小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬暗殺と勝海舟のコメント 1

2007-09-30 19:27:01 | 小説
 まず、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の「あとがき五」にある次の文章をお読みいただきたい。

≪竜馬暗殺の計画は、よほど周到にめぐらされたらしい。幕閣のたれが見廻組に下命したかはよくわからないが、当時幕府の目付だった榎本対馬守道草(榎本和泉守武揚ではない)という説がある。勝海舟などもこれを疑っている。その明治二年四月十五日の日記に、「松平勘太郎からきいた。竜馬の暗殺は佐々木唯三郎をはじめとして今井信郎らの輩が乱入したと。佐々木には上より指図があったのであろう。指図をした者は、あるいは榎本対馬か」とある。勝にこのことを話した松平勘太郎は旧幕時代大隅守といい、竜馬暗殺の当時は榎本対馬守の直接の上司であった。一応、信頼すべき筋というべきであろう。≫

 この文章には大きな誤りと事実誤認があるのだけれど、お気づきになられただろうか。
 私は最初この文章を目にしたとき、とびあがるほど驚いて(寝そべって読んでいたから)、つかの間、興奮したものだった。
 今井信郎が函館戦争で降伏人となり、兵部省及び刑部省で、龍馬の「殺害」(暗殺とは言わない)に、見廻組が関与したと供述したのは明治3年2月であった。
 その前年の明治2年に、すでに龍馬暗殺に見廻組関与が話題になっている日記なのだ。
 これは、いったいどういうことかと内心色めきたったのである。
 なんのことはない、海舟の日記の年次が違っていただけのことだった。
 海舟日記の明治3年に当該記述があるのであって、もとより明治2年4月15日にそんな記事はないのであった。これは、つまり司馬本の「あとがき」にたんなる誤植があったにすぎない、ということであろうか。そうは思えない。実は龍馬関係史料集に海舟の日記が収録されたものがあって、その日付が司馬本の「あとがき」と同じように間違っていることがわかった。司馬氏はここから孫引きしたと思われる。
 だから間違いをそのまま引き継いだのである。
 司馬氏は原典、つまり海舟の日記にあたらなかったから、海舟の日記を誤読したと、私は推測するものである。
 事実誤認とはそのことなのだが、あらためて海舟の日記を検討してみよう。

吉田茂のスパイ  完

2007-09-28 20:39:03 | 小説
 8月に終戦となって、その一ヶ月後、吉田茂は外務大臣に就任した。このとき東輝次は祝電を送っている。翌年には吉田茂は自由党総裁となり、総理大臣となった。
 東輝次は決心する。もう罪に服してもよい、と思ったのである。
 大磯を訪れ、総理大臣吉田茂に会った。そして、スパイであったことをあらいざらい告白した。
 吉田茂は大笑いしたという。こう言ったのである。
「お互い、お国のためと思ったんだからよいよ。当時は君が勝ったけれど、今はわたしが勝ったね」
 ふたりは夜のふけるまで歓談し、翌日、上京する東輝次を、吉田茂は品川まで車で送っている。
 それから3年後、東輝次は弟を連れて大磯に行き、その実弟を書生として吉田邸で雇ってもらっている。自分自身は昭和25年に吉田茂の推薦で発足したばかりの警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊した。それが前に紹介した「勤務状態、誠に良好なり」という太鼓判である。スパイとして優秀だったという皮肉も、茶目っけのある宰相だから、あるいはこめられていたかもしれない。推薦しただけでなく保証人にもなったらしい。
 かって、自分を売ったスパイを、ここまで面倒見られるというのは、なんともおそれいった器量ではないか。
 麻生太郎氏の著書によれば、吉田茂は孫にたったひとつの教訓らしきものを示しただけだったらしい、それは「男は決して泣くものではない。泣くのは感激したときだけにしろ」というものだった。
 東輝次は大磯の任務を解かれて退邸するとき、引き止める吉田の言葉に泣いた、と前にも紹介した。あのときの東の涙を、吉田茂がどう受けとめていたのかはわからない。ひどく不機嫌だったらしいが、このふたりは最後には奇妙な親愛の情でむすばれていた。
 蛇足ながら、吉田茂はイギリスのスパイ小説が好きで、原書で読んでいたという。ただ、人から愛読書はとたずねられると、「銭形平次」と答えて韜晦していたらしい。このオヤジ、かなりくえない人物なのである。麻生氏の本を読まれるとよろしい。いっぺんに吉田茂が好きになるはずだ。

