小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

皇后の夢と龍馬 -9-

2005-09-28 19:54:45 | 小説
 一条家の乳母の時代から皇后にとって最も親しい存在だった岩根は、近江国滋賀郡伊香立村大字途中の農藤岡作右衛門の娘だった。近江の女だったのである。
 これから先は小説風に岩根に語らせてみよう。聞き手は皇后である。

「伏見に寺田屋という船宿があり、とせという有名な女将がおります。この女将の実家は近江大津で郷宿や米問屋を営んでおりました。郷宿というのは公事宿とも呼ばれ、私の父のような者が公用で代官所に出向くときの定宿のことでございます。大津には代官所がございました。それはともかく、おとせさんと私は同郷のよしみで、うちとけて四方山話をした間柄でございます。勤皇の志士の坂本龍馬様の奥様を、おとせさんが養女にされていたのは後で知りましたが、その坂本様もなんと近江に縁の深いお方とか、おとせさんから聞きまして、えっ、土佐の方ではないですかって、ええそうです土州の方ではありますが、ご先祖様は近江の方らしゅうございます。ですから、近江坂本城主だった明智光秀と同じ桔梗の紋所をお召し物に付けておられたとか」
 「桔梗紋」と皇后が心のなかで反復するように呟いたかどうかはわからない。しかし、このことは皇后の意識の底に深く沈んだ・・・。

 皇后が夢を見、そのあとで写真の男を龍馬だと断定できたのは、桔梗の紋所をつけていたからではないか。夢のなかのおぼろにさだかでなかった男の顔を、桔梗紋が媒体となって写真の龍馬に同化して像を結んだと考えられないだろうか。
 皇后が龍馬の夢を見たその年の夏すぎ、突然のように寺田屋に宮中から御下賜金がおりている。龍馬の亡霊弔慰の意味合いであるらしい。皇后は、おとせの義侠をも嘉したとされているが、このとき、おとせはもういない。27年前に死んでいたからである。七代目寺田屋伊助が御下賜金(百円と伝えられている)で寺田屋の東隣に恩賜記念の石碑を立てた。
 さて、皇后と龍馬の接点となる人物で上述の女性たちではなく、もうひとり重要な人物のいることをあやうく忘れるところだった。

皇后の夢と龍馬 -8-

2005-09-27 18:57:37 | 小説
 若江薫子に話を戻す。明治2年のことだが、薫子の過激な言動を心配した木戸孝允は岩倉具視に彼女を少しなだめてはどうかという内容の手紙を発している。その返信で岩倉具視は、彼女のことを「手の付け方これなき者に候」と評している。男顔負けの論客で、理屈でねじ伏せることもできず、手のつけようがないというわけだ。こんな女性が皇后の家庭教師だったのである。
 皇后はその感受性の最も豊かなときに若江薫子の薫陶を受け、維新前後の政局や、龍馬を含め志士たちの動向を教えられていたことは容易に想像がつく。たとえば、皇后の西郷隆盛観のよくわかるエピソードがある。
 西南戦争の終結直後のこと。西郷びいきだった明治天皇は「隆盛のこのたびの過罪を論じて既往の勲功を忘れてはなるまい」と気慰みに和歌をもとめて、皇后や女官に「西郷隆盛」というお題をあたえて和歌を詠めと命じた。このおり、皇后はこんな歌で応じた。

 薩摩潟しづみて波の浅からぬ はじめの違ひ末のあはれさ

 西郷は若い頃に勤皇僧とともに入水自殺をはかったことがあるが、そんな間違いをおかすような人間だから末路も哀れなのだ、とひややかにつきはなしているのだ。西郷びいきの天皇にすれば冷水をあびせられたような一首だったであろう。注目すべきは、まだ西郷の伝記(注)も出ていないこの時期に、僧月照との入水事件など西郷の事績をよく知ったおられることだ。しかも、深読みすれば、この歌にはあの入水事件のうさんくささを感じているような気配さえ漂ってくる。(このブログの左のENTRY ARCHIVEから2005年4月9日 西郷隆盛〈隠された素顔〉2 参照)
 皇后の勤皇の志士たちに関する知識、あなどるべからずなのだ。
 さて、皇后と龍馬の接点となるもうひとりの女性について語る番だ。宮中では岩根とよばれた女性。皇后は松子とよんでいたららしいが、本名はヤス。もともと皇后の乳母だった女性だ。

(注:西郷隆盛の伝記は明治27年に公刊されたものが最初のものである)

