小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

相楽総三と赤報隊を考える  22

2008-09-30 21:40:15 | 小説
 亀屋主人はしかし相楽らの捕縛から処刑に至る経緯を見届けた重要な目撃証人であることに違いはない。次のように、ほとんど微視的に観察している。

〈折から雨はますます降りしきって、結びし縄は雨にぬれて皮肉(かわにく)に食い入るのか、さすがの勇士らも苦しげな声を出すと、相楽はそれらの者を見て、「聞き苦しい声を立つるな、これしきの事」などと口では云うが、総三の眼は苦しかろうがそれを忍べというやさしい光があった。
 その翌日の夜、遂に一言の取調べもなく断頭ということになってしまった。総督は総三の立派な弁解を恐れたからであろう。
 総三らの無念はいかばかりであったろうか。自分はじめ竹矢来の外に居た多くの見物人の中には、どうかして助けたいと思うた人々も少なくはなかったが、余りの厳重にそれもかなわなかった。その日も雨に暮れて、いよいよ8名の者は…」

 この「いよいよ」以下が本稿の初回に引用した処刑目撃の談話に続くのである。
 最初に捕縛された相楽、大木、小松、竹貫の4人のほかに渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、金田源一郎の8名が「断頭乃上梟首」、ほかに14名が片鬢片眉を剃り落とされて放逐された。そして30人余が所払いとなった。
 のちに「官軍が官軍に斬られた、岩倉公は、東京にお這入りになるのに、賊を斬らぬで、官軍を8人殺して居ります」(『史談会速記録』第245輯)と憤慨したのは岡谷繁美である。
 のちに伊奈県(長野県)大参事となった落合直亮(注)は、相楽と赤報隊を回想して、こう嘆いた。
「人生なるまじきは走狗なりけり」
 相楽は薩摩の走狗となったから、用済みになれば殺されたのだと断じたのであった。


(注)相楽の盟友であった。国文学者で歌人の落合直文の養父でもある。

相楽総三と赤報隊を考える  21

2008-09-29 19:26:06 | 小説
 大木の無念の涙には、彼らの結末を知っている作家の無念さが投影されている。
 作家は、この場面を亀屋主人の談話に依拠して描写したのだが、その亀屋主人は、大木のほかに西村謹吾も相楽の供をしていたと伝えている。
 談話筆記を読みやすくして引用する。

「西村・大木は一大事と太刀抜き連れたが、相楽が総督の本陣じゃ狼藉するなと叫んだために、無念の涙をのんで彼らの為すままにまかせてしまった。このような卑怯な手段で、其の夜のうちに隊の主なる組長は一人ひとり欺き呼ばれて捕われ、他の伍長以下の者どもは上田・小諸・松本の諸藩へ預けられてしまった。相楽は自分の行動に対しては何ら非のないことを自覚しているから、総督の調べを待って立派に弁解するつもりだったらしいが、どういうものか一言の取調べもなく、そのまま本陣裏の並木へ繋りつけて周りに竹矢来を結んでしまった。」

 相楽を心配して、後をつけるようにして本陣にきた竹貫三郎と小松三郎も捕縛されたのであった。
 竹貫も大木と同じ秋田の出身で24才、小松は土佐出身でほんとうの姓は福岡のようだ。小松三郎は相楽と同じ変名なのである。小松の人物像はよくわかっていない。機会があれば調べてみたいと思うのは同郷というよしみもあるからだ。
 さて、赤報隊一同が本陣ヘ呼び寄せられたのは相楽らが捕らえられた翌日の3月2日であった。
 亀屋主人が「其の夜のうちに…云々」とあるのは思い違いである。
 ついでに言えば、他の史料などとも付き合わせて、西村謹吾が供をしていたというのも、おそらく記憶の混乱だと思われる。
 亀屋主人の談話に依拠しながらも、西村の存在を無視した作家の直観は正しかった、と言える。 

