小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その10

2005-03-31 21:52:22 | 小説
さて、光秀の首および遺体をを土中から掘り起こした中村長兵衛という人物は、村ではちょっとした有名人になったはずだ。ところが後年、村を訪れた人の記録では村民の誰もがこの人物のことを記憶していなかったらしい。奇妙な話ではないか。しかし中村長兵衛などという人物ははじめからいなかったとしたら納得がいく。光秀の死の経緯には、いずれにせよ、でっちあげの気配が濃厚である。
 フロイスの『日本史』では、光秀の首をはねたのも農民となっており、介錯をした溝尾勝兵衛も登場しない。だから首を土中に埋めたという話もない。こんなふうに記述されている。
「哀れな明智は、隠れ歩きしながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するように頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿(信長の三男)に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。(略)貧しく賎しい農夫の手にかかり、不名誉きわまる死に方をしたのである」
 天下の謀反人には不名誉な死に方がふさわしいと誰かが判断し、早くもこんな作り話を流布させていたのである。フロイスはそんな噂話をすくいあげたにすぎない。状況として、光秀がひとりで隠れ歩き(騎馬ではない)などしたはずがないにもかかわらずである。
 要するに光秀の「死」は作られている。おそらく、主殺しの繰り返しの事実が隠蔽されたのは、そんな風潮のはびこっては困る為政者の判断によるものであろう。さらに武士によってではなく農民によって殺されたとするほうが光秀の名誉をおとしめるに都合よいと為政者は判断したのであろう。
 私には秀吉の智謀がちらつく。真相は、あるいは従臣の溝尾勝兵衛を調べてゆけば、あぶりだされてくるかもしれない。しかし、もはや私の関心の範囲を越えている。(この稿終わる)

注:旧稿を採録。
光秀のクーデターの契機は土佐の長宗我部元親をかばったためという藤田達生説や、本能寺の変の黒幕はイエズス会であり、朝廷も関与という立花京子説はとても魅力的であり、これらの説を今回あらためて絡めたかったが、光秀の「遺恨もだしがたく候」という個人的感情にのみ焦点をあてた旧稿をあえて訂正しなかった。

 

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その9

2005-03-30 20:51:20 | 小説
 光秀が敗走途中の小栗栖村で、農民の竹槍で刺され、それがもとで死んだという通説は、よくぞこんな通説がまかりとおったと思われるほど胡散臭い話である。
 たとえば光秀の伴の人数。12騎で敗走、光秀は6番目にいたという説があるかとおもえば、5ないし6人で坂本城をめざしたという説もある。いずれにせよ、ひとりではありえない。そんな武者の騎馬隊に竹槍を繰り出す蛮勇を持ち合わせた農民がほんとうにいただろうか。しかも闇夜である。複数の人間の中で光秀を識別しえたのも不思議だが、かりに光秀に狙いをさだめることができたとして、甲冑で身を固めた光秀をそんなに容易に刺す事ことができただろうか。そして伴の者たちはなぜその農民をつかまえなかったのか。
 刺された光秀は三町(327m)ばかり馬上にあって落馬、従臣の溝尾勝兵衛に介錯させた。勝兵衛は光秀の首を近くの土中に埋めたが、中村長兵衛という村民がその首を掘りあてたという。光秀の遺体の傍には光秀に殉死した進士、比田という家臣ふたりの遺体があったが、なぜかふたりとも、その顔はそがれていた。
 これらの通説から何が考えられるか。殉死した家臣の顔がつぶされていたということがらから導かれる答。ふたりは生きていて実は他の人間を身代わりとした。つまり、光秀を殺したのが、ほかならぬこのふたりだとしたら辻褄が合ってくる。
 無残な話だが、私は光秀は部下に殺されたと考えるものである。主人であった信長を死に追いやった光秀自身、家臣に殺されるという皮肉なめぐり合わせを想像するものである。
 本能寺襲撃の直前まで光秀は部下に目的を明かさなかった。家臣の中には光秀の態度の急変にとまどい、不満を抱くものも多かったはずである。おそらく光秀は気心の知れた寵臣のみを選んで伴にしたつもりだったが、その者たちに討たれた。敗軍の将は悲しいのである。

