小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

おたあジュリア異聞 2

2006-02-14 18:39:12 | 小説
 生け捕りされた半島の人々を、なんという言葉で総括すればよいだろうか。迷ったけれど、文献に準拠して「被虜」という単語を使わせていただこう。
被慮人ではあっても、技術を持つ者や容姿端麗な者たちは、それなりに優遇された。たとえば有田焼や薩摩焼の藩窯の始祖となった陶工たちも、このときの被慮だった人たちということは、よく知られている。日露戦争で有名な乃木将軍の先祖も、このときの被慮人で日本女性と結婚した韓国人という説がある。明治天皇崩御のおり、夫人とともに殉死した乃木将軍の先祖が、である。
 被慮人おたあジュリアも小西行長に引き取られ、夫人の寵愛のもと養育され、外人宣教師が驚くほどの教養を身につけていたらしい。
 しかし、その晩年には謎が多い。流刑地の島ではなく長崎にいたらしい気配もあるのだ。赦免されていたのか、それとも島ぬけしたのか。長崎から生まれ故郷の韓半島に戻ったという説もある。すると島に残る伝説はどうなるか。大奥には実はあと二人のキリシタン女性がいた。彼女たちの伝説と混同されている可能性もなしとはいえない。いずれにせよ、おたあジュリアは数奇な運命の人だった。
 ひとつだけ確かに言えることがある。
 彼女の運命を激変させたのは、秀吉のしかけた不毛な戦争だったということだ。

おたあジュリア異聞 1

2006-02-13 23:52:29 | 小説
 おたあジュリアは、小西行長によって少女の頃に韓半島から日本に連れて来られた。私は通説にしたがって、「拉致ではなく、朝鮮貴族の遺児となった彼女を行長が保護したということになっている」(『「邂逅」までのプロセス8,9参照)と書いた。書きながら、この通説はあやしいと感じていた。案の定である。
 宇喜多秀家の武将に戸川肥後守という人がいて、朝鮮の南原城攻めのときの記録を残している。こんな記述がある。
「小西行長軍 猛勇を震ひ本所乗破 生捕千余、此内女多しとなり」
 生捕りした朝鮮人が千人余りで、女性が多かったと記録しているわけだ。秀吉の朝鮮出兵は後世、人さらい戦争と陰口を叩かれてもいるが、なぜ生け捕りなどということが横行したのか。
 はっきり書いておこう。キリシタン大名→日本商人→ポルトガル商人または宣教師という奴隷売買ルートがあった。生け捕りされた者の多くは、鉄砲あるいは絹さらに煙草などと交換されるか、金銭で取引され、東南アジア、中国沿岸、遠くはヨーロッパに売られた。そもそもキリシタン大名たちの狙いはポルトガル貿易だった。韓半島に渡ったのは兵士だけではなかった。釜山には日本の商人たちがあふれていたという。むろん人身売買の仲介で稼いでいたのである。ところで当時の船は空荷で玄界灘を横断することは困難で、日本の兵士たちを半島に送り届けた後、帰路の船の積荷がわりに生け捕りを乗船させたという説もある。
 そういう積荷がわりの中に、おたあジュリアはいたと思う。

