小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  2  

2004-11-28 14:58:15 | 小説
芭蕉の死後のことになる。
 6代将軍家宣は世情の引き締めを図るため、諸国八方面に巡見使を派遣した。いわば民情の査察である。宝永7年(1760年)3月、九州方面巡検使には3人の旗本が選ばれたが、そのうちのひとり土屋数馬の御用人に岩波庄右衛門という人物がいた。巡検の実務を握り、土屋チーム随員ほぼ50名の旅費金千貫目(今なら2千万円相当か)を預かっていた。もと伊勢長島藩に仕えたこの人物は、かっては河西惣五郎と名のっていた。
 芭蕉は「おくの細道」のなかで、この人物のことを、こう紹介している。
「曽良は河合氏にして惣五郎と云へり、芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく」
 芭蕉は意図的に「河西」という姓を「河合」と変えているが、芭蕉と共に「おくの細道」紀行に随行した曽良という俳人こそ、九州巡検使トップ随行員岩波庄右衛門その人だったのだ。むろん、おくの細道紀行のときは曽良は芭蕉と同じく僧形であった。僧形はあくまで仮のものであったことが、これでわかる。しかも、このときも旅費支出の実権を握っていたのは曽良だった。芭蕉はいみじくも曽良が「薪水の労」をたすけてくれたと書いているが、台所仕事を手伝ってくれたというニュアンスは、あてはまらない。曽良は女でもなく、武士である。芭蕉の仕事の報酬が曽良経由で渡されていたと思ったほうがよい。

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  1

2004-11-27 15:07:16 | 小説
 江戸の俳人服部嵐雪にとんでもない句があると、最近になった知り、いささか衝撃を受けた。一瞬、ほんとかいな、と思ったほどだ。というのも原典ではなく引用された句だったからだ。(なんとしてでも原典を探してみなくてはならない)こんな句である。
   素波に出でて朝帰る月
 素波(すっぱ)というのは「すっぱぬく」の語源説もあるように、忍者のことである。服部嵐雪はその姓からも忍者ではなかろうかと見られる人物だが、この句は自らの素性をさらしすぎている。(月を擬人化したと解釈できるけれども)さて、その服部嵐雪はいわゆる蕉門十哲のひとり、宝井其角と双璧をなす芭蕉の古い弟子である。もとは武士だった。俳句の弟子もさりながら、芭蕉の請け負っていた陰の仕事のスタッフのひとりだったと、私はこの句で確信した。
 芭蕉忍者説は、とかく俳聖を冒涜する荒唐無稽な説としてしりぞける向きが多いが、なにも芭蕉が猿飛佐助や霧隠才蔵などと同列の「忍者」というわけではなく、幕府の隠密であったということだ。あまりにも状況証拠がそろいすぎて、そう考えざるを得ないのである。弟子の嵐雪が素波仕事をしていたというのなら、これも私にとっては新しい状況証拠がまたひとつ増えたことになる。
 芭蕉の妻をクノイチとした作品を構想している者としては、芭蕉その人が隠密であったという状況証拠を、まず固めなければならない。これから、そのことについてまとめておこう。