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その8

2005-03-29 20:32:09 | 小説
 光秀は中国攻めをしていた秀吉の指揮下に入るよう、信長に命令されたのだ。そこで出陣の軍勢をととのえるわけだが、むろん中国攻めの戦闘準備と思っていた兵士たちに対し、しかし光秀は「敵は本能寺にあり」と、信長を急襲させたのであった。
 光秀の謀反の理由にはなんと50とおりもの説がある。さまざまな説が流布しているが定説にいたるものはない。もとより単一な理由によるものではないだろうが謀反の引きがねになったのは、出世争いで秀吉に敗れたことがあったと思う。しかもそれは自分の力量不足ではなく、信長の判断が狂ったせいだと光秀は考えたはずだ。
 光秀は誇り高き男だった。そのプライドがずたずたにされていた。ひとはプライドの修復のために激越な行為に走ることもありうるのである。
 ところで光秀は秀吉軍を迎え撃つのに、なぜ山崎まで出て行って、京都を戦場としなかったのであろうか。信長がないがしろにしようとしていた公家の世界、つまり朝廷は光秀には大切で、かつ親しい世界だった。だから彼は京都を戦火にさらしたくはなかった。彼なりに京都を守ったのである。
 信長を討った6月2日付けの小早川隆景宛の光秀の手紙がある。その一節。
「然らば、光秀こと、近年信長に対し、憤りを抱き、遺恨もだしがたく候」
 信長に対する憤りが、きのうきょうのものでないことがよくわかる。発作的な信長討ちではないのである。「遺恨もだしがたく候」という短い言葉に、光秀の思いがあふれている。そのもだしがたい遺恨について、後世の私たちはあれこれと類推するわけだけれど、はたしてどれだけ光秀の胸のうちに迫れるか。「遺恨もだしがたく候」にすべてつきているように思われる。
 光秀は孤高の人だった。たぶん部下にも理解不可能な孤高な魂の持主だった。それが彼の死のミステリーにつながる。  

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その7

2005-03-28 16:33:39 | 小説
 明智光秀は織田家臣団の諸将にさきがけて、最初に一国一城の主になった人物である。つまり出世頭だった。サラリーマンにたとえるならば中途入社にもかかわらず、入社3年目にして取締役支店長になったようなものだ。しかも出向社員だった。光秀の立場は異例であった。彼は将軍足利義昭の近臣であり、同時に織田信長の家臣であった。織田家に仕えたのは、いわば義昭から出向を命ぜられたようなものであり、本社からも出向先からも給料を得ている出向社員に似ていた。
 義昭と信長の蜜月時代はそれでよかった。しかし、やがて二人が対立するようになると、光秀の立場は微妙になやましいものとなる。
 ともあれ、光秀自身が有能な人間であったから、こんな変則的な立場に身をおいたのであるが、彼自身は織田家で出世コースを歩むのは当然だと思っていたに違いない。その光秀をおびやかしたのが、同じく中途入社組の秀吉だった。まさしくデッドヒートのような出世争いを展開したのだ。秀吉は小者とよばれる城中雑用係から猛烈なスピードで頭角をあらわしてきた機知と才覚にあふれた男だった。光秀がその容姿端麗さをもひとつのステータスとして公家社会を遊泳してきたのに対し、秀吉は泥臭いぶ男で猿とよばれていた。なにもかも対照的なライバルだった。
 本能寺の変直前の光秀は、その秀吉に出世競争という点で、一歩リードを許していた。かっての出世頭という地位を秀吉に奪われていたのである。のみならず、光秀は信長から秀吉を補佐するように命ぜられていた。
 光秀のプライドは傷ついていたのである。