「邂逅」までのプロセス 15

2006-02-12 16:02:56 | 小説
 古庵は35才で投獄され、82才で死んだ。その47年間の獄中生活の長さは、どう考えても尋常ではない。あるいは、ある時期から彼は実質的には赦免され、たんなる囚人ではなくなっていたのではないだろうか。
 奇想天外な思いが胸をかすめ、そこに一篇の小説の胚胎する淵源を覗き見するような気がしている。しかし、そのことはしばらく私だけの胸に秘しておきたい。前ふりが長いわりに、なんだと言われそうだが、前ふりそのものを「プロセス」として披露するのがこのたびの狙いだった。
 それはさておき、やや整合性のある別の可能性について記しておきたい。
 古庵の職業に注目したのだ。彼は医師だった。医師の払底していた土佐藩庁にとって、彼を生かしておくメリットがあり、古庵を「牢医」として遇したのではないか、という仮説だ。この時代、牢医という存在があった。たとえば、入牢したことのある渡辺崋山に、いい加減な牢医を非難したこんな記述がある。
「牢医更に骨折り申さず、唯々口先にて何のかのと申し候へ共、牢内をきたながり候間、入って脈を診し候を厭ひ・・・」
 医師の嫌がる牢医は、藩医などはタッチせず、どうやら金を払って外部から雇っていたようであるが、これを古庵に担当させれば経費は浮くわけだ。そのかわり、古庵にふつうの囚人とは違った優遇措置が見返りとしてあった。いかに頑健な肉体に恵まれていたとしても、劣悪な環境下で古庵が80才を超えて生きていられたのは、このためではないだろうか。古庵を不屈のキリシタン殉教者とみなしたい人たちからは、顰蹙をかう仮説になるけれども、むしろ、こんなふうに考えなければ、古庵という人物が救われないような気が私にはする。
 


「邂逅」までのプロセス 14

2006-02-10 17:33:38 | 小説
 むろん田中英光にも、このことは腑に落ちなかった。彼は書いている。
「だいたい彼らがキリシタンだときまり改宗しないとあれば磔その他の死罪にあうはずだし、改宗したとならば黥(いれずみ)の刑をほどこし釈放してさらにスパイにして利用したはずだが、こうしたあいまいさで訴えられ、同じようなあいまいさで彼らがいつまでも入牢させられていたところに、私は彼らをどこまでも当時の政治の犠牲者だとおもう」
 さらに腑に落ちないことがある。土佐では「寛文の改替」というのがあって、古庵らが獄につながれて20年後の寛文3年8月、藩主山内忠豊によって大赦令が出ている。よほどの重罪者でないかぎり、赦免されているのだが、古庵らにこれが適用されていないことになるのだ。
 そして最も大きな謎は古庵の墓碑銘である。「土葬墓」とあるのだ。当時、土佐では罪人は火葬と決まっていた。古庵の墓は高知市の久万字高野谷にあり、「桑名古庵土葬墓」と明記されているという。これはいったいどういうことか。
 実は田中英光もこの謎を短編のプロローグにしているのだが、これは古庵の生涯をあわれんだ人たちが、いわば勝手に作った墓だろうということで済ましている。はたしてそうか。

「邂逅」までのプロセス 13

2006-02-09 22:36:34 | 小説
 世が世であれば、という慨嘆の言葉がある。桑名古庵とその一族は、おそらく幾度がそのような慨嘆を胸の中で呟いたにちがいない。
 古庵の祖父は土佐奈半利の城主、桑名丹後守重定であった。四国を統一した長宗我部元親の重臣として知られる武将だったのである。だが、関ケ原の戦いが天下を分け、ひとの運命を分けた。西軍に加担し敗退した長宗我部軍ゆかりの者たちには落魄の運命しか待ちうけていなかった。
 古庵は関ケ原の戦いの6年後に紀州で誕生している。一家は転々としているのだ。
 元服して間もない頃に、たしかにキリスト教徒になっているが、20才ごろには棄教していた。転びキリシタンといわれるゆえんだ。ところが転んでから16年も経ってから、他人からキリシタンだと密告されるのである。密告者はたんに賞金がほしかっただけかもしれない。転んだのは偽装で、隠れキリシタンだというわけだ。
 母と兄弟、異父弟ふたりと共々、一家6人が獄に下った。兄だけはすぐに江戸の茗荷谷のキリシタン屋敷に送られ、かの悪名高い井上筑後守の拷問をうけ、衰弱死した。その兄が苦しまぎれに一家みなキリシタンだと強制自白されたようなのである。土佐の獄舎では異父弟のひとり三平が訊問中に狂死。もうひとりの異父弟又兵衛は獄中5年後に死亡。母も幽囚10年後に病死。実弟の休務と古庵はなぜか長期の牢獄暮らしに耐えた。休務は40年、古庵は前に記したように47年を、ともかく生きた。
 なぜ、こんなに長い獄舎生活が続いたのか、いささか腑におちない。

