江戸の「見山楼」の門下生とされるが、奥村という姓だけで下の名の不明な人物のことが気になって、つまりフルネームを知りたくて「安積艮斎門人帳」を国会図書館で閲覧してきた。
幕末の儒学者として一世を風靡した安積艮斎(あさかごんさい)が、神田駿河台に私塾を開いたのは文化11年(1814)、24歳のときである。彼は万延元年(1860)に70歳で没しているから、47年の長きに渡って門人たちを教導したことになるけれど、その門人の数たるや2280余名。錚々たる顔ぶれの門人がそろっており、あらためて艮斎の偉大さを思い知らされた。
神田駿河台の旗本小栗家の屋敷の小屋を借りて私塾をスタートさせたのだが、その小栗家の子息小栗上野介も天保6年に入塾していた。もっとも、この頃には塾は小栗屋敷の小屋から脱して、同じ神田駿河台でも富士見坂に屋敷を構えていた。地名のとおり富士山がよく見えたので、艮斎の屋敷は「見山楼」と呼ばれたのであった。
見山楼になぜ多くの俊秀たちが集まったのか、艮斎の思想の懐の深さといってしまえばそれまでだが、朱子学と陽明学という反発しあう学問を一致させ、さらに蘭学や洋学へも積極的な関心を寄せた艮斎の姿勢が時代のニーズをとらえたのであろう。
わが郷里の土佐の間崎哲馬(塾頭になった)や、岩崎弥太郎、彼の従兄弟の岩崎馬之助(弥太郎よりは入塾は早い)、谷干城、近藤長次郎らが門人となっていたのはわかっていたが、参政吉田東洋の名は私としては意外だった。なんと「御国本ニ罷在」とあるから、見山楼に通ったわけではなく、通信教育なのである。
吉田といえば吉田松陰も嘉永4年に入門、その長州つながりでいえば高杉晋作、長井雅樂がいる。天誅組の松本奎堂がいる、というぐあいに著名人を数え上げるだけでもきりがない。彼ら幕末維新を駆け抜けていった人物たちの教養の根底にある儒学というものを見直したい気分になってきた。
ところで門人帳閲覧の目的はもうひとつあった。清河八郎の入塾年次の確認である。
嘉永5年3月に塾生請人として「庄内屋清右衛門」の名があった。清河八郎と関わりの深い人物である。誰の請け人かというと「斎藤(欠字か、いずれにせよ読み取れない)」となっている。清河八郎はもと斎藤元司であるから、これだろう。通説の嘉永5年入塾と合致していた。
ちなみに奥村は奥村清酒という三春藩の藩士であった。
幕末の儒学者として一世を風靡した安積艮斎(あさかごんさい)が、神田駿河台に私塾を開いたのは文化11年(1814)、24歳のときである。彼は万延元年(1860)に70歳で没しているから、47年の長きに渡って門人たちを教導したことになるけれど、その門人の数たるや2280余名。錚々たる顔ぶれの門人がそろっており、あらためて艮斎の偉大さを思い知らされた。
神田駿河台の旗本小栗家の屋敷の小屋を借りて私塾をスタートさせたのだが、その小栗家の子息小栗上野介も天保6年に入塾していた。もっとも、この頃には塾は小栗屋敷の小屋から脱して、同じ神田駿河台でも富士見坂に屋敷を構えていた。地名のとおり富士山がよく見えたので、艮斎の屋敷は「見山楼」と呼ばれたのであった。
見山楼になぜ多くの俊秀たちが集まったのか、艮斎の思想の懐の深さといってしまえばそれまでだが、朱子学と陽明学という反発しあう学問を一致させ、さらに蘭学や洋学へも積極的な関心を寄せた艮斎の姿勢が時代のニーズをとらえたのであろう。
わが郷里の土佐の間崎哲馬(塾頭になった)や、岩崎弥太郎、彼の従兄弟の岩崎馬之助(弥太郎よりは入塾は早い)、谷干城、近藤長次郎らが門人となっていたのはわかっていたが、参政吉田東洋の名は私としては意外だった。なんと「御国本ニ罷在」とあるから、見山楼に通ったわけではなく、通信教育なのである。
吉田といえば吉田松陰も嘉永4年に入門、その長州つながりでいえば高杉晋作、長井雅樂がいる。天誅組の松本奎堂がいる、というぐあいに著名人を数え上げるだけでもきりがない。彼ら幕末維新を駆け抜けていった人物たちの教養の根底にある儒学というものを見直したい気分になってきた。
ところで門人帳閲覧の目的はもうひとつあった。清河八郎の入塾年次の確認である。
嘉永5年3月に塾生請人として「庄内屋清右衛門」の名があった。清河八郎と関わりの深い人物である。誰の請け人かというと「斎藤(欠字か、いずれにせよ読み取れない)」となっている。清河八郎はもと斎藤元司であるから、これだろう。通説の嘉永5年入塾と合致していた。
ちなみに奥村は奥村清酒という三春藩の藩士であった。