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その6

2005-03-27 11:10:04 | 小説
 俗に三日天下というが、光秀の天下はわずか12日しか続かなかった。信長父子を誅したものの、彼は孤立無援になってしまった。味方になるつもりだった高山右近ら摂津衆が逆に秀吉軍と合流し、光秀軍と激突するのが6月13日。
 もし摂津衆が光秀側についていれば、光秀軍は秀吉軍より優勢だったが、現実はそうならなかったのだ。
 敗れた光秀は夜、少人数の伴をつれて本陣を脱出、近江の坂本城をめざす。その途中、山科の小栗栖村の竹やぶ近くで、農民の繰り出した竹槍に刺されて死んだ。これが通説だが、光秀の死には不可解な点が多く、私は農民に刺されたというのは嘘ではないかと思っている。それについては後述するが、ともかく光秀の死体を確保した秀吉は、その死体を本能寺の焼け跡にさらした。
 信長の仇討ちをしたのが秀吉であり、光秀がたしかに死んだという事実を天下に示したのである。光秀が信長に対して出来なかったことを、秀吉は光秀に対して行ったのである。これが、戦国のパフォーマンスというものである。以後、秀吉の天下になるのは周知のとおりだ。
 それにしても、光秀はなぜ孤立してしまったのか。味方とみなした武将たちの心の底を、あらかじめ見きわめておくことは出来なかったのであろうか。
 光秀の悲劇はもっぱら彼の性格に由来すると私は思う。理詰めでものを考える頭のよい人間にありがちな誤りをおかした。光秀には他人もまた自分のように考えるはずだという思い込みがあった。だから、光秀ほど頭のよくない人間たちの行動様式を読みそこなったのである。他の武将たちが信長に抱く畏怖心など、光秀にすれば気づかなかったもののひとつではないだろうか。
 ただ光秀にもその思考回路が自分とは違うと自覚していた人物がひとりいた。それが宿命のライバル秀吉だった。
 

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その5

2005-03-25 21:46:24 | 小説
 光秀には本能寺のほかにもう一つの攻撃目標があった。本能寺の北北東約1キロのところにある妙覚寺だ。信長の嫡男で26才になる信忠が宿所としていた寺である。こちらも攻めねばならなかった。
 光秀が本能寺の包囲を解いたのは午前8時頃。午前4時に急襲して戦闘に4時間要したわけではない。焼け跡から信長の遺骸を探すのに手間どったのである。しかし、ここであまり時間をかけたのでは信忠に逃げられてしまう。案の定、信忠に本能寺の異変は伝わって、彼は二条御所の方に逃げた。
 光秀軍はその二条御所に移動して、結果としては信忠をも自害に追い込む。この時点で光秀のクーデターは成功したかのように見える。
 光秀はなぜ本能寺と妙覚寺を同時急襲しなかったのであろうか。兵力的には二手に分ける攻撃は充分可能だった。そうしなかった、あるいはそう出来なかったことについてはさまざまなことが考えられるが、それはともかく、光秀のおかした最大のミスは、信長の首級をあげられなかったことである。つまり信長の死体を確保できなかったことだ。信長の首級をあげてさえいれば、信長を討ち取ったという、まぎれもない事実を天下に示すパフォーマンスが可能だった。しかし、光秀はそれができなかった。事件後、細川忠興親子や筒井順慶が光秀の予想に反して、光秀に加担しなかったのは、そのことが少なからず影響しているのではないかと思う。もしかしたら信長は生き延びているのではないのかという疑念を与えてしまったのだ。信長はそれほどまでに畏怖される武将だったのだ。
 事実、中国攻めから急遽軍勢を引き返してきた秀吉は「信長殿は明智光秀の襲撃をきりぬけて無事である。ともに光秀を討とう」と情報操作をして、摂津衆に光秀打倒のの参陣をよびかけた。

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その4

2005-03-24 21:23:50 | 小説
 本能寺とワンブロック隔てた所にイエズス会の教会、いわゆる南蛮寺があった。スペイン人の司祭フランシスコ・カリオンが事件を目撃、さらに事件後に耳にした話を報告書にまとめ、それをフロイスが『日本史』に採録した。信長の最期はこんなふうに書かれている。

〈明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。(略)御殿には宿泊していた若い武士たちと茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じそこで切腹したといわれ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。〉(松田毅一・川崎桃太訳/
フロイス『日本史』中央公論社)