皇后の夢と龍馬 -7-

2005-09-26 17:23:11 | 小説
 皇后の父、一条忠香はいわゆる安政の大獄に連座したことがあった。龍馬の妻おりょうの父、楢崎将作もまた安政の大獄に連座投獄されている。一条家は、ある意味では龍馬と接点を見つけやすいのではと、最初に私は思った。龍馬は一条家に行ったことがあるのではないのか、あるとすれば文久2年秋頃かと、龍馬の年譜を眺めながら、ふと、その記録が一条家側にのこされてはいないかと気になった。一条忠香の12巻もの膨大な日記が元公爵一条家に所蔵されているらしい。しかし日本史籍協会によって公刊されているのは4巻に抄録されたものである。そこからは私が期待したものは得られなかった。
 皇后と龍馬を「夢」以前に結びつける接点は、では、ほかにないのか。ないはずはなかった。皇后のお傍近くに仕えた二人の女性の存在が鍵だ。この二人のうちのいずれか、あるいはどちらからも、皇后は龍馬に関する「情報」を入手していたと思われる。
 まず、そのうちのひとりとは皇后のいわゆる家庭教師だった若江薫子。皇后が入内後も宮中に伺候、皇后を教導している。女ながら過激な尊王思想家で、新政府に西欧化を批判した建白書を幾度か提出し、明治2年頃には宮中出入り禁止、あげく幽閉されたとも伝えられている。通称は文。号は秋蘭。天保6年生まれで龍馬と同い年である。新政府の生誕を見ずして、維新前夜に暗殺された龍馬の事積を皇后に教えたのは彼女ではないのか。皇后は龍馬の夢をみる以前から、妙に船に興味を持ち、海軍好きだった。
 明治12年4月、新造の軍艦、扶桑、金剛、比叡の見物。この日、詠んだ歌は「なみかせに身を任せても君か為船ならすらし御軍(いくさ)のため」あたかも、天皇のためなら自分が船を操練してもよいといった気概である。
 明治14年5月、横浜からお召し艦の迅鯨に乗って横須賀まで単独で行啓、水雷艇からの水雷発射を視察、上機嫌だったとか。
 明治19年3月には軍艦武蔵の進水式に天皇の代理で臨席。軍艦の艦上にいるのは油くさいと嫌い、どちらかといえば陸軍びいの天皇とは逆に皇后は海軍びいきだったのである。皇后が軍事行事に行啓することは珍しがられた時代である。この皇后の船好きは注目すべきなのだ。

 

皇后の夢と龍馬 -6-

2005-09-25 16:22:00 | 小説
 しかしである。皇后の夢は土佐派の作為話という見方は一部に根強くある。皇后宮大夫であった香川敬三(ちなみに水戸出身)や宮内大臣だった田中光顕らのデッチあげというものだ。邪推の限りとしかいいようがない。田中光顕の『維新風雲回想録』で、このことに触れた箇所を虚心に読まれとよい。皇后の夢の話に、田中自身が「あるべきことか、あらざるべきことか」とある種のとまどいを隠せないでいる。また香川も「どうも妙だ」と田中に伝えたとある。彼らが当の作為者であるならば、確信犯であらねばならない。皇后の夢の話に、心の片隅で首をかしげているような人物に、どうして作為の夢物語を流布させることができようか。萬朝報には皇后はいきさつを天皇にも話したとあった。明治の天皇制下、こんなデッチあげが許されるわけはないのだ。
 皇后が龍馬の夢を見たというのは、事実なのである。ただ、ひとびとを不思議な思いに誘うのは、龍馬と面識のなかったはずの皇后が、龍馬の写真を見て夢枕に立った人物と一致すると指摘した点である。
 心理学的な講釈はもはや不要だと思われるが、私たちの見る夢やひとの記憶は変容する。とりわけ、記憶は嘘をつく。時事新報によれば、「龍馬の名はかねてより記憶に存す」とした皇后は、龍馬の名とともにその事跡も知っておられた、と思う。
 では、夢の中の龍馬と実際の龍馬との写真の一致はどのように解すればよいのか。皇后はかって龍馬の写真を見たことがあった。あるいは会ったことがあった。そのいずれかだ。いずれの場合も皇后はそのこと自体を忘れておられた。ちなみに、タレントの上岡龍太郎の父で弁護士だった小林為太郎氏は、かって、龍馬は皇后の初恋の人だったのではと推理した。むろん、皇后は少女時代に龍馬をかいま見たことがあるという立場をとっているのだ。初恋の人とまで思い込むのはともかく、会ったことがあるという可能性は誰も否定できない。問題は、そのことが肯定的に検証可能かどうかだ。
 さて、これからが私にとっては楽しい作業になる。
 嘉永3年(1850年)、皇后は一条家の当主忠香の三女として誕生。幼名は勝子、富貴姫、あるいは寿栄姫と名を変え、入内して美子となった。「はるこ」とよむ。龍馬が暗殺された年には、17才だった。