参考文献 東輝次著・保阪正康編『私は吉田茂のスパイだった』(光人社)
     原 彬久『吉田茂』(岩波新書)
     麻生太郎『祖父吉田茂の流儀』(PHP研究所)

吉田茂のスパイ  5

2007-09-27 21:04:11 | 小説
 さて、このたびの自民党総裁選で麻生太郎という政治家に興味をそそられたこともあって、彼の『祖父吉田茂の流儀』(PHP研究所・2000年刊)を読んだ。現存する政治家の著書を読むのははじめてだった。その著書に「ヨハンセン(吉田反戦)をスパイせよ」という項目があって、東輝次のことが書かれていた。麻生太郎は書いている。

≪吉田茂は『回想十年』の中で、あるスパイ(注:東のこと)について、わづかだが触れている。
「これは余談だが、終戦後この男がひょっこり私を訪ねてきて、『戦争中は誠に申し訳ないことをした。不本意であったが、上官の命令でやむなくスパイをするようになって迷惑をかけた』と詫びるから、私は『与えられた仕事を忠実に実行したのだから、別に謝る必要はない』と激励して帰したことがある。その後この男が就職のあっせんを依頼してきたので『勤務状態、誠に良好なり』と太鼓判を押して、ある職場へ紹介してやった。今でも然るべく大いに活躍しているだろう」
 祖父の人柄を示す、私の好きなエピソードの一つである≫

 実は私もこのエピソードに心打たれて、この稿を書きはじめたのであった。
 東輝次にあらたな任務が下って、吉田邸から去らねばならなくなったとき、吉田は彼を引きとめている。その言葉がいい。東がこみあげる涙とともに聞いた、と書きつけた吉田茂の言葉は次のようなものだ。

「他人が騒げば騒ぐだけ、落ち着かねばならない。もう二、三ヶ月すれば、日本の転換期が来る。それまでいなさい。そのとき、ここにいるのが嫌なら、麻生鉱業に入ってもよい。また、いる気になればわたしが君の一生を見てやる。(略)お母さんが心配するようなれば、、ここへ引き取ればよいではないか。(略)一番辛い時に一番よくやってくれた。わたしはよくそれを知っている。だから、このままいなさい。悪いようにしないから…」

吉田茂のスパイ  4

2007-09-26 21:45:51 | 小説
 昭和20年4月25日、終戦のほぼ4か月前になるけれど、吉田茂は東部憲兵隊司令部の特別検挙班によって逮捕された。
 逮捕の直接の理由は近衛上奏文の作成に関与したからというものだ。近衛上奏文の骨子は、勝利の見込みのない戦争をこれ以上続けるべきではなく、国体護持のためには軍部一味を一掃し、速やかに戦争を終結すべきというものだった。陸軍中央からすれば許しがたい内容なのであった。
 吉田検挙の際、「こりんさん」はとっさに上奏文に関した重要書類などを吉田から預かり、帯に隠した。そして、のちに焼却している。実は検挙班は物証らしきものを得ることができなかった。スパイの女中も活躍したけれど、「こりんさん」つまりかっての新橋の名妓も活躍したのである。
 それかあらぬか吉田茂は拘引後も強気で、取調官とまるで喧嘩のような物言いをし、態度が悪かったという証言(大谷敬二郎)がある。こういうエピソードを知ると、吉田茂にはやはり土佐のいごっそうの血が流れていると思わざるをえない。
 一ヶ月後の5月25日の空襲では永田町の吉田邸も、陸軍刑務所も焼けた。スパイ東輝次はまだ大磯の吉田邸にいた。表向きは「こりんさん」たちのために必要な男手として働いていた。その5月の31日、突如、吉田茂は大磯に帰ってくる。不起訴処分となって解放されたのである。
 東輝次は衝撃をうけている。彼の記述をそのまま引用してみよう。

