小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

藤村「近親相姦」事件 4

2007-08-30 17:38:35 | 小説
 藤村は『新生』を新聞連載小説として書きはじめた。大正7年5月から東京朝日新聞に掲載されるのである。
 小説では、こま子は「節子」というヒロイン名で登場する。
 しかし、藤村は節子を犯す場面の描写は避けている。小説は姪が家事手伝いに来た事情や主人公の作家の家庭環境が読者の頭に浸透するほどに進行したところで、ふいに節子から妊娠を告げられる場面を書く。読者の意表を突くたくみな仕掛けになっているのだ。えっ、ふたりはそういう関係だったのかと驚かせるわけだ。
 新聞の連載小説ということに意味がある。破倫を天下に公表したようなものだからだ。
 こま子の父で藤村の次兄広助は激怒して、藤村を義絶した。そして、こま子は島崎家の処置として台湾に追いやられるのだった。台湾には藤村の長兄秀雄がいた。ちなみに、こま子は韓国で生まれており、その名は「高麗子」の意味であるらしい。なにかと外地に縁のある女性である。
 ところで小説『新生』について、芥川龍之介に痛烈な批判がある。
 芥川は『或阿呆の一生』の中で、「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった」と書きつけたのである。芥川はさらに遺稿の『侏儒の言葉』でも「『新生』読後」にただ一行、「果たして『新生』はあったであろうか?」と疑問を呈している。
 これは暗に島崎藤村批判なのである。
 その藤村は『新生』を発表することについては、こま子の諒解をとりつけていたとされる。けれども、藤村はこま子のほんとうの気持ちを察してはいなかった。あるいは理解しようとはしなかった。こま子は自殺さえ考えていたのである。 

藤村「近親相姦」事件 3

2007-08-29 22:21:48 | 小説
 大正2年(1913)4月、島崎藤村はフランスに渡った。
 渡仏に至るいきさつを詳述できないわけではないが、ただひとこと、逃避行だったと言えばよいだろう。藤村は逃げたのだった。むろん、こま子からである。なぜか。
 彼女に妊娠を告げられたからである。藤村は震えるほどにうろたえた。いたたまらない状態に追い詰められたあげくの渡仏だった。
 藤村のフランス行きに、こま子は驚きながらも、どこかで心に折り合いをつけたのだった。置き去りにされた彼女は、9月に男の子を生んだ。妊娠中、彼女が優生学的な懸念で、どれだけ神経を痛めていたか察するにあまりある。出産後、赤ん坊になんら異常がないとわかると、ひどく安堵している。しかし、その子は誕生後すぐに貰い子として他家に連れて行かれた。そうしなければ、彼女は生きていけなかったからである。さらに、藤村のスキャンダルを封印しなければならなかった。
 藤村は結局、フランスに3年余滞在した。
 永住すら考えていたらしいが、第一次大戦の勃発で、パリの状況が悪化、押し出されるようにして藤村は帰国した。大正5年7月4日のことだった。
 藤村は、こま子との愛欲生活を断ち切るため日本を脱出したはずだった。ところが、帰国後まもなく、藤村はまたも、こま子とよりを戻してしまうのである。

 二人して いとも静かに燃え居れば 世のものみなは なべて眼を過ぐ

 こま子が詠んだ歌である。もう、この男女には周りが見えなくなっている。
この歌を藤村は小説『新生』に、そのまま引用し、「彼女は岸本(藤村のこと)の一切を所有し、岸本はまた彼女の一切を所有した。しかし二人とも何物をも所有して居なかった」と書いた。
 さて小説『新生』である。藤村はこの小説で、自らスキャンダルを暴露することになった。ふたたび、なぜか。いずれにせよ、この小説を書くことによって、男と女は別れた。

