 なにはともあれ、京都に着いて二日後に家族あてに手紙をしたためたと見るほうが、ずっと自然ではないか。
 ということは、相楽が京都に来たのは慶応3年になってから、ということになるのだ。

相楽総三と赤報隊を考える  2

2008-08-25 16:39:58 | 小説
 相楽総三、本名は小島四郎である。いくつかの変名を使っていたが、相楽総三はそのひとつであった。天保10年、江戸赤坂生まれとされている。
『相楽総三関係史料集』所収の略伝によれば「総三 幼より幕臣酒井錦之助に養はれ二十歳にして文武両道に秀ず」とある。
 小普請旗本酒井錦之助の下僕だった。「二十三歳の時父に乞ひ、金五千両を懐にして飄然家を出で金を散して同志を糾合し其翌年帰宅す」と略伝は続くが、23才といえば文久元年である。
 「五千両を懐に」という表現にはいささかひっかかるものがあるが、要するに大金を引き出して、旅(東北方面という説がある)に出たということであろう。四男坊に大金をぽんと出して旅行させることの可能な裕福な実家だったことはたしからしい。
 相楽がいつから国学の平田家の門下生になったか定かではないが、「平田翁に和歌を学んだ」という証言がある。しかし平田宗家三代目の「平田延胤日記」の慶応2年12月11日に注目すべき記述がある。
「…小島四郎へ絶交のこと」と書いてあるのだ。そして慶応3年正月24日には相楽の書状をもってきた者がいたが「返却」つまり突き返したと記していた。
 もしかしたら相楽の言動の過激さが平田家に敬遠されたか。相楽としてはなんらかの理解を求めようとしたのだが、拒絶されたのであろう。
 ところで慶応2年といえば、相楽はもう独身ではない。てるという妻がいた。その年の10月には川(河)次郎という男の子の父親になっている。
 妻子を残して、慶応3年、相楽は京都にいる。けれども京都に居ることは他人には内緒にしろ、という手紙を彼は家族に宛てている。なにをしようとしているのか。

相楽総三と赤報隊を考える  1

2008-08-24 12:26:23 | 小説
 慶応4年3月3日、赤報隊隊長相楽総三は、信州下諏訪で部下7人とともに処刑され、30年という短い生涯を閉じた。
 前日から雨が降っていて、その雛祭りの日の夕刻もまだ雨が降っていた。雨にうたれながらの戸外での斬首である。
 処刑のもようを竹矢来の外から見物していた人物の目撃談がある。

「…いよいよ8名の者は一人ひとり斬られてゆく。最後に総三の番になる。太刀を振り上げて後ろに立った者を総三は見上げて、笑顔をしながら、見事に斬れよと云うて、ハハと声をあげて笑った。見物の一同はあっと感声を発した。
 その最後の勇々しさは、とても言葉では語りえない。案の定、その勇々しさに気おされたか、見事打ち損じてしまった。二度目に立った者に向って血みどろな相楽は、斬り損ずると蹴殺すぞと怒号した。その声は手負いの声ではない、三軍を叱咤する声だった。
 見物人はふたたび感歎の声にどよめいた。これもまた失敗、3人目に立った太刀で漸く総三の首は梟木にかけられるようになった」

 引用は「下諏訪旅館亀屋主人談話筆記」(下諏訪町立諏訪湖博物館蔵)からであるが、表記は読みやすいように変えてある。
 この人物によれば、相楽を斬った者のうち、ひとりは三日後に病死し、別の一人は自殺したという噂も流れたらしい。さらに相楽の埋められたところの土は、赤子の夜泣きを止めるまじないになるとして、地元の母親たちが少しづつ持ち帰るようになったことを伝えている。
 赤報隊は官軍の先鋒嚮導隊であったが、その官軍から「偽官軍」で「強盗無頼の党」と烙印を押され、相楽らは処刑されたのである。
 相楽の、いや赤報隊の悲劇にいたる背景には、いったいなにがあったのか。

