小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

お蓮の生年の謎

2012-02-28 16:13:07 | 小説
 清河八郎は、文久元年に妻の蓮が逮捕されたことを知ると、彼女のことを漢詩に詠んだ。詩は20行あるけれど、最初の4行にこう書かれている。

 我有巾櫛妾  我に巾櫛の妾(妻)あり
 毎慰我不平  毎(つね)に我が不平を慰む
 十八我所獲  十八 我の獲るところ
 七年供使令  七年 使令に供す

 つまり八郎のもとに蓮がきたのは彼女が18歳のときで、7年自分に仕えてくれたと言っているわけだ。すると文久元年の時点でお蓮さんは24歳だったということになる。
 事実、『藤岡屋日記』の文久元年6月の記述では、「改、揚屋え遣ス」ところの「八郎妻れん」は 「二十四」と記録されている。年齢は取調べをうけたお蓮さんの自己申告であろう。そして、このとき入牢した八郎の弟熊三郎の年齢も「二十四」となっている。むろん数え年である。(以下すべて数え年で年齢を話題にしている)
 さて、文久元年(1861)24歳だとすると、逆算すれば生年は天保9年(1838)ということになる。実際、熊三郎は天保9年の生まれである。
 ところが、お蓮さんの生年は、いま天保11年説が有力である。もっとも清河八郎の研究をされてきた小山松勝一郎や成沢米三両氏は、天保10年にお蓮さんが生まれたという説であった。
 お蓮さんの生年にこだわるのには理由がある。里子に出た年齢や遊里に売られたという重要な年齢の特定に影響が生じるからである。そこで有力な天保11年生まれ説の根拠はなんであったか検討してみよう。
 いまは山形県鶴岡市となっているが、赤川と山に挟まれた東田川郡朝日村熊出の小さな集落にお蓮さんは生まれている。父は菅原善右衛門という医師だった。天保11年の「熊出村禅宗人別御改指上帳」を発見し、お蓮さんの家族関係を明らかにしたのは吐月清流という号を持つ斎藤清氏だった。斎藤氏は昭和52年の2月から10月にかけて朝日村の「村報あさひ」に『幕末の風雲児清河八郎の妻 お蓮の生涯』を連載しており、それを清河八郎記念館で冊子にまとめて発行している。
 斎藤氏の引用する人別帳によれば、天保11年の菅原家は8人家族で、「当子年」49歳の善右エ門、同人母79歳のさん、同人女房43歳のせん、同人子21歳の留治、そして同人娘の15歳とめの、13歳もよ、10歳たつ、2歳はつと記されており、この「はつ」がお蓮さんのことである。はつのところだけは貼紙されていて、「右はつ去子年二月中出生」と付記されていたらしい。貼紙は天保12年のものであり、去る子(ね)年つまり天保11年2月生まれと明記されているから、一級史料という扱いである。
 しかし家族みんな天保11年時点の年齢を記しているのだから、はつも2歳ではなく1歳とすべきではなかったのか。2歳のほうが正しくて、むしろ貼紙の但し書きに錯誤がありはしないかという疑問は残るのである。
 お蓮さんのすぐ上の姉の「たつ」は戸籍謄本によれば「みつ」であり、天保元年8月14日生まれとなっている。だから天保11年には10歳ではなく11歳のはずである。その「みつ」の上の姉「もよ」は実際は「しげよ」といい、たぶん「茂代」と表記したのではと推測される。
 いずれにせよ人別帳が必ずしも事実を伝えているとは限らない、という立場を私はとりたい。
 さらに生家が貧しくて里子に出されたという通説も鵜呑みにできない。半農半医で、明治10年の菅原善右衛門名義の地券(土地権利書)を見ても、「としては富裕な家」だと小山松勝一郎氏は述べている。(新人物往来社『幕末の女』)
 里子に出されたこと、そして遊里に売られたこと、お蓮さんの身の上になにが起きたのか。それを明らかにする史料はいまのところ見当たらない。見当たらないけれど、ひとつのヒントがある。お蓮さんの読み書きの能力である。現存する彼女の手紙は、10歳で里子に出され劣悪な環境に沈み貧困に喘いで、知性を涵養するいとまのなかった女性のそれではない。
 なにしろ、清河八郎の惚れた女だぜ、と私は自分に言い聞かせている。
 お蓮さんの生家には梅の木があった。梅の木は別の場所に移植されているが、いまもある。
その梅の古木の持主はお蓮さんの血につながる菅原というおうちで、平成の現在、むかしのままに「いしゃ」という屋号で呼ばれている。鶴岡市の教育委員会朝日分室で佐藤利浩氏にそう聞かされた時、私は思わず声をあげそうになった。お蓮さんの祖父も父も医者だったが、現代の菅原家は医者ではない。それにもかかわらず歴史的な呼ばれ方をしているのである。
 雪に埋もれたその「いしゃ」の家の梅の木を携帯で撮ってきた。ちなみに、お蓮さんの姉の「みつ」の戸籍謄本は、この梅の木のある家の主人に見せていただいたのであった。


(事情があって、お蓮さんをテーマにした新聞連載小説を夏ごろから書くことになった。庄内地区には取材でこれからも足を運ばねばならない。縁が深くなりそうである)
 

龍馬暗殺と広義?の新選組

2012-02-16 14:25:52 | 小説
 前から気になっていて、どこかで紹介しておきたいと思っていた談話がある。宮内庁殉難録の編纂掛り取調役だった外崎覚の談話である。次のような箇所があるのだ。ともあれお目を通していただきたい。