藤村「近親相姦」事件 2

2007-08-28 19:50:33 | 小説
 こま子は16才のとき、郷里長野の吾妻村の高等4年を終えて、東京に出た。三輪田高等女学校の3年に編入、根岸の親類(藤村の長兄の家族)の家から通っていた。卒業後に、藤村の家に住み込むわけだが、最初は三才年上の姉ひさと一緒だった。
 このとき、こま子19才。藤村は妻冬子を産後出血死で失い、4人の子供を抱えた男やもめとなっていた。
 こま子の姉はすぐに嫁に出るから、こま子ひとりが藤村の家に残ることになった。そんな彼女を学校時代の友達は羨ましがっていたらしい。なにしろ藤村は高名な詩人だし、売り出し中の小説家でもあった。有名人と同居していることに、彼女自身かすかに虚栄心をくすぐられるところがあったかもしれない。
 藤村の家は借家だが、浅草新片町にあった。家を出て、右に折れればすぐに浅草橋、左に折れれば柳橋のほとりに出た。隅田川の近くだったのである。「あのことがあったのは」とこま子は述懐する。
「私の二十歳の血液が、高く大雨にあった隅田川の流れにも増しておそろし流れ出した日」だったと。
「ある人々にとっては河は一定の形と色を有する水の流れである。ある人にとっては、一定した形もなく一定した色もなく流動して際涯の無いやうなものである。かう云ふ人の眼には赤い焔のやうな色の河といふものがある。と叔父は私達にはわからない哲学的な言葉を独り言の様に云って、憂鬱に大川を眺めてゐたのは、あのことのあった直後であった」
 ふたりにとって、隅田川は情念の赤い焔に染められた川になったのであろうか。
 この界隈の娘たちは、こま子のように女学校に通う者はまれで、黒じゅすの襟をかけて三味線の稽古に通ったりしていた。近所には音曲の家元だの師匠だのお妾さんだの役者だの浮世絵師だのが住んでいた。そう、こま子は語っている。花街の近くでもあり、江戸情緒が色濃く漂っていたのである。
 こま子が藤村の家に来たのが明治43年、そして明治が終って大正になろうというとき、この叔父と姪は、男と女の仲になっていた。
 せつない恋人同士になっていた。 

藤村「近親相姦」事件 1

2007-08-27 21:03:56 | 小説
 ひとつ屋根の下に、妻を失った42才の男とうら若い20才のお手伝いの娘がいる。
 5月の夜更けのことだった。つつしみのない書き方をしなければならないが、男は女の部屋をのぞき見て、寝乱れた姿に理性を喪失した。
 よくある話といえばそれまでだが、男と女はただの主人とお手伝いという間柄ではなかった。叔父と姪の関係だった。
 男の名は島崎藤村、女は島崎こま子だった。藤村の兄の娘だった。

「私は手や足をふりまはして闘ってゐた。私はひどく打撃を受けた脚を感じた。手を感じた。顔を感じた。けれども私は、夢の中に人生の苦闘をしてゐるだけだった。(略)私が眼をあいたとき、叔父の顔がひどく大きく見えたのに驚いた。(略)私はきっと、脚や手をはだけてゐたのだろう。叔父は二階に上がって行った。それがなんであったか分らない。さうしたことが、意識されて行ったのはそれからであった。わたしの前に展(ひら)かれた未知の世界は叔父にあっては、狂ひであったらう。私にあっては偶然な不可解な夢としか思へないことだった。がそれが私の人間として苦悩する孤独を悲しむ心と変って行った新しい生涯が始ったのだ」

 のちに、といっても24年も経ってからだが、女はこんな切ない回想文を書いた。(長谷川こま子『悲劇の自伝』婦人公論1937年5月号~6月号)
 風化に耐えた記憶が痛々しく、彼女の受けた衝撃がよく伝わる文章である。
 どうつくろっても、藤村は夜這いで姪のこま子を犯したのである。けれども、男と女のあいだには余人の理解しがたいところがある。ふたりは愛し合うようになるのである。むろん順序が逆のようでも性から始まる愛もないことはない。
 常識を超えた破倫は、この男女をどんな運命にいざなったのか。

