小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

武者の世  完

2006-07-31 22:20:27 | 小説
 貴族支配の体制を打倒して武士が興隆したのが鎌倉時代、換言すれば貴族政権から武士政権に移ったのが 鎌倉時代などというのは、教科書的歴史知識のすりこみでしかない。「武者の世」になったなどというのは、うわべだけの現象にすぎない。わが中世においては歴史のほんとうの主役は天皇家と貴族社会であった。
 もうおわかりいただけたと思う。この稿の表題にはアイロニーがこめてあることに。
 戦いはいつも天皇と天皇、貴族と貴族でおこなわれたのであり、戦いのアウトソーシングとして武士がいた。武士と貴族は互いの生存を賭けて、ほんとうの意味で戦ったことはない。
 源平合戦にしても、「平家の公達」というから平氏という貴族と源氏という武士が戦ったように思われがちだが、あくまでも武士と武士との戦いである。しかも源氏に平氏を討てと命じたのは後白河院であった。
 公武政権はあたかも分離したように見えて、そうではなかったのが頼朝の時代であり、それ以前の平清盛の時代であった。分離はおろか、激突したことがないのである。公武の脈絡は、不思議なことに途絶えることがなかった。幕末から維新にかけて、だから公武合体派が息を吹き返すことができたのである。それは勤皇開国派の業績であった。
 さてところで、日宋貿易に注力した平氏は「開国」であり、対する源氏は「鎖国」であった。
 歴史にイフ(もしも)を持ち出したらきりはないが、野暮を承知で書けば、源平合戦でもしも平家が勝利していたならば、わが国の国際化はもっと早くなっていたのではないかと思う。むろん、いやおうなしに国際的な政治情勢にまきこまれていただろうというほどの意味である。


武者の世  その15

2006-07-30 17:44:01 | 小説
 義経と頼朝をたたかわせたら、義経が勝利するだろうと、後白河院は考えたふしがある。ところが、意外な状況が待ちうけていた。右大臣九条兼実はその日記『玉葉』に書いている。
「押して頼朝を討つべしとの宣旨を申し下すといえども、近国の武士ら、義経らの下知に従わず。かえって義経らをもって、謀反の者と見做す。それのみか義経直率の軍勢、日を逐うて減少し、あえて与力するの者なし」
 軍勢を糾合することができないのだから、戦にならない。頼朝の軍勢が上洛する前に、義経は都落ちするしかなくなるのだ。義経の名誉のためにすこし弁護すれば、後白河院の院宣だから、不人気なのである。それにしても変わり身の早いのが院であって、こんどは頼朝に義経追討令を出すのだから、いいようにあしらわれてしまったのは義経なのである。
 それにしてもだ。頼朝もまた、院に自らの命を狙われたにもかかわらず、なぜ怒りの矛先を、つまり文字通りの武力をという意味だが、院とその棲む世界に向けなかったのであろうか。実の弟を討つことはためらいもないのに、貴族社会の象徴を抹殺しようという意志を、頼朝は最後まで持とうとしなかった。それどころか、これ以来おとなしくなった後白河院のために御所を造復してやったりして、征夷大将軍に任じてほしいと、ご機嫌をとっている。(頼朝がその地位を得るのは院の死後であった)
 武力で王権を簒奪することだって可能だったはずなのに、と誰もはがゆく思わなかったのか。
 