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  完

2008-08-13 19:43:32 | 小説
 赤松小三郎が暗殺される直前の慶応3年8月、薩摩藩は具体的な武力蜂起の「秘策」を長州藩に明かしていた。
 それは島津久光、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の4人のみが関知する極秘の事項だとも説明された。
 井上勝生『日本近現代史①幕末維新』(岩波新書)から、その「秘策」の概要を以下に写す。
「京都御所に藩兵を入れ、討幕派の公家が結集して制圧、会津藩邸と幕兵の陣営を『急襲』し、『焼き払う』。天皇を男山(京都市南部、八幡市)に移した上で、『討将軍』の布告を出す。藩兵3000で大坂城を制圧し、大坂湾の幕府艦隊を『粉砕』する。関東方面では甲府城に『立て籠もる』という壮大な武力蜂起計画だった」
 さて、赤松小三郎は薩摩のいわば軍事顧問であった。この奇襲作戦を知りうる立場にあったとは考えられないか。
 知りすぎた男として殺されたというのが私の推測であるけれど、ついでに推測すれば桐野利秋の個人的判断による凶行とは思えない。前記の4人のうちの誰かの指示によるものであろう。
 井上氏の文章はこう続く。
「翌9月に、薩摩藩と長州藩はあらためて、出兵『契約書』を結び、芸州藩も加わる。薩摩藩が、9月中に武力蜂起して、天皇を奪い、大坂城へ攻め入ることも、再度、予定された。このように薩摩藩の初めの計画は、京都の政変と同時に挙兵するというもので、12月に実際に起こされた王政復古クーデターより、はるかに武力に頼った、まさに討幕の計画であった」
 この9月の共同出兵「契約書」は、まぎれもなく討幕の薩長軍事同盟であった。
坂本龍馬の調停した「薩長同盟」が、ここで確然としたものになっているのである。
龍馬とからめると、きりのない話になるから、このあたりでおしまいにしよう。
 故赤松小三郎に対して明治の新政府はなにもしなかったが、大正13年に皇太子御成婚贈位内申書に彼の名があげられた。ずっと、たぶんうしろめたく思っていた人間のいたことはたしかだと思われる。そのことを最後に付記しておきたい。 

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  9

2008-08-11 14:19:28 | 小説
 いわゆる薩長同盟が成立したのは慶応2年正月のことだった。
「いわゆる」と書いたのは、最近では「薩長盟約」と呼ぶ学者が多くなったからである。厳密な意味では討幕のための軍事同盟とはいいがたいから「盟約」の方が妥当であろうという見解からである。しかし、「薩長同盟」の用語まで変える必要はないという松浦玲氏のような意見もある。私なども松浦氏の考えに同感である。薩長同盟の端緒はここにあり、それを調停した坂本龍馬の意義が薄まるものでもない。
 薩長同盟の成ったこの年の9月、薩摩藩は小銃1万挺の購入を企図する。なんと1万挺である。これは薩摩の動員可能兵士のほとんどが小銃を持てるような数字である。むろん一回の取引で購入可能な数字ではないが、こうした軍備拡張路線の根底にあるのは「武力討幕」でしかありえない。
 この時期の「武力」というのは、かっての武士たちの「武力」と概念がまるで違う。弓や槍や火縄銃から、戦争の道具は新式の銃砲に変っている。戦争の概念が変わっていると言い換えてもよい。
 たとえば家近良樹氏は「幕末・維新の新視点」というサブタイトルのある『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)の結語部分でこう書いている。
「私は武力討幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はない(対幕強硬派もしくは抗幕派といった言葉で十分だ)と考えているが、もし武力討幕派なるものが成立したとしたら、鳥羽伏見戦争直前の時点だと思っているくらいである」
 いま書き写しながらも、なんとアホなことをいう学者だろうかという思いがわく。
 言葉遊びではないのである。対幕強硬派?こんなふやけた用語で幕末史を語られては志士たちが浮かばれないではないか。
 武力討幕をたんなる観念論のままとらえていては事実の進行と齟齬をきたすのである。戦争直前に、はい今日からは武力討幕派です、といって間に合うようなものではないのである。軍備の拡充と軍制の改革のプロセスが、そのまま武力討幕のプロセスである。薩摩が赤松小三郎を「兵学者」として招聘したのも、軍拡路線の一環であった。
 薩摩はもう後戻りができないところとに来ていた。 