ヒミコの時代の気象予報官

2007-08-25 15:45:06 | 小説
「魏志倭人伝」に「持衰」という不思議な人物のことが書かれている。ふつう「じさい」とよまれているが、そのよみ方が正確かどうかも、よくはわからない。
 倭人の航海には必ず乗り組ませているという乞食のような風体の人物のことだ。髪は伸ばし放題にしていて、くしけずらず、シラミがわいてもとらず、、垢に汚れた衣服を着ていて、無事に航海が終われば財物や奴隷を与えられ、暴害にあえば殺されることもあったという妙な役割の人物である。というより、そういう役割の人間を「持衰」と称していたらしい。
 さて、この「持衰」は「人間湿度計」であると私はひそかに断定して、かれこれ10年以上が経った。ある小説の中で登場人物の発見として書くつもりで、あたためてきたが、そろそろ私見を披露しておいたほうがよさそうな気がする。
 実は気象の予知ことわざを調べていて、ひらめいたのであった。髪の毛は湿度によって伸びたり縮んだりする。自記毛髪湿度計はこの性質を利用したもので、気象庁のは外人の毛であったという。なぜだか知らんが、フランス美人の髪の毛が最適という話もある。ともあれ、抜いた髪の毛が、時間を経て長くなれば雨、短くなれば晴なのである。
 さらに予知ことわざには、ノミが騒ぐときは雨、ノミが足にのぼってくると天気が悪くなるというのがある。
 持衰はシラミがわいてもとらないというのは、湿度が上がると虫がうごめいて気象の予想ができるということを知っていたわけである。髪を伸ばしに伸ばしていたのも、すべて雨の予知のためであったのだ。
 古代の倭人の人力航海の第一条件は、快晴で視界の良いことだ。海峡を横断するときの最大の敵は、雨と霧だった。雨ならば、島影か岬で、あるいは湾内で日和待ちをしなければならなかった。古代の航海者にとって、気象予報、とりわけ雨の予知は生死につながる重要なことがらだった。だからこそ、持衰という自らを湿度計になした気象予報官を連れていたのである。彼の予知がはずれて、倭人伝にいう「暴害」(たぶん暴雨の害)にあえば、役立たずとして殺されるはめにもあったのであろう。
 ところでヒミコの鏡好きは当時の中国でも有名であって、銅鏡百枚を貰ったりしている。刀はたった二口なのにである。鏡は三種の神器のひとつでもあるが、現代的な意味での化粧道具にならない銅鏡を倭人はなぜほしがったのか。まだ誰もうまく説明していない。私は鏡も航海のための気象予知具だったと思う。
 ローマの作家プリニウスの『博物学』の中に、「宴会のとき食物を盛った皿が露で湿っているときは、いつも強い嵐が近づいている証拠」とある。金属の皿だったはずだ。天気予知ことわざにも「玉石が汗をかくと雨が降る」というのがある。
 銅鏡は熱容量が大きい。だから気温が高くなっても銅鏡自体はそれに比例して高くはならない。低気圧が近づいて空気が高温多湿になると、鏡の肌は気温より低いために、空気中の水蒸気が鏡の肌で露を結び、鏡は湿る。鏡が曇ると、やがて空も曇る。鏡は天空の変異を予兆する航海の必需品だった。
 伊勢神宮のご神体の鏡は舟形の上にのせられているらしい。そのことを知ったとき、私の心にストンとおちるものがあった。

土佐藩留学候補生の死 補遺

2007-08-18 09:47:25 | 小説
『土佐藩留学候補生の死 11』の文中で、幕末の高知に若い武士たちに愛唱された数え唄について言及した。「盛んぶし」と呼ばれていたらしい。
 数え唄だから、一からはじまって十まである。同ブログの補遺として、歌詞を紹介しておきたい。

 1つとせ 人に生まれば忠孝に、義勇をかねて節に死ね
 2つとせ 二心なき武夫(もののふ)の一番槍にしおで首
 3つとせ 三たび諫(いさ)めて聞かざれば、腹に窓あけ死出の旅
 4つとせ 夜明けの騒ぎ知らぬ武士、ネズミとるみち知らぬ猫
 5つとせ いつもためせよわが刀、にえとにおいと銘文を
 6つとせ 向こう敵(かたき)は千もあれ、おのが心は泰山と
 7つとせ なにをいうても武夫の、進はあれど退かず
 8つとせ 矢種にこころ残せ残せかし、大事の場所に不覚取る
 9つとせ 心にかけよ死のひとつ、出るたびごとに目釘をば
 十うとさ とても引かれぬ場所なれば、太刀を合わせて死出の旅