相楽総三と赤報隊を考える  20

2008-09-26 18:56:12 | 小説
 下諏訪への2里ほどの道のりを、相楽はどんな思いで歩いたのかと書いたけれど、歩いたというのは比喩のようなものだ。
相楽は陣羽織を着て馬で出立したと書くものもあり、あるいは駕籠を使ったかもしれない。徒歩か馬か駕籠か確たる史料があるわけではないのだ。
 ともあれ相楽が本陣に着いたのは夜も更けて、霙まじりの雨が降りだした頃だった。
 玄関に入るや否や、数名の人数に取り囲まれている。
 本陣の亀屋主人によれば「2、30名の力士」となっている。突如、彼らは「総督の命じゃ、神妙に」と叫びながら、相楽につかみかかろうとした。とっさに大木が彼らを押しのけ蹴倒しながら、相楽を背にして抜刀した。
「人を斬る名人は年こそ若けれど、大木の右に出る者はない」と評された大木である。その殺気に捕り方たちはひるむが、相楽が大木をたしなめる。
「大木、総督の本陣じゃ、控えろ」と。
 これから先は長谷川伸の描写に譲ろう。長谷川伸はその著書『相楽総三とその同志』を、赤報隊に対する「紙の記念碑」とし「我が捧げる文筆香華」とした作家であった。そのことに敬意を表したいからでもある。

〈相楽がそのとき、大木の肩の上から、自分の大小二刀をとって投げた。二刀は槍の間の畳の上、捕縛係の眼の前へ落ちた。「大木控えろ、総督府を騒がせては相成らん、控えろ」と、またも相楽がいった。大木は切歯して、小手を返して、抜刀を畳の上からずぶりと深く刺しこみ、両眼を閉じた、その眼から涙が、はらはら頬を珠になって落ちた。
 すると、今まで黙って睨み合っていた者が、急に何かめいめい言いながら、相楽と大木へ五、六人ずつ飛びつき、引きずり倒して手取り足取り押えつけ、大急ぎで縄を掛けた。〉

相楽総三と赤報隊を考える  19

2008-09-25 20:06:00 | 小説
 東山道総督府は2月24日付で、相楽らを預けた薩州、さらに長州、因州、土州、大垣の5藩に、赤報隊に関して通達を出していた。24日というのは、むろん相楽が帰陣した翌日なのだが、事態は相楽にとっては想定外の方向に進んでいた。
 通達の内容は、場合によっては相楽らを厳重処罰してもよい、というものだった。原文を写す。

 相楽総三之手ニ属シ居リ候草莽士、従来勤王之志有之趣
 総三ヨリ申立候ニ付採用ニ及ヒ候処、命令ヲ不待 猥リニ
 官軍之名ヲ仮リ致進退、剰ヘ小諸藩ト戦争ニ及候風聞有之
 仍而難捨置、其藩ヘ取調申付候間、時宜ニヨリ断然厳重
 処置可致候事

 これでは、さきに引用した相楽の薩摩藩への弁明は、すでにして意味のないものになっている。
 さて2月27日、「今日当隊一同樋橋ヘ移ル」と「赤報記」は記す。下諏訪の本陣を、ほどなく進軍してくる東山道総督府に明け渡すためであった。長谷川伸の描写を借りる。
「樋橋村は下諏訪から二里とはなく、餅屋峠の手前にある。下諏訪、下原、餅屋、和田、こうなる。本陣を小松屋嘉兵衛という。赤報隊はそこに宿陣した」(前掲書)
 月が変って3月1日、この2里ほどの道を、相楽総三はいったいどんな思いで歩いたのか。下諏訪の総督府本陣への道程は、すなわち地獄への道のりだった。
 またしても、軍議があるから総督府に出頭せよという呼び出しがあったのだ。
 前日、相楽は風邪で悪寒があり、ときおり腹痛にも悩まされているから、体調が万全であったはずはない。病み上がりのような体で、本陣をめざしたのであった。大木四郎が供をした。羽州秋田出身の20才の若者である。供は、この若者ひとりだったが、実はふたりを護衛するように小松三郎と竹貫三郎があとを見え隠れして付いて来ていた。
 この日のことを「赤報記」は記す。
「今日相楽総三下諏訪本陣ヘ為伺出向 遂ニ無帰陣」と。
 ついに無帰陣、「赤報記」の記述者の歯ぎしりが聞こえてきそうな、感嘆詞のような言葉である。

相楽総三と赤報隊を考える  18

2008-09-24 20:28:49 | 小説
 相楽は自分たち草莽の隊である赤報隊が、しょせんは塵芥のごとく捨てられる運命にあることを理解することができなかった。ここで「塵芥のごとく捨てられる」というのは、ほかでもない当時の人物の使った形容を借用したまでである。
 中岡慎太郎を岩倉具視に引き合わせた人物として知られる土佐の大橋慎三が、岩倉具視宛の手紙の中で使っている。

