小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

小説の書き出し 3

2005-12-14 21:03:28 | 小説
 葡萄酒の良し悪しを判断するのに、なにも一樽飲み干すことはない、という西洋の諺がある。ひと口だけ味わえばすむのである。つまり、利き酒だ。小説の書き出しの、その冒頭の一行こそは、いわば利き酒の盃である。
 口に合うか合わぬかは、それは人それぞれの嗜好が違うからして、一般的な是非の問題にはならない。万人向けの口当たりのよい味に仕上げたら、かえって物足りないという偏屈な読者だっている。小説にも酩酊感は必要だから、ノンアルコール飲料のようになってはいけないが、私はどちらかというと上善水の如しというような文章が好きだった。
 ともあれ、ひとつだけ確実にいえる事がある。読者に利き酒の段階で忌避されないような味にしなければならないということだ。実は、書店の本棚の前で利き酒抜きで、ともかく買ってしまった最近話題の時代小説の書き出しのもたつきに、ちょっとげんなりしたのである。そういえば、大岡昇平『堺港攘夷始末』の書き出しに違和感をおぼえたことがあったけど、今読んでもそうかなと思い出したことが、この稿を書くきっかけになった。まだ二十歳前のころ、その書き出しに衝撃をうけた小説に出会った。カミユの『異邦人』である。誰の訳か忘れたが、いまでもそらんじている。「今日、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」
 そのカミユの傑作長編『ペスト』にはたしか、ペストに羅病した患者で、小説の書き出しを何度も何度も書き直し、その推敲の過程を医師に見せる人物が登場していた。その登場人物に身につまされた若かりし頃の私から、いまなお一歩も進歩していない。冒頭の一行に悩みに悩んでいる小説の構想をかかえて、数年がたつ。
 

小説の書き出し 2

2005-12-13 20:56:07 | 小説
 さて、こんどは引用した書き出しを声に出して読んでいただきたい。
 なにがしか講談的なリズムが感じられないだろうか。張り扇で釈台をパンパンと叩きたくなるような調子のよさ。あるいは、いくらかそのあたりの狙いも大岡氏にはあったかもしれない。
 しかし、文章はあくまで肉声の語りではない。読者はまず目で読むのである。
 ごく簡素な主語と述語で記せば、「土佐藩六番隊は、富ノ森で火をとぼした」となる文章を歴史的事実や実在する固有名詞が重層的にからまって、息もつがせぬ長い文章になっているのは、むろん作者がわざと意図したものであるだろう。そう思いたい。口当たりのよい小説ではないよ、これから先も読者にある種の忍耐を要求しますよ、この書き出しでつまずく者は先を読まなくて結構ですよ、たぶん作者はそう言いたいのだ。鬱然たる小説の大家である大岡昇平だからこそ出来る芸当、あるいは読者に対するそっけなさ、といえるのではないか。
 ふつうの小説家が、こんな書き出しをすれば、編集者がダメをおすに決まっている。

小説の書き出し 1

2005-12-12 23:29:53 | 小説
 まずは次の文章をお読みいただきたい。
「明治維新朝幕政権交代を決した鳥羽伏見の戦いの後三日の慶応四年正月九日(1868年陽暦2月2日)八つ時(午後2時)洛東妙法院方広寺の屯所を発した箕浦猪之吉を隊長とする土佐藩六番隊は、すでに淀城に進出しているはずの皇軍総裁仁和寺宮嘉彰親王護衛の藩兵先鋒と交替すべく、伏見街道をひたすら南下、富ノ森で火をとぼした。」
 これでワン・センテンスである。いささか長い。読むのに、ある種の忍耐が必要だったはずだ。ところが、これが名文章家の歴史小説の書き出しなのだ。大岡昇平『堺港攘夷始末』は氏の渾身の遺作であるが、この小説の冒頭で、私はいささか違和感をおぼえて、つまずいた。明晰な文体を持ってなる大岡氏らしくない書き出し。さすがの大岡さんもヤキがまわったかと思ったものだ。
 たぶん、小論文の添削を得意とする予備校の講師あたりにみせたら、悪文というだろう。ひとつのセンテンスに「交替」という単語が二度でるなんて、なんじゃなどといいかねない。
 おそらく、四つぐらいのセンテンスに分けて、改行したほうがはるかに読みやすくなると思う。なぜ、大岡氏はあえてこんな書き出しで始めたのか。