皇后の夢と龍馬 -5-

2005-09-24 00:03:01 | 小説
 国会図書館内の食堂で昼食もとり、日がな一日、明治の新聞のマイクロフィルムと格闘した日々のことは、いまもよく思い出すことができる。私の収穫は、時事新報の記事の日付が特定できたことより、誰にも気づかれなかった次の記事を発見できたことだ。それは「報知新聞」の明治37年2月18日付けのごく短い記事だ。私はほとんど犯人を見つけた刑事のような気分になったものだ。全文を引用する。
「師団長会議よりの帰途小川陸軍中将一昨日(十五日)葉山御用邸に伺候せしに皇后陛下には謁見を賜はり今回海軍の勝利に付(つき)御物語あらせられ曾(かっ)て日清戦役の際牙山の捷報を聞かせられしも此葉山へ行啓中なりしをとて一種の御感を浮べさせられ、是れ全く天佑にして幸先(さいさ)き好(よ)き吉兆なりと宣(のたま)はせ給ひたれば中将は感激に堪へざりしと聞く」
 この記事の見出しは「皇后陛下の御感」となっている。具体的に夢の話も龍馬の名も出ているわけではない。しかし、この海軍勝利の吉兆のような「御物語」こそ、まさに龍馬が夢枕に立った話としか解釈のしようがないではないか。
 小川陸軍中将とは、小川又次のことである。日清戦争にも従軍し、戦略にたけ「今謙信」と評された軍人である。私のあたった史料では、この明治37年には第4(大阪)師団長だったはずである。小川中将はなぜ感激したのか。少し神経を病んで、葉山で静養していた皇后が、龍馬の夢を見るほどまでに戦争の行方を心配し、また海軍が勝つと信じているお姿に胸を打たれたのであろう。時事新報の記事の末尾に「或人より漏れ承はりぬ」とあった。この「或人」とは小川中将の可能性があるのだ。報知新聞は、さすがに夢の話はにわかに信じがたく、内容を書かなかった。後発の時事新報は小川中将に取材すれば、その内容を知ることは簡単だったはずである。
 さて、その小川中将は父は小倉藩士で福岡出身。むろん土佐人ではない。
 

皇后の夢と龍馬 -4-

2005-09-23 00:03:30 | 小説
 見られるように「此頃に至りて或人より漏れ承はりぬ」とある。つまり、今頃になってやっと夢の話が出てきたというニュアンスなのである。
 この「時事新報」の記事を受けるかたちで翌月の5月28日、こんどは「萬朝報」が「地久節と日本の女性」という記事を一面トップに載せた。この日は皇后の54才の誕生日、すなわち地久節だったからだ。記事はこんな書き出しで始まる。
「皇后陛下の葉山の離宮に在(おは)しますや、坂本龍馬が御夢に入り、我海軍の必捷を奏すること前後両回 陛下には之を奇しきことに思召され、後、之を天皇陛下に物語りあらせられしとは、世の伝へて佳話と為す所なり、我国民は是を以て龍馬が九泉の下(もと)猶(なほ)国を憂ふるの忠誠に感ずるよりは、我皇后陛下が夢寐(むび)だにも、猶心を国事に労せられ給ふを感謝するなり・・・」
 以下、長々と女性論が続く読み物なのだが、この書き出しで、はっきりしていることがある。要するに、龍馬の憂国の情よりも、皇后の心労に感謝したいという主張だ。それは「時事新報」の記事にも共通する趣旨であった。
 いずれにせよ、皇后が龍馬の夢を見た話は、この2紙にしか見当たらない。司馬さんは「都下のすべての新聞に載り」などと、いったい何を根拠にこんなことを書きつけたのか。当時の東京上位5紙は、
  1.二六新報  (142,340部)
  2.萬朝報   (87,000部)
  3.報知新聞  (83,395部)
  4.東京朝日  (73,800部)
  5.都新聞   (45,000部)
で、時事新報の順位は6位以下ということになる。ほかにも私には初めて耳にする電報新聞、毎日電報、日出国新聞などあり、「全紙」となると範囲はいささか広い。
 以下は余談。上記のカッコ内は日露戦争前の明治36年頃の発行部数であるが、日露戦争で新聞の発行部数は急激に伸び、倍増したもののようだ。国民は戦況を知るメディアとして新聞に頼らざるをえなかったのである。わが国の新聞ジャーナリズムは日露戦争で定着したといって過言でない。  
 
