さて芭蕉庵に芭蕉が植えられていなければ意味がない。第三次芭蕉庵には五本の芭蕉が新しく植えられた。『芭蕉を移す詞』にこう述べられている。
「竹を植ゑ、樹をかこみて、やや隠家ふかく、猶明月のよそほひにとて芭蕉五本を植ゑて、其葉七尺余り…」
かなり広い庭があったのであろう。
ところが旧芭蕉庵の芭蕉は「一本」であった。
『芭蕉翁絵詞伝』の中に挿入されている「深川芭蕉庵図」は、どうみても一間しかない小屋の庭に複数の芭蕉が軒より高く茂っている。
ひっきょうするに、この絵は、芭蕉庵の実態を混乱させる想像図にすぎなかったのだ。複数の芭蕉の繁茂する芭蕉庵は三室もある家屋であったからだ。
ところで、この第三次芭蕉庵で詠んだ奇妙な句がある。
この寺は庭いっぱいの芭蕉哉
芭蕉庵は「寺」とみなされているのだ。どうやら芭蕉庵を「貧山」という山号を持った庵寺とみなし、芭蕉自身は「貧主」と自称していたらしいのだ。
だから「この寺は」となるのだが、事情をわかっていないと、寺と芭蕉庵が結びつかない句である。
たとえば自分のことを「乞食僧」と言ったり、あたかも禅宗の僧のように振舞う芭蕉であった。自分の住居を寺に脚色しても不思議ではない。だが、この脚色を私たちは額面通り真に受けてはならないのである。
韜晦なのである。俳諧師としての文学的韜晦もあるだろうし、生業の実態を隠す韜晦でもある。
「生業の実態」とはなにか。それが実は私の次の小説のテーマである。芭蕉庵の場面から書きだしたのだが、どうもしっくりと芭蕉庵のイメージがまとまらなかった。イメージ統一のための確認作業がこのブログのプロセスであった。
「竹を植ゑ、樹をかこみて、やや隠家ふかく、猶明月のよそほひにとて芭蕉五本を植ゑて、其葉七尺余り…」
かなり広い庭があったのであろう。
ところが旧芭蕉庵の芭蕉は「一本」であった。
『芭蕉翁絵詞伝』の中に挿入されている「深川芭蕉庵図」は、どうみても一間しかない小屋の庭に複数の芭蕉が軒より高く茂っている。
ひっきょうするに、この絵は、芭蕉庵の実態を混乱させる想像図にすぎなかったのだ。複数の芭蕉の繁茂する芭蕉庵は三室もある家屋であったからだ。
ところで、この第三次芭蕉庵で詠んだ奇妙な句がある。
この寺は庭いっぱいの芭蕉哉
芭蕉庵は「寺」とみなされているのだ。どうやら芭蕉庵を「貧山」という山号を持った庵寺とみなし、芭蕉自身は「貧主」と自称していたらしいのだ。
だから「この寺は」となるのだが、事情をわかっていないと、寺と芭蕉庵が結びつかない句である。
たとえば自分のことを「乞食僧」と言ったり、あたかも禅宗の僧のように振舞う芭蕉であった。自分の住居を寺に脚色しても不思議ではない。だが、この脚色を私たちは額面通り真に受けてはならないのである。
韜晦なのである。俳諧師としての文学的韜晦もあるだろうし、生業の実態を隠す韜晦でもある。
「生業の実態」とはなにか。それが実は私の次の小説のテーマである。芭蕉庵の場面から書きだしたのだが、どうもしっくりと芭蕉庵のイメージがまとまらなかった。イメージ統一のための確認作業がこのブログのプロセスであった。