「此両人を斬た者は疑問の一つで、何者が殺したかといふことは、様々の疑問の間に様々の人を捕へまして明治ニ年政府に於て取調べました。結果はどうも不明瞭に終って居りますけれども、其時分に嫌疑者として調べられました者ははどういふ者かと言へば、幕府の手となり足となって働いて居る新選組の近藤勇。それから大石鍬次郎。三浦安、今井信郎、佐々木只三郎、高橋安次郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、相馬主殿等である。是等の人々がやったのであらう。是等の人々は皆近藤勇の組で過激なる者共でありますから、…」

「此両人」とあるのは、むろん坂本龍馬と中岡慎太郎のことである。近江屋事件の暗殺犯についての話題だ。
 大正3年9月の史談会における発言であるが、あれっと思われた方が多いだろう。今井、佐々木、桂、渡辺など見廻組の人間を、新選組の隊士として扱っているからである。
 外崎覚は殉難録に龍馬暗殺犯について書かねばならず、色々と調べた人間であって、ど素人ではない。最後は大鳥圭介に会って、今井信郎の関与にたどりついたその外崎が、見廻組も新選組も一緒くたである。
 さて、そこで何が言いたいかというと、後世の私たちは新選組と見廻組を峻別して論じることが当たり前になっているけれど、あの当時、今井や佐々木らが実行犯とわかっても、なんとなく新選組の仕業と理解した人たちがいたのではないかということだ。
 いわば広義の新選組という概念のなかに見廻組がのみ込まれていたといっても良い。見廻組と新選組を峻別して論ずるときに、こういう視点をおさえておかないと、なんかあほらしくなってきませんかと、そのことが言いたかったのである。

「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」を読む

2012-02-11 07:57:08 | 読書
 当ブログにコメントを寄せていただいたノブさんこと中島信文氏の著書『龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日』(彩流社)が、昨日やっと手元に届いた。発注を家人に任せたら、コープネット(生協)を通じたものだから、ずいぶん日数がかかったのである。
 さて、かねて龍馬暗殺には土佐藩(士)が関与しているし、なにより近江屋自体が暗殺犯を手引きしていると主張している私にすれば、中島氏の論考の大筋には異論はない。寺村左膳の日記にこだわったのは面白いと思う。
 龍馬が暗殺された日の寺村日記は一種の「謎」であって、事件当日に記されたものであり、あの日記の通り芝居の帰り道に事件の克明な報告を受けたというなら、一体誰が報告したのかという疑念につつまれるのである。後日に知り得た情報を付加して、当日受けた報告のようにして、数日後にまとめた日記であるとするならば、龍馬の事件を特筆するのが人情だろうと思うが、さにあらず、初めて芝居見物をして面白かったというのがトップ記事である。時系列な記述を墨守したといえばそれまでだが、龍馬らの死に対する視線が冷ややかすぎるのであった。
 ただし芝居見物を終え、近喜という店に夕食に向かう途中で、家来から事件の報告を受けたという記述は重要である。軍鶏鍋を食べようとしていた龍馬らと同じく寺村らも夕食前なのだ。いったい寺村らはどんな芝居を観、その芝居は何時頃に終っていたのか、私はずっと気になっていた。龍馬らの暗殺時刻が推定できるからである。そのことについては「龍馬暗殺の日の南座の演目」に書いた。どうやら通説よりずっと早い時間に近江屋事件は起きているのである。寺村日記に呼応した時刻は刺客のひとり渡辺篤の告白にあらわれる。「宵の口」あるいは「夕方」に踏み込んだと渡辺はいう。渡辺の証言を重視する必要がある、とはもうなんべんも書いた。
 ところで中島氏の本には幾つかの違和感を感じた。看過できない箇所について、以下に記しておく。
1)「面白いことに、谷干城は、講演では今井信郎の談話が出た明治三十三年以降、近江屋の主人に当時の当時の状況を聴きに会いに行ったと述べているくらいで、事件当時は、彼は殺害状況など、良くは知らなかったのだ」(95ページ)
 この箇所だけでなく、どうも中島氏は谷の証言を不確かなものとする印象操作をしたいらしいが、なぜ「殺害状況を良く知らなかった」となるのだろう。切り傷の様子から殺害の様子を分析している谷の証言はみごとだし、そして部屋には食事の用意もなにもなかったという谷の記述が私などどれほど貴重に思えたか。近江屋に会って谷が確認したかったのは事件当日の小僧の有無であって、これは谷の律儀さのあらわれである。事件のことがわからないから、近江屋主人に聞きに行ったのではない。
2)「田中光顕は明治末の宮内大臣当時の皇后夢枕事件で土佐藩の坂本龍馬偶像化の張本人であり、…」(193ページ)
 皇后夢枕事件が土佐藩のデッチ上げという話自体が、デッチ上げなのである。このことはブログで縷縷書いてきた。私の書いたものをお読みの上で、なおこういう表現をされるのであれば、田中光顕張本人説の根拠を提示していだだこう。
3)「…この池田屋事件では、手代木勝任が実は全体の指揮を取り近藤勇と共に働き、この時、手代木勝任も北添佶摩、望月亀弥太ら土佐藩、長州藩の尊王攘夷派の志士を斬っているなど、共に大きな手柄を立てている」(216ページ)
 最近『池田屋事件の考察』(講談社現代新書)という労作を発表した中村武生氏が読んだら目をむくのではないだろうか。手代木が指揮?
 望月は門倉屋敷の脇で自刃し、北添は一橋家の役人に槍で刺されたという説はあるが、手代木に斬られたなどという説は寡聞にして知らない。
 一事が万事ということがある。筆をすべらせては他の論考に影を落としてしまう。
 私ごとだが、手術で11リットル出血し、輸血を受けた。アグレッシブな人の血が入ったらしく、怒りっぽくなっている。ご海容のほどを。
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社