「邂逅」までのプロセス 12

2006-02-08 17:07:09 | 小説
 ほんとうは田中英光は長編小説を書きたかったのではないか、という気が私にはしている。桑名古庵の生きた時代について、田中英光の調査のよく行き届いていることが、短編のはしばしから感じられるからである。ところが桑名古庵自身のこととなると、史料はきわめて少ない。吉田小五郎『土佐史談』中の「桑名古庵とその一族」が田中英光のネタ本であるが、彼はその史料批判というかたちで、短編をまとめた。35才のときである。死の2年前だった。
 余談のようになるが、田中英光について記しておきたい。
 昭和7年のロサンゼルス・オリンピックに彼は参加している。早大クルーの一員でボート選手だったのである。異色の経歴を持つ作家なのだが、物書きにはどこかしら狂気のようなものが宿っていて、いわゆる無頼派として、生き急いだ。死に急いだといっても同じことだ。
 坂口安吾『安吾巷談』によれば、田中英光は仰天するほどの酒飲みで、しかも酒の肴にカルモチンやアドルムなどのドラッグをぼりぼりかじっていたという。薬物中毒になり、精神病院に入院もした。愛人と口論の末、誤って彼女を刺して逮捕され、留置場で自殺を図ってもいた。太宰の墓前で自殺する前に、すでにこういう事件のあったことを私はこのほど初めて知った。
 短編『桑名古庵』には、救いを求めて声にならない悲痛な叫びを上げている作者その人が行間に隠れている。こんな悲惨な救いのない人物・桑名古庵に仮託せざるをえない何事かが、田中英光の胸のうちにあったのである。

「邂逅」までのプロセス 11

2006-02-07 15:15:25 | 小説
 投獄されて牢死しているが、獄中生活なんと47年。人生の大半を幽囚の人として過ごした。それが桑名古庵であった。
 松田毅一氏の作成した「16-17世紀日欧交渉史年表」(氏の訳書の巻末付録)を漫然と眺めているときだった。桑名古庵の名が突然のように目に飛び込んできた。
「1690.1.30(元禄2.12.20)土佐の転びキリシタン桑名古庵 獄中で病死」
 年表の記述であるから、たった一行、これだけの記載である。
 軽い驚きがあった。私は土佐の生まれであるけれど、初めて聞く名で、えっそんな人がいたのかと、にわかに心が起き上がるような気がした。さっそく高知新聞社刊『土佐人物ものがたり』(土佐にかかわる人物を列挙している)をひっぱりだしてみたが、やはりそこには採り上げられていなかった。そこでネットで検索してみた。すると田中英光に『桑名古庵』という作品があるとわかった。私は田中英光を読んだことがなかった。彼が土佐にゆかりの作家で、龍馬関係資料を編纂した岩崎鏡川の息子であることは知っていたし、太宰治の墓前で自殺したことも知ってはいたが、何しろ読んだことがなかったのである。むしろ太宰の墓前で自殺するような作家には近づきたくないという意識があったと思う。
 その田中英光の『桑名古庵』は短編である。講談社の「日本現代文学全集」95巻に田中英光は織田作之助、原民喜と三人セットで収録されていて、その中に『桑名古庵』があった。昔のその全集を図書館で借りてきて読んだ。
 読後、せつなさが胸にじわりと沁みこむ作品だった。田中英光という作家の持つさびしさに触れてしまったのか、それとも桑名古庵という人物が歴史のかなたから放射するやりきれなさだったのか。


