小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

真相・浪士組結成と清河八郎 3

2016-07-10 13:40:14 | 小説
 松平主税助は徳川家康の六男忠輝の七代の孫という名族であった。名は忠敏。文久3年正月には上総介に昇格改称するから、主税助時代のことも上総介と回想されることもある。
 ともあれ格式は大名の上の主税助と一介の浪士清河八郎の建白とでは、うけとる側の重みだって違うのである。
 この年、文久2年の夏以降、いわゆる尊攘激派の浪士たちの動きが活発化し、攘夷問題に悩んでいた幕府を困らせていた。できもしない攘夷をひそかに朝廷に約束していたからである。
 主税助は建白書に「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計」少しも早く、彼らを幕府側に引き付け、天下の人心を幕府に帰一させなければならない、と書いている。
 そして、来春上洛する将軍の警護にあたらせれば、諸藩はじめ京、大坂の人心もあらたまるだろうと。(ちなみに清河八郎の建白には、上洛する将軍の警護などという具体的な提言はない)
 さて、浪士徴募の、手っ取り早い方法として、剣術の道場主に声をかけるのは効率的である。しかし、主税助は宮和田光胤に断られてしまった。
 ここで主税助の胸中に清河八郎の存在が大きくなる。清河八郎も道場主であった。主税助の講武所仲間である山岡鉄太郎は、清河の主宰する虎尾の会に属していたし、山岡を通じて清河八郎のことはよく聞かされている。
 しかも主税助が幕府から受け取った浪士募集の達文には、「尽忠報国」の志が篤ければ、既往の罪を免ずることもあるとされていた。
清河八郎を「お尋ね者」でなくすればよい。

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