小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

鳥越碧『波枕 おりょう秘抄』を読む

2010-02-25 09:53:10 | 読書
 鳥越碧『波枕 おりょう秘抄』(講談社)を読んだ。本の帯に「誇りを持って、龍馬の妻であり続けた女の一生」とある。むろん、おりょうさんの物語である。読まずにいられるわけがない。
 だが、冒頭部分、一章で早くもあれっと思った。再婚相手の松兵衛に、9歳も若く年齢を偽っていたという、おりょうさんの「後ろめたい思い」が綴られるからだ。これでは阿井景子路線の踏襲である。このことについては以前にもこのブログで書いた(参照おりょうさんの戸籍上年齢)けれど、結果的に男をたぶらかしていたという誤ったイメージを払拭しない限り、おりょうさんという女性の本質を見損なうのである。
 ちなみに寺田屋時代のおりょうさんを松兵衛が知っていて、惚れていたらしいことは殿井力(寺田屋お登勢の娘)の証言がある。とっくの昔に松兵衛はおりょうの年齢ぐらいは把握していたのだ。
 作者は「あとがき」で「史実に添うように努力したが、、あえて、逸れているところもある」として史実と違う具体例をあげているが、逆に言えばそれ以外は史実に準拠していると言いたげである。ところが、かなり杜撰である。とても気になった二点をあげておく。
 まず、なんと福岡田鶴のことが語られるが、この女性は司馬遼太郎の創出した架空の人物である。どうやら作者は実在の人物と思い込まれているようなのだ。
 次に長崎の小曽根家滞在時のおりょうさんの描き方がおかしい。「月琴の師匠は、小曽根英四郎の姪のお菊である」と作者は書く。まあ、月琴を菊に習ったという説はあるから、師匠という言い方はよいとしよう。作中、おりょうとお菊は大人同士の会話を交わしている。龍馬と丸山芸者のお元との仲を嫉妬したおりょうさんが菊に「いつごろからどすやろな、うちの人とは?」と聞いたりする場面がある。作者は、菊の年齢の検証を怠っていることが、これでわかる。
 菊は当時まだ11歳の少女だった。少女相手に、丸山一の芸妓の名を教えてくれとか、いつごろから龍馬とできているのかなどと、おりょうさんが聞くだろうか。月琴の師匠だから、大人の娘に違いないと作者は勘違いしのだろうが、おりょうさんが彼女に月琴を習ったというのも、一緒に習ったという話が変容しているとみなした方が良い。おりょうさんは菊の父、小曽根乾堂に月琴の指導を受けたと私なら考える。
 総じて、おりょうさんに好意的なまなざしで描かれた小説ではあるけれど、阿井景子路線の踏襲でつまづき、それが最後まで尾をひいているのが残念である。 

龍馬・いろは丸の謎  完

2010-02-04 20:05:11 | 小説
 さて、最後に積荷の小銃の件について考えてみたい。
 水中考古学者らも、先に紹介した新聞記事にあるように、小銃はもともとなかったのではと疑っている。しかし積んでいた蓋然性のほうが高いと思われる。
 ないものをあったとは、とても言えないのである。なぜか。その武器の出所は遡及することが可能であるからだ。
 この時代、各藩が武器を輸入する場合、長崎奉行所あるいは運上所への届出が必要であった。長崎奉行所文書には「諸家買入物伺御附札留」というのがあって、諸藩の届書、外国商館との契約書類、運上所及び外国公事方役人の聞取書、稟議書写し等が収録されている。つまり小銃はいつ、どこから買ったものか、その由来がたどれる状況下にあったのである。小銃がまったく架空な積荷であったなら、すぐにばれるのである。
 紀州の岩橋轍輔は、いろは丸の売主のオランダ商人と直接かけあい、その原価を確認するような人物であった。岩橋が長崎において、積荷の小銃の出どころを確認しなかったはずはない。もしも土佐側がいい加減なことを主張していて、その根拠を見つけることが出来れば、賠償交渉は断然に紀州藩に有利になるからである。ところがそういう形跡はない。
 ここで問題となっている小銃は、ではいつ買われたものであろうか。私の推測では、慶応3年3月4日、まさにいろは丸事件の直前、オランダ商人シキュートから購入したものと思われる。購入数量は契約書上では小銃1500挺。同時に更紗500反、奥縞1500反が購入されている。
 奥縞というのはホームスパンのような生地のことらしいが、いろは丸の積荷目録には更紗と奥縞のあったことを思い出していただきたい。これを積んでいたならば、このとき同時に購入した小銃も一緒に積んでいたとみるほうが自然であり、積荷はシキュートから仕入れたものの一部とみてよいだろう。
 ちなみに契約のひと月前に土佐の高橋勝右衛門が運上所に届出た文書では大砲10、小銃2000となっているが、大砲は購入されていない。長崎奉行所が許可しなかったのではないかという見方がある。
 実は岩崎弥太郎の慶応3年6月3日付の日記に注目すべきことが書かれていた。
「…参政(後藤のこと)、龍馬と談合、龍馬を以て再積立候小銃400挺代価、五代氏心配致し呉候様申し遣り候」(原文のカタカナをひらがなにし、読みやすくしている)
「再積立」の意味がよくわからないが、海に沈んだ小銃400挺をあらためて買付けする必要が生じ、その資金について五代が心配してくれている、という文面と解釈されるのではないだろうか。
 小銃はやっぱり積み込まれていたのだ。
 ただ残る謎は、小銃がなぜ「用物箱」という大項目に入れられたかということと、土佐側はなぜあっさりと岩橋の減額要求に応じたかということだ。もしかしたら中島がたんに数字に弱く、岩橋に丸め込まれたというのが真相だったりすることもありうる。いずれにせよ、このことは私自身への宿題としておきたい。ひとまずこの稿を終える。

