亀屋主人はしかし相楽らの捕縛から処刑に至る経緯を見届けた重要な目撃証人であることに違いはない。次のように、ほとんど微視的に観察している。
〈折から雨はますます降りしきって、結びし縄は雨にぬれて皮肉(かわにく)に食い入るのか、さすがの勇士らも苦しげな声を出すと、相楽はそれらの者を見て、「聞き苦しい声を立つるな、これしきの事」などと口では云うが、総三の眼は苦しかろうがそれを忍べというやさしい光があった。
その翌日の夜、遂に一言の取調べもなく断頭ということになってしまった。総督は総三の立派な弁解を恐れたからであろう。
総三らの無念はいかばかりであったろうか。自分はじめ竹矢来の外に居た多くの見物人の中には、どうかして助けたいと思うた人々も少なくはなかったが、余りの厳重にそれもかなわなかった。その日も雨に暮れて、いよいよ8名の者は…」
この「いよいよ」以下が本稿の初回に引用した処刑目撃の談話に続くのである。
最初に捕縛された相楽、大木、小松、竹貫の4人のほかに渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、金田源一郎の8名が「断頭乃上梟首」、ほかに14名が片鬢片眉を剃り落とされて放逐された。そして30人余が所払いとなった。
のちに「官軍が官軍に斬られた、岩倉公は、東京にお這入りになるのに、賊を斬らぬで、官軍を8人殺して居ります」(『史談会速記録』第245輯)と憤慨したのは岡谷繁美である。
のちに伊奈県(長野県)大参事となった落合直亮(注)は、相楽と赤報隊を回想して、こう嘆いた。
「人生なるまじきは走狗なりけり」
相楽は薩摩の走狗となったから、用済みになれば殺されたのだと断じたのであった。
(注)相楽の盟友であった。国文学者で歌人の落合直文の養父でもある。
〈折から雨はますます降りしきって、結びし縄は雨にぬれて皮肉(かわにく)に食い入るのか、さすがの勇士らも苦しげな声を出すと、相楽はそれらの者を見て、「聞き苦しい声を立つるな、これしきの事」などと口では云うが、総三の眼は苦しかろうがそれを忍べというやさしい光があった。
その翌日の夜、遂に一言の取調べもなく断頭ということになってしまった。総督は総三の立派な弁解を恐れたからであろう。
総三らの無念はいかばかりであったろうか。自分はじめ竹矢来の外に居た多くの見物人の中には、どうかして助けたいと思うた人々も少なくはなかったが、余りの厳重にそれもかなわなかった。その日も雨に暮れて、いよいよ8名の者は…」
この「いよいよ」以下が本稿の初回に引用した処刑目撃の談話に続くのである。
最初に捕縛された相楽、大木、小松、竹貫の4人のほかに渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、金田源一郎の8名が「断頭乃上梟首」、ほかに14名が片鬢片眉を剃り落とされて放逐された。そして30人余が所払いとなった。
のちに「官軍が官軍に斬られた、岩倉公は、東京にお這入りになるのに、賊を斬らぬで、官軍を8人殺して居ります」(『史談会速記録』第245輯)と憤慨したのは岡谷繁美である。
のちに伊奈県(長野県)大参事となった落合直亮(注)は、相楽と赤報隊を回想して、こう嘆いた。
「人生なるまじきは走狗なりけり」
相楽は薩摩の走狗となったから、用済みになれば殺されたのだと断じたのであった。
(注)相楽の盟友であった。国文学者で歌人の落合直文の養父でもある。