まず、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の「あとがき五」にある次の文章をお読みいただきたい。
≪竜馬暗殺の計画は、よほど周到にめぐらされたらしい。幕閣のたれが見廻組に下命したかはよくわからないが、当時幕府の目付だった榎本対馬守道草(榎本和泉守武揚ではない)という説がある。勝海舟などもこれを疑っている。その明治二年四月十五日の日記に、「松平勘太郎からきいた。竜馬の暗殺は佐々木唯三郎をはじめとして今井信郎らの輩が乱入したと。佐々木には上より指図があったのであろう。指図をした者は、あるいは榎本対馬か」とある。勝にこのことを話した松平勘太郎は旧幕時代大隅守といい、竜馬暗殺の当時は榎本対馬守の直接の上司であった。一応、信頼すべき筋というべきであろう。≫
この文章には大きな誤りと事実誤認があるのだけれど、お気づきになられただろうか。
私は最初この文章を目にしたとき、とびあがるほど驚いて(寝そべって読んでいたから)、つかの間、興奮したものだった。
今井信郎が函館戦争で降伏人となり、兵部省及び刑部省で、龍馬の「殺害」(暗殺とは言わない)に、見廻組が関与したと供述したのは明治3年2月であった。
その前年の明治2年に、すでに龍馬暗殺に見廻組関与が話題になっている日記なのだ。
これは、いったいどういうことかと内心色めきたったのである。
なんのことはない、海舟の日記の年次が違っていただけのことだった。
海舟日記の明治3年に当該記述があるのであって、もとより明治2年4月15日にそんな記事はないのであった。これは、つまり司馬本の「あとがき」にたんなる誤植があったにすぎない、ということであろうか。そうは思えない。実は龍馬関係史料集に海舟の日記が収録されたものがあって、その日付が司馬本の「あとがき」と同じように間違っていることがわかった。司馬氏はここから孫引きしたと思われる。
だから間違いをそのまま引き継いだのである。
司馬氏は原典、つまり海舟の日記にあたらなかったから、海舟の日記を誤読したと、私は推測するものである。
事実誤認とはそのことなのだが、あらためて海舟の日記を検討してみよう。
≪竜馬暗殺の計画は、よほど周到にめぐらされたらしい。幕閣のたれが見廻組に下命したかはよくわからないが、当時幕府の目付だった榎本対馬守道草(榎本和泉守武揚ではない)という説がある。勝海舟などもこれを疑っている。その明治二年四月十五日の日記に、「松平勘太郎からきいた。竜馬の暗殺は佐々木唯三郎をはじめとして今井信郎らの輩が乱入したと。佐々木には上より指図があったのであろう。指図をした者は、あるいは榎本対馬か」とある。勝にこのことを話した松平勘太郎は旧幕時代大隅守といい、竜馬暗殺の当時は榎本対馬守の直接の上司であった。一応、信頼すべき筋というべきであろう。≫
この文章には大きな誤りと事実誤認があるのだけれど、お気づきになられただろうか。
私は最初この文章を目にしたとき、とびあがるほど驚いて(寝そべって読んでいたから)、つかの間、興奮したものだった。
今井信郎が函館戦争で降伏人となり、兵部省及び刑部省で、龍馬の「殺害」(暗殺とは言わない)に、見廻組が関与したと供述したのは明治3年2月であった。
その前年の明治2年に、すでに龍馬暗殺に見廻組関与が話題になっている日記なのだ。
これは、いったいどういうことかと内心色めきたったのである。
なんのことはない、海舟の日記の年次が違っていただけのことだった。
海舟日記の明治3年に当該記述があるのであって、もとより明治2年4月15日にそんな記事はないのであった。これは、つまり司馬本の「あとがき」にたんなる誤植があったにすぎない、ということであろうか。そうは思えない。実は龍馬関係史料集に海舟の日記が収録されたものがあって、その日付が司馬本の「あとがき」と同じように間違っていることがわかった。司馬氏はここから孫引きしたと思われる。
だから間違いをそのまま引き継いだのである。
司馬氏は原典、つまり海舟の日記にあたらなかったから、海舟の日記を誤読したと、私は推測するものである。
事実誤認とはそのことなのだが、あらためて海舟の日記を検討してみよう。