武者の世  その14

2006-07-27 20:32:18 | 小説
 歌舞伎十八番「勧進帳」を、私は中村吉右衛門の弁慶で一度しか観たことがないが、周りの観客が泣いている様子にむしろ感動したものである。しかし、あの安宅の関での息詰まるような出来事は、たぶんにフィクションである。
 とはいえ、義経ら一行が、東大寺再建のための寄付集めのツアーを偽装したのは、ほんとうかもしれない。つまり全国的にそれだけ多くの人たちが勧進のために動いていたから、紛れることも容易だったはずだ。
 それにしても義経と兄頼朝の相克の背景には、またしても後白河院がいる。
 慈円が「武者ノ世」の始まりだとした保元の乱は、崇徳上皇と後白河帝(注)の骨肉の争いだった。それ以降、戦と変事にいつもからんでいるのが後白河院だ。たぶん、院政という政治構造そのものに乱を誘発しやすい問題点があるとおもわれるが、そのあたりの考察は専門家にゆだねよう。
 とまれ義経に頼朝追討令を出したのは院であった。朝敵にされた頼朝に激怒されると、こんどは義経追捕令を出したのも院である。頼朝はわかっていた。「義経謀叛の事、ひとえに天魔のせいたるか」と、とぼけた弁解をする後白河院の使者に、院こそ「日本第一の大天狗」ではないかと言い放った。保元、平治の乱そして源平争乱の世をくぐりぬけてきたこの老獪な院と頼朝の対立の終焉が、この「武者の世」一幕ものの終わりになるはずだ。

(注)これまで無限定に「後白河帝」と書くことが多かったが、(かっての)という含みが伝わらない。天子であったときを帝、譲位した後を院と以後厳密を期す。

武者の世  その13

2006-07-26 22:23:12 | 小説
 奥州藤原氏の砂金といえば、『吾妻鏡』に面白いエピソードがある。桜の詩人西行が鎌倉で源頼朝と出会う場面である。西行は奥州に赴く途中であった。頼朝は西行から歌道と弓馬(要するに武道のこと)をしきりに聞きたがり、滞在を延ばすようにすすめるのだが、西行は聞き入れなかった。頼朝から贈られた銀製の猫を表に出るやいなや、路傍で遊んでいた子供にくれてやる始末。「東大寺料として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く。此便路を以って、鶴岡に巡礼すと云々。陸奥守秀衡入道は、上人(西行のこと)の一族なり」と『吾妻鏡』は書く。
 西行の本名は佐藤義清、たしかに家系をたどれば藤原氏北家に発し、藤原秀衡の一族といえた。もとは北面の武士、だから頼朝は「武」について質問しているのである。しかも同じく北面の武士だった平清盛とはまったくの同い年で面識もあったらしい。
 砂金のことであった。「沙金を勧進」とは、つまり寄付してくれということである。東大寺は源平争乱の治承4年炎上していた。奈良の僧兵を制圧しようとした平重衡の軍勢が火を放ったのである。鎮護国家の象徴たる寺院が焼失したのに、修復と大仏再建の財源が朝廷には不足していた。寄付を集めるしかなかった。その寄付集めに西行が一役買って出て、奥州藤原氏を頼ろうとしたのだ。平泉は頼りがいのある砂金産出地だったことが、これでもわかる。
 さて、寄付を集める趣意書と帳簿を兼ねたものを「勧進帳」という。奥州下りの義経一行が関所で「勧進帳を持っているのか」と詰問された、あの勧進帳も東大寺再建のためということになっていた。





武者の世  その12

2006-07-26 00:05:39 | 小説
 義経をかくまった藤原氏と書いたけれど、実は二度かくまったわけで、少年時代の義経を平泉に連れてきたのはご存知「金売り吉次」であった。
 この謎の人物は、金商人というわけであるが、おそらく只の商人ではない。平泉から京そして博多を結ぶ奥州藤原氏の金輸出ルートを監督する藤原氏の外交官のごとき人物であったはずだ。『平家物語』には「橘次」とある。本名は橘次郎末春という人物だという論者もいる。その論文の原典を読んでいないので私見を述べるまでにはいたらない。
 それはともかく義経はなぜ平泉に身を寄せたのであろうか。また、なぜ平泉の藤原秀衡は義経をうけいれたのであろうか。しかも10年の長きにわたってである。藤原秀衡が平清盛と剣呑なあいだがらなら、こうはいかなかったといえるだろう。清盛にすれば北上川の砂金をおさえている奥州藤原氏は日宋貿易を円滑化するためにも、むげにはできなかったのである。
 さて、ところで平治の乱の首謀者藤原信頼には兄がいた。藤原基成である。その基成の娘が藤原秀衡の妻だった。奥州藤原氏は源義朝をそそのかした藤原信頼とつながっているのだ。
 ともあれ義経の奥州行きには、奥州藤原政権の顧問のような存在だった基成の意向が働いていたらしい。