「草莽之士は是迄は聊御回復之御一助なきにあらず、且積年、賊網中を徘徊仕り、勤王之遂に屈せず今日に至り候故、必ずしも今列藩兵勢盛也とて、草莽之者を塵芥の如く御捨てに相成り候而は、御義理に於而朝廷之不被為済候訳も可有之」

 大橋は岩倉具視に抗議しているのである。王政復古にも協力した草莽の者たちを、列藩の兵力が揃ったからといって、塵芥のごとく捨てるというのでは、義理に欠けて、かえって朝廷のためにならないのではないか。
 そう言っているのだ。なぜ岩倉ヘの抗議なのか、いうまでもなく岩倉が草莽切り捨てのキーパーソンであるからだ。
 この手紙の日付は2月6日付である。もう、このあたりで草莽隊への措置が決まり、それが大橋の耳に入っているのであった。
 しかし下諏訪に帰陣した相楽はまだこんなことを書いている。

「…小諸藩ト戦争ニ及候始末段々探索致シ候処、十日大垣表ニテ岩倉卿ヨリ捕押候様ニト申令出候ニ付如此次第ニ及候ト申候」さりながらこれはおかしい、と前にもちらっと書いた疑問を呈するのであった。
「先達テ儀 御本陣罷出候節 第一僕ヲ御召捕ニ可相成候義と奉存候」
 ところが召し捕るどころか、何の話もなかったではないか。岩倉卿の命令は僕らの嚮導隊のことではなく、別にそう名乗る者がいるのではないのか。間違われては困るから、御藩から信州諸藩にそこのところをよろしく布告してほしい。(「赤報記」より)

 以上が相楽が薩摩藩に依頼しようとした内容だった。 

相楽総三と赤報隊を考える  17

2008-09-23 18:52:33 | 小説
 東山道総督府は、いったい何のために相楽を呼び出したのか。
 それは赤報隊を薩摩藩の支配下におくという通達のためだった。「東山道総督府諸達留」の2月19日付に、そのことが記録されている。

                       相楽総三
  其方并同志人数之儀、今般薩州藩ヘ致委任候間、万事右
  藩ノ約束ヲ受、屹度謹直ニ進退致シ候様可相心得候事
   戊辰ニ月
  別紙ノ通被 仰出候間、相達候也
                  東山道先鋒総督府
                         執事

 さらに「薩州藩」に通達した文面は次のようなものだ。

  相楽総三并同志人数之儀、今般其藩ヘ致委任候間、右之者共
  屹度約束ニ従ヒ謹直ニ進退致シ候様可仕候、若不法等有之候
  節者厳重之処置ニ及候而モ不苦候条、此旨可相心得候事

 なんのことはない、きわめて姑息な措置なのだ。一方では捕縛命令を出している赤報隊の処分を薩摩藩に委ねた格好なのである。
 赤報隊にもし不法等があれば、厳重に処置しても苦しからず、という文言がしらじらしいではないか。
 しかも相楽に対しては関東の事情に詳しいからと、総督府は探索方を命じているから、相楽はまるでコケにされたようなものであった。
 さて、相楽が下諏訪に帰ったのは23日であった。 
 彼は留守中に起きた出来事を知った。
 碓氷峠撤退と追分における小諸藩との銃撃戦、金原忠蔵の戦死、そしてなにより総督府が信州諸藩に発した赤報隊捕縛の布告文をである。

相楽総三と赤報隊を考える  16

2008-09-21 21:17:41 | 小説
「赤報記」によれば、2月9日に「相楽総三 金輪五郎 京地へ発」とある。
 これについては長谷川伸は東海道総督府より呼び出しがあったからと書くけれど、2月8日付で東山道総督府より次のような召喚状が届いたとする史料(注)がある。

「御軍議候間、鎮撫府御本陣へ草々御出頭可被成旨御沙汰事  総督府執事」

 またしても軍議があるからという呼び出しであるが、それにしても京都へ出発という「赤報記」の記事とは違和感がある。
 いずれにせよ相楽は、大垣城内の東山道総督府に姿をあらわしていた。
『東山道総督府日記』はこう記している。