『信長公記』との大きな違いは、信長がすでに起きていたこと、特殊部隊とおぼしき者たちが、いちはやく信長の寝所に侵入していたことだ。森蘭丸の出る幕はないのだ。文芸批評家の秋山駿が、ギリシャ悲劇のような名セリフといたく感激した「是非に及ばず」という言葉を吐くひまがないのである。肘に槍傷(『信長公記』)、あるいは『日本史』のように銃弾をうけようと、信長に切腹する余力も時間もなかったのではないか。
 信長が直ちに火を放って、猛火の中に身を投じたというのが、もっとも事実に近いように思われる。いずれにせよ、焼け跡から信長の遺骸は見つからなかった。いや、明智軍は信長の死体をていねいにさがす時間がなかった。これが後に重要な意味をおびてくる。 

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その3

2005-03-23 17:15:18 | 小説
 信長は弓の弦が切れたとき、弓を打ち捨て「槍を持て」と叫んだ。しかし、側仕えの者たちもみな戦っていて、それどころではない。そのとき、「おやかたさま」と声をかけた女がいた。信長のもとに駆け寄り、ひざまずいた。
 辻が花の帷子に、はなだ色の玉だすきをかけ、頭には二重の鉢巻、小脇に長刀(なぎなた)をかかえもった女。女ながら信長を死守しようとの覚悟をみなぎらせている。
 信長は言う。
「そなたは早く逃げよ。女づれであったといわれてはふがいない。さ、早う行け」
 しかし、女はきかない。
 寄り来る兵士に向かって果敢に長刀をふるった。
「われはおのうなり。お相手いたせ」
 これを聞いて、敵勢の兵士たちは、女を濃姫だと思った。
 しかし、このとき戦死した女は濃姫よりもはるかに若い女性だった。江戸中期の史料に登場するこの「おのう」は「お能」となっていた。
 濃姫──、美濃から来た嫁の意味で、濃姫と呼ばれた信長の正室の本名は帰蝶という美しい名だ。
 彼女は本能寺にいなかった。信長の死後、30年も生きた。京都大徳寺の子院総見院の墓所で、濃姫の墓が発見されている。過去帳によれば1612年の7月に78才で死んでいる。
 ところでルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長の最期の様子は『信長公記』とはまるで違うが、気になる箇所がある。信長が「鎌のような形をした長槍である長刀」つまり、なぎなたで闘ったとしているのだ。それは信長を守ろうとした女の武器ではなかったのか。信長の傍らにはたぶん武術にすぐれた愛妾がいたのである。彼女はもしかしたら、わざと「おのうなり」と名のったのかも知れない。

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その2

2005-03-22 20:35:21 | 小説
 信長はまだまどろみの中にあって、最初に耳にした喧騒を、家臣の間で喧嘩でも始まったと思ったらしい。小姓の森蘭丸をよんで確かめさせた。蘭丸は回廊を走って、広庭に出る。そこで外に林立する軍旗を見た。水色の桔梗紋の旗。光秀の紋所だ。
 蘭丸は急ぎ信長の寝所にとってかえし、報告する。
「謀反かと存じます」
 信長は訊く。
「いかなる者が・・・」
「明智殿であります」
 蘭丸の答に、一瞬、信長は黙した。そして呟く。
「是非に及ばず」
 信長は自ら弓矢を取って戦闘に加わる。弦が切れ、やがて槍で戦ったが、肘に怪我を負い、その槍も手放す。もはやこれまでと奥の間に逃れ、火を放って、割腹した──。
 見てきたような嘘ではないが、信長の最期はだいたいこんなふうに記述されるのが常だ。『信長公記』が参考にされるからだ。しかし、信長も蘭丸もこのとき死んだのであるから、二人のやりとり、なかんずく有名な「是非に及ばず」という呟きが記憶されているのがおかしい。
 信長の最期は、ほんとうにこんなふうだったのか。私が気になったのは、信長の正室の濃姫のことだ。濃姫は本能寺にいたのかいなかったのか。彼女は斉藤道三の娘であるが、その母は光秀の叔母に当たる人物だった。つまり信長夫人と光秀はいとこ同士だったのである。
 本能寺には、おのうという女性がいた、という史料がある。

