小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

曽我兄弟の仇討 15

2006-08-30 22:36:03 | 小説
 文治3年(1187年)のことだった。畠山重忠は武蔵の国菅谷にひきこもり謀反を企んでいるという情報を頼朝に告げたものがいる。いつもそんな役回りの梶原景時である。いきさつは省くが、重忠が頼朝をうらんでもおかしくないような出来事の生じた後だった。疑念にかられた頼朝は、使いをやって重忠を鎌倉に出頭させた。
 重忠はまず梶原景時に自身の潔白を主張した。
 景時はいう。「謀反の企てのない旨、起請文をお書きになって差し出されてはいかであろうか」
 ところが重忠は書かない。昂然と言い放った。
「謀反を企てたと噂されるのは、むしろ面目と思っている。なぜならそれだけの器量と勇気があるということだからだ。ただし、自分は頼朝公を主君と仰いでこのかた、二心を抱いたことはない。かく言う重忠は心と言葉に異なるところはない。二枚舌を使うような者ではないから、ないといったらないのである。起請文など差し上げる必要はない。心と言葉が違うものにこそ起請文を要求されるがよかろう。自分は書かない。さよう頼朝公にはお伝えいただきたい」
 おだやかに事をはこぼうとすれば、起請文は書くのがふつうだが、重忠はここでも意固地である。
 景時の報告を聞いた頼朝は何も言わなかった。重忠と対面しても「謀反」の言葉はいっさいださず世間話に終始、これで一件落着であった。
 重忠は「謀反」の企てこそ具現化しなかったが、「謀反」の心はじゅうぶんあったと思う。おのれの心情に忠実であったから、文書化だけはためらい、「ないといったらない」などと強弁したように思われる。しかも、謀反を企てたと噂されるのは面目などと、いわずもがなのことを言っている。本音がぽろりと出ているのだ。
 頼朝もまた重忠の心の内を読んでいた。当面、重忠が敵にまわることはあるまいと、黙ってうやむやにしたのである。しかし、これ以後、この主従の間にはぴんと緊張の糸がはられたはずである。
 

曽我兄弟の仇討 14

2006-08-29 23:23:22 | 小説
 静御前はその場に臨んでもなお踊るのを固辞し、再三のうながしにやっと立ち上がったというから、状況からして伴奏者と打ち合せやリハーサルができたわけはない。ほとんど即興に近い。となると、舞の名手静はともかく、伴奏のふたりの音曲の才が尋常ではないということになる。
 工藤祐経も畠山重忠も京都で過ごした時代に、人並み以上に音曲に親しんだのであろう。頼朝が工藤祐経を寵愛した理由のひとつに彼の音曲の才 があった。ところで、音楽的才能に恵まれた人は耳が良いという。畠山重忠は、『源平盛衰記』によれば、遠くでいななく馬の鳴き声を聞いて、その馬の名を当てたという。「神に通じたるやらん」と評された耳の持ち主であった。このふたり、おそらく音曲の才ということに関して互いにライバル視する間柄だったのではないかと、私はかんぐっている。悲しいかな、男はどんなことでも競い合う生き物である。
この時代、もっとも武士らしい武士と評価の高い畠山重忠であるが、剛直で意外と好き嫌いの激しい気性の人物であった。
 彼は工藤祐常経が嫌いだった。だからこそ曽我兄弟に肩入れして、兄弟の命乞いをし、やがては仇討をそれとなく幇助したのではないか。
 曽我兄弟の仇討に黒幕があるという説は前にも書いた。それらの説は真の狙いは頼朝であったという点で一致している。しかし、それはうがちすぎだという気がする。クーデターまがいの鉄砲玉に兄弟の仇討が利用されたという見方は魅力的ではあるが、それでは曽我物語の哀愁が色あせる。私はくみしない。せいぜい畠山重忠幇助説なのだ。しかし、その畠山重忠がのちに謀反人扱いされている。寄り道のようになるけれど、そのことについて書いておかねばならない。