 2月19日 晴
 1、御進軍先触、大垣ヨリ下諏訪迄宿々江相達候事
                    相楽惣三
  右参着之事(略)

 おかしいではないか。ここでは相楽を先鋒隊として認めているのだ。相楽ら赤報隊は無頼の徒だから取押えろと総督府が信州諸藩に通達したのが、前に書いたように2月10日だった。
 総督、副総督の岩倉兄弟は、本人を目の前にすると、とたんに弱腰になったのであろうか。それとも自分では手を汚したくなかったのか。たぶん、そうなのであろう。
 のちに相楽自身がここのところを突っこむ。赤報隊に罪があるというのならば、ではなぜ、あのとき隊長の自分を取り押さえなかったのかと。
 相楽は、あとで信州諸藩への布告内容を知ることになっても、いやそれは自分たちのことではないと、信じられなかったほどだった。総督府には表の顔と裏の顔があることを、相楽は見抜けなかった。

(注)「大正13年皇太子御成婚贈位内申事蹟書・6」所収「相楽総三」

相楽総三と赤報隊を考える  15

2008-09-18 22:13:46 | 小説
 東山道総督府は2月10日付で、信州諸藩に布告文を発していた。高松隊に関してである。概要はこうだ。

 無頼の徒が幼稚な公卿(つまり高松実村)を欺き、当総督の先鋒などと偽り、通行の道々、金穀を貪っている。そのほかいかなる狼藉をしでかすかもはかりがたい。これら無頼の徒は取り押さえて、総督の沙汰を待つように。

 問題は、この布告文の「附」である。
 明らかに相楽らの一行を高松隊と同様に断じているのだ。以下に原文を引用する。

 先達テ綾小路殿御手ニ属シ居候人数 綾小路殿既御帰京ニ相成候後 右之者共無頼之徒ヲ相語合 官軍のノ名ヲ偽リ嚮導隊抔ト唱 虚喝ヲ以テ農商ヲ劫シ追々東下致候趣ニ相聞候 右等モ高松殿人数同様之儀ニ候間夫々取押置可申旨被仰出候事

 総督府執事名義で書かれた布告文は、須坂藩、高遠藩、高島藩、松本藩、上田藩、松代藩、飯田藩、小諸藩、岩村田藩それぞれの藩主宛(連名)に発せられたのであった。
 相楽隊の包囲網ができたわけだ。
 2月17日、追分宿にいた赤報隊を突然、小諸藩兵が襲った。
 明暁7ツ時頃だったと「赤報記」は記す。むろん布告文による赤報隊狩りだった。
 このときの銃撃戦で隊士の金原忠蔵が戦死した。31才だった。本名は竹内廉太郎、下総小金宿の郷士であった。
 赤報隊の面々は、このとき総督府から自分たちを取押えろという通達が出ていることは知っていた。だから占拠していた碓氷峠の関所を引き払って追分宿に泊っていたのであった。無警戒であるはずはなかったが、金原という犠牲者を出した。
 相楽はしかし、このときそこにはいなかった。

相楽総三と赤報隊を考える  14

2008-09-17 21:50:03 | 小説
 ここで滋野井隊について触れておかねばならない。滋野井卿の草莽隊は、先発した赤報隊とは厳密には別部隊であるけれど、松尾山での挙兵の時点では立場を同じくしていた。新政府から見れば、滋野井隊も広義には赤報隊であった。
 その滋野井隊は赤報隊より4日ほど遅れて、同じく東山道を進軍していた。この草莽隊、最初から悪評につつまれていた。行く先々で、軍資金調達を名目に強盗まがいの乱行があり、悪い噂をまいていたのである。その噂は京都にまで聞こえていた。
 相楽の赤報隊一番隊が、嚮導隊として単独に進軍することになった同じ日の26日、四日市で滋野井隊の重臣たちが東海道鎮撫総督付属の肥後藩兵によって逮捕されていた。そして数名が処刑されている。
 処刑の理由は次のようなものであった。

「聖論ノ趣ニ違背シ、総督府ノ命ヲ不待、妄ニ敵地ヘ侵入、剰ヘ増山対馬守領内ニ於テ不法ノ所業有之、彼是人心及動揺、官軍御瑕瑾ヲ醸出シ候段、不可許行跡、依是、遂詰問、伏罪、加誅戮、正軍律候」