「邂逅」までのプロセス 10

2006-02-06 14:44:16 | 小説
 キリスト教は邪宗門とされ、キリシタンの探索調査は家康、秀忠、家光の徳川三代にわたり、組織的かつ徹底的に行われた。
 五人組をユニットとして互いを監視する制度、毎年実施された踏み絵、そしてキリシタンを密告したものには賞金が与えられた。特筆すべきは、すべての国民は仏教の寺に登録することを制度として決めたことである。登録した寺を檀那寺として、ひとの生死の管理を仏教の僧侶に委託したことである。いわゆる檀家制度が民衆一般に行きわたるのは、この時期であった。キリシタン禁制が檀家制度をもたらしたといってもよい。
 さて、史料を読みあさっていると思いがけない人物と出会い、心のふるえることがある。むろん現実世界での出会いとは違っているから、私はひそかに古めかしい言葉で邂逅と勝手に名づけている。この稿のタイトル『「邂逅」までのプロセス」の邂逅にもその意味を込めたつもりだ。たとえばジュリアおたあも、ふいに邂逅した歴史上の女性だったが、この稿で意図したのは彼女のことではない。別の人物である。
 その名は桑名古庵。17世紀の土佐の高知城下は帯屋町で医を業としていた。その彼がキリシタンとして密告された。
 

「邂逅」までのプロセス 9

2006-02-04 13:31:34 | 小説
 おたあの正確な名はわからない。いわば戦災孤児だったとき、「おたあ」と人にそう呼びかけたので、そう呼ばれるようになったという。あるいは韓国語で意味のとける言葉であるかもしれない。流刑になったとはいえ、キリシタンとしては彼女は特別扱いだった。大奥にいて、しかも家康が食指を動かした女性であったためであろう。
 島流しのときも、伊豆の網代港まで駕籠が用意されたという。なんと聖画や信仰用具の携帯も許され、ひとりの婢女さえ付けられていた。
 駕籠を拒否したのは、むしろ、おたあの方だった。彼女は途中で駕籠を降り、裸足で歩き始めるのであった。驚いた警護のものがわけを訊くと、彼女はいう。
「わが主エズスさまが十字架をかついでゴルゴダの丘へ行かれたときも裸足でした。わたしも主に習いたいのです」
 しかし、かぼそく柔らかい彼女の足裏はすぐに破れて、血に染まった。警護のものがあわてて駕籠に強制的におしこんだというエピソードがある。
 ジュリアおたあの流した血は、けれどもこのときだけである。彼女は拷問による流血とは無縁だった。一般のキリシタンはそうはいかなかった。その殉教の形態には聞くだに恐ろしい単語がならぶ。十字架刑、斬首、火刑、雲仙地獄責め、水責め、穴吊り等々。
 なにしろ「吉利支丹」が「切支丹」と表記が変り、「鬼理死貪」と変ってゆく運命だった。

(注:変換で出てくる漢字は切支丹である。これ蔑称のはず。変換といえば前回ミスがあったので、訂正のついでに一部加筆訂正した)

