清河八郎は、文久元年に妻の蓮が逮捕されたことを知ると、彼女のことを漢詩に詠んだ。詩は20行あるけれど、最初の4行にこう書かれている。
我有巾櫛妾 我に巾櫛の妾(妻)あり
毎慰我不平 毎(つね)に我が不平を慰む
十八我所獲 十八 我の獲るところ
七年供使令 七年 使令に供す
つまり八郎のもとに蓮がきたのは彼女が18歳のときで、7年自分に仕えてくれたと言っているわけだ。すると文久元年の時点でお蓮さんは24歳だったということになる。
事実、『藤岡屋日記』の文久元年6月の記述では、「改、揚屋え遣ス」ところの「八郎妻れん」は 「二十四」と記録されている。年齢は取調べをうけたお蓮さんの自己申告であろう。そして、このとき入牢した八郎の弟熊三郎の年齢も「二十四」となっている。むろん数え年である。(以下すべて数え年で年齢を話題にしている)
さて、文久元年(1861)24歳だとすると、逆算すれば生年は天保9年(1838)ということになる。実際、熊三郎は天保9年の生まれである。
ところが、お蓮さんの生年は、いま天保11年説が有力である。もっとも清河八郎の研究をされてきた小山松勝一郎や成沢米三両氏は、天保10年にお蓮さんが生まれたという説であった。
お蓮さんの生年にこだわるのには理由がある。里子に出た年齢や遊里に売られたという重要な年齢の特定に影響が生じるからである。そこで有力な天保11年生まれ説の根拠はなんであったか検討してみよう。
いまは山形県鶴岡市となっているが、赤川と山に挟まれた東田川郡朝日村熊出の小さな集落にお蓮さんは生まれている。父は菅原善右衛門という医師だった。天保11年の「熊出村禅宗人別御改指上帳」を発見し、お蓮さんの家族関係を明らかにしたのは吐月清流という号を持つ斎藤清氏だった。斎藤氏は昭和52年の2月から10月にかけて朝日村の「村報あさひ」に『幕末の風雲児清河八郎の妻 お蓮の生涯』を連載しており、それを清河八郎記念館で冊子にまとめて発行している。
斎藤氏の引用する人別帳によれば、天保11年の菅原家は8人家族で、「当子年」49歳の善右エ門、同人母79歳のさん、同人女房43歳のせん、同人子21歳の留治、そして同人娘の15歳とめの、13歳もよ、10歳たつ、2歳はつと記されており、この「はつ」がお蓮さんのことである。はつのところだけは貼紙されていて、「右はつ去子年二月中出生」と付記されていたらしい。貼紙は天保12年のものであり、去る子(ね)年つまり天保11年2月生まれと明記されているから、一級史料という扱いである。
しかし家族みんな天保11年時点の年齢を記しているのだから、はつも2歳ではなく1歳とすべきではなかったのか。2歳のほうが正しくて、むしろ貼紙の但し書きに錯誤がありはしないかという疑問は残るのである。
お蓮さんのすぐ上の姉の「たつ」は戸籍謄本によれば「みつ」であり、天保元年8月14日生まれとなっている。だから天保11年には10歳ではなく11歳のはずである。その「みつ」の上の姉「もよ」は実際は「しげよ」といい、たぶん「茂代」と表記したのではと推測される。
いずれにせよ人別帳が必ずしも事実を伝えているとは限らない、という立場を私はとりたい。
さらに生家が貧しくて里子に出されたという通説も鵜呑みにできない。半農半医で、明治10年の菅原善右衛門名義の地券(土地権利書)を見ても、「としては富裕な家」だと小山松勝一郎氏は述べている。(新人物往来社『幕末の女』)
里子に出されたこと、そして遊里に売られたこと、お蓮さんの身の上になにが起きたのか。それを明らかにする史料はいまのところ見当たらない。見当たらないけれど、ひとつのヒントがある。お蓮さんの読み書きの能力である。現存する彼女の手紙は、10歳で里子に出され劣悪な環境に沈み貧困に喘いで、知性を涵養するいとまのなかった女性のそれではない。
なにしろ、清河八郎の惚れた女だぜ、と私は自分に言い聞かせている。
お蓮さんの生家には梅の木があった。梅の木は別の場所に移植されているが、いまもある。
その梅の古木の持主はお蓮さんの血につながる菅原というおうちで、平成の現在、むかしのままに「いしゃ」という屋号で呼ばれている。鶴岡市の教育委員会朝日分室で佐藤利浩氏にそう聞かされた時、私は思わず声をあげそうになった。お蓮さんの祖父も父も医者だったが、現代の菅原家は医者ではない。それにもかかわらず歴史的な呼ばれ方をしているのである。
雪に埋もれたその「いしゃ」の家の梅の木を携帯で撮ってきた。ちなみに、お蓮さんの姉の「みつ」の戸籍謄本は、この梅の木のある家の主人に見せていただいたのであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/02/6bfab54a270b689b64f8eff828d19c3e.jpg)
(事情があって、お蓮さんをテーマにした新聞連載小説を夏ごろから書くことになった。庄内地区には取材でこれからも足を運ばねばならない。縁が深くなりそうである)