曽我兄弟の仇討 13

2006-08-28 20:59:07 | 小説
 文治2年(1186年)4月、鎌倉は鶴岡八幡宮の回廊で、静御前が舞を舞った話はよく知られている。 
 義経の行方を尋問するため、頼朝は静を鎌倉に呼び寄せたのである。しかし、静は義経と別れたあとのことは何も知らないのであった。
 静が鎌倉に滞在していると知って、頼朝の妻政子が興味を持った。天下の名手とされたこの白拍子の舞を、どうしても見たいと思ったのである。ところが静はなかなか頼朝や政子の思いどおりにはならない。病気とか何とかいって踊らないのであった。そこで八幡大菩薩への奉納という名目で、やむなく舞わざるをえないように仕向けられる。

  よし野山 みねのしら雪ふみ分て
          いりにし人のあとぞこひしき

 と静は歌いはじめる。そして

  しづやしづ しづのをだまきくり返し
          昔を今になすよしもがな

 と歌って舞いおさめるのであった。義経との別離の悲しみを頼朝にあてつけるように歌ったのである。静の舞に観衆はすっかり魅了されていたので、頼朝はその場で怒りをあらわにするという野暮な真似もできなかった。
 さて、静御前の話を持ち出したのはほかでもない。このときの伴奏者に私は深甚な関心を抱いたからである。
 鼓をうったのは工藤祐経、そう曽我兄弟が父の敵と狙う男だった。そしていまひとり、銅拍子をうったのが畠山重忠であった。

曽我兄弟の仇討 12

2006-08-27 22:59:45 | 小説
 由比ヶ浜で命拾いをした兄弟は、それから11年後に仇討をとげた。
 兄は22才、弟は20才になっていた。
 あの仇討の雨の夜、兄弟は実は絶望的になって、自害まで覚悟した瞬間があった。
 めざす屋形に侵入したものの、敵の工藤祐経は危険を察して屋形を変えていたからである。
「かなしけれ。自害してうせなん」
 呆然と立ちつくしていた兄弟を、妻戸をそっとあけて扇で招いた者があった。夜回りの番をしていた本田二郎である。
 弟の五郎は松明をかざして
「何事ぞや、本田殿」と言っている。
 本田と面識があるのだ。
 しかも、瞬時に敵とは判断していない。
 本田もまた
「夜陰の名字は詮なし」と小声で注意している。
 名を呼ぶなというわけだ。あきらかに兄弟の味方として登場している。
 この本田二郎が工藤の新しい寝所を教え、結果的に仇討が成功したのであった。
 さて、この本田二郎は、由比ヶ浜で兄弟を命を賭して救ったあの畠山重忠の側近であった。それも畠山重忠の影のような存在とみなされるほどの側近であった。
 うがった見方をすれば、最初から本田二郎の手引きによる仇討だったのを、それではあまりにあからさまだから、若干の脚色が加えられたのかもしれない。

曽我兄弟の仇討 11

2006-08-24 23:29:28 | 小説
 死を覚悟して、幼いながら凛然としている兄弟の態度も人々の胸をうった。
 まず梶原景時が、そして和田義盛がそれぞれ兄弟の助命を嘆願する。しかし、頼朝は聞き入れない。次に宇都宮朝綱、千葉常胤ら有力御家人が同じように助命のために立ち上がる。しかし、頼朝はかえって不機嫌になるばかりだ。
 ここに畠山重忠が登場する。あのひよどりごえの逆落としで、愛馬をかついだことで知られる武将だ。さらにいえば、平将門の血を引く平氏の出身で、かっては兄弟の祖父らと立場を同じくしたものだ。
 畠山重忠と頼朝の火花の散るようなやりとりがあって、いきがかり上、畠山は「聞き入れてくれなければ自害する」とまで言う。「それがし御前にてうせぬときき候はば、一門はせあつまり」と、ほとんど頼朝を恫喝するのだ。「重忠が一期の大事とおぼしめし、たすけおかれ候へかし」
 身命を賭して嘆願されては、頼朝も聞かざるをえなかった。兄弟は処刑を免れるのであった。それにしても畠山重忠は、なぜここまでいこじになったのか不思議なほどだ。 さて、兄弟の助命を嘆願した武将たちは、あんに工藤祐経の対立者となるは必定である。そして、兄弟にしてみれば、敵の工藤憎しの情念の炎にさらに油をそそぐようになるのも当然である。工藤祐経は兄弟を追い詰めるつもりが、自分を追い詰めてしまったのだ。
 大勢の見物人たちも、心の中でひそかに思ったはずだ。この子たちが成人すれば、いずれ仇討がみられる、と。