≪余は内心、びっくりした。何の連絡もないのである。一体、どうしたと言うんだろう。なぜ釈放したんだ。こんなに早く釈放するくらいなれば、俺がこんな生活をする必要がなかったではないか。余は口惜しかった。でも主人の室に行って、喜びの言葉を述べねばならない。
 一通りの挨拶のすんだ後、余は尋ねた。
『ご感想はいかがですか』
『いや、人間一生に一度は入ってみてみるのも、よいところだよ』
 この笑顔を見ていると、余らの工作班、いな軍閥が完全なる敗北をしたように思えた。≫

吉田茂のスパイ  3

2007-09-25 22:01:26 | 小説
 さて、永田町の吉田邸には書生がひとりいた。24才で夜間学校に通っていた。石井マキの報告によって書生の存在を知ると、当初の計画では、この書生を追い出して、代わりに東輝次を潜入させようとしている。
 書生の学校の成績、素行などが徹底的に調べられた。そして、1、招集。2、徴用。3、讒言による失脚。4、甘言による誘致のいずれかで放逐しようということになったらしい。採用されたのは4案で、陸軍の息のかかったある軍需会社にスカウトさせることになった。書生はその話にのるのだが、用意した社宅に入らずに、吉田邸から通勤し、計画は失敗に終わる。
 そうこうするうちに、吉田茂は大磯の別邸で月のうちの半分を過ごすようになった。大磯には有名な「こりんさん」(東はのちに奥さんと呼ぶようになる)が疎開していたからである。いまや主人付き女中となっていた石井マキは、大磯まで来るようになっていた。別邸で人出が必要になったとき、東輝次は石井マキの遠縁の者ということで吉田茂に近づくことができたのであった。偽の学歴とマラリアで内地還送になった軍人という経歴をでっちあげている。
 東を面接した吉田茂は「体はもう大丈夫かね。静養のつもりでいればよいだろう」と言ったという。東の吉田邸潜入は、かくして始まった。
 東輝次は吉田茂の行動を仔細に報告しはじめる。郵便物を出す役目にもなるから、発信する手紙はすべていったん開封し、写真に撮った。
 東輝次は書いている。

≪「ヨハンセン」一味は、陛下に上奏せんと工作し、近衛公を動かしはじめた。そしてその原稿を同志に配った。余らの工作は、遂にそれを手に入れたのである。
「ヨハンセン」らにとっても、余らにしても、決して忘れることのできない日が遂に来た。すなわち彼らに対する弾圧である。陸相の腹は決まった。≫ 

吉田茂のスパイ  2

2007-09-24 22:36:27 | 小説
 東輝次がいきなり吉田邸に潜入したのではない。
 ヨハンセン工作の始まりは、永田町の吉田邸への女スパイの潜入だった。イワンこと岩淵辰雄の紹介で、ひとりの女中が吉田邸にもぐりこむのだった。彼女を岩淵に仲介させたのは、陸軍中野学校出身のC大尉であったが、岩淵はC大尉がスパイの親玉であることも、まして彼女がスパイであることも知らなかった。おそらく何の疑いも持たず、彼女を吉田邸の女中頭に推薦してしまったのである。
 吉田邸には大谷ひさきという女中頭がいた。吉田茂夫人の雪子亡きあと、吉田邸の家事一切を仕切っていた。大谷ひさきを籠絡すれば、女中として女スパイを吉田邸に送りこむことは、いとも簡単だった。
 ちなみに、大谷ひさきは吉田茂の次女和子の嫁ぎ先の麻生家(九州)にもとは仕えていた女中で、雪子夫人の要請で吉田邸にやってきた女中だった。
 この老女中に気に入られたのが、20才の女スパイの石井マキだった。マキは嫁入り前の行儀見習いということで吉田邸にあがったのだが、食糧の逼迫したこの時代に、田舎からひんぱんに米や味噌その他を吉田邸に運び入れた。全員に感謝されたのは言うまでもない。女中の名前をおぼえない吉田茂が、「マキ、マキ」とよんで可愛がったという。むろん、彼女が運びいれた食糧はC大尉が調達したものだった。
 この女スパイ石井マキは、吉田邸の詳細な見取り図、家族・使用人の状況、来客の様子など逐一防衛課に報告して、ここから東輝次の潜入具体案が練られることになるのである。

