貴族支配の体制を打倒して武士が興隆したのが鎌倉時代、換言すれば貴族政権から武士政権に移ったのが 鎌倉時代などというのは、教科書的歴史知識のすりこみでしかない。「武者の世」になったなどというのは、うわべだけの現象にすぎない。わが中世においては歴史のほんとうの主役は天皇家と貴族社会であった。
もうおわかりいただけたと思う。この稿の表題にはアイロニーがこめてあることに。
戦いはいつも天皇と天皇、貴族と貴族でおこなわれたのであり、戦いのアウトソーシングとして武士がいた。武士と貴族は互いの生存を賭けて、ほんとうの意味で戦ったことはない。
源平合戦にしても、「平家の公達」というから平氏という貴族と源氏という武士が戦ったように思われがちだが、あくまでも武士と武士との戦いである。しかも源氏に平氏を討てと命じたのは後白河院であった。
公武政権はあたかも分離したように見えて、そうではなかったのが頼朝の時代であり、それ以前の平清盛の時代であった。分離はおろか、激突したことがないのである。公武の脈絡は、不思議なことに途絶えることがなかった。幕末から維新にかけて、だから公武合体派が息を吹き返すことができたのである。それは勤皇開国派の業績であった。
さてところで、日宋貿易に注力した平氏は「開国」であり、対する源氏は「鎖国」であった。
歴史にイフ(もしも)を持ち出したらきりはないが、野暮を承知で書けば、源平合戦でもしも平家が勝利していたならば、わが国の国際化はもっと早くなっていたのではないかと思う。むろん、いやおうなしに国際的な政治情勢にまきこまれていただろうというほどの意味である。
もうおわかりいただけたと思う。この稿の表題にはアイロニーがこめてあることに。
戦いはいつも天皇と天皇、貴族と貴族でおこなわれたのであり、戦いのアウトソーシングとして武士がいた。武士と貴族は互いの生存を賭けて、ほんとうの意味で戦ったことはない。
源平合戦にしても、「平家の公達」というから平氏という貴族と源氏という武士が戦ったように思われがちだが、あくまでも武士と武士との戦いである。しかも源氏に平氏を討てと命じたのは後白河院であった。
公武政権はあたかも分離したように見えて、そうではなかったのが頼朝の時代であり、それ以前の平清盛の時代であった。分離はおろか、激突したことがないのである。公武の脈絡は、不思議なことに途絶えることがなかった。幕末から維新にかけて、だから公武合体派が息を吹き返すことができたのである。それは勤皇開国派の業績であった。
さてところで、日宋貿易に注力した平氏は「開国」であり、対する源氏は「鎖国」であった。
歴史にイフ(もしも)を持ち出したらきりはないが、野暮を承知で書けば、源平合戦でもしも平家が勝利していたならば、わが国の国際化はもっと早くなっていたのではないかと思う。むろん、いやおうなしに国際的な政治情勢にまきこまれていただろうというほどの意味である。