曽我兄弟の仇討 10

2006-08-23 23:43:53 | 小説
 兄弟が11才と9才になったときだった。母の恐れていた事態が起きる。
 敵の工藤祐経が頼朝に讒言するのである。「おさなく候へども末の御敵となるべき者こそ一二人候へ」と。
 頼朝は顔色を変えて「何者ぞ」と訊いた。
 そこで工藤祐経は、伊東祐親の孫である兄弟の存在を明かし、成人すれば敵になるに決まっていると言うのであった。
 兄弟は由比ヶ浜で処刑されることになる。
 浜辺には大勢の見物人が集まった。
 処刑人は、兄を先に切るべきか弟を先に切るべきかで迷いためらってしまう。
 それを見た継父の曽我祐信がたまりかねて飛び出してくる。他人には切らせたくはない、せめて自分の手にかけて後生をとぶらうとの決意だ。
「刀をそれがしに」といい、処刑人から打物をあずかる。
 彼はまず11才の十郎を切ろうと、刀をふりかざす。そのとき朝日が雲間を破って輝き、白くきよげな十郎の首に太刀影をうつした。
 祐信は、とたんにがらりと刀を投げ捨てる。
「しかるべくは」と彼はしぼり出すような声でいう。「まずそれがしを切りてのちに、かれらを害したまへ」
 結局は切ることができないのである。
 この情景が見物の貴賎の心をうたぬはずがなかった。「不憫なるらん」と同情の念が、ざわめきとなって処刑場をつつんだ。

曽我兄弟の仇討 9

2006-08-22 22:28:17 | 小説
 話は、兄弟の祖父で伊豆の豪族であった伊東祐親にまでさかのぼる。祖父と頼朝には因縁があった。
 伊豆に流されていた頼朝は祐親の三女を妊娠させていたのだ。「潮のひる間のつれづれと、しのびて褄(つま)をかさねたまふ。頼朝、御心ざしあさからで、年月をおくりたまふ程に若君一人いできたまふ」と『曽我物語』は記す。
 その若君が三才になったとき、京から帰ってきた祐親はその赤ん坊が頼朝とわが娘との間に出来た子と知って驚愕する。源氏の流人を婿にとって平家にとがめられたらなんとする、と怒るのである。わざわいの種は残すなとばかりに、その幼児を山奥の淵に沈めて殺してしまうのであった。そればかりではない、娘と頼朝の仲をさき、あげく頼朝を亡きものにせんとして夜討ちを企てた。美女と評判の娘をよほど溺愛していたのかもしれない。さすがに祐親の次男が通報して頼朝を避難させたので、この企ては成功しなかった。頼朝が以後、北条氏の庇護をうけるのは周知のとおりであるが、頼朝はまたしても北条氏の娘政子と出来てしまうのであった。
 その祐親は、石橋山の戦いで囚われの身となるが、頼朝はなぜか彼をすぐに処刑しなかった。わが子を殺し、あまつさえ自分の命も狙い、どこまでも敵対した男でも、かって愛した女の父であるというためらいだろうか。いずれにせよ、処分保留中に祐親のほうが自害してしまうのであった。
 さて、そんないきさつがあるものだから、曽我兄弟の母は、わが子ふたりが祐親の孫であると頼朝に知られるのがこわいのであった。