吉田茂のスパイ  1

2007-09-18 21:03:47 | 小説
 昭和18年5月、陸軍中野学校を卒業し、陸軍省兵務局防衛課に就任したひとりの青年がいた。東輝次という。吉田茂をスパイした人物である。
 東輝次によれば、陸軍省防衛課では、吉田茂を「ヨハンセン」という暗号名でよんだという。鳩山一郎は「ハリス」、近衛文麿は「コーゲン」、岩淵辰雄は「イワン」であった。暗号名の最初の音は、名前からとられているが、それに続く意味が隠されているのは、吉田茂のみである。
「ヨ(吉田)ハンセン(反戦)」なのである。
 陸軍や憲兵隊からみれば、吉田茂は太平洋戦争の開戦後も、和平工作を企図する危険人物であった。要監視人物としてマークしたのであった。
 吉田茂は平河町に自宅を持ち、よく知られているように大磯に別邸があった。
そのいずれにも国家のスパイと協力者が潜入していた。日常生活はすべて内部から見張られていたのである。
 その潜入者のひとりであった東輝次に告白手記『防諜記(ある軍曹の告白)』がある。
 彼が吉田邸に潜入にいたる経緯で、まず驚かされる。ここまでやるかという用意周到さである。たとえば鬼平犯科帳で盗賊たちが狙う商家に、いわゆる「つなぎ」の女中を忍び込ませる段取りが思い起こされるが、事実のリアリティは圧倒的で、鬼平犯科帳などは比べる方がおかしいという気分になる。スパイ養成ということに関しては、おそるべし中野学校なのである。

延命院事件

2007-09-17 17:24:58 | 小説
 時代劇には寺を舞台にした淫行場面が挿入されるケースがよくある。寺には、あやしげな隠し部屋があって、そこが破戒僧と信徒のふりをして参詣してきた女人、たいていは大奥の女中の密会の場所であったりする。おそらく、この原型は歌舞伎の外題『日月星享和政談』である。明治初期の初演で作者は河竹黙阿弥。俗に『延命院』とよばれる芝居だ。
 黙阿弥のまるきりのフィクションではない。実話に基づいた戯作である。
 上野谷中の延命院(現存する)に女人の出入りはげしく、その中には大奥の女もいるらしいと噂がたったのは、享和3年(1803)春のことであった。寺社奉行の脇坂淡路守安董は女の密偵を侵入させ、実情を探る。
 そして5月26日には手入れを敢行し、住職日潤と納所坊主柳全を逮捕した。日潤(日道とも称される)らが淫行した女性の数59人。その中には大奥の梅村(40才)や梅村付きの女中(25才)、さらには紀州家書院番妻(30才)などがいた。日潤は死罪、柳全は日本橋で晒後、破門となったらしい。
 事件のあらましは以上のようなものだが、さてその日潤は役者のような美男子で40才、事実、初代尾上菊五郎の息子だったという説がある。深入りして調べたわけではないが、なんとなく後付けの説のような気がしている。
 私の関心事は寺社奉行の脇坂が送りこんだ女スパイにある。播州龍野藩家臣の三枝右門の妹、お椰(や)という女性だとされているが、日頃から諜者としての訓練を受けていた、いわば「くのいち」ではないのだろうか。彼女は最初大奥に勤め、それから延命院に自ら赴き、体をはったオトリ捜査をしている。その手際は鮮やかすぎるのである。彼女のことを笹沢佐保が『女人狂乱』という小説に仕立てているらしいが、「官能小説」とあるから、その主題は私の関心事とは別と判断して未読である。
 彼女の謎は、手柄をたてたあとで自害していることである。なぜ、彼女は死ななければならなかったのか。延命院事件には大奥がらみの裏がありそうだというのが見当なのであるけれども、それには一度、黙阿弥の眼に戻ってみる必要がありそうだ。黙阿弥はなにを史料として使ったのか。『徳川実紀』や斉藤月岑の『武江年表』は、むろん参照されているだろうが、いわゆる一級史料にまだ私は出会っていない。 