 

皇后の夢と龍馬 -3-

2005-09-22 00:12:27 | 小説
 さて、新聞の日付に意味がある。
「葉山の御夢」の記事の隣り合わせには「故広瀬中佐の家庭」という見出しの記事がある。3月下旬の旅順港閉塞作戦で戦死した、あの軍神広瀬中佐に関する記事だ。2月10日の宣戦布告から、すでに2ヶ月が経っており、戦争の最中である。ちなみにこの新聞の日付の日には、ロシア太平洋艦隊司令長官マカロフ中将も旗艦触雷爆沈で戦死している。もはや心理的に「ロシアおそろし」という恐露病の状況は通り越して、ロシアは現実に戦う相手になっている。
 司馬さんのいうように恐露病対策のデモ記事にはなりえないのである。おそらく、新聞記事の日付を確認できていたら、こんなナンセンスな論評は司馬さんだってしなかっただろう。もっとも話が話だからどうせ捏造記事だろう、捏造するからには意図がある、それは恐露病の国民の士気を変えるためだろうという予断の図式が最初から出来上がっているような気がする。
 しかも司馬さんは記事の写しを『龍馬関係文書』で読んでいるはずだが、重要な箇所を誤読、意地悪い見方をすれば司馬さん自身が改ざんしている。
「皇后はその名(坂本龍馬)を知らなかった」と司馬さんは書いていた。ところが現物の記事では皇后は龍馬の名は記憶していると、はっきり書いてある。
「龍馬の名は兼てより記憶に存ずれども如何ある人物なるやとの御尋ねありければ」となっているのだ。
 虚心に記事を読めば、龍馬が夢枕に立ったという話に力点があるのではない。皇后が寝食の間も、国の行く末を心配していて、そのことが有難いというのが趣旨なのだ。
 記事の結語はこうなっている。
「御寝食の間にも軍国を忘れさせ給はねばこそ仮(かりそ)めの御夢にも斯かる事はみそなはすなめれとて御前の人々は世にも有難き御心の程を畏み合へりしよし此頃に至りて或人より洩れ承はりぬ」 

皇后の夢と龍馬 -2-

2005-09-21 01:18:41 | 小説
平成9年に、NHK は歴史番組『堂々日本史』シリーズで坂本龍馬をとりあげ、その製作過程で明治の新聞を調査している。ところが龍馬を夢に見たという皇后の記事を見つけられなかった。スタッフのひとりが龍馬研究家として知られる一坂太郎氏の自宅に電話し「龍馬が昭憲皇太后の夢枕に立ったという話は、いったい何が原点なのでしょうか」と聞いてきたそうである。新聞のオリジナルを見たこともない一坂氏はこのことを『龍馬伝説とその時代』(『歴史読本』平成9年8月号)に書いて、要するに「皇太后が龍馬の夢を見たか否かについては確認のしようがない」とし、結局この逸話は「薩長の『肥やし』にされた土佐人たちの怨念の産物」と結論づけている。一坂氏の口ぶりではNHKがリサーチ会社を国会図書館に派遣してまで調べたのに見当たらないのは、新聞に載ったこと自体が疑わしいといいたげである。いずれにせよ、そこのところは別にしても、土佐派のでっち上げとする見解は司馬さんと同断である。もしかしたら、司馬さんの感想を鵜呑みにしたのかもしれない。
 司馬さんが「都下のすべての新聞」に載ったなどと書いているものだから、NHKに委嘱された調査マンも、たぶん明治37年3月前後に発行された全紙に当たったはずだ。見当たらなくて当惑した有様が目に浮ぶようだだが、何を隠そう、私もまた国会図書館で当時の新聞のマイクロフィルムの貸し出しを受け、所定のブースで検索したことがあった。三日かかったけれど、新聞記事そのものは見つけていたのだ。一紙のみである。のちに、この話題を枕にした皇后の記事を他紙が書いているが、龍馬が本題ではない。
 なぜ、NHK側は新聞記事を見つけられなかったのか。私はその理由がわかる気がする。司馬さんの言う「恐露病」を払拭させるための記事だという予断のせいに違いない。皇后が夢を見たのは二月初旬、まさしく日露開戦前夜のこと、とすれば、夢の話はその直後か遅くとも3月初め頃には記事になっているはずだという思い込み。さらに龍馬研究のための一級資料『坂本龍馬関係文書』には「時事新報」の明治37年3月に載っているとあるから、なおさらである。(なぜこんな間違いをおかしたのだろうか)
 皇后の夢の話が載った新聞は、明治37年4月13日付の「時事新報」である。タイトルは「葉山の御夢」。くどいようだが、司馬さんの言う「皇后の奇夢」というような思わせぶりなタイトルではないのである。