武者の世  その11

2006-07-24 22:05:23 | 小説
 この時代の主要貿易港は博多をはじめ九州にあった。ところが平清盛は瀬戸内海航路を掌握し、宋船を内海に導きいれた。宋の商人たちを畿内に直接入りやすいよう計らったのである。
 1173年には福原の外港にあたる大輪田泊(神戸)を拡張している。入港管理などをここに移したかったのであろう。
 いわゆる清盛の福原遷都については、いろんな説があるけれど、いちはやく神戸を国際貿易港にしたかったことと、ここを都と定めることは同じことであったに違いない。
 そして、清盛が広島の厳島神社(世界遺産に指定されている)を平家の氏神としたことも、日宋貿易とは無関係ではない。厳島は瀬戸内海の要の位置にあり、祭神は海の守り神イチキシマ姫であった。市杵島姫と表記されるが、なまれば厳島となる。もともとは九州宗像の女神である。さらにさかのぼれば壱岐島の女神であったかもしれないが、それは余談である。(語れば長くなる)
 まことに平家は海の武者であった。対する源氏は山の武者というイメージである。源平合戦においては源義経は熊野の水軍を味方につけて勝ちはしたが、でなければ戦の帰趨はわからなかった。
 ところで日宋貿易に源氏はからまないのか。
 きわめて奥深いところで、これがからんでいる。宋が日本から最も輸入したかったもの、それは金だった。その金をおさえていたのは奥州は平泉の藤原氏であった。ご存知源氏の御曹司義経が兄に追われてたどり着いた先、その義経をかくまった、あの藤原氏である。
 

武者の世  その10

2006-07-23 23:01:38 | 小説
 平家の財源は、ずばり貿易であった。いわゆる日宋貿易である。遣唐使の廃止によって、日中交渉は途絶えたかにみえてそうではない。960年に成立した宋は、とりわけ日本との貿易振興に積極的だったが、清盛の父、平忠盛のときから平家では海外交易に力を入れていた。忠盛は舶来品を院につけとどけすることによって近臣になった、といわれるほどだ。
 ところで、当時のわが国は、なにを宋から輸入し、逆に輸出していたものは何だったのか。
 藤原明衡『新猿楽記』という本の中に、当時の輸出入品のリストがある。リストの品々を仔細に眺めていると、さまざまな興味がわいてくるが、そこに列挙されているのは商人の扱う輸出入品であって、実は大事なものがものが抜けている。たとえば、輸入品では書籍、それも印刷された仏典、あるいは宋銭。このうち仏典の輸入はのちの鎌倉仏教の興隆に多大の影響を及ぼすのだが、問題は宋銭の輸入である。
 話はそれるけれど、テレビCMからエリマキトカゲが話題になったとき、エリマキトカゲの像を刻印した外国の安いコインを輸入し、あたかも記念メタルのように売って大儲けした人がいた。その頃、私も貿易にかかわる仕事をしていたけれど、硬貨を輸入しようという発想に虚をつかれたような思いで脱帽した。しかし、このとき日宋貿易を思い起こすべきだったのだ。硬貨の輸入など、はるか昔に平家がやっていたではないか。
 この宋銭、この当時の東南アジアの共通通貨である。むろん、貨幣が鋳造されていない当時のわが国内でも立派に通用した貨幣であった。

