文治3年(1187年)のことだった。畠山重忠は武蔵の国菅谷にひきこもり謀反を企んでいるという情報を頼朝に告げたものがいる。いつもそんな役回りの梶原景時である。いきさつは省くが、重忠が頼朝をうらんでもおかしくないような出来事の生じた後だった。疑念にかられた頼朝は、使いをやって重忠を鎌倉に出頭させた。
重忠はまず梶原景時に自身の潔白を主張した。
景時はいう。「謀反の企てのない旨、起請文をお書きになって差し出されてはいかであろうか」
ところが重忠は書かない。昂然と言い放った。
「謀反を企てたと噂されるのは、むしろ面目と思っている。なぜならそれだけの器量と勇気があるということだからだ。ただし、自分は頼朝公を主君と仰いでこのかた、二心を抱いたことはない。かく言う重忠は心と言葉に異なるところはない。二枚舌を使うような者ではないから、ないといったらないのである。起請文など差し上げる必要はない。心と言葉が違うものにこそ起請文を要求されるがよかろう。自分は書かない。さよう頼朝公にはお伝えいただきたい」
おだやかに事をはこぼうとすれば、起請文は書くのがふつうだが、重忠はここでも意固地である。
景時の報告を聞いた頼朝は何も言わなかった。重忠と対面しても「謀反」の言葉はいっさいださず世間話に終始、これで一件落着であった。
重忠は「謀反」の企てこそ具現化しなかったが、「謀反」の心はじゅうぶんあったと思う。おのれの心情に忠実であったから、文書化だけはためらい、「ないといったらない」などと強弁したように思われる。しかも、謀反を企てたと噂されるのは面目などと、いわずもがなのことを言っている。本音がぽろりと出ているのだ。
頼朝もまた重忠の心の内を読んでいた。当面、重忠が敵にまわることはあるまいと、黙ってうやむやにしたのである。しかし、これ以後、この主従の間にはぴんと緊張の糸がはられたはずである。
重忠はまず梶原景時に自身の潔白を主張した。
景時はいう。「謀反の企てのない旨、起請文をお書きになって差し出されてはいかであろうか」
ところが重忠は書かない。昂然と言い放った。
「謀反を企てたと噂されるのは、むしろ面目と思っている。なぜならそれだけの器量と勇気があるということだからだ。ただし、自分は頼朝公を主君と仰いでこのかた、二心を抱いたことはない。かく言う重忠は心と言葉に異なるところはない。二枚舌を使うような者ではないから、ないといったらないのである。起請文など差し上げる必要はない。心と言葉が違うものにこそ起請文を要求されるがよかろう。自分は書かない。さよう頼朝公にはお伝えいただきたい」
おだやかに事をはこぼうとすれば、起請文は書くのがふつうだが、重忠はここでも意固地である。
景時の報告を聞いた頼朝は何も言わなかった。重忠と対面しても「謀反」の言葉はいっさいださず世間話に終始、これで一件落着であった。
重忠は「謀反」の企てこそ具現化しなかったが、「謀反」の心はじゅうぶんあったと思う。おのれの心情に忠実であったから、文書化だけはためらい、「ないといったらない」などと強弁したように思われる。しかも、謀反を企てたと噂されるのは面目などと、いわずもがなのことを言っている。本音がぽろりと出ているのだ。
頼朝もまた重忠の心の内を読んでいた。当面、重忠が敵にまわることはあるまいと、黙ってうやむやにしたのである。しかし、これ以後、この主従の間にはぴんと緊張の糸がはられたはずである。