『水鏡』の記述にある「天長2年に帰ってきた浦島」を、私は女性だと特定した。なぜか。淳和天皇の妃が鍵となった。
兵庫県西宮市の甲山に神呪寺(かんのうじ)という寺がある。その本尊の如意輪観音は空海の作と伝えられ、重要文化財に指定されている。毎年5月18日だけしか開帳されない秘仏である。その像を、私は写真でしか見ていないが、古屋照子氏によれば「薄くれないの肌は匂やかに亡びぬ美しさを留め、優艶にして深遠な女性像である。わけても、うっとりと哀愁の漂う面ざしには、つい知らず魂を魅了される」(『続女人まんだら』)とある。この秘仏のモデルは淳和天皇の第4妃とされている。天長5年に彼女は侍女2人とともに宮廷を脱出し、甲山に入った。
空海より法を伝授され、如意尼と名のったが、本名は真井(まない)。真井というのは丹波の地名に由来している。ここで、浦島伝説の発祥地は丹波であることを記憶していただきたい。
鎌倉時代の禅僧の書いた『元亨釈書』によれば、「如意尼は天長帝の次妃(注:4妃から格上げされている)なり。丹州余佐郷の人」と書いているから、もっとはっきりする。その出身地は、まさしく古伝承の浦島と同じなのだ。
浦島の故郷は『日本書紀』も『風土記』も丹後半島の与謝(余佐)郡の筒川(管川)となっている。筒川は今も丹後半島の北東部の山中を流れて、京都府与謝郡伊根町本庄地区で若狭湾に注いでいる。河口近くの本庄浜に浦島を祭神とする神社がある。由良神社、別名浦島神社。
さて如意尼には一方でこんな話がある。山水を追って放浪生活をしていたところを、淳和天皇が霊夢によって彼女を見出し、宮殿に入れて妃にした、という話。
要するに前歴のよくわからない女性なのだが、彼女こそ天長2年に帰ってきた「浦島」の子孫なのだ。
ずばりとそのことを明記した文献がある。とんでもないところにあったという感じなのだが、『江戸名所図会』にあった。東子安村(今では神奈川だが)の観福寿寺の紹介箇所だ。この寺は浦島の霊をまつり、世俗に浦島寺と称された。(ちなみに現存している)「当寺は淳和天皇の勅願にして・・・」云々とあり「同帝第4の妃は浦島子が9生の孫なり」と書いてあるではないか。
いったい、この記述者はいかなる史料あるいは根拠をもって、こう書いたのか。その出典を探したがなにもわからなかった。ただ私と同じ考えの道筋をたどるものが、すでに江戸時代にいたという事実は、いかほど心をゆすられたことか。
兵庫県西宮市の甲山に神呪寺(かんのうじ)という寺がある。その本尊の如意輪観音は空海の作と伝えられ、重要文化財に指定されている。毎年5月18日だけしか開帳されない秘仏である。その像を、私は写真でしか見ていないが、古屋照子氏によれば「薄くれないの肌は匂やかに亡びぬ美しさを留め、優艶にして深遠な女性像である。わけても、うっとりと哀愁の漂う面ざしには、つい知らず魂を魅了される」(『続女人まんだら』)とある。この秘仏のモデルは淳和天皇の第4妃とされている。天長5年に彼女は侍女2人とともに宮廷を脱出し、甲山に入った。
空海より法を伝授され、如意尼と名のったが、本名は真井(まない)。真井というのは丹波の地名に由来している。ここで、浦島伝説の発祥地は丹波であることを記憶していただきたい。
鎌倉時代の禅僧の書いた『元亨釈書』によれば、「如意尼は天長帝の次妃(注:4妃から格上げされている)なり。丹州余佐郷の人」と書いているから、もっとはっきりする。その出身地は、まさしく古伝承の浦島と同じなのだ。
浦島の故郷は『日本書紀』も『風土記』も丹後半島の与謝(余佐)郡の筒川(管川)となっている。筒川は今も丹後半島の北東部の山中を流れて、京都府与謝郡伊根町本庄地区で若狭湾に注いでいる。河口近くの本庄浜に浦島を祭神とする神社がある。由良神社、別名浦島神社。
さて如意尼には一方でこんな話がある。山水を追って放浪生活をしていたところを、淳和天皇が霊夢によって彼女を見出し、宮殿に入れて妃にした、という話。
要するに前歴のよくわからない女性なのだが、彼女こそ天長2年に帰ってきた「浦島」の子孫なのだ。
ずばりとそのことを明記した文献がある。とんでもないところにあったという感じなのだが、『江戸名所図会』にあった。東子安村(今では神奈川だが)の観福寿寺の紹介箇所だ。この寺は浦島の霊をまつり、世俗に浦島寺と称された。(ちなみに現存している)「当寺は淳和天皇の勅願にして・・・」云々とあり「同帝第4の妃は浦島子が9生の孫なり」と書いてあるではないか。
いったい、この記述者はいかなる史料あるいは根拠をもって、こう書いたのか。その出典を探したがなにもわからなかった。ただ私と同じ考えの道筋をたどるものが、すでに江戸時代にいたという事実は、いかほど心をゆすられたことか。