武者の世  その9

2006-07-20 23:39:53 | 小説
 藤原信頼は追われて仁和寺に駆け込むのだが、平経盛(清盛の弟)によって身柄を拘束された。
 結局、謀反人として六条河原で斬首されたのであるが、彼が非戦闘員としての公卿ならば、斬首されることもなかったであろう。たとえば保元の乱の戦後始末で、公卿で斬首されたものはいない。しかし彼は最後まで武者の恰好をしていた。実際、戦闘要員であり、みずから軍勢を率いていたのである。
 27才の、現代ならば血気盛んな青年だった。『平治物語』ほかで、ぼろくそな扱いをうけているが、貴族としては武芸も堪能だったという説もある。実像は、むしろ軍事貴族の棟梁だったと見たほうが近い。
 さて、武士というものは軍事貴族の中から発展してきたという比較的最近の学説に私は賛同するものである。武器と武具と馬をそろえるのには財力が必要なのである。信頼やあるいは後白河帝が文武ともにどうしようもない人物であったと評されるのも天皇や公卿に、もともと「武」の属性がなくては意味をなさない。その属性の「武」を突出させたものが武士なのである。
 話を平治の乱にもどそう。
 この事件で、もっとも得をしたのは平清盛であった。「ひとり勝ち」だった。平氏にあらずんば人にあらず、という平家のおごりの時代の始まりである。その清盛の財源はなんであったか。

武者の世  その8

2006-07-19 15:17:48 | 小説
「文」の概念は儒教(学)からきている。
 儒教を体系化した孔子を祀る廟を「文廟」ともいうけれど、その「文」である。
 儒教国家の中国の官吏登用試験「科挙」には文科挙と武科挙のふたつのコースがあった。文官コースがエリートのためのものであって、武官コースでは高級官吏になることは難しかった。いずれにせよ、科挙で問われるのは、もっぱら儒学の素養であった。その儒教的イデオロギーにおいては、「文」があくまでも上位概念であって、「武」が主導権を握るなどということはありえなかったはずだ。 
 わが国では、科挙の制度は半島やベトナムのように採用はしなかったが、「文武」という概念は中国から輸入したのである。
 王朝貴族にかわって、武士が政権を握った時代が幕末の王政復古まで長く続いた、と私たちの歴史的常識は認知されており、武士の台頭つまり「武者の世」の始まりが、ここで扱っている時代だとされてきた。では武士とはなにか。荘園や国衙を守るための武装農民、つまり在地領主が武士となったというのが、これまでの定説であるらしい。拳銃を腰につるしたカウボーイが牧童ならば、わが国では帯刀した田童すなわちフィールドボーイが武士ということになる。(むろん私の勝手な造語である)これらの定説はいまやあやしい。
 そのことが言いたくて、文武の概念だとかに、私はこだわっている。源氏や平氏の出自が農民ではないことは、前にも書いた。そして、源平の台頭期には貴族たちも武装していたことを思い起こすべきだと感じている。
 かの藤原信頼は甲冑に身を固め出陣していた。
 

武者の世  その7

2006-07-18 15:54:17 | 小説
 はたと立ち止まるようにして、思いをめぐらしてみなくてはならない。
 後白河帝や藤原信頼は、なぜ「文にも武にもあらず」と非難されるのであろうか、ということだ。その非難、つまり文武両道の人ではない、という評価が正しいかどうかという問題ではない。そういう評価基準がありうるのか、という問題である。
 後白河帝は天皇であり、信頼も貴族であり、いわゆる武士ではない。それなのに、「武」をもって評価されるのか、ということだ。
 そもそも「文」とはなにか。あるいは「武」とはなにか。
『平治物語』は、その冒頭で「文」と「武」について述べている。原文のまま引用する。
「昔より今にいたるまで王者の人心を賞するに、和漢の両国をとぶらふに、文武の二道を先とす。文を以ては万機の政を助け、武を以ては四夷の乱を定む。されば天下を保ち国土を治(おさむ)る謀(はかり)こと、文を左にし武を右にすとこそみえたれ。縦(たとへ)ば人の手のごとし。一つもかけてはあるべからず。公政仁義やゝ重し。天下の安楽こゝにみえたり」
 ここでいう「公政仁義」が「文」である。「文」のほうが「武」より重要であるといっているのだ。
 

