さて、光秀の首および遺体をを土中から掘り起こした中村長兵衛という人物は、村ではちょっとした有名人になったはずだ。ところが後年、村を訪れた人の記録では村民の誰もがこの人物のことを記憶していなかったらしい。奇妙な話ではないか。しかし中村長兵衛などという人物ははじめからいなかったとしたら納得がいく。光秀の死の経緯には、いずれにせよ、でっちあげの気配が濃厚である。
フロイスの『日本史』では、光秀の首をはねたのも農民となっており、介錯をした溝尾勝兵衛も登場しない。だから首を土中に埋めたという話もない。こんなふうに記述されている。
「哀れな明智は、隠れ歩きしながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するように頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿(信長の三男)に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。(略)貧しく賎しい農夫の手にかかり、不名誉きわまる死に方をしたのである」
天下の謀反人には不名誉な死に方がふさわしいと誰かが判断し、早くもこんな作り話を流布させていたのである。フロイスはそんな噂話をすくいあげたにすぎない。状況として、光秀がひとりで隠れ歩き(騎馬ではない)などしたはずがないにもかかわらずである。
要するに光秀の「死」は作られている。おそらく、主殺しの繰り返しの事実が隠蔽されたのは、そんな風潮のはびこっては困る為政者の判断によるものであろう。さらに武士によってではなく農民によって殺されたとするほうが光秀の名誉をおとしめるに都合よいと為政者は判断したのであろう。
私には秀吉の智謀がちらつく。真相は、あるいは従臣の溝尾勝兵衛を調べてゆけば、あぶりだされてくるかもしれない。しかし、もはや私の関心の範囲を越えている。(この稿終わる)
注:旧稿を採録。
光秀のクーデターの契機は土佐の長宗我部元親をかばったためという藤田達生説や、本能寺の変の黒幕はイエズス会であり、朝廷も関与という立花京子説はとても魅力的であり、これらの説を今回あらためて絡めたかったが、光秀の「遺恨もだしがたく候」という個人的感情にのみ焦点をあてた旧稿をあえて訂正しなかった。
フロイスの『日本史』では、光秀の首をはねたのも農民となっており、介錯をした溝尾勝兵衛も登場しない。だから首を土中に埋めたという話もない。こんなふうに記述されている。
「哀れな明智は、隠れ歩きしながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するように頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿(信長の三男)に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。(略)貧しく賎しい農夫の手にかかり、不名誉きわまる死に方をしたのである」
天下の謀反人には不名誉な死に方がふさわしいと誰かが判断し、早くもこんな作り話を流布させていたのである。フロイスはそんな噂話をすくいあげたにすぎない。状況として、光秀がひとりで隠れ歩き(騎馬ではない)などしたはずがないにもかかわらずである。
要するに光秀の「死」は作られている。おそらく、主殺しの繰り返しの事実が隠蔽されたのは、そんな風潮のはびこっては困る為政者の判断によるものであろう。さらに武士によってではなく農民によって殺されたとするほうが光秀の名誉をおとしめるに都合よいと為政者は判断したのであろう。
私には秀吉の智謀がちらつく。真相は、あるいは従臣の溝尾勝兵衛を調べてゆけば、あぶりだされてくるかもしれない。しかし、もはや私の関心の範囲を越えている。(この稿終わる)
注:旧稿を採録。
光秀のクーデターの契機は土佐の長宗我部元親をかばったためという藤田達生説や、本能寺の変の黒幕はイエズス会であり、朝廷も関与という立花京子説はとても魅力的であり、これらの説を今回あらためて絡めたかったが、光秀の「遺恨もだしがたく候」という個人的感情にのみ焦点をあてた旧稿をあえて訂正しなかった。