小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

芭蕉庵の真実  完

2010-12-31 16:43:04 | 小説
 さて芭蕉庵に芭蕉が植えられていなければ意味がない。第三次芭蕉庵には五本の芭蕉が新しく植えられた。『芭蕉を移す詞』にこう述べられている。
「竹を植ゑ、樹をかこみて、やや隠家ふかく、猶明月のよそほひにとて芭蕉五本を植ゑて、其葉七尺余り…」
 かなり広い庭があったのであろう。
 ところが旧芭蕉庵の芭蕉は「一本」であった。
『芭蕉翁絵詞伝』の中に挿入されている「深川芭蕉庵図」は、どうみても一間しかない小屋の庭に複数の芭蕉が軒より高く茂っている。
 ひっきょうするに、この絵は、芭蕉庵の実態を混乱させる想像図にすぎなかったのだ。複数の芭蕉の繁茂する芭蕉庵は三室もある家屋であったからだ。
 ところで、この第三次芭蕉庵で詠んだ奇妙な句がある。

 この寺は庭いっぱいの芭蕉哉

 芭蕉庵は「寺」とみなされているのだ。どうやら芭蕉庵を「貧山」という山号を持った庵寺とみなし、芭蕉自身は「貧主」と自称していたらしいのだ。
 だから「この寺は」となるのだが、事情をわかっていないと、寺と芭蕉庵が結びつかない句である。
 たとえば自分のことを「乞食僧」と言ったり、あたかも禅宗の僧のように振舞う芭蕉であった。自分の住居を寺に脚色しても不思議ではない。だが、この脚色を私たちは額面通り真に受けてはならないのである。
 韜晦なのである。俳諧師としての文学的韜晦もあるだろうし、生業の実態を隠す韜晦でもある。
「生業の実態」とはなにか。それが実は私の次の小説のテーマである。芭蕉庵の場面から書きだしたのだが、どうもしっくりと芭蕉庵のイメージがまとまらなかった。イメージ統一のための確認作業がこのブログのプロセスであった。

芭蕉庵の真実  4

2010-12-26 15:37:45 | 小説
 元禄3年9月26日付で、曽良が芭蕉に送った手紙は、第二次芭蕉庵のその後の様子を伝えている。
 その後と言っても、元禄2年の雛祭りからまだ18ヶ月しか経っていないわけだが、その間に平右衛門から俳人夕菊の母、浄土宗の和尚と住人が入れ替わっている。平均すれば6ヶ月で住人が替わるという、いわくありげな住居である。「わづかなる内に数変おかしく存じ候、またいかなる者が入り替はり候はんと存じ候」と曽良は書いている。
 そしてその和尚も、念仏を唱える声がやかましく「大屋より被止候故」いずれ転出することになっているとも書かれている。
 近隣からクレームがついているわけで、まさしく長屋のそれである。独立家屋だったら、こういうことは起きないだろう。しかも「大屋」がいるのである。この「大屋」こそ長屋を差配する森田惣右衛門に違いない。
 話は飛ぶが、元禄5年5月から同7年5月までの二年間、芭蕉が住むことになった第三次芭蕉庵については、住居の構造がかなりはっきりしている。
 芭蕉自身が『芭蕉を移す詞』に「旧き庵もやや近う」と書いているから、旧庵の場所からさほど離れているわけではない。
 その『芭蕉を移す詞』によれば「三間の茅屋つきづきしう、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭厚くわたして、南に向かひ池に臨みて水楼をなす」とある。
 三間あるのである。もはや「六畳一間」の草庵などではない。

芭蕉庵の真実  3

2010-12-23 21:34:07 | 小説
 伊奈家と芭蕉の関係を追求してゆくと、たんなる俳諧師ではない芭蕉の別の顔があぶりだされてくるのだが、ここではそのことが主題ではない。芭蕉庵のことであった。
 さて第二次芭蕉庵は、奥の細道に旅立つ前に、平右衛門という人物に譲っていた。芭蕉自身がこう述べていている。

 …日頃住みける庵を相知れる人に譲りて出でぬ。この人なむ、妻を具し、娘・孫だの持てる人なりければ、
  草の戸も住みかはる世や雛の家(注)

 なんと三世代が住める家なのである。3月3日の雛祭りの日に、譲った芭蕉庵の様子を見に行ったら雛飾りがあって華やかであったというのだ。
 草庵、あるいは6畳一間の侘住いの茅舍といったイメージを芭蕉庵に抱いていた私が、その漠然とした思い込みに違和感を持ったのは、じつはこのエピソードが最初である。
 第二次芭蕉庵について二代目市川團十郎の日記『老の楽』に重要な記述がある。
「深川のばせを庵、竃(へっつい)二つありて、台所の柱に瓢(ふくべ)を懸けてあり。2升4合ほども入るべき米入也」そして「翁の仏壇は壁を丸く掘り抜き、内に砂利を敷き、出山の釈迦の像を安置せられし由、まのあたりに見たりと笠翁物がたり」とあるのだ。
「出山の釈迦像」というのは難行を終えて山を出る釈迦の像という意味で、その像は門人の文鱗からの贈り物だった。私が注目するのは、それをおさめる造り付けの仏壇のことである。
 壁をくりぬいて作っているわけだが、それほどの厚い壁のある構造物が茅舍のたぐいであるわけがない。
 ちなみに高橋庄司『芭蕉伝記新考』(春秋社)は、この仏壇のある芭蕉庵を第一次芭蕉庵とされている。しかし第二次芭蕉庵のことと見るのが正しいと思う。団十郎の日記は笠翁の見聞を紹介しているのだが、笠翁が芭蕉にあった年齢と当時の芭蕉の年齢が記されており、それによれば第一次芭蕉庵では辻褄が合わないからである。