藤村「近親相姦」事件  完

2007-09-10 17:24:35 | 小説
 梅本浩志氏はもっと想像をたくましくして、藤村は河上肇の紹介で近衛文麿と接点があったのではと推測している。近衛文麿は河上肇を慕って東京大学から京都大学に転学していた。この師弟は首相と獄中生活者というまったく別の世界を歩むようになったが、藤村が東条英機から「戦陣訓」校閲を依頼されたりしたのは、あるいは近衛ー東条のパイプラインのせいかもしれない。
 いずれにせよ、藤村は太平洋戦争のさ中、昭和18年の夏、『東方の門』執筆中に倒れた。「涼しい風だね」というのが最後の言葉だったらしい。8月22日午前零時過ぎに永眠したのである。
 その日、こま子は、ラジオで藤村の死を知った。体の具合いが悪く、寝床でニュースを聞いたようだ。
 ひっそりと暮らしていた信州妻籠時代のこま子を訪問した伊東一夫氏は、彼女から屏風を見せられている。馬籠の島崎家から妻籠の島崎家にわたり、こま子が大事に愛用していた高さ二尺あまりの枕屏風であった。藤村の父、島崎正樹(いわずと知れた『夜明け前』の主人公のモデル)が、自作の歌を書きつけて継母に贈った屏風だった。こま子はたぶん、その歌が気に入って愛用していたのである。
こんな歌が書きつけられている。

 いやしきもたかきもなべて夢の夜をうら安く
 こそ過ぐべかりけれ
 花紅葉あはれと見つゝはるあきをこころのどけく
 たちかさねませ
 おやのよもわがよも老をさそへども待たるゝ
 ものは春にぞありける

 妻籠に隠棲するまでに、こま子の人生にもっとも少なかったのは心のどけき日々であったはずだ。「待たるゝものは春にぞありける」というところまで読んで、私は胸が詰まった。ちなみに、藤村の本名は春樹である。