「死出の旅」という文言が二個所に出てくるわけで、やはり武士道とは死ぬことと見つけたり的なおもむきがある。

土佐藩留学候補生の死 完

2007-08-12 17:50:40 | 小説
 関門内に居住する外国人のリスト(いつの時点かは失念した)を見たことがある。職業に、語学教師という人物が結構目についたものだった。新しく選ばれた留学生らは、かなり泥縄式の語学研修をうけたものと思われるが、この年の7月11日にはパシフィック・メール号で横浜を出帆しているから、5月に嘆願書が出ているということは、2か月足らずの学習期間ということになる。
 それにしても彼らは、その期間、築地関門内に「止宿」していたわけだ。警備兵とのあいだに、お互いなんのわだかまりもなかったのだろうか。意外な展開というのは、その意味からである。
 ひどく自刃した4人が哀れに思えてくるではないか。あの激情はなんだったのだろうかと、むなしくなるのだ。
 そこで、ふと気になったことがある。4人の場合は事前の語学研修はどうなっていたかということだ。もしかしたら彼らにも外国人の語学教師がいて、最後の挨拶を兼ねての新島原行きではなかったのか。ただし、そのことを示す史料はない。
 築地、明石町、新富町に、いま明治の面影はほとんど残っていない。錦絵に描かれた築地ホテルや新島原の光景を、現在の築地界隈に重ねることは難しい。幕府の外国奉行の事務所で外国事務局と称された建物が東京運上所となり、その前に4人が斬りこんだ加賀藩屯所があった。そんな事実は、とっくの昔に忘れられているだろう。
 築地本願寺の前で、外人にフィッシュ・マーケットはどっちの方向と聞かれたことがある。魚市場の場外なら目と鼻の先だが、何を買いに行くのだろうかと尋ねたら、チャイナウエアとジャパニーズウエアだという。陶器や漆器を買うのなら場外というより、もっと近くにいい店があるとおせっかいをやいてみた。明治初期、築地界隈が外国人居留地であったことは、あの外人夫婦たちにも関心のほかであっただろう。
 私の住む街は、築地の古老たちからは新しい埋立地として、ちょっと見下されるような川向うにあるが、事実だから仕方がない。かって、ときどき築地の昔の様子を聞かせてもらっていた呉服商の主もいまは故人で、知り合いがいるわけではないが、ときおりあてもなく築地界隈を彷徨うことがある。
この街は、その気になれば、明治維新がよみがえる歴史の町である。なにかが、私に憑くのである。

土佐藩留学候補生の死 12

2007-08-09 22:43:18 | 小説
 加賀藩側は厳重に警戒していたはずだが、4人はなんとも大胆に屯所表門小扉より押し入った。このとき門番の弥助(30才)と、たまたま玄関前の運上所(旧外国事務局)から使いに来ていた田村という武士(26才)に手疵を負わせている。
 そして一気に玄関より従者だまりに斬りこみ、例の沢崎仁三郎を斬った。さらに中村文二(23才)と片岡喜十郎(24才)という武士に重傷を負わせている。4人が傷つけたのは、ほかに小者の喜八という者をふくめ計6人だけであった。
 いずれにせよ、疾風のように去っている。よく逃げられたものだと思う。
「しかるところ」と正月6日付の文書で田辺は書いている。「昨五日谷神之助等四人、夜前五半時過ぎ高知邸に忍び込み、割腹仕候旨、同藩公用人」が来て聞かされたという。
 ところが「此間中高知藩の者共関門内へ脱刀に而忍入候者多」と田辺は記している。加賀藩側の再報復にそなえたのだろうか。それにしても「脱刀」とはおだやかでない。4人の無念さが伝播して、加賀藩の者たちを威嚇していたともみなされる。
 とにもかくにも4人の自刃によって、両藩の反目などという事態は避けられた。おそらく土佐も加賀もことを荒立てては互いに得策ではないと判断したのであろう。
 ところで、意外な展開がある。5月になると、土佐藩は新しく選んだ留学生5名を築地関門内に止宿させてほしいという願書を兵部省に提出している。関内に住むイギリス人に英語を習わせたいというのだ。願書の差出人は高知藩公用人毛利恭助である。田辺の文書で「泰助」となっていた毛利である。