我有巾櫛妾 我に巾櫛の妾(妻)あり
毎慰我不平 毎(つね)に我が不平を慰む
十八我所獲 十八 我の獲るところ
七年供使令 七年 使令に供す
つまり八郎のもとに蓮がきたのは彼女が18歳のときで、7年自分に仕えてくれたと言っているわけだ。すると文久元年の時点でお蓮さんは24歳だったということになる。
事実、『藤岡屋日記』の文久元年6月の記述では、「改、揚屋え遣ス」ところの「八郎妻れん」は 「二十四」と記録されている。年齢は取調べをうけたお蓮さんの自己申告であろう。そして、このとき入牢した八郎の弟熊三郎の年齢も「二十四」となっている。むろん数え年である。(以下すべて数え年で年齢を話題にしている)
さて、文久元年(1861)24歳だとすると、逆算すれば生年は天保9年(1838)ということになる。実際、熊三郎は天保9年の生まれである。
ところが、お蓮さんの生年は、いま天保11年説が有力である。もっとも清河八郎の研究をされてきた小山松勝一郎や成沢米三両氏は、天保10年にお蓮さんが生まれたという説であった。
お蓮さんの生年にこだわるのには理由がある。里子に出た年齢や遊里に売られたという重要な年齢の特定に影響が生じるからである。そこで有力な天保11年生まれ説の根拠はなんであったか検討してみよう。
いまは山形県鶴岡市となっているが、赤川と山に挟まれた東田川郡朝日村熊出の小さな集落にお蓮さんは生まれている。父は菅原善右衛門という医師だった。天保11年の「熊出村禅宗人別御改指上帳」を発見し、お蓮さんの家族関係を明らかにしたのは吐月清流という号を持つ斎藤清氏だった。斎藤氏は昭和52年の2月から10月にかけて朝日村の「村報あさひ」に『幕末の風雲児清河八郎の妻 お蓮の生涯』を連載しており、それを清河八郎記念館で冊子にまとめて発行している。
斎藤氏の引用する人別帳によれば、天保11年の菅原家は8人家族で、「当子年」49歳の善右エ門、同人母79歳のさん、同人女房43歳のせん、同人子21歳の留治、そして同人娘の15歳とめの、13歳もよ、10歳たつ、2歳はつと記されており、この「はつ」がお蓮さんのことである。はつのところだけは貼紙されていて、「右はつ去子年二月中出生」と付記されていたらしい。貼紙は天保12年のものであり、去る子(ね)年つまり天保11年2月生まれと明記されているから、一級史料という扱いである。
しかし家族みんな天保11年時点の年齢を記しているのだから、はつも2歳ではなく1歳とすべきではなかったのか。2歳のほうが正しくて、むしろ貼紙の但し書きに錯誤がありはしないかという疑問は残るのである。
お蓮さんのすぐ上の姉の「たつ」は戸籍謄本によれば「みつ」であり、天保元年8月14日生まれとなっている。だから天保11年には10歳ではなく11歳のはずである。その「みつ」の上の姉「もよ」は実際は「しげよ」といい、たぶん「茂代」と表記したのではと推測される。
いずれにせよ人別帳が必ずしも事実を伝えているとは限らない、という立場を私はとりたい。
さらに生家が貧しくて里子に出されたという通説も鵜呑みにできない。半農半医で、明治10年の菅原善右衛門名義の地券(土地権利書)を見ても、「としては富裕な家」だと小山松勝一郎氏は述べている。(新人物往来社『幕末の女』)
里子に出されたこと、そして遊里に売られたこと、お蓮さんの身の上になにが起きたのか。それを明らかにする史料はいまのところ見当たらない。見当たらないけれど、ひとつのヒントがある。お蓮さんの読み書きの能力である。現存する彼女の手紙は、10歳で里子に出され劣悪な環境に沈み貧困に喘いで、知性を涵養するいとまのなかった女性のそれではない。
なにしろ、清河八郎の惚れた女だぜ、と私は自分に言い聞かせている。
お蓮さんの生家には梅の木があった。梅の木は別の場所に移植されているが、いまもある。
その梅の古木の持主はお蓮さんの血につながる菅原というおうちで、平成の現在、むかしのままに「いしゃ」という屋号で呼ばれている。鶴岡市の教育委員会朝日分室で佐藤利浩氏にそう聞かされた時、私は思わず声をあげそうになった。お蓮さんの祖父も父も医者だったが、現代の菅原家は医者ではない。それにもかかわらず歴史的な呼ばれ方をしているのである。
雪に埋もれたその「いしゃ」の家の梅の木を携帯で撮ってきた。ちなみに、お蓮さんの姉の「みつ」の戸籍謄本は、この梅の木のある家の主人に見せていただいたのであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/02/6bfab54a270b689b64f8eff828d19c3e.jpg)
(事情があって、お蓮さんをテーマにした新聞連載小説を夏ごろから書くことになった。庄内地区には取材でこれからも足を運ばねばならない。縁が深くなりそうである)