曽我兄弟の仇討 8

2006-08-21 20:59:57 | 小説
 9才と7才になった兄弟が月夜に空を飛ぶ雁を見るエピソードは、曽我の里でのことであった。
「あれを見ろ」と兄はいうのである。五羽の雁がつらなって秋の十三夜の月の夜空を渡っていた。「ひとつは父、ひとつは母、三つは子供にてあるらん」ところが自分たちの父は「まことの父」ではない、雁がうらやましい、と。
 そんな夜は父の敵がにくいのである。
 世間には兄弟よりも幼いもので、乗馬や弓の練習に明け暮れているものがいる。ところが兄弟には弓矢や騎馬は練習が大事とわかっているのに、それができない。これでは敵討ちもおぼつかないではないか、幼いなりに彼らはジレンマにおちいっていた。つまりは恵まれた家庭環境にはないのであった。手製の竹の小弓に笹竹の矢で障子を的に自己流に鍛錬するしかなかった。
 継父の曽我祐信は源頼朝の家来であるが、いささか立場が微妙であった。治承4年の石橋山の合戦では、祐信は頼朝とは反対陣営にいた。降伏し、許されて頼朝軍に加わったという経緯がある。兄弟が敵と狙う人物は頼朝の寵臣であるから、兄弟は継父に自分たちの意思を告げることもできない。継父の立場をあやうくすることは、なんとなく分かっているのである。
 おそらく、母の危惧にはそのこともふくまれているはずだが、母が敵討ちに反対する理由はそればかりではなかった。

曽我兄弟の仇討 7

2006-08-20 22:12:56 | 小説
『平家物語』が琵琶法師という男の語り部によって伝承されたのと対照的に、『曽我物語』は盲御前という女の語り部によって伝えられたものが基層をなしている。いわゆる「女語り」なのであるが、筆写の過程で先行する『平家物語』がかなり意識されて、軍記物のように変容していると思われる。
 中世後期の成立とされる絵巻物『七十一番職人歌合』には、「曽我物語」の一節を語る瞽女の肖像が描かれている。膝のうえあたりに持った鼓を右手でまさに叩こうとしている。しゃがんだ膝の斜め前には、脱いだ草履の鼻緒に通した杖らしきものが横たわっている。いかにも遊行の女性とわかる。
 父が横死したとき、兄弟は5才と3才だった。そんな幼い子供たちに、大きくなってきっと父の仇を討てと最初に吹き込んだのは、母だったはずだ。ところが現実に兄弟が成長して仇討の意志を持ちはじめると、うろたえるのはその母であった。母はしきりと敵討ちをやめさせようとする。「女語り」であるゆえんは、この母性の葛藤が『曽我物語』には悲しくも描かれているからである。母もまた「満江御前」として、兄弟の死後は語り部となって我が息子たちの霊を慰めたのであろう。
 ところで兄弟の父の姓は曽我ではない。曽我は母の再婚相手の姓であって、兄弟には継父がいるのに、実父の敵討ちをしたことになる。曽我の里で、兄弟はどんな少年時代を過ごしたのか。
 その曽我の里は、いまのJR御殿場線下曽我駅を中心とした一帯であったらしい。

曽我兄弟の仇討 6

2006-08-17 23:07:55 | 小説
 大磯に延台寺という寺がある。毎年5月に虎御石祭りを催す寺だ。境内に虎御石という霊石があり、寺宝には最澄作と伝えられる虎池弁才天坐像や二代目広重作とされる「曽我物語図会」がある。 
 寺伝によれば、虎はここに法虎庵という庵を結び、同じ大磯にある高麗寺の地蔵堂に日参して、曽我兄弟の霊を慰めたという。『曽我物語』では、その高麗寺の庵室で虎は眠るような往生をとげたとあって、延台寺は出てこないが、いずれにせよ最晩年の虎は大磯に戻っていたのである。往生した年齢は、70才説、64才説、50代説とあり、正確な没年齢はわからない。私は64才説が妥当だと思うが、すると19才で出家しているから、40年以上の勤行を続けたことになる。
 彼女は俗に虎御前(とらごぜ)と呼ばれた。「御前」は静御前の例もあるように、白拍子や遊女につける呼称だった。虎の場合、「とらごぜん」ではなく「とらごぜ」である。ところで、この当時の遊女を、たんに性のみを売る女性とみてはいけない。歌舞などの技芸はもとより、知識教養を厳しく叩き込まれ、巫女のような役割も兼ねた存在だった。『曽我物語』では彼女が諸国修行中に法然上人と会い、教えを受けたとも特記している。法然の言葉を理解する素養を持ち合わせていたわけである。
 興味深いのは、高麗寺で晩年を過ごしたことだ。この寺は「箱根権現と関係が深く、修験・比丘尼の根拠地の一つと考えられる」と岩波版『曽我物語』の頭注にある。「とらごぜ」の伝えた物語は「ごぜの物語」として、やがて本物の瞽女たちが伝承し、さらに遊行する比丘尼たちが話を広めていった、と想像できるからである。