 軍律を犯したというわけで、偽官軍とされたわけではない。そのことは、のちの赤報隊の処罰とは違っていた。
 ちなみに滋野井卿は、身柄を保護されるようにして京都に送還されている。
 さて、いまひとつ滋野井隊と同じような意味で、赤報隊を誤解させた草莽隊があった。公卿の高松実村が挙兵した部隊で、こちらは赤報隊を追い越すように先を進んでいた。これまた評判が芳しくなかったのだが、京都から見れば赤報隊と同じ穴のむじなだった。首謀者はやはり処刑されている。
 むろん、これらのことも相楽にすれば、あずかり知らぬことだった。
「赤報記」によれば、相楽らは1月29日、軍を進めて中津川に宿陣している。
 月が変わって2月1日には、隊中に法令書を示した。19条から成る立派な軍律である。こまかいところでは、遊女屋に行くこともバクチも禁じていた。
 赤報隊の軍律は厳しかったのである。

相楽総三と赤報隊を考える  13

2008-09-16 11:15:52 | 小説
 このとき帰洛命令に応じた赤報隊三番隊隊長油川練三郎の回想談がある。

「それから鵜沼駅まで進みました所が、太政官より御達が到来しまして大軍議在らせらるゝに依って其の赤報隊引纏め草々上京すべしといふ事でありました、そこで参謀軍裁等を綾小路卿の御前に会して会議を開かれまして、さて大命黙止難いに依て今より一同引纏めて帰京する旨を申されると、相良(楽)総三が不承知でありまして、凡そ将外に在っては君命も聴かざる所ありといふことがある、諸君は若し帰京するなら総三は部下を率ひて前進すると主張しまして議論が盛んでありましたが、詰り綾小路卿の裁断で相良総三は引分かれる事に決しまして、其一隊を引連れて意気揚々として信濃路を指して出発しました」(『史談会速記録』第78輯)

 相楽が帰洛命令を一方的に無視して独走したという見方があるけれど、油川の回想にあるとおり、一応議論を尽くし、最終的に綾小路卿の決裁(しぶしぶながらも)を得ているのであった。
 相楽とすれば、事後のとりなしについては帰洛する綾小路に下駄を預けたつもりだった。綾小路を買いかぶりすぎたといえばそれまでである。
 ところがその綾小路は総督の本営では予期に反した扱いを受けて、相楽らの行動の弁明どころではなかったのであった。
 もとより、大軍議があるからというのが嘘だった。新政府の意図は、赤報隊の解隊だった。赤報隊は先鋒隊であったはずだ。先鋒隊にひきかえせというのだから、その存在理由は消滅するわけである。
 相楽が帰洛命令を呑めなかったのも、そのことにつきる。すでに23日、彼は京都に建白書を届けていた。たとえ軽挙の朝議をこうむるとも速やかに賊を討つことが肝要であり、自分たちは東山道を東下するという決意を述べた内容であった。
 しかし、新政府にとっては、赤報隊はもはや用済みの存在、それどころかむしろ厄介者になっていた。なぜか。 

相楽総三と赤報隊を考える  12

2008-09-11 18:19:54 | 小説
 それにしても岩倉具視はなぜ年貢半減は施行難と判断し、はやばやと「不可」としたのか。
 この背景にひそむ事情があった。
 官軍の戦費調達、もっと広義にいえば新政府の財源確保に関するいきさつである。
 新政府の財政を担当した三岡八郎(由利公正)は、当面の必要資金を320万両とはじき出していた。
 会計御基立金300万両、御親政大坂行幸費5万両、関東鎮撫費15万両がその内訳である。
 関東鎮撫費という項目は注目すべきであるが、ともあれこれら資金手当てがじゅうぶんつかないまま、官軍は進軍していたのであった。
 三岡は資金援助を京・大坂の豪商たちに呼びかけていた。
 政府の「会計基立金三百万両募債」に三井、小野、島田、鴻池らの豪商が応じた。
 資金調達の目途のついたのが23日なのである。
 豪商たちの資金援助の見返りは「金穀出納所御用」という特権であり、軍需品御用達だった。
 年貢米の独占的取扱いの権利を得た豪商たちにすれば、取扱高が文字通り半減する「年貢半減」では、担保価値が小さいと反対するのは当然である。
 だからこそ、新政府はあわてて年貢半減撤回ということになったのであろう。
 むろん、相楽の赤報隊は、こんなことは知らない。
 官軍本隊よりも、先へ先へと進んでいた相楽の赤報隊は、前に書いたように23日は鵜沼にいた。
 その日四ッ半刻、綾小路の一行が合流する。
 25日にはまだ鵜沼にいる。
 その鵜沼の本陣に、突如、新政府の参与より帰洛命令が届いた。
 赤報隊全員、京都に帰って来いというのである。
 綾小路卿と赤報隊二番隊、三番隊はこの命令に従ったけれど、相楽と彼の率いる一番隊は帰らなかった。
 帰らないことが、彼らの悲劇へのカウントダウンとなる。 