藤村「近親相姦」事件 11

2007-09-08 12:22:45 | 小説
 さて、こま子と別れたあとの藤村の年譜に目をむけてみよう。
 こま子とは対照的に藤村はどんどんと陽の当たる場所に出て行く。藤村が昭和3年に再婚したことは前記のとおりだが、実は相手の静子には大正13年(1924)に求婚しており、正式な結婚が昭和3年であって、実質はそれ以前に夫婦同然だったのである。
 昭和10年頃から、藤村は漱石、鴎外らと並んで日本近代文学の先駆者として評価されはじめ、こま子が救貧院に収容された前年の昭和11年には、夫人同伴で第14回国際ペンクラブ大会に出席、アルゼンチンに赴いていた。その帰路、アメリカ、フランスをまわって帰国している。はたからみれば、洋行帰りの得意の絶頂にある文豪だった。
 昭和15年には、帝国芸術院会員に再選され、特筆すべきは、東条陸軍大臣の意向を受けて、あの「戦陣訓」を校閲している。「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で有名な訓令である。昭和16年1月示達、民間人も実践を求められた。学校で暗記させられたという。
 昭和17年(1942)11月には帝国劇場で開かれた大東亜文学者会議に出席し、「聖寿万歳」「大東亜万歳」の音頭をとっている。
 その光景を「あのやうなたぐひなく稚醇な聖寿万歳を私はしらぬ」と平野謙はおおいに感激している(島崎藤村論)が、なんだか平野謙らしくない。
 誤解のないように言っておかねばならないが、いわゆる「文学者の戦争責任」というようなテーマにからめようとして、藤村の事跡をあげつらっているわけではない。あくまで、いわば反体制運動に身を挺したこま子との対比を強調したいだけである。
 人のえにしとは不思議なものである。かって妊娠したこま子を見捨てるようにしてパリに逃れた藤村は、異国で親交をあたためた人物がいた。当時、同じくパリに留学していた河上肇である。
 その河上肇の学問を慕って、京都大学に入学したのはこま子の夫となった長谷川博だった。河上は京大社研の理論的支柱であり、指導者だったのである。治安維持法違反で投獄された河上肇は獄中で、かっての友人である藤村の『夜明け前』を読み、ごまかしとでたらめがあると猛烈に批判した。河上肇はたぶんこま子のことを知っていて、こま子の窮状を救えと藤村に連絡したのに、無視されたのでむきになって批判したのではないかと推測するのは梅本浩志(『島崎こま子の「夜明け前」)社会評論社)である。河上肇が藤村にこま子のことを連絡したとまでは私には思えないが、長谷川を通じて、こま子のことを知っていた可能性はじゅうぶんにあると思う。  

藤村「近親相姦」事件 10

2007-09-06 22:46:05 | 小説
 長谷川が出獄し、こま子は夫と共に東京に移り住む。昭和7年(1932)である。翌年の9月に長女紅子を出産している。紅子は「こうこ」とよむ。地下にもぐり共産党の活動を続けた長谷川にちなんだ名であることは歴然としている。しかし、こま子は夫とはほとんど別居状態だった。
 おさなごを抱え、自分たちだけの生活でも大変なのに、社会主義活動を続けていた彼女も、ついに力尽きて健康を害したのであった。近所の人たちが見るに見かねて板橋の救貧院に収容させたのが、新聞記事になったというわけだ。
 略歴を続けよう。
 こま子が退院したのは4月14日だった。入院中、紅子は福島の篤志家の医師が引き取って世話をしていた。
 6月になって姉ひさ夫婦の世話で故郷である信州木曽妻籠に帰った。新聞記事のおかげかもしれない。
 妻籠で20年を過ごし、昭和32年の夏、東京中野区に移り住んだ。64才になっている。お茶の水女子大を卒業した紅子と一緒に暮らした。中野の住居を斡旋したのは、すでに別れていた長谷川だったらしい。彼も再婚していた。ちなみに、長谷川はのちに法政大学の教授となって定年を全うしている。たまたま長谷川博の人となりを知る文書をウエブ上で見つけた(下記)が、やはり、こま子を愛した男だと、なんとなく納得がいった。
 それはさておき、こま子はそれから22年生きた。昭和54年、中野の淨風園病院で心不全で死んだ。86才だった。
 死の前日、紅子が病院に立ち寄っていたが、朝、こま子は誰にもみとられることなく息をひきとっている。病院の医師も看護婦もこま子が島崎藤村の姪で『新生』の節子のモデルであることを知らなかった。
 
 http://nels.nii.ac.jp/els/contents_disp.php?id=ART0001213829&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=Z00000008813859&ppv_type=0&lang_sw=&no=1189113122&cp=