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  8 

2008-08-08 00:06:42 | 小説
 はからずも日記に書かれた事実、桐野が身内の薩摩藩士たちのいるところでは赤松を襲えなかったということは、なにを意味しているだろうか。桐野は日記に書かれているような意味での確信犯ではなかったということだ。
 内心、桐野はうしろめたい行為をしようとしている自分を認めていたのである。
 赤松が「幕奸」ではないことは、多くの薩摩藩士たちが認識していたはずだ。上州藩からのかねてからの帰藩命令をのらりくらりとかわしていた赤松だった。そのことは皆よく知っていたはずなのである。断りきれずになっての帰国だったのである。
 赤松暗殺の真の理由は、薩摩藩の軍備事情が幕府筋へ洩れることを防ぐのと、赤松の思想の抹殺にあった。
 赤松の思想とはなにか。彼は「英国歩兵練法」を翻訳して外国の軍制に詳しいから、薩摩藩はその面をもっぱら引出して、軍事顧問のようにみなしていた。しかし、赤松自身は武力で権力を奪うということには否定的な考えの持ち主だったのである。
 慶応3年9月10日付の兄の芦田柔太郎宛の手紙に、赤松の思想の一端があらわれている。
 「各藩、兵を募り兵力を以て権を取り候なる形勢」であるが、これではとても日本は「良国」にはならないだろう、「只各万国普通之道理を学び候のほか、これ無き事と存じ奉り候」
 と彼は書いている。
 ここで「万国普通の道理」というのが議会政治や選挙で宰相を選ぶということであるのはいうまでもない。赤松小三郎は、あたかも信州の坂本龍馬である。
 その赤松が武力討幕を標榜する薩摩藩士の練兵の師となったのが、悲劇のはじまりだったのである。
 ところで桐野の日記が誰かに読ませるような印象を与えることは前に書いた。その誰かは薩摩藩の者ではありえない。嘘がばればれだからだ。私の推測にしか過ぎないが、長州藩の山県有朋あたりに赤松暗殺のいきさつを報告し、その文面が日記に転用されているのではないだろうか。
 ぞっとするようなエピソードがある。明治になってからの山県有朋と桐野利明の会話。
「あんなに簡単に幕府が倒れるなら、赤松を殺すのではなかった」
 小林利通氏が『松平忠固・赤松小三郎 上田に見る近代の夜明け』(上田市立博物館発行)で紹介している。

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  7

2008-08-05 22:29:51 | 小説
 桐野の日記によれば、当日の赤松暗殺は、あらかじめ計画されたものではなくて、偶発的に実行されたようなおもむきになっている。
「小野清右ェ門、田代五郎左ェ門、中島建彦、片岡矢之助、僕(桐野)より同行、東山散歩、夫(それ)より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕随の賊信州上田藩赤松小三郎」の姿を見かけ、斬る気になったというのである。
 それにしても赤松を形容するのに「幕随の賊」とはなにごとか。もし本気で彼がそう思っているのであれば、以後の彼の行動は矛盾に満ちている。
 桐野らは5人で「散歩」(男が5人で散歩でもあるまいに)していて藩邸に帰るところだった。
 赤松の姿を見つけた桐野は、しかし小野、中島、片岡の3人を烏丸四条南角の「まんじゅう屋」に待たせ、東洞院通りを南下する赤松を田代とふたりだけで追っている。
 なぜ3人を外したのか。
 赤松は仏光寺通りと交錯するあたりで、薩摩藩士野津七次ら3人と出会い、どうやら立話をしたようだ。ここで桐野が躍り出ると思いきや、暗殺をためらっている。いったんやりすごし、「魚棚上る所」で待ち伏せ、そして田代と挟み撃ちにするのだった。
 なぜ味方である薩摩藩士がいては赤松を斬れないのか。「幕随の賊」であり「幕奸」であるなら、みんなで天誅を加えればよいではないか。
 不自然さと矛盾の目立つ日記であるが、なぜそうなるかというと、本音を隠しているからである。
 赤松の帰藩が決まり、伏見で送別会が開かれたとき、桐野が師弟の縁を切るといきまいたというエピソードがある。真偽のほどはわからないが、桐野が日記で赤松のことを師あるいは師であった人として遇することのできなかったことを、私はいぶかしく思うものである。