土佐藩留学候補生の死 11

2007-08-08 05:00:18 | 小説
 田辺の記述に「再応教諭申入候得共承引不致」とあるのが、ふたりの態度だった。加賀藩側はむしろ、なだめにまわっているのだ。やがて土佐藩から公用人がふたりの身柄を引き取りにやってくる。公用人からは、今回の騒ぎは内分にしてほしい、と申し入れがあり、それを了承してふたりを放免しているのだから、ほんとうならここで一件落着なのである。ところがそうでなかった。
 以下、田辺の記述によるけれど、翌日土佐藩から毛利泰助がやってくる。
毛利は谷はじめ4人が脱走したと告げる。(ここから4人は最初から土佐藩脱走人という誤解が生じたのであろう)
 ついては関門に対して不法の所業があってはいけないから、警備と彼らの探索を兼ねて兵隊1小隊を差出したいという申し入れがあった。
 さすがに加賀藩は、この申し出を断った。警備は加賀藩の任務であり、それでは面目がつぶれるからである。
 しかし、これで加賀藩は関門の巡羅を厳戒し、兵の配りに留意したとある。つまり4人が再び関門に現れる可能性があるということは、4人に遺恨が生じているということであって、そのことを土佐側も加賀側も認識しているということである。
 武士ならば、当然そういう行動をとるだろうという予測。それは不幸にして的中するのである。4人はロンドン留学という藩命を投げ打って、あえて加賀藩本営を襲撃したのである。
 幕末の土佐で青年武士に流行った数え唄がある。十番目はこうだ。
 とても引かれぬ場所なれば、太刀を合わせて死出の旅
 七番目はこうだ。
 七つとせ、何をいうても武夫(もののふ)の、進むはあれど退かず
 ロンドン留学生に選抜された4人は、この明治3年、まだ「武士」だった。

土佐藩留学候補生の死 10

2007-08-06 23:05:19 | 小説
 谷および小島を訊問した加賀藩側の人物の名は、田辺仙三郎の文書には明記されていない。数名が尋問にあたったとは察しがつく。翌4日に土佐の4人が加賀藩屯所を襲撃した際に、田辺の家来の沢崎仁三郎にのみ、死にいたる深手を負わせている。あるいは、この沢崎とふたりの間に遺恨を残す言葉のやりとりがあったかもしれない。
 沢崎は「脊髄より肩掛けて創口長一尺六寸計、上顎より腮まで深創。正月五日朝八字過死す」とあって、「歳十八」と記されている。
 若すぎるのである。谷よりもまだ若く、血気さかんな若者にすぎた。
「おぬしら土佐の者は馬鹿か。天朝にご迷惑をかけたあげく、むざむざ堺で犬死か。えっ、何人が腹切った。おお、そうか、命乞いして助かったのも幾人かいたらしいのう」
 谷と小島が言葉にならぬ怒号を発して、相手につかみかかろうとした。むろん番兵たちに取り押さえられて、屈辱に体をふるわせた。
「土佐の烈士をよくも侮辱したな」
 と谷は言い、相手を睨みつけた。
「烈士?ほう、その方らも異人斬りで烈士にでもなりたくて、うろついておったか。イギリス人でも斬りたかったか。それにしては、丸腰。丸腰では人は斬れ申さんが」
 小島は血走った憤怒の眼で相手を見据えた。
「おんしゃあ、その口、叩き割ってやるきに、おぼえちょけよ」
 沢崎の傷「上顎よりエラまで」深くえぐるように斬られていたのは、斬ったものの意思がそこにあったからではないだろうか。
 とにかく手のつけられないような事態になった。ふたりが暴れ始めたからである。
 ところで加賀藩側にも、いくらかうしろめたい認識があったはずだ。だからこそ「高知藩と行違いの事件」というふうに記したものと思われる。  