藤村「近親相姦」事件 9

2007-09-05 21:08:07 | 小説
 昭和から大正にさかのぼって、こま子の閲歴を略記してみる。
 大正7年に台湾に渡ったことは前に書いた。翌8年には帰国し、羽仁もと子の自由学園で住み込みの職員となる。
 羽仁もと子は藤村の明治女学院時代の教え子だった。どうやら、こま子は自由学園での生活が合わなかったらしい。偽善的な雰囲気に嫌気がさしていた模様だ。
 すすめる人があって、京都に移る。三高YMCAの学生寮「洛水寮」の賄婦として働きはじめるのである。
 ほどなく京都大学社会科学研究会(京大社研)の北白川の合宿の寮母となった。京大社研こそは国家権力が非合法地下活動の拠点として狙いをつけていた学生サークルだった。
 ここで、こま子は思想的転機を迎える。彼女は学生たちと連帯し社会運動に目覚めてゆくのである。
 35才になったこま子は10才年下の長谷川博から求愛され、同志愛から結婚する。ところが長谷川は昭和3年3月15日のいわゆる3・15の450人検挙で、起訴収容され、4年の入獄生活を送ることになる。
 こま子は静かな女闘士となった。同志の救援活動に奔走するのであった。救援資金を得るためにクリーニング屋を開業してみたり、行商をはじめたりした。もとより特高警察は彼女の行動を監視しはじめる。
 幾度かしょっ引かれ、取り調べをうけている。拷問さえうけた。
 拷問の詳細について彼女は語るところが少なかったが、裸にされて縛りあげられたらしい。後遺症として、腕にしびれが走ることがあったようだ。
 晩年、彼女は書道を教えたりしているが、なんらかの差し障りがあったのではないかと思われ、いたましさをおぼえる。その書、写真でしか見たことはないけれど、鋭くとがった稟とした字である。藤村の書体の方がはるかに女っぽい。

藤村「近親相姦」事件 8

2007-09-04 21:34:17 | 小説
 林芙美子はこのとき34才、『放浪記』の作者として人気女流作家の地位を得ていたが、雑誌社からインタビュアーとして指名されたのであろう。『婦人公論』4月号で、林芙美子は、藤村に反駁を感じる、とはっきり書いた。そして、こう続けている。
「(一人の女性をこゝまで追ひつめる種子を撒いておいて)深く掘りさげた『償ひ』をされなかったむくいに、結果はこんなにも侘しい女の生活をつくったのではないかと、私はベットに病み伏してゐる彼女を、涙なくして眺めることはできませんでした」と。
 さらに藤村にやんわりと皮肉るように注文をつけている。
「藤村氏は日本の立派な作家であり、私の這入ってゐるペン倶楽部の会長さんなのですけれども、私はセンエツに、どうぞこま子さんを幸福にしてあげて下さいましと、よけいなことも言ひたくなりました」
 たしかに藤村は初代ペンクラブの会長におさまり、昭和3年には再婚していて仕合せに暮らしていた。妻は、こま子に似ているといわれる静子、またしても24才も年下の女性だった。
 その静子に、藤村は見舞金50円を持たせて、こま子の病院に行かせている。静子は守衛室に見舞金だけを預け、病棟には入らなかった。むろん藤村はその後もこま子には会おうとしなかった。
 見舞金50円、その額は現在ならばどのくらいに相当するか。当時の葉書が一枚2銭だったから、葉書2500枚分ということになるだろうか。ちょっと、それはないだろうという気がしないでもない。
 藤村は息子(前妻の)に洩らしていたという。
「今頃になって、また古疵にさわられるのも嫌なものだが、よほど俺に困ってもらわなくちゃならないものかねえ」
 私はこんなセリフを残した藤村が好きになれない。
 藤村には「古疵」かもしれないが、こま子の人生には生傷が絶えることがなかったではないか。
 こま子のことを語ることにしよう。

藤村「近親相姦」事件 7

2007-09-03 20:57:17 | 小説
 昭和12年3月6日付の東京日日新聞の記事の一部を以下に掲げる。

「桃の節句の三日の夜遅く、板橋の区立養育院に豊島区方面委員の手を通じて豊島区西巣鴨町四の五〇七長谷川こま子(四四)といふ一婦人が収容された。病にやつれた見る影もない姿であるが、どことなく気品のある容貌、インテリらしい物腰に同院の係員も謎の収容者として不審がっていたところ、五日になってこの婦人こそ文壇の巨匠、島崎藤村氏の代表作『新生』に女主人公『節子』として現れる藤村氏の姪、島崎こま子さんの、それから廿年後のうらぶれの姿であることがわかり知る人々をして暗然たらしめた」