(注)この句は、のちに「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」と改められている。


芭蕉庵の真実  2

2010-12-22 13:40:51 | 小説
 芭蕉と交流のあった俳人に尾張鳴海の下里知足という人がいた。彼の日記に、第二次芭蕉庵は「深川元番所」の「森田惣左衛門の屋敷内にあった、と記されている。
 「元番所」とはなにか。それは幕府の船番所のあった場所ということである。
芭蕉が深川に移住した延宝8年に刊行された『江戸方角安見図』には小名木川にかかる万年橋の北側のたもとに「元番所」がある。
 そこは小名木川が隅田川に合流する地点だ。下総(千葉)行徳と江戸を往来する船の、いわば検問所が船番所である。その場所に第二次芭蕉庵があったのである。むろん、ふつうの町人が住める住宅地ではない。
 芭蕉の門人其角の『芭蕉翁終焉記』によれば「…昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて焼原の旧草に庵をむすび」とある。この記事を額面どおりに受けとれば、第一次芭蕉庵と第二次芭蕉庵は、ほぼ同じ場所と見なしてもよいかもしれない。
いずれにせよ、先に紹介した通説の「芭蕉庵は元は杉風の生簀の番人小屋」というのは、この「元番所」が変容した説だと思われる。
 生簀の番小屋にしても草庵にしても、小さな独立家屋のイメージを喚起されるけれども、第二次芭蕉庵のおもむきは独立家屋のそれではない。そのことは後で述べることにするが、さしあたって再び『江戸方角安見図』に言及しておかねばならない。この地図によれば、「元番所」は伊奈半十郎の土地の一角に位置しているのだ。もとより武家地なのである。
 伊奈半十郎は関東代官頭であった。芭蕉庵は、だから関東代官家の土地の一角にあったということなる。下里知足のいう「森田惣左衛門」の名は地図上には見当たらない。森田はおそらく伊奈家の家臣で、代官屋敷の内長屋を管轄する役目であったと推測される。
 ちなみに幕臣が一般町民に地所を貸すことは法的に禁止されていた。まして伊奈家は代官頭である。そんな伊奈家の地所に芭蕉が住めるということは、彼が特別な存在だったということになるではないか。 
 

芭蕉庵の真実  1

2010-12-21 16:07:24 | 小説
 いわゆる深川芭蕉庵について、たぶん多くの人は独立した草庵をイメージされていると思う。
 たとえば芭蕉100回忌の寛政4年に刊行された『芭蕉翁絵詞伝』は、芭蕉の伝記をまとめた絵巻物であるが、狩野正榮描く挿し絵も、独立した家屋のようになっている。大正15年に刊行された『深川区史(上)』にはこう書かれている。
「…(芭蕉の)弟子の鯉屋杉風は幕府の御納屋で、初め彼れを小田原町に住まわせていたが、そこは芭蕉の気に入らなかったと見えて、延宝2年に深川の生簀屋敷にある六畳一間の茅屋を提供した。これが即ち後の[芭蕉庵]で、…(後略)」
 鯉屋という屋号の門人杉山杉風(さんぷう)所有の生簀の番小屋が芭蕉庵の前身だったというのは、ほとんど通説化しているから、『深川区史』はそう記述するのである。ただし延宝2年は延宝8年としたほうが正しい。現在の通説では芭蕉が深川に居を移したのは延宝8年とされているのだ。
 ところで芭蕉庵とよばれるゆえんは、よく知られている。門人のひとりから贈られた芭蕉の一株を庭に植え、芭蕉が生い茂っていたからであった。
 芭蕉庵とよばれるまでは、泊船堂と芭蕉自身は呼んでいた。杜甫の詩句「門泊東海万里船」にちなんでいる。隅田川を行き交う船がよく見える場所だったからである。櫓のきしむ音が聞こえた。

  櫓声波を打ってはらわた氷る夜や涙

 繁茂した芭蕉によって泊船堂から名を変え、みずからも芭蕉と名乗るようになったその芭蕉庵、実は正確な場所が特定されていない。
 芭蕉は深川で三度、移動していた。つまり芭蕉庵は第一次、第二次、第三次と区別されて語られるようになっている。
 第一次芭蕉庵は、天和2年冬12月の「八百屋お七火事」で類焼、芭蕉は川に飛びこんで焼死をまぬがれたが、住処は失ったのであった。
 さて問題は第二次芭蕉庵である。