小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

浦島とは何者か その3

2004-09-29 22:42:15 | 小説
『水鏡』の記述にある「天長2年に帰ってきた浦島」を、私は女性だと特定した。なぜか。淳和天皇の妃が鍵となった。
 兵庫県西宮市の甲山に神呪寺(かんのうじ)という寺がある。その本尊の如意輪観音は空海の作と伝えられ、重要文化財に指定されている。毎年5月18日だけしか開帳されない秘仏である。その像を、私は写真でしか見ていないが、古屋照子氏によれば「薄くれないの肌は匂やかに亡びぬ美しさを留め、優艶にして深遠な女性像である。わけても、うっとりと哀愁の漂う面ざしには、つい知らず魂を魅了される」(『続女人まんだら』)とある。この秘仏のモデルは淳和天皇の第4妃とされている。天長5年に彼女は侍女2人とともに宮廷を脱出し、甲山に入った。
 空海より法を伝授され、如意尼と名のったが、本名は真井(まない)。真井というのは丹波の地名に由来している。ここで、浦島伝説の発祥地は丹波であることを記憶していただきたい。
 鎌倉時代の禅僧の書いた『元亨釈書』によれば、「如意尼は天長帝の次妃(注:4妃から格上げされている)なり。丹州余佐郷の人」と書いているから、もっとはっきりする。その出身地は、まさしく古伝承の浦島と同じなのだ。
 浦島の故郷は『日本書紀』も『風土記』も丹後半島の与謝(余佐)郡の筒川(管川)となっている。筒川は今も丹後半島の北東部の山中を流れて、京都府与謝郡伊根町本庄地区で若狭湾に注いでいる。河口近くの本庄浜に浦島を祭神とする神社がある。由良神社、別名浦島神社。
 さて如意尼には一方でこんな話がある。山水を追って放浪生活をしていたところを、淳和天皇が霊夢によって彼女を見出し、宮殿に入れて妃にした、という話。
 要するに前歴のよくわからない女性なのだが、彼女こそ天長2年に帰ってきた「浦島」の子孫なのだ。
 ずばりとそのことを明記した文献がある。とんでもないところにあったという感じなのだが、『江戸名所図会』にあった。東子安村(今では神奈川だが)の観福寿寺の紹介箇所だ。この寺は浦島の霊をまつり、世俗に浦島寺と称された。(ちなみに現存している)「当寺は淳和天皇の勅願にして・・・」云々とあり「同帝第4の妃は浦島子が9生の孫なり」と書いてあるではないか。
 いったい、この記述者はいかなる史料あるいは根拠をもって、こう書いたのか。その出典を探したがなにもわからなかった。ただ私と同じ考えの道筋をたどるものが、すでに江戸時代にいたという事実は、いかほど心をゆすられたことか。



浦島とは何者か その2

2004-09-28 23:03:49 | 小説
 むろん、「浦島の帰還船」などという記録があろうわけがない。浦島が帰ってきたとすれば、この船ではないかという、船探しである。そして、見つけた。天長2年には、渤海船が来航していた。この船だと思った。
私は小説のプロローグを書き始めた。そのプロローグの一部を以下に写す。(ルビを振らないので、読みにくいかもしれないがご容赦)

 天長2年冬、淳和天皇在位の12月3日のことだった。
 荒れる厳寒の日本海を帆走し、隠岐を経て出雲に来着した船があった。渤海という国からの使節船である。
大使の高承祖以下103人が乗り組んでいた。
 知らせを受けた朝廷はおおいに驚き、領客使に布留宿祢高庭を指名、出雲に派遣した。
 驚いたのにはわけがある。2年前にも加賀に来航した渤海使があった。朝廷はこのとき、すでに入京を拒んでいる。しかも、今後は「一紀一貢とすべし」と通告して、帰帆させたのであった。渤海の来朝は一紀、つま12年に1回しか認めていなかったのだ。
 右大臣の藤原緒嗣などは「朝威を示せ。ただちに追い帰せ」とたいへんな剣幕で怒った。
 渤海という国は、いまの中国東北部、沿海州、朝鮮半島北部までも版図とし、「海東の強大国」と謳われたが、日渤外交はなぜか日本が主、渤海が従というかたちで定着していた。過去にひんぱんに通交実績のある渤海なのだが、朝廷はもはやその来航をもてあましていたのである。
 打ち続く凶作、疫病の流行で、朝廷の財政はひっ迫し、莫大な費用を要する渤海使の接待どころではない、というのが実情だった。
 さて、高庭はこのたびの役目を軽く見ていた。
(一紀一貢という勅書と太政官符を踏みにじった相手じゃないか。適当に問責して放還の措置をとれば、それでよし)
 内心、たかをくくっていたが、案に相違した。
 一行の中に、貞素という渤海僧がいた。
 この僧が、なんと在唐中の日本からの留学僧霊仙から託された上表、経典、舎利を携えているという。
       -中略ー
 貞素はひとりの童のような従者を伴っていた。その者に舎利を持たせている。
 高庭は貞素の問責中にも、従者のことが気になっていた。粗末で、むさくるしい恰好をしているのだが、その姿態に気品にも似た不思議な雰囲気がただよっている。
 ひととおり,貞素の話を聞き終えたとき、高庭は訊いた。
「その、童の名はなんと申す?」
 貞素は、彼のほとんど左隣に控えている従者をちらっとかえりみて、それから渤海側の通訳ー李姓を名のる通訳2名がいたーを手で制した。
 従者はおもむろに顔をあげ、声を発した。
「童ではございませぬ」
 透きとおるような声であった。
「おお、言葉がわかるのか」
 高庭の驚きは、しかし別にあった。 
(こやつ、顔を汚しているが、女だったのか)
「渤海びとではありませぬゆえ・・・」
 こんどはささやくような声だった。
「む?・・・」
 高庭は、従者の顔を射るように見た。
「わがいつきまつる祖は・・・」
 と従者は歌うように語りはじめた。
「遠つ祖はサホビコ、その玄孫タニハノシマコ・・・」
 あっ、と高庭は声をあげた。
 高庭と従者の視線がからみ、従者の目が輝いた。
「わが遠つ祖を、ご存知でしたか?」
「知らいでか」
 高庭はこの人物の正体をはっきりと悟った。
「そなた、浦島の・・・」
「あい」と従者はこたえた。「帰ってまいりました」
       -後略ー




