小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

開高健『花終る闇』の弓子  〈ヒロインシリーズ12 〉

2012-10-01 11:39:33 | 読書
題は決めたが、一行も書けずに一年間も呻吟している作家がいる。「書きたいことは何もないから書けないのではない。たくさんあるから書けないのである」
 この焦りはよくわかる。物書きが行き詰まったとき、ひとはややもすると泉が涸れたように思うが、逆のケースもあるのだ。泉どころか湖のような豊かな水量をもてあましているときがある。必要なのはコップ一杯の清澄な水であるとき、湖のどのあたりをすくえばよいのか。いや違う。湖まるごとの水量をコップ一杯の水に変換するマジックはないものか。そう思いはじめると何も書けなくなるのである。物書きが自分でこしらえる陥穽なのである。
 ほぼ開高健とおぼしき主人公は、放置したままの新作をたえず気にしながら、女との情事にのめりこんでいる。
 弓子は作家の古くからの愛人である。貧しい宝飾品のデザイナーで、ご馳走目当てに友人の代りに出席した立食パーティーで、その高名な作家と出会った。むしろ弓子のほうが仕掛けて、ふたりはパーティーを抜け出し、酒場を二軒ハシゴした。弓子は男に送られるけれど、雨に降られてびしょ濡れになる。梧桐の幹にもたれ、雨にうたれながらキスをする。
「女は私の求めを察すると従容として雨のさなかレインコートのベルトをはずし、スカートをまくりあげ、パンティをおろして足を少しひらいた」
 そんな奔放さも持ち合わせているが、弓子の本質は「従容」という形容がよく使われるところにある。
 弓子は自室に風呂もトイレもない共同アパートに住んでいた。見かねた男が金を渡そうとすると、ひたすら拒む。
「約束もなく誓いもない自由を保とうとしているのに金がからまると感謝したくなるし、依存したくなる。それは一つの束縛だ」
 そう考える弓子は、もとより男を束縛しない。気まぐれにやってくる男と、ただ従容と愛をかわす。
 弓子は少しおどけた一人称を使い、自分のことを「あっちゃあ」という。
 ベトナム戦争に従軍記者として赴く作家の男のために、Tシャツに千人針を刺して手渡す。裏には古銭を探して五銭玉を縫いつけた。四銭(死線)を超えるという縁起担ぎである。連日、夜を徹して作った。なにしろ、ひとりで千人針だ。Tシャツを男に渡して、「あっちゃあ、疲れたよ」とたおれこむ。
 泣かせる女なのである。
 弓子と男はベトナム戦争の頃から付合い、10年になる。男は世界を旅し、気まぐれに弓子のもとに来るから「船乗りの恋」あるいは「つぎはぎだらけの恋」と弓子はいう。
「どちらか一方が飽いたらその場でひとことそういえばいい。それで別れることにしよう」知りそめの頃、ふたりはそんなことを言い合ったことがある。
 さて、男に若い愛人ができ、刺激の少なくなった弓子と別れの予感がある。
 ほんとうに別れるのか。この母性そのものような女、最後の寄港地のような女と。この作品、未完である。せつない小説だ。開高健がベトナム体験で、深く深く傷ついていることのわかる小説だ。
 世界中を旅し、釣りを楽しみ、一見ノンシャランに生活を謳歌しているように見える作家の内面は、意外なほどナイーブで傷つきやすいのである。
 作品が未完に終ったのは、ベトナム体験の重さにひきずられたからという見方が一般的だが、もう一つ別の要因がありそうだ。3人の女が登場し、早々と弓子との別れを暗示させた。それで苦しくなったのではないか。男は弓子のもとに帰らなければならなかったのだ。いかに通俗的な結末になろうと、そうしなければならなかった。しかし開高健にはそれができなかった。ただ未完のまま終わらせることによって、弓子に、あのセリフをもう一度言わせることもなかった。
「あっちゃあ、疲れたよ」あのおどけた嘆きの声のことである。


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1 コメント

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花散る闇 ()
2015-04-13 09:56:23
花散るや闇ふかぶかと犬の背に




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