本能寺の変と光秀 《遺恨もだしがたく候》 その1

2005-03-21 23:37:19 | 小説
「私にとって小説を語る情熱のおこるのは、すでに書かれたそれよりも、まだ書いてない、もしくは生涯書かないかもしれない小説についてである」
『歴史小説と私』というエッセイの中で司馬遼太郎はこう語っている。我田引水になるけれども、このブログ『小説の孵化場』のモチーフも、同じような〈情熱〉の所産である、といっておこう。
 ところで歴史小説といえば、本能寺の変に惹かれたことがある。明智光秀が細川ガラシア夫人の実父であると知ったあたりから、私はこの「謀反人」に俄然興味をもち、調べていくうちに私自身のなかにあった通説の光秀像を修正しなくてはならなくなった。当初、私は、光秀生存説はありではないかと漠然と予想していた。光秀・天海同一人物説をとる生存説ではないが、光秀は小栗栖で殺されたわけではなく、生き延びてイエズス会の斡旋で海外に渡るなどというストーリーは無理だろうか、などと空想していた。無理に決まっていた。自由奔放な小説的仮構が許されないのが、歴史小説である。史実、といって言いすぎならば史料というしがらみがあり、制約があるのである。私に光秀生存説を諦めさせたのは、ガラシア夫人の残した父の年忌を気にする言葉だった。
 とはいえ、本能寺の変に謎は多く、光秀の行動の真相が明らかになっているわけではない。あの日に戻ってみよう──

 天正10年6月2日の京都の朝は、午前4時ごろに白々と夜が明けた。朝もやの中に、四面四町という広大な寺域をほこる本能寺が浮かびあがる。いつもの朝ではない。土居と濠をめぐらし、小さな城のような構えをしたこの寺の周りを1万3000の明智光秀の軍勢がひたと包囲していた。文字通り十重二十重に囲んだといってよい。この寺を宿舎とする織田信長の家臣はせいぜい150人。1万3000の兵に対して150人では、ほとんど戦いにならなかった。


透谷にはなれない その6

2005-03-14 21:06:46 | 小説
 明治27年5月16日払暁、芝公園地第20号4番の自宅の庭で、透谷は首吊り自殺した。
 月の光にさそわれるようにして部屋を抜け出たらしい。短刀で自殺を図ったのが前年の暮のこと。それから5ヶ月が経っている。夫人をはじめ周りの者たちも、もう透谷は自殺しないだろうと、気をゆるしていたのであろう。
 その何日か前には、満2才に満たない長女の英子を透谷はしきりに拝んでいたという。赤ん坊には、別れを告げていたのである。
「苦惨の海に漂うて、よるべなぎさの浮き身となる時は、人は自然に自殺を企てるものなり」
 透谷はかって、そんな文章を書きつけていた。
 苦惨の海──、透谷を沈めたその海の深さを、だれもわからなかった。

 自殺未遂から縊死にいたるまでの5ヶ月間、透谷はいったいどんな思いで過ごしのたか。あの文章家がおのが苦衷を文章にする気力さえ失っていた。死ねば死にきり、この世にいっさいの未練を残さぬ自殺のように見える。幼いわが子を拝んでいたということをのぞけば。
 

 (唐突な気もしないではないが、この稿はこれで終わる)