曽我兄弟の仇討 5

2006-08-16 23:49:58 | 小説
 さて、話は花川戸の助六にもどるけれど、助六は舞台に登場するとき、蛇の目の傘をさしている。雨が降っているわけではない。降るとすれば桜の花びらぐらいなのだが、観客はそこに「曽我の雨」をみた。陰暦5月28日頃に降る雨は「曽我の雨」といわれたという。むろん曽我兄弟の仇討の日が雨だったことにちなんでいるが、雨はまた観念的に滂沱と流れる涙にリンクしている。天も泣けば、人も泣くのである。
「曽我の雨」はさらに「虎が雨」とも呼ばれた。曽我十郎の恋人の名が「虎」で、彼女の流した涙になぞらえたからである。虎は大磯の宿場の遊女だった。十郎は彼女が17才のときに出逢い、以来3年間通っていた。
 建久4年の秋、兄弟の百か日の供養に墨染めの衣に同じ色の袈裟をかけて、ひとりの尼が現れる。
 虎だった。彼女は、はじめて十郎の母と会うわけだが、『曽我物語』巻11のこの兄弟の母と虎の対面の場面は泣かせる。
「身の数ならぬによりて、御見参申さず」と虎は涙ながらに言うのだ。
 いままで母のもとを訪ねなかったのは、人の数にも入らぬ遊女という身の上だったからと弁解する彼女と、母は涙にむせぶのである。
 ところで、この虎こそ、曽我物語のおそらく最初の伝承者であるはずだ。彼女は出家し、「禅修比丘尼」となのり、諸国霊場めぐりの旅に出た。 
 

曽我兄弟の仇討 4

2006-08-15 20:50:49 | 小説
 歌舞伎の『助六由縁江戸桜』は題名のとおり江戸時代の話である。舞台も吉原で、助六は三浦屋揚巻の情夫である。その助六が曽我五郎というのは、時代設定を大胆に変えているのだ。助六が吉原で喧嘩を売り歩くのは、相手に刀を抜かせ、仇討に必要な源氏重代の宝刀、友切丸を探しているからだが、その刀は実際の仇討で使われた刀であった。
 いわば設定を変えたリメイク版が「曽我物」といえるが、これらの芝居は正月に興行されることが多かったようである。ことほどさように、曽我兄弟の仇討は江戸庶民の心をとらえていたのである。
 それにしても主役は弟の五郎のほうであった。なぜか。
 兄の十郎はあの夜、激闘の末に討たれるが、五郎は生け捕りにされた。翌日、海辺の砂地で処刑されると決まったとき、彼はこう述べている。「かまへてよくきり候へ。人もこそ見るに、あしくきり給ひ候はば、、悪霊となりて、七代までとるべし」
 とるべし、とはとりついて殺すぞという意味である。ところがまさしく「あしく」切ってしまった。長く苦痛を与えるために、鈍刀で「かき首」にしたのである。処刑担当者は世間の不評をかい、しかも急死する。20才で夭折した五郎は予言どおり祟ったのである。
 その名の語呂合わせも人々の心理に奇妙な影響を及ぼしたらしい。五郎は容易に「御霊」を連想させたのである。