土佐藩留学候補生の死 9

2007-08-05 15:53:33 | 小説
 イギリスといえば、同国公使ハリー・パークスは、堺事件の直後ともいえる慶応4年2月30日、実は暗殺されそうになったことがあった。公使らの参内行列を三枝蓊(しげる)と朱雀操のふたりが襲ったのである。護衛兵70名の一行に、わずか2名で斬り込んでいるから、ほとんど自爆テロみたいな行為である。9名のイギリス騎馬兵と士官ひとり、それに護衛の薩摩藩士中井弘蔵を負傷させている。
 捕えられた三枝は斬奸状を所持していたが、そこには堺事件に対する憤りも綴られていた。強烈な攘夷論者であった三枝らにはフランスもイギリスも同じだった。三枝は大和の出身、朱雀は山城の人だから、ふたりとも土佐人ではなかった。
 さて、築地関門事件に話をもどそう。
 加賀藩の番兵たちに連行されたのは大島捨蔵と谷神之助のふたりであったから、4人が自刃した事件であっても、直接の原因はこのふたりと、関門番兵のやりとりにあったということになる。
 これから先は、既述で「おいおい明らかにする」と書いた「憑依内容」になる。
「イギリスがどうとか喚いておったが、いかなる所存か」
と番兵のひとりが聞いた。
「聞き違いだろう。誰もそんなことは言っておらん」
と大島がとぼけた。
 イギリス留学生ということは公表したくなかったのである。今日でいう留学と意味が違って、藩独自のいわば諜報活動の一環といった趣があった。海外渡航は許可されていたといえ、他藩の者に言うべきことではなかったのである。
「おぬしたち土佐侍か、どおりで物騒であるな。上方で2年前にイギリス公使に斬り込んだ慮外者がおったが…」
「あれは」と谷が答えた。「土佐の者の仕業ではない」
「おっ、そうであったか」と番兵が皮肉に笑った。
「逆だ。暴漢のひとり朱雀操という者を斬り伏せたのは、その場に居合せた我が藩の後藤象二郎である。おぼえておいてもらおう」
「されど」と番兵の目が光った。「泉州堺でフランス人を殺傷したのは、おぬしら高知藩の者ぞ…おかげで、どえらい賠償金…」

土佐藩留学候補生の死 8

2007-08-02 22:01:22 | 小説
 ところで、ここで視点を変えて居留地の外国人人口を見ておきたい。その人口は、実は当局が居留地設置前に予想していたより、はるかに少なかったのである。
 つまり、もしかしたら加賀藩兵士たちの警備のほうが過剰だったかもしれないのだ。
 いずれにせよ、居留地開設以来、最初の人口調査は明治4年7月29日の調査であった。4人の事件後であるけれども、ほぼ明治3年の実情に近いと思われる。
 その人口調査よれば、居留地の外国人数はわずかに72人であった。内訳は次のとおりだ。

  アメリカ人     20名
  イギリス人     16名
  中国人       10名
  プロシア人     10名
  スイス人       6名
  ポルトガル人     2名
  オランダ人      2名

 居留地の警護というのは、早い話が欧米と外交上の困難な問題を起こさないように、外国人の身辺を警護するというのが、主眼であった。
 さて、若い谷神之助らは真福寺橋あたりで、高揚した気分で大声を発した可能性がある。
「おおい、俺らあはイギリスに行くぜよ。むかうはイギリスじゃあ」
 イギリス留学生であるから、嘘ではない。
 しかし、警備の加賀藩士たちにとって、その言葉は、ただごとではなく聞こえたはずだ。
 警備の加賀藩士たちにとって、イギリスは居留地の中にしかイメージがない。
 というより、居留地のイギリス人のことしか思い浮かばなかった。 

土佐藩留学候補生の死 7

2007-08-01 21:16:23 | 小説
 堺事件があってほどなく、大坂、堺の料亭などから流行し始めた歌がある。「よかよか節」であるが、どんなメロディだったか、さっぱり想像がつかないけれど、歌詞は記録に残っている。

 今度泉州堺で、土佐の攘夷が大当り、よか、敵は仏蘭西、
  よつほど、ゑじゃないか、よふか、よか、よか、よか。
 
 歌人の与謝野晶子は堺生まれとして有名であるが、彼女は子供の頃に堺事件の話をよく聞かされていたとみえる。明治44年に『三田文学』に載せた「故郷」という詩の中に、こんな一節がある。

 御堂の前の十の墓
 ふらんす船に斬り入った
 重い科ゆゑ死んだ人
 其の思出のかなしさか

「よかよか節」のことも与謝野晶子の詩のことも、私は大岡昇平の『堺港攘夷始末』で知った。ちなみに、この大岡昇平の遺作は未完であるが、およそ堺事件に関する史料は網羅し尽くされているといってよい。
 さて、堺港におけるフランス海軍兵士と土佐藩の警備隊員の紛争は、当時の人々の語り草となった有名な事件だったということを、確認しておきたいのである。
 それからほぼ2年後、築地関門を居留地の外国人を護るため警備していた加賀藩兵も、むろん堺事件のことは知っていた。土佐藩兵のからむ事件であったと、重々承知していた。
 彼らがとがめだてをした不審な4人組が土佐藩士だとわかると、彼らの脳裏に堺事件がよみがえったのである。