一条家の乳母の時代から皇后にとって最も親しい存在だった岩根は、近江国滋賀郡伊香立村大字途中の農藤岡作右衛門の娘だった。近江の女だったのである。
これから先は小説風に岩根に語らせてみよう。聞き手は皇后である。
「伏見に寺田屋という船宿があり、とせという有名な女将がおります。この女将の実家は近江大津で郷宿や米問屋を営んでおりました。郷宿というのは公事宿とも呼ばれ、私の父のような者が公用で代官所に出向くときの定宿のことでございます。大津には代官所がございました。それはともかく、おとせさんと私は同郷のよしみで、うちとけて四方山話をした間柄でございます。勤皇の志士の坂本龍馬様の奥様を、おとせさんが養女にされていたのは後で知りましたが、その坂本様もなんと近江に縁の深いお方とか、おとせさんから聞きまして、えっ、土佐の方ではないですかって、ええそうです土州の方ではありますが、ご先祖様は近江の方らしゅうございます。ですから、近江坂本城主だった明智光秀と同じ桔梗の紋所をお召し物に付けておられたとか」
「桔梗紋」と皇后が心のなかで反復するように呟いたかどうかはわからない。しかし、このことは皇后の意識の底に深く沈んだ・・・。
皇后が夢を見、そのあとで写真の男を龍馬だと断定できたのは、桔梗の紋所をつけていたからではないか。夢のなかのおぼろにさだかでなかった男の顔を、桔梗紋が媒体となって写真の龍馬に同化して像を結んだと考えられないだろうか。
皇后が龍馬の夢を見たその年の夏すぎ、突然のように寺田屋に宮中から御下賜金がおりている。龍馬の亡霊弔慰の意味合いであるらしい。皇后は、おとせの義侠をも嘉したとされているが、このとき、おとせはもういない。27年前に死んでいたからである。七代目寺田屋伊助が御下賜金(百円と伝えられている)で寺田屋の東隣に恩賜記念の石碑を立てた。
さて、皇后と龍馬の接点となる人物で上述の女性たちではなく、もうひとり重要な人物のいることをあやうく忘れるところだった。
これから先は小説風に岩根に語らせてみよう。聞き手は皇后である。
「伏見に寺田屋という船宿があり、とせという有名な女将がおります。この女将の実家は近江大津で郷宿や米問屋を営んでおりました。郷宿というのは公事宿とも呼ばれ、私の父のような者が公用で代官所に出向くときの定宿のことでございます。大津には代官所がございました。それはともかく、おとせさんと私は同郷のよしみで、うちとけて四方山話をした間柄でございます。勤皇の志士の坂本龍馬様の奥様を、おとせさんが養女にされていたのは後で知りましたが、その坂本様もなんと近江に縁の深いお方とか、おとせさんから聞きまして、えっ、土佐の方ではないですかって、ええそうです土州の方ではありますが、ご先祖様は近江の方らしゅうございます。ですから、近江坂本城主だった明智光秀と同じ桔梗の紋所をお召し物に付けておられたとか」
「桔梗紋」と皇后が心のなかで反復するように呟いたかどうかはわからない。しかし、このことは皇后の意識の底に深く沈んだ・・・。
皇后が夢を見、そのあとで写真の男を龍馬だと断定できたのは、桔梗の紋所をつけていたからではないか。夢のなかのおぼろにさだかでなかった男の顔を、桔梗紋が媒体となって写真の龍馬に同化して像を結んだと考えられないだろうか。
皇后が龍馬の夢を見たその年の夏すぎ、突然のように寺田屋に宮中から御下賜金がおりている。龍馬の亡霊弔慰の意味合いであるらしい。皇后は、おとせの義侠をも嘉したとされているが、このとき、おとせはもういない。27年前に死んでいたからである。七代目寺田屋伊助が御下賜金(百円と伝えられている)で寺田屋の東隣に恩賜記念の石碑を立てた。
さて、皇后と龍馬の接点となる人物で上述の女性たちではなく、もうひとり重要な人物のいることをあやうく忘れるところだった。