透谷にはなれない その5

2005-03-13 21:51:22 | 小説
明治に「文章即ち事業なり」と言った男がいた。文士が筆を揮うのは英雄が剣を揮うのと同じとまで言ってのけた。民友社系の論客にして、文学の実用論者であった山路愛山である。透谷は、愛山のこの主張に激しく反発した。
 愛山と透谷とのいわゆる「人生相渉論争」は、日本近代文学史のなかで、文学の本質とは何かを問題とした最初の論争であった。透谷は文学を論ずるには文学の本質を踏まえなければならないとして、愛山をパセティックな論調で撃って出るのだが、理解されない。要するに透谷は、文学の自立性を必死になって擁護しているのだが、愛山にも、おそらく論壇にも透谷の真意はとどかないのだ。「余は何処までも文学が好きなり。余が愛山君に逆らひたるも之を以ってなり」(『人生の意義』)とまるで透谷のほうが弁解しなければならぬ成り行きとなる。
 文学を論ずるには、「事業」という言葉に表徴される世益主義・勧善懲悪主義・目的主義などの「実用(ユチリチー)」でもなく「快楽」でもないとしりぞけた透谷は、やがて「生命」を「標率」とすべきだという『内部生命論』を書く。しかし、この論文は痛ましい。息苦しくももどかしい透谷の喘ぎと弱音がにじんでいるからである。透谷はついに表現の論理を確立できなかったのである。文学者であろうとする内的衝迫の激しい透谷にとって、文学が文学として自立する根拠を得られなければ、自身の内的衝迫そのものが、いや自分自身が空しいものになってしまうのだ。彼が生への執着を放棄する遠因の一つに、愛山との論争があると思う。
 さて、昭和に「文学は老年の事業である」と言った批評家がいた。中村光夫である。私はこの言葉に身内のほてるような憤りをおぼえ、一文を書いて「中村光夫は昭和の山路愛山である」とした。とうてい私は透谷になれないので、私自身を透谷になぞらえたわけではない。しかし、透谷の仇をうってやる、そんな気概はたぶんにあった。中村光夫らの背景をなす文学理論の不毛さを撃つために、私は評論の世界に足を踏み入れていた。

注:近藤功名義で書いた評論「表現の論理」(「三田文学」昭和46年11月号)の記述と一部重複する箇所があります。

透谷にはなれない  その4

2005-03-13 00:41:38 | 小説
辛い日々が重なって、ほんとうは気散じのように海が見たくなり、誘われるように透谷の墓を訪ねたのは、遠い日のことである。うららかによく晴れた日で、空は高く海は光っていた。浜辺では2、3人の男たちが投げ釣りをしていているだけで、空虚といえるほど、のどかな光景が眼前に広がっていた。得体の知れぬ無念さがこみ上げてきたのをおぼえている。
 そのときも藤村の小説の中の文章を反芻していたと思う。
「青葉のかげで、彼は縊(くび)れて死んだ」
 私はこの語句を『桜の実の熟する時』と思い込んでいて、こんどこのブログを書くにさいし藤村全集にあたってみたら、『春』の方だった。記憶の中では、この2作がごっちゃになっていたのだ。
『春』のなかで藤村は青木の未亡人(透谷の妻)に、こんなセリフを吐かせている。
「・・・あの刀騒ぎをする前に、幾晩か品川へ通ったことがありました、あればかりは、どうしても私に解りません」
 刀騒ぎというのは、透谷は縊死する前にも短刀で喉を突き、自殺未遂の騒ぎを起こしたことがあり、そのことをいうのである。品川へ通うというのは、注釈が要る。品川には売春街があった。つまり、透谷は幾夜か娼婦のもとに通いつめたようなのである。藤村のフィクションではなく、事実という前提でものを言うけれど、夫人に同情の念は起きず、逆にこの言葉にやりきれなさを感じてしまうのは、いけないことだろうか。
 透谷は死とエロスの情念の奈落であえぎに喘いでいたのだ。なぜ、透谷の絶望の深さを解ってやれなかったのか、と思うのである。「どうしても私は解りません」奥さん、それは透谷を骨の髄まで淋しくさせる言葉ではないですか、といいたくなるのだ。もしも品川に心やさしき娼婦がいて、透谷がつかの間、癒されていて、荷風のような小説を書ける人だったら、死ぬこともなかったろうにとなどと、あらぬことを想像してしまう。もとよりそんなことのできるはずもなかった。透谷は純情だった。おそらく、品川通いは彼の精神の破滅に拍車をかけただけだ。