浦島とは何者か  その1

2004-09-27 22:19:58 | 小説
『日本書紀』は、れっきとしたわが国の正史である。その『日本書紀』の雄略天皇22年の条に、さりげなく浦島のことが書かれている。
「秋7月に、丹後の国の余社郡の管川の人、瑞江浦島子、船に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。たちまちに女となる。ここに浦島子、たけりて婦(め)とす。あいしたがいて海に入る。蓬莱山(とこよのくに)に到りて、ひじりをめぐりみる。ことは別巻にあり」
おとぎ話の浦島太郎のモデルは、歴史上の人物なのである。大亀に変身した乙女と結婚し常世の国に行ったとされる人物の話は、たんに不思議な話として、わざわざ正史に記述されたのであろうか。別巻にまで詳細があるというが、残念ながらその別巻は現存していない。どんなことが書かれていたのか、読んだ人の記録も残されていない。
 この浦島が平安時代になって、『水鏡』という歴史書に再び現れる。同書にまたまた不思議な記述。「今年、浦島の子が帰ってきた。雄略天皇の時代にいなくなってから、347年たってから帰ってきた」
 今年というのは天長2年(824年)のことである。さて、その347年前は西暦478年、つまり雄略22年というのは西暦年が特定できないのだが、『水鏡』からすればそうなる。なんという偶然だろう、478年はあの有名な倭王武が今の中国に使者を派遣した年である。つまり中国に向かう船の出た年である。
 天長2年に帰ってきた浦島とは誰か。まさか竜宮から帰還したわけではなく、478年にいなくなったその人であるわけもなく、その子孫と考えられる。なぜ歴史書は浦島に関心を持つのか。
 浦島とはいったい何者だったのか、その子孫とは誰か。疑問が次から次へと湧いてきた。
 私は、まず、天長2年に外国から日本に着いた船探しから、始めた。どこかに船の記録が残されているはずだというひらめきがあった。


注;平成10年から11年にかけて、ある会報紙に本名の近藤功名義で連載していたエッセイ「歴史のすきま風」で、「浦島伝説の真相」という項目を設けたが、本文はこれと重複するところがあります。
もとをただせば、小説のための史料調べの副産物でした。

「浦島の秘密」

2004-09-26 15:25:37 | 小説
小説の最初の読者は誰か。それは作者である。作者自身が先へ先へと読み進みたくなるような小説でなければ、作者と縁もゆかりもない「読者」が面白がって、読んでくれるわけがない。私は結末を決めずに、あるいは結末がわからないのに小説を書き始める。私自身が最初の読者として楽しみたいからである。こんな小説作法は、緻密なミステリには向かないはずだが、無謀にも『浦島の秘密』を書き始めたのは、10年ほど前になる。いわゆる浦島伝説(昔話の浦島太郎の原型)と現代の殺人事件を絡めたたもので、力点は浦島伝説の謎解きにある。おかげで、三種の神器の一つ草薙の剣の謎、あるいは「日本」という国号成立の謎という大きな問題にぶつかり、自分なりの解答を出すはめになった。
 小説はとっくの以前に8割がた出来上がったが、あと2割を残してにわかに完成意欲を喪失した。最初の読者としては、結末がわかってしまって気分がなえたということもある。しかし、それ以上に、古代史の大きな謎を解いたという高揚感で、小説を書くことが馬鹿らしく思えたことが大きい。この心の高ぶりをおさえるのに、歳月が必要だった。
その『浦島の秘密』(仮題)について、これからここに書いておきたい。小説のプロローグも紹介するつもり。