龍馬・いろは丸の謎  11

2010-02-02 11:55:07 | 小説
 ちなみに大洲では「いろは丸の代金は返してもらっていない」という説が今も流布しているらしい。明治4年の同地における農民一揆でも、そういう話が広まったというが、なんのことはない、大洲藩に返還される金額を誤解しているからである。3万5630両の船代がまるまる返還されるわけのないことは前述のとおりで、紀州藩が船代の残金を肩代わりして支払ったという事実を知らないからであろう。大洲藩に返却された現金は、船代金の支払済み金や諸雑費を含めても1万両強にしかならないはずだ。そして、それは返却されている。
 坂本藤良氏は『幕末維新の経済人』(中公新書)の中で、『旧大洲藩史』ほかを参照し、「いろは丸の船の代金は大洲藩に支払われたと見ていいと思う」と述べている。ただし氏は、大洲藩には4万2500両が支払われた、としているが、これは事実と違うのである。
 どうやら賠償金7万両という数字が計算値であって、実態を示す数字ではないのに、この数字を基準とするから、とかくあちこちで妙な誤解を生じるのである。たとえば、大洲藩に支払われるべき金を岩崎弥太郎が着服して三菱財閥を起こす基金としたなどという妄説がそれだ。
 紀州藩の船代残金の肩代わりという事実が、もっと広く知られていれば生じようのない誤解であった。紀州藩の肩代わりについては、私は織田毅氏の『再考・いろは丸事件』(『共同研究・坂本龍馬』所収・新人物往来社)に教えられるところが多かったが、詳細は氏の論考をご覧いただきたい。
 さて、賠償交渉は、これまで見てきたとおり、前段階では後藤・茂田会談、最終段階では中島・岩橋会談で決着している。龍馬は金額の決定に、深く関わっていないのである。龍馬が賠償金をせしめたというのは巷説にすぎないのである。
さらに海難審判上、いろは丸に非があったのに、龍馬が強引にひっくり返したという説をなす者がいるが、これも言いがかりのようなもので、根拠は薄弱である。
 なにより、龍馬とやりあった明光丸艦長高柳がのちに、こう述懐しているのだ。
「交渉相手の筆頭であった才谷梅太郎は、当時討幕論首唱の魁であった坂本龍馬であって、この人物の応答言論等は存外正直穏当のごとくであったけれども、中々に大胆不敵な人物であった」(『南紀徳川史』所収「明光艦と土州いろは丸艦と衝突事件応接筆記其他巨細」)
 龍馬に煮え湯をのまされていたならば、こんな評言はしないであろう。

龍馬・いろは丸の謎  10

2010-02-01 16:55:52 | 小説
 さて、賠償金金額は、いろは丸代金3万5630両、積荷代他4万7896両198文の合計8万3526両198文であった。
 この船代金に目をつけたのが岩橋轍輔だった。実は大洲藩はいろは丸の購入代金を全額支払っていたわけではなかった。未払い残金が2万7280両あった。売主のボーディンと岩橋は直接交渉して、その支払を紀州藩が肩代わりすることで合意を得るのであった。一部即金、残りを二年割賦でまとめているから、岩橋を切れ者と評した意味がおわかりいただけるだろう。土佐側に一括弁済するより、余裕が生じるのである。
 すると、賠償金のうち、いろは丸の船代から紀州肩代わり分が差し引かれることになり、賠償金総額は5万6246両198文となる。岩橋はここからさらに1万3526両198文をまけさせた。だから当初の賠償総額から、1万3526両198文を減額して7万両なのである。ところが7万両というのは計算値であって、上述のように紀州藩立替分を差引くと、実質的に土佐側に支払われる金額は4万2720両となるのである。
 岩崎弥太郎の11月22日の日記に、こんなことが書かれている。
「…(中島)作太郎云、過日紀州之償金八萬余金之処、私以独断減却七萬、正金四萬両已受領…」
 金額を正確に記しているわけではないが、4万2720両は受領したものと見える。『岩崎弥太郎伝』(岩崎家伝記刊行会編纂・東京大学出版会発行)は、この手紙を引用後に、「残りの三万両は回収したかどうか明らかでない」と書くが、残りもなにも、これが紀州より支払われた金額のすべてである。
 しかもである。この金額には、大洲藩がオランダ商人に支払った前金が含まれている。前金の額は単純計算では8350両。(3万5630両ナイナス2万7280両)
 大洲藩にこの船代前金を返却すると、土佐側に残る金額は、3万4370両となる。実際はもっと少なると思われる。雑費が生じているのだ。たとえば、調停役の五代に千両渡の礼金を渡したともとれる史料などもある。
 いろは丸賠償金は、こうして仔細に点検してみると、巷説よりかなり縮小してくるものなのである。