「邂逅」までのプロセス 8

2006-02-03 07:06:10 | 小説
 キリシタン弾圧は、天地開闢以来、神国を標榜し、神仏崇拝をもっぱらとしてきた日本が、キリストの教えを排斥するために行ったという図式では語りつくせないものがある。
 家康が出したキリシタン禁令の真意は、キリスト教徒を侵略的植民政策の手先と断じたことにあるからだ。秀吉の時代からあった「伴天連追放令」は、いわばザル法であったが、この「キリシタン禁令」は政令としておそろしいまでに機能する。
 1603年ごろ、キリシタンはすでに75万人いたという説もあるが、ともあれ政令の公布された1612年には信徒数はかなりの数に増大していたはずだ。その人々が一斉摘発の対象になったのである。だから流刑、追放、さらに残酷な拷問によって殉教したキリシタンはおびただしい数に上った。
 当時、大奥にさえキリシタンはいた。「ジュリアおたあ」と呼ばれる女性がいたのだ。しかも日本人ではない。韓半島の出身であった。秀吉の朝鮮出兵の際、小西行長が6才(だったとされる)の少女だった彼女を日本に連れてきたのである。拉致ではなく、朝鮮貴族の遺児となった彼女を行長が保護したということになっている。ともあれ行長夫人の影響をうけキリシタンとなっていた。絶世の美女であったらしく思われる。彼女に会ったことのある宣教師ロドリゲスが「茨の中の薔薇」と評しているほどだ。関が原の戦いの後、大奥に侍女として入った。
 その彼女が伊豆大島に追放された。そして新島、神津島と移されたらしい。(らしいとばかり書くのは、彼女の伝記に関してまだ確たる史料を読み込んでいないからである)家康が側室にしたがっていた彼女の美貌を大奥でも惜しいと思ってか、再三、棄教すれば大奥に戻すという意向が伝えられたが、彼女が頑として従わなかったようだ。(ちなみに毎年5月、神津島で日韓共同のジュリア祭が行われているというが、私は島そのものに渡ったことがない)

「邂逅」までのプロセス 7

2006-02-02 07:28:34 | 小説
「スペイン国王に日本侵略の意図があるのは明白でありましょう。ナウ船やガレオン船を派遣するための測量です。艦隊の安全のために必要な水深を測ろうとしたのです」
 うーんと唸るようにして、アダムスを見つめてた幕閣の眼差しに、とどめをさすようにこう続けた。
「ヨーロッパでは国王が他国の港の測量を命ずるのは、その国と交戦している場合以外ありえません」
(かの国は、もはや日本と戦っているつもりか)
 アダムスの言葉を聞いた者は、そう思った。
「かれらは」とアダムスは言った。「つねに他の国の港や海でもそうしてきたのであります。かれらはまず修道士たちを派遣し、そののち兵士たちを送りこみます。そのようなやり方で異国を支配に入れてきたのであります」
 怨念があるからアダムスの話はくどくなる。
「スペイン人たちは神の教えを説く聖職者を派遣することによって征服の意図を隠匿し、その方法によってフィリピン、モルッカ、さらにヌエバ・エスパーニヤを獲得しました。ですからヨーロッパのある国王たちは、それらの諸国から聖職者たちを放逐したのであります」
 徳川幕府のキシタン禁教令が出されるのは1612年だが、その下地はこのアダムスの提言にあった、といっても過言ではない。
 

「邂逅」までのプロセス 6

2006-02-01 00:06:02 | 小説
 アダムスが日本に来てちょうど11年目の1611年、スペインの使節船サン・フランシスコ号は3月にメキシコを出帆して、5月に浦賀に入港した。司令官はドン・セバスチャン・ビスカイーノであった。このビスカイーノの来航によって、アダムスに反撃の機会がめぐってくる。
 ビスカイーノは江戸で将軍秀忠に謁見、さらに駿府で家康に会った。その秋には奥州の伊達政宗のもとにも赴いた。
 その間、ビスカイーノは港測量の許可を得て、200トンの船が入港できる大塚、湊(石巻)、小竹、日ノ浦、小渕、石浜、(雄勝)分の諸港、北緯39度線にある気仙沼の入江の5港、盛、根白の諸港を調査測量していた。
 このことが幕閣におおいなる疑念をもたらしたのであった。アダムスの出番だった。国際事情に通じている人物は幕府の中には彼しかいない。
 幕閣から彼に質問が集中する。
「かのビスカイーノなる人物はいかなる存念で測量許可を求めたのであろうか」
 アダムスは答えた。
「日本を奪うために」
「なんと」
 アダムスの答えに幕閣たちに驚愕が走った。漠然と抱いていた懸念に、アダムスは明確な形を与えたのである。
 アダムスは述べはじめた。