曽我兄弟の仇討 3

2006-08-14 22:07:56 | 小説
「頃しも、五月廿八日の夜なりければ、くらさはくらし、ふる雨は、車軸のごとくなり」
 そんな夜であった、と『曽我物語』は書く。建久4年(1193年)5月28日は冨士の裾野で巻狩があった。巻狩とは勢子が山に入って鹿、猪などを麓の野辺に追いおろし、巻き込みつつ射る狩の競技である。曽我兄弟すなわち曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね)は、この狩場で父の仇の工藤祐経を狙うが機会を逸し、その夜、祐経の寝所を襲うのであった。ちなみに工藤祐経は頼朝の寵臣だった。
『吾妻鏡』は建久4年5月28日の条に「祐成兄弟討父敵」と記し、「雷雨撃鼓、暗夜失燈殆迷東西之間」と天候も一致している。
 苦節17年、兄と弟は本懐をとげるのであるけれども、表に出ると大音声で名乗るのである。もはや切り死にの覚悟だった。
「とをからん人には、音にもきけ。ちかからん物は、目にも見よ。伊豆の国の住人、伊藤二郎祐親が孫、曽我十郎祐成、おなじく五郎時致とて、兄弟の者ども、、君の屋形の前にて、親の敵、一家の工藤左衛門尉祐経を打取、まかりいづる。我と思はん人々は、打とゞめ高名せよ」
 そのまま芝居のせりふになりそうなほどだが、実際に曽我兄弟の仇討は歌舞伎の世界では一世を風靡した。なにしろ歴代の市川団十郎が五郎の役を家の芸としたのである。さらに「曽我物」という演目がある。寄り道のようになるが歌舞伎のヒーロー花川戸の助六に触れておこう。助六とは、曽我五郎のことであるからだ。
 

曽我兄弟の仇討 2

2006-08-13 13:41:32 | 小説
 岩波版『曽我物語』は流布本12巻を収録したものだが、はっきり言って読みやすい本ではない。いったい『曽我物語』は漢文体の10巻のものなど諸本があるが、おそらく僧侶たちと思われるそれぞれの作者たちが、それぞれの思惑で増補したり、ある場合創作的エピソードを付加しているようだ。原型の曽我物語をさぐることも容易でないほど、いわば改ざんされているのだ。
 私はどこかで、瞽(ごぜ)つまり盲目の遊行女性芸人たちが伝えたという曽我物語を「読める」のではないかと、淡い期待をいだいていたが、流布本の冒頭で、ああこれは無理だと悟った。
 曽我兄弟の仇討は、『吾妻鏡』も記述しており、れっきとした史実である。しかし『曽我物語』が現代的な感覚で歴史小説のように読めるかというと、微妙である。
 さらに私には先入観がある。曽我兄弟の仇討は、たんなる親の敵討ちではない、実は北条時政が黒幕で曽我兄弟に頼朝を暗殺させたかったという説、あるいは源範頼黒幕説のあることを知っている。両説の詳細は知らないが、説の存在を知っている。およそ、史料を読むときには、虚心に読めるにこしたことはない。先入観は新しいことを発見する上で邪魔になるだけだ。そんなわけで、若干の気重さをおぼえながら、『曽我物語』を読み始めた。瞽たちはなにを伝えたかったのか。おそらく土佐の片田舎に曽我伝説をもたらしたのも彼女たちではなかろうか、とそんな気がしている。ともかく今、私の曽我物語検証の牽引力になっているのは、そのことだ。とはいえ、どんな結論に導かれるのか、私自身がわかっていない。

曽我兄弟の仇討 1

2006-08-11 15:35:46 | 小説
 四万十川沿いに十和村という村があった。(今年の3月に町村合併で四万十町となっている)小野という集落に「曽我神社」がある。祭神は、日本三大仇討のひとつとして有名な曽我兄弟である。
 市原麟一郎『土佐の神仏出逢い旅』(リーブル出版)という本が亡き母の書棚にあって、なにげなく手にとって拾い読みしていたが、この曽我神社の項で、思わず目が本気になった。
 なんで土佐の片田舎に、関東で事件を起こした曽我兄弟がまつられているのか。四万十川といえば、高知市内で生まれ育った私などからしても、子供の頃ははるかな異郷に思えたところだ。
 ところが伝説では、曽我兄弟の家来の鬼王の故郷が土佐だったらしい。曽我兄弟は仇討を果たしたあと、すぐに死んでいるが、実は生きていて家来に助けられて土佐に落ちのびた、ということになっている。曽我兄弟の子孫が開いた土地もあるというではないか。
 まだある。高知市比島町にある龍乗院という寺には「瀬登りの太刀」という名刀があり、なんとそれは曽我五郎の刀と伝承されている、という。
 曽我兄弟の仇討については、知っているようで実はなんにも知らないにひとしいと思い知らされたが、母の新盆をすませ東京に戻ってからも、いちどきちんと『曽我物語』を読まなければと、気になって仕方がなかった。
 その『曽我物語』(日本古典文学大系88・岩波書店)が、いま目の前にある。