小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

赤松小三郎研究会にて講演の記事

2014-10-20 12:17:16 | 小説
 
朝日新聞10月18日付朝刊(都内版)の28面に写真のような記事が掲載された。
そうなのだ、21日に「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたか」と題して講演することになっている。四谷の某酒場で月一回開かれている幕末の勉強会のような雰囲気を想像して、軽い気持ちで講演をおひきうけしたのだが、なんだかおおがかりなことになってきた。

芭蕉『奥の細道』出発日の謎

2014-10-02 18:04:13 | 小説
暦の小の月のことを、子供の頃「にしむくさむらい」とおぼえた。2、4、6、9月と11月(士)で、「西向くさむらい」である。つまり私たちが慣れ親しんでいる暦では、小の月は固定化されているのだが、陰暦ではそうではなかった。年ごとに大小の月が違っていて、小の月も太陽暦のように30日以下ではなく29日以下であった。
 さて、元禄2年3月は小の月であった。3月は29日で終わっていた。
 ところが次のような記事がある。

 卅日(みそか) 日光山の麓に泊る。(以下文章が続く)


 記述者は松尾芭蕉である。
「おくのほそ道」の元禄2年3月30日というありえない日付の項である。
 実は旅の同行者の曽良の日記から、日光に泊ったのは、4月1日だったことがわかっている。それはそうだろう、3月30日という日付はないのだから。
 なにが言いたいかといえば、「おくのほそ道」における芭蕉の日付は、鵜呑みにしてはいけないということなのである。
 芭蕉は陸奥の国への旅立ちの日を、3月27日深川を発つと明記している。ところが曽良は3月20日と書いている。
 曽良の日記は、自分用の手控えで、人に見せるものではないし、嘘をつく必要もない。かたや芭蕉の「おくのほそ道」は、人に見せるための「作品」である。作為があって、日付を変えているのだ。
 芭蕉研究の第一人者の今栄蔵が『芭蕉年譜大成』で、曽良の日記のほうが誤記だとしているのを見て驚いたが、芭蕉にいれあげると目がくもるのであろう。
 芭蕉と曽良とで出発日が違うという謎は、ほんとうは「おくのほそ道」の謎を解き明かす最初の関門である。曽良の誤記だろうぐらいですまされる問題ではないのである。