相楽総三と赤報隊を考える  11

2008-09-10 16:44:34 | 小説
 ところで年貢半減に関して、大総監府参謀西郷隆盛はどう考えていたのか。慶応4年1月16日に、西郷は箕田伝兵衛に宛てた手紙の中で、さきの新政府の御沙汰書の趣旨を裏付ける発言をしている。

「…東国ハ勿論、諸国之内是迄徳川氏ノ領分、旗下之士ノ知行所共 王民と相成候へハ、今年之租税ハ半減、昨年未納之物も同様被仰出、積年之苛政を被寛候事ニ御座候、此一義ニても東国之民ハ、直様相離れ可申義と奉存候、彼賊を孤立さするの策ハ早く相用ヒ不申候てハ不相済…」

 ご覧のとおり、西郷は「年貢半減」を、徳川と農民を離反させる「策」のひとつとして、とらえていた。
 しかし、その「年貢半減」令は、すぐに取り消された。
 慶応4年1月26日、岩倉具定、八千麿(具経)の連名で岩倉具視に宛てた手紙の冒頭にはこうある。

「御別紙難有拝見仕候 1、年貢半減之儀、御施行難被為遊趣キ承知仕候」
 
 この手紙の日付は、具定が「いまさら取り消しなんて言い辛い」と愚痴のようなものをこぼした手紙と、同じ日付である。つまり、その手紙を発信したあとで、岩倉具視から「御別紙」の手紙が届いたのである。その返書であって、わざわざ「26日午刻」と記しているのは、さきの手紙は午前中にしたためたのであろう。
 それにしても残念ながら、その「御別紙」の内容はわからない。わからないけれども、ある種の憶測は可能である。
 副総督の八千麿と連名で、「拝見仕候処、誠ニ難有不堪感泣候」と末尾に感激している有様が異常なのである。
 なぜ感泣にたえないほどありがたい内容だったのか。
 それは、東山道鎮撫総督の具定と副総督の八千麿の苦慮をいっきに吹き飛ばす内容だったからではないか。「年貢半減令」の取り扱いで、つまりその取り消しで、もう悩む必要がなくなったのである。
 なぜなら、官軍は「年貢半減」など発令してはいない、あれは偽官軍の赤報隊の独断として、彼らを抹殺すればよろしい。
 たとえば、そういう内容だったとしたらどうか。 

相楽総三と赤報隊を考える  10

2008-09-09 23:22:46 | 小説
 新政府の年貢半減令は、なにも赤報隊にだけ出されたものではなかった。
 備前、芸州、長州の三藩に、1月14日付で下された指令書の中に、赤報隊宛の御沙汰書とほぼ同じ文章で、租税半減措置がうたわれていた。それは相楽の建白書が契機となっているのかもしれない。
 さて、赤報隊である。
 正月15日、赤報隊は松尾山本陣を出発して、夕刻高宮に着いた。16日番場、17日柏原、18日は関ヶ原で昼休みをとり、美濃竹中陣屋に到着。20日赤坂、21日加納宿と、中山道を東進している。
 官軍の総督本隊は、21日に京都を発って、この日大津に着いたところだから、はるか後方にいる。
 23日、赤報隊は鵜沼に泊る。
 その23日、東山道鎮撫総督の岩倉具定に従って大津に滞陣していた香川敬三が、具定の父の岩倉具視に宛てた手紙の一節に、「年貢半減」の文言が出現する。