 

皇后の夢と龍馬 -1-

2005-09-19 14:52:25 | 小説
 日露開戦の前夜、皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったという話がある。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の「あとがき五」で、このことに言及して、まことに誤解に満ちた見解を披露している。そして、この話にまつわる偏見を増幅するのに一役も二役もかってしまった。
 引用が長くなるが、まずはその「あとがき」をたたき台にするしかない。
〈その日露断交の二月六日、皇后はたまたま葉山別邸に避寒中であったが、その夜、夢を見た。
 夢に、白装の武士があらわれたのである。かれが名乗るには、
「微臣は、維新前、国事のために身を致したる南海の坂本竜馬と申す者に候」
 という。皇后はその名を知らなかった。その白装の武士はさらにいう。「海軍のことは当時より熱心に心掛けたるとこにござれば、このたび露国のこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽くすべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言い、掻き消えた。
「坂本龍馬とは、いかなる人物か」
 と、翌朝、皇后宮大夫の子爵香川敬三に下問された。(略)香川は奇妙におもい、東京の田中光顕に連絡した。往年の陸援隊副隊長だった田中は、この頃には宮中顧問官、宮内次官、宮内大臣を歴任する身になっている。さっそく竜馬の写真一葉を手に入れ、香川に送った。香川は女官を通じてその写真を皇后の部屋の一角に置いておくと、皇后はあわただしく香川をよばれ、
「この人である」
 といわれた。(略)桔梗の紋までおなじです、と言い添えた。
 この話は、「皇后の奇夢」として都下のすべての新聞に載り、世間はその話でもちきりになった。(略)
 この、奇夢が、はたして事実かどうかわからない。(略)
 意地悪くみれば、当時、そのころの「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないかと思われるし、さらに意地悪くみれば、当時、宮中関係の顕職についていた者は土佐系が多かった。(略)かれらは薩長閥のそとにあっていわば冷遇されている。(略)この腹いせといえば子供じみるが、すくなくとも土佐株をあげるために宮中関係者のあいだでこういう話をつくったのではないかと疑えば疑えぬことはない。〉
 まず、司馬さんの嘘、といって悪ければ誇張その一、「都下のすべての新聞に載り」。そんな事実はない。その二、「恐露病」対策にはならない。(理由は後で明らかにする)そしてなにより、皇后が龍馬の夢を見たと信ずるに足る話であって、土佐派のデッチ上げでないことを、これから述べる。 

哀しきテロリスト -11-

2005-09-03 13:02:05 | 小説
 ハルピン駅舎の二階から伊藤博文を狙撃した犯人は、いまや歴史の闇のかなたで、杳として行方がしれない。この狙撃犯がアン・ジュングンのような確信犯であるならば、あるいは独立を奪われた韓国人の激憤を銃弾に込めたものであるならば、自ら犯行声明をかかげるなり、仲間内で彼(あるいは彼ら)の名が賞揚されてよさそうなものである。しかし、正体不明で、行方の知れぬことこそ、彼(あるいは彼ら)がたんなる実行犯で背後に黒幕がいるということの証しといえそうだ。黒幕は、アン・ジュンゴンを目くらましに使ったのである。
 それにしても、腑に落ちないことがある。伊藤博文は、このとき韓国問題の第一線から退いた人間だったということだ。暗殺の年の6月、伊藤は韓国統監を辞任し、枢密院議長となっていた。このたびの渡満もロシアの蔵相とハルピンで懇談するためだった。純然たる公務ではなかった。「漫遊」の旅であった。そんな伊藤がなぜ、この時期、狙われなければならなかったのか。
 伊藤の死によって利益を得たのは誰か。むろん、日韓併合即時断行派である。伊藤の死によって、日韓併合は早まったのである。幾度も首相をつとめた元勲を暗殺されて、世論そのものが日韓併合になだれこんだのだ。
 伊藤は統監辞任時に桂首相と密約的な「覚書」を交わしていた。併合は急がずに7~8年後まで余裕をもたせるという内容だった。伊藤の死で、この覚書をホゴにでき、都合のいい立場を得たのは桂首相であった。
 1910年(明治43年)3月、アン・ジュングンは旅順で処刑。それから5ヵ月後の8月29日、「官報」号外は「韓国併合条約」を公示、即日施行となった。伊藤が死んで丸一年未満で、韓国併合は実現したのである。
 アン・ジュンゴンはこんなことを望んでいたのか。そうではないだろう。彼を哀しきテロリストというゆえんである。併合公示の翌月の9月、石川啄木はこんな歌を詠んだ。
  地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く
 

