小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

凌霜隊の悲劇  10

2008-07-08 22:15:51 | 小説
 この禁錮生活のあいだに綴られたのが『心苦雑記』である。けれども最初の草稿では『辛苦雑記』であったもののようだ。「辛苦」というありふれた用語でおさまりきらない思いが矢野原の胸の内には湧いてきたのであろう。『心苦雑記』となった。
 凌霜隊の全員が禁固解除となったのは明治2年9月23日であった。ただし、その後も自宅謹慎を命じられ、その謹慎が解けて、はれて放免となるのは明治3年2月19日のこととなる。
 かえりみれば、彼らが脱藩して江戸を発ったのは慶応4年の4月のことだった。戦争と籠城と幽囚のこの長き日々…
 放免された明治3年の8月、速水小三郎は藩庁に会津参戦のいわば収支報告書を提出した。
 朝比奈藤兵衛から渡された金と会津候から渡された金についての金子勘定帳と金見帳である。
 それを郡上藩参事月番の九鬼圀と会計の綾部誠一郎に提出したのだ。律儀なことであるが、速水にすれば遅くなった出張収支報告書だったのであろう。
 脱走兵が出張経費を報告するのも変だが、むしろ困ったのは藩庁のほうである。表向きは藩の命令ではないので、「勘定には及ばない」としている。
 ところが金見書はお渡し金200両のうち残り22両2分2朱の預かり書であるから受け取る、という態度だった。
 おかしな話である。藩では明治元年10月の時点で、凌霜隊派遣にともなう財政的支出(武器購入なども含む軍資金)800両は、紛失金として処理済みだった。おまけに会計責任者として三浦勇助、川俣小太郎、先山佐五右衛門の3人を処断していた。
 だから速水から残金を受け取る必要もなかったのであるが、あるいは藩財政の窮乏からそうもいかなかったのかもしれない。
 いずれにせよ、速水という人物の高潔さがよくあらわれている話で、おそらくこうした志操のかたさは凌霜隊全員に共通していたものと思われる。


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1 コメント

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凌霜隊の悲劇  10 (パトリオット)
2014-01-14 08:09:58
>>速水小三郎は藩庁に会津参戦のいわば収支報告書を提出した。

律儀な面もありますが藩命でいきました
から忘れたわけではないですよね
と、いいたかったのでしょう。
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