「…昨日も言上仕候、年貢半減等之義奉伺処、今以御沙汰不被為在、甚苦心仕居候」

 年貢半減について問い合わせしているのに、返事をいただけなくて困っている、という内容である。いったい、なにを困っているのか。どうやら、年貢半減令は取り消されるという噂を香川は察知して、岩倉具視に真意をただしているようである。
 これに対して岩倉具視の答えは、
「散財穀之筋ニ而半減と申事は不可之御事ニ候」
 というものだった。財政上、実行不可能だというのである。
 26日、こんどは岩倉具定が父の具視宛に手紙を書き、年貢半減に言及している。
 いったん朝命で認めたものを、いまここで撤回というのは、なかなか言い辛いことですよ、ほかのところではどう処理しているのか、ぜひ教えてほしい、といった内容である。

相楽総三と赤報隊を考える  9

2008-09-08 20:36:09 | 小説
 相楽は、言ってみれば「年貢軽減」を嘆願したにすぎない。しかし、これに応えた新政府の御沙汰書には、はっきりと年貢「半減」という文言が記されている。その該当箇所。

「…幕領之分、総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ、可為同様…」

 なんと未納分もさかのぼって半減というのだから、相楽の提案以上に踏み込んでいるのである。
 まさに「年貢軽減」でなく「年貢半減」であった。
 思い起こせば文久3年8月、天誅組は大和五条代官所襲撃後に、年貢半減を標榜した。同年10月の生野挙兵では南八郎が村役人に年貢半減を告げた。
 尊攘派志士たちは、挙兵の際、農民たちになぜいつも年貢半減を呼びかけたのか。そのことはまた別に考えてみなければならないが、ともあれ赤報隊は、本陣の門前に高札を掲げ、年貢半減についても知らせた。その該当箇所。

 徳川慶喜儀  朝敵タルヲ以官位被召上 且従来御預之土地不残御召上ニ相成以後ハ天朝御領ト相成候 尤是迄慶喜之不仁ニ依リ百姓共ノ難義モ不少義ト被思召 当年半減ノ年貢ニ被成下候間  天朝之御仁徳厚相心得可申(後略)

 年月日があって、「官軍赤報隊 執事」とある高札であった。
 ちなみに、この文章の前に書かれている項目は、混雑にまぎれて偽官軍があらわれ、百姓町民に暴威をふるう恐れもあるが、そういうことがあれば本陣に訴え出よというものである。
 赤報隊の最後を知っている後世の私たちは、この高札の文章を感慨なしには読めない。
 相楽もまた、自分が偽官軍の首領で、虚偽の年貢半減令を布告したものとして、やがて断罪される運命にみまわれるとは、このとき露ほども思いはしなかったはずだ。

相楽総三と赤報隊を考える  8

2008-09-07 22:14:48 | 小説
 相楽らは琵琶湖を渡って守山で、綾小路グループのほかにさらに滋野井公寿グループ、元新選組グループ、そして水口藩士グループと合流した。
 元新選組グループというのは、薩摩藩邸に身を寄せていた高台寺党の鈴木三樹三郎の一派である。相楽と同じく西郷から武器弾薬・金百両の提供を受けていた。
 公卿の綾小路・滋野井、それに水口藩士グループの背後にいたのが岩倉具視である。
 総勢200人余(最終的には300人近くにふくれあがる)の彼らの軍議の場所に選ばれたのは、松尾山金剛輪寺だった。
 1月10日、ついに赤報隊が結成される。いうまでもなく「赤心報国」に由来した隊名だ。三隊編成とした。

 一番隊 相楽総三組
 二番隊 鈴木三樹三郎組
 三番隊 油川練三郎組

 ちなみに油川は水口藩士で、同志20余人を伴って参加していた。
 翌11日には彦根藩から大砲3門、ミニヘル銃50挺の提供があった。
『赤報記』によれば、12日、相良総三は「議定参与御局ヘ建白」とあって、その建白書に、あの有名な「年貢半減」に関連する文言が出現する。
「年貢半減」に関連する、と歯切れの悪い言い方をしたのは、相楽はここでは「年貢半減」とは言っていないからである。
 彼はこう述べている。

「 …幕領之分ハ暫時之間賦税ヲ軽ク致候ハヽ、天威之難有ニ帰嚮シ奉リ…」

 つまり、暫くの間、旧幕府領地の年貢は軽くされるべきではないかと提案しているにすぎないのだ。