 横見出しは「″新生″女主人公 うらぶれの姿」、4段タテ見出しは二行で「運命の荊の道を廿年 あはれ養育院に収容」そして2行小見出は「島崎藤村氏の姪こま子さん 貧苦と過労から重病の床に」

 ほとんど、紙面はこま子特集である。
「″誰を怨みませう″愛児の写真を掻き抱いて…病床に泣き伏す彼女」あるいは「赤の闘士・夫君いづこ?初めて打明けた身の上」という中見出しが踊る。
 むろん、藤村のコメントもとっている。「別々の道へ″立場″を語る藤村氏」という見出しがついている。藤村は語っている。
「こま子とは二十年前東と西に別れ、私は新生の途を歩いて来ました。当時の二人の関係は『新生』に書いていることでつきていますから今更何も申し上げられません、それ以来二人の関係はふっつりと切れ途は全く断たれてゐたのです。(後略)」
 ベットに横たわって、掛け布団を口もとのあたりまで左手で引っ張って、顔をかくさんばかりにしようとしている彼女の写真が載っている。44才のこま子が少女のように、そして美しくすら見える。謎の収容者とは、よくぞ言ったものだと思う。
 新聞記事は翌日7日も続いた。記事を見た読者の見舞客が殺到したという後追い記事だ。
 その3月7日、林芙美子が病院にやってくる。『婦人公論』の記者としてであった。

藤村「近親相姦」事件 6

2007-09-02 08:51:32 | 小説
 男のエゴイズムにしかすぎない執着を、愛の執着と錯覚する女はいる。けれども錯覚からでも愛は生まれる。男と女という生き物の愛の双方向性には幾分かは錯覚というバイアスがかかっているからだ。
 愛のない男の情欲から始まった関係であったが、こま子はもともと尊敬と憧れを抱いていた叔父藤村を男として愛してしまったのである。
 ヨーロッパ・ルネッサンス時代の伝説アベラールとエロイーズの物語を藤村はしばしばこま子に語り聞かせていた。
 藤村は自分とこま子の関係をアベラールとエロイーズになぞらえ、あたかもこま子を洗脳したのである。「私が求めたのは私の快楽ではなくあなたの快楽でした」と言ったのはエロイーズであった。そこまでアベラールに身も心も捧げたエロイーズにこま子を同化させようとしたか、あるいはおぞましい関係の出発点をヨーロッパの伝説になぞらえて美化しようとしたのかもしれない。
 美化したところで現実が変るものではない。ふたりの関係は板子一枚下は地獄というようなものであった。
 藤村は逃避先のパリで、アベラールとエロイーズの眠るペール・ラシューズ墓地を訪れている。しかし藤村はアベラールにはなりようがなかった。むしろ、こま子はエロイーズたりえたかもしれなかった。
 終わりよければすべてよしではないけれど、アベラールとエロイーズの物語が人々の胸を打つのは、この男女が同じ墓に眠っているからだ。
 エロイーズははるかに年上だったアベラールの21年後に死ぬが、死ぬ少し前にアベラールと同じ墓に葬られるよう手筈をととのえた。死んだ彼女をアベラールの傍らに横たえようとすると、アベラールの腕が伸びて彼女を抱こうとしたという伝説がある。いや、抱擁しようとして腕をひろげたのはエロイーズのほうだったという説もある。死してなおそういうことが伝説になるふたりだった。
 さて、藤村とこま子の場合はどうか。藤村は、自分たちの関係を伝説になぞらえるならば、最後までなぞらえるべきだったのである。
 藤村と別れたあとのこま子の生涯は数奇としかいいようがない。
 藤村は忘れた頃に、こま子のことを思い知らされることになる。