哀しきテロリスト -10-

2005-09-01 22:53:43 | 小説
 伊藤博文について、アン・ジュングンは「背の高い口髭を生やした男」と聞かされていたという。ハルピン駅頭に降り立った一行のなかで、この形容に該当する人物は、当の伊藤ではなく、室田義文ということになる。室田は伊藤より10センチ以上も背が高かった。したがってアン・ジュングンはまず室田を狙ったはずだ。
 その初発は誰にも当たらなかった。ほぼ同時に駅舎の二階から発射された弾丸が伊藤に命中、とっさにアン・ジュングンは標的を間違ったことを悟ったはずだ。つまり彼は、別の狙撃者に気づいたというより、最初からその存在を知っていたと思われる。
 しかし彼は、二重狙撃による暗殺計画について、もとより裁判でもいっさいしゃべらなかった。この誇り高き確信犯は、自分ひとりで罪をかぶろうとしたのである。
 ところで、別の狙撃者がいたことを桂首相もまた知っていた。知っていて、室田の口を封じたのである。いや、知っていたからこそ、室田の証言をおそれたと言い換えるべきかもしれない。
 なぜ、知っていたと断言できるか。
 伊藤が暗殺された日から11日目に、韓国統監の曾禰荒助は桂首相に機密電報を打っている。その電報にいわく。
「真の凶行担任者は安重根の成功とともに逃亡したるものならんか」
 桂首相はなぜこの「真の凶行担任者」について深追いをしなかったのか。結果としてこの情報は握りつぶされたのだ。
 

哀しきテロリスト -9-

2005-09-01 00:26:42 | 小説
さて、この稿の冒頭で私は伊藤博文は「テロリストの銃弾3発をあびて死んだ」と書いた。奇術師マリックのタネあかしのようなおもむきになるけれど、ここが物書きのずるいところで「アン・ジュングンの銃弾3発をあびて死んだ」とは書かなかったのである。
「残る3発は云々」と書けば、いかにもアン・ジュングンの発射した弾丸がことごとく伊藤に命中したとする定説を印象づけることになると分りながら、含みは持たせたつもりであったのだ。
 伊藤に命中した弾丸3発のうち、少なくとも1発は別の狙撃者によるもので、確実に「騎馬銃」のものだったと、私は思っている。室田義文を信ずるからである。
 アン・ジュングンの裁判では室田の証言には圧力がかかっていた。ときの首相桂太郎が山本権兵衛を通じて室田の証言内容をコントロールしたのである。伊藤博文の狙撃犯がアン・ジュングンのほかにいるとなると裁判そのものがたしかにややこしくなる。早い話がよけいな証言はするなというわけだ。なにより、日露の外交問題がギクシャクするからというのが室田への口説き文句だった。
 室田はこの頃、室蘭製鉄所の経営再建を請け負っていた。室蘭製鉄所の重要な顧客は海軍省である。海軍大将山本権兵衛を室田の口説き役に使った桂首相は、さすがに政治家であった。
 こんな背景があるから、逆に室田の最晩年の証言こそ貴重なのだ。さらに踏み込めば、桂首相らは室田の証言を日露の外交問題に影響するということだけで懸念したのであろうかという疑問がわき、室田の証言にかえって真実味が増すのだ。
 もとより、アン・ジュングンはこういう事情は知るよしもない。それにしても彼は、自分のほかに別の狙撃者がいて、念には念をいれた二重の暗殺計画だったことを、気づかなかっただろうか。