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  6

2008-08-04 20:53:18 | 小説
 かの有名な東郷平八郎も赤松の門下生だった。
 話は昭和に飛ぶ。
 昭和17年5月、赤松小三郎を顕彰する碑が信州上田城址公園に建立された。「贈従五位赤松小三郎君之碑」は東郷平八郎の直筆である。
 碑の裏面の略伝によれば、赤松は「帝国軍制の創始に寄与貢献」したから「感謝追慕の念」から建立したという。
 注目すべきは、次の文言である。
「…薩藩の京邸に聘せられ其師となる 門下生実に八百名 桐野 篠原 野津 樺山 後の東郷元帥上村大将等其中に在り」
 桐野利秋はまぎれもなく赤松の門下生であったことが明記されているのだが、しかも800名の筆頭にその名があげられているのだ。くどいようだが、その桐野が赤松斬殺の下手人である。
 むろん碑は、赤松が藩命黙しがたく、まさに東帰せんとしたとき、刺客の害にあったと書くけれど、どこか鼻白む文面である。
 東郷平八郎は、桐野が赤松を暗殺したことを知らなかったのであろうか。いや、知っていて贖罪の意味で碑を建てたという見方をする人もいる。(地元の人のブログで、そういう見解を書きつけた方がいる)
 赤松が殺された翌日すなわち9月4日夜、上田藩邸では彼の通夜が行われた。なんと薩摩藩士が30人ほど参集していたという。
 門下生なら通夜に集うのは当たり前で、むしろ少なすぎるのであるが、この30人は、おそらく赤松殺害の下手人が身内の桐野らであったことを知らなかったのであろう。そう思いたい。
 桐野はといえば当日の日記には、仲間8人と叡山で猪狩りをして、暮れに帰邸したと書くのみである。
 師を殺しておいて平然としていられる神経が桐野にはある。
 さて、前にも書いたが桐野の日記には奇妙な克明さがある。けっして、たんなる自分用の覚書のたぐいではない。明らかに誰かに見せるために書かれている。あるいは誰かに読まれることを前提として綴られている、と言っても同じことである。 

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  5

2008-08-03 08:01:07 | 小説
 唐突だが、土佐の製紙のはじまりにまつわる哀話を書きつけておきたい。その伝承の主人公の死は、私には赤松小三郎の死と重なって見えるからである。
 時代は土佐の支配者が長宗我部氏から山内氏に移る頃のことであった。
 伊予の国宇和郡のひとで、新之丞という者がいた。彼は四国巡礼の途中、土佐郡成山村(吾川郡伊野町)で病みつかれて行き倒れた。この新之丞を助け、介抱したのが長宗我部元親の妹の養甫尼と安芸三郎左衛門だった。健康を取り戻した新之丞は、感謝のしるしにふたりに製紙の法を伝授した。そして三人は技術改良を試み、土佐七色紙の製造に成功する。
 山内一豊が入国したさいには、安芸三郎左衛門は七色紙を献上して、田地を与えられて御用紙方を命じられている。ところがその安芸三郎左衛門は、新之丞が故郷に帰る日に、成山村仏ヶ峠で待ち伏せして、彼を斬殺した。和紙の製法が他国にもれることを恐れたからである。
 紙の町伊野には、いま新之丞を顕彰する碑がある。丸い石碑には「紙業界之恩人 新之丞君碑」と刻まれている。しかし、その恩人が暗殺されたことは忘れられているかもしれない。
 さて再び問い直してみよう。赤松小三郎はなぜ暗殺されたのか。
 赤松もまた新之丞と同じく、帰郷しようとしたからである。
 赤松は幕府のスパイだから殺されたのではない。薩摩の軍事秘密保持のために殺されたのである。
 たとえば保谷徹は『戊辰戦争』(吉川弘文館・戦争の日本史18)に、こう書いている。
「薩摩では、上田藩の赤松小三郎を招聘してイギリス式の調練を行っていた。赤松は『英国歩兵練法』の訳者として知られ、長州の大村益次郎と並ぶ西洋兵学者であった。薩摩では多くの士官を育てたが、上田から帰藩命令が出たため、幕府筋へ情報が漏れることを恐れた薩摩藩がのちに暗殺してしまった」
 赤松もまた薩摩にとっては、士官を育ててもらった恩人であった。暗殺者のひとり、桐野利秋は、赤松の門下生であった。