透谷にはなれない  その3

2005-03-11 22:07:44 | 小説
 透谷はキリスト教の洗礼を受けた19歳の秋に、3歳年上の石坂ミナと結婚した。結婚式も教会で挙げている。ミナはいわば恋女房であった。その妻にあてた手紙がのこっている。こんな手紙を書くようになるとは、結婚当初は予想もしなかっただろう。(一部原文の用字を変えて、読みやすくした)

「拝啓、貴書を得て茫然たる事久し。何の意にて書かれしや、一切解らず。われ御身に対して敬礼を欠けりといい、真の愛を持たずといい、いろいろのこと、前代希聞の大叱言。さても夫たるはかほどに難きものとは今知れり。(略)悲しいかな、きのう公家の娘、いま貧詩人の妻となりしを。(略)わが妻となりし君にあらずや、なんぞ遅々として大道を看破するのおそき。(略)君、口に貧をいとわずという、されどもこれ、わが分に応じた貧ならば耐ゆべしと言うにはあらずや。(略)夫貧すれば初めて妻の助けありときくものを、われは貧して初めて妻の怨言不足を聞く(略)よしやわれこのままに病みくちて、人の笑われものとならんとても恨みじ、むしろわが死せしかたわらに一点の花もなかれよ。君の語気常に我が意気地なくして、金得ることの少なく、世に出ずることのおそく、居るところの幅狭きを責むるがごとく聞こゆ、止みなんかな、止みなんかな。(略)御身にいかほどの愛ありて、かくわれを責むるぞ。われをして中道にわが業を停めしめんとの愛にてか。詩人偉人の妻は他と異なれり、われもまた他の夫と異なるを知る」

 書き写していても、いたましさで辛くなるほどだが、手紙の末尾は「記憶せよ、きみ今は病苦の人の妻なるを」という言葉で結ばれている。
 透谷は自分の精神が病的であると気づきはじめていた。「わが死せしかたわらに一点の花もなかれよ」と書きつけたとき、透谷は泣いていたのではないか。そんな気がする。 
 そういえば、透谷の墓に詣でたとき、私は花をもっていかなかった。
 小田原の海の見える丘に建つ小さな寺に、透谷の墓はある。


透谷にはなれない  その2

2005-03-10 22:56:29 | 小説
「見たまへ、透谷以前に彼が賦與したやうな意味の情熱といふ言葉はなかった」と、藤村は書いている。藤村にならっていえば、恋愛という言葉を今日的な命題として文章の対象とした文学者は、透谷以前には誰もいなかった。「恋愛」という言葉をポピュラーにしたのは、透谷なのである。
 明治25年、「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり」という有名な書き出しで始まる評論『厭世詩家と女性』で、透谷は当時の青年たちの心をわしづかみにした、といってよい。藤村は体に電気が通りぬけたように感じ、木下尚江などは「大砲をぶち込まれたように感じた」と回想しているから、この評論の放った衝撃のほどがわかる。
 透谷は明治元年の生まれである。いわば明治という時代の申し子なのだ。しかし、きわめて近代的な精神と突出した感受性の持主だった透谷は、まだ封建制の習俗の色濃く残る明治という時代に自分をうまく合わせることができなかった。少年期に英語を学び、横浜のグランドホテルで外人相手のボーイのアルバイトをしたこともあるかとおもえば、自由民権運動に心を寄せ、あやうく過激な行動に巻き込まれそうになっている。そのとき友人と行動を共にしなかったという負い目を、生涯もち続けた。政治に挫折した彼には、文学しかなかった。ふつう、北村透谷は詩人、思想家と称されるが、ほんとうは小説家になりたかったのだと思う。
 結果的には、彼はすべてに挫折した。人もうらやむ恋愛は成就したものの、結婚生活は貧苦にまみれ、よき家庭人となることもできず、文章で生計を立てることもできなかった。
「我は憤激のあまりに書を売り筆を折りて、大俗をもって一生を送らんとと思ひ定めたりし事あり」
 そんなふうに思っても、大俗つまり市井のしがない一庶民として生きてゆくことなど、透谷にはできなかった。できるはずがなかった。できていれば、どんなによかったか。