武者の世  その6

2006-07-17 16:20:53 | 小説
 義朝が、自分をそそのかした藤原信頼を敗走途上において面罵したのは、どうやら有名な事実であったらしい。『平治物語』は、そのことをもっと過激に描写している。
 義朝は信頼がとっくの先に逃げのびたと思っていたら、意外や後から追いついてきて、信頼はこう言うのである。「もし、いくさに敗けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れていかんとこそ、のりたまいしが、心変わりや」
 聞いた義朝は、かっとなって鞭をふるい、信頼の「弓手(ゆんで)のほうさきをしたたかに」うったのであった。つまり左の頬を鞭でかすめるようにうったのである。
「日本一の不覚仁(じん)」と義朝は言いはなつ。「かかる大事を思いたちて、わが身も損じ、人をもうしなわんとするに、にくい男かな」
 信頼はしかし、うたれた頬をさすりながら言い返すこともできなかった、とある。気色ばんだのは信頼の近臣たちで、あやうく味方同士が同士うちになりかねない、一触即発の場面であった。
 さて、その藤原信頼について、『平治物語』の著者の目は最初から厳しい。物語の導入部で、こう評しているのだ。
「文にあらず、武にあらず。能もなく藝もなく、只朝恩にのみほこり、云々」
 文にあらず武にあらず、とはどこかで聞いた評言ではないか。
 そう、信頼の主人の後白河をかって崇徳上皇が、「文にもあらず武にもあらぬ」と評したのであった。

武者の世  その5

2006-07-13 16:47:11 | 小説
 平治の乱の経緯は、すんなりと記述しがたいところがあるが、おそらくそのことが源義朝と平清盛の対立と単純に図式化して理解しようとする後世の通説の一因になっているのだろう。くどいようだが、源義朝に最初から平清盛を攻撃しようという強い意志はなかった。
 だから、平清盛はさしたる障害もなく紀州から京に戻ってくることができた。清盛はむしろ義朝の襲撃を懸念して、当初は四国・九州方面に落ちのびようかと考えたのだ。清盛の娘は信西の息子と婚約の間柄だったからだ。それを思いとどまって、京に引き返してきたのである。本能寺の変の秀吉の立場に似ている。源義朝をそそのかして三条殿を襲った藤原信頼はさしずめ明智光秀だ。いったんは勝利したものの、やっぱり三日天下だった。もともと対立していた二条天皇側近と後白河側近が、院政を牛耳っていた藤原信西を討つというところで利害が一致していたに過ぎない。いざ、成功してみると、天皇派と上皇派は分裂し、あげく信頼・義朝陣営から天皇にも上皇にも逃げられてしまうのである。玉体をおさえたのは、なんと京に戻ってきた清盛だった。大義名分が転がりこんで来たようなものだ。清盛が官軍の総大将となり、この時点で勝ったようなものである。
 源義朝は嘆いた。主人の藤原信頼にむかって「日本第一の不覚人なりける人を頼みて、かかることをし出つる」と痛罵した。(降伏した源師仲の証言)しかし信頼はなにも言い返せなかった、という。

武者の世  その4

2006-07-12 21:05:11 | 小説
 保元の乱の3年後、平治の乱が起きた。保元・平治の乱とセットで語られるのも道理で、またしても朝廷内部の暗闘に端を発している。
 後白河は実子の二条天皇に譲位し、院政をはじめていた。その院政に息子の二条天皇が不満だった。この父子のそれぞれの側近たちに、敵対感情が生じるのにさほどの時間は要らなかった。そこのところに、さらにまた院政近臣同士の権力争いが表面化し、血なまぐさい武力闘争となったのである。乱の原因を詳述するのもあほらしく、『今鏡』の著者のように「あさましきみだれ」と形容しておくのが、いちばんぴったりする。
 ともあれ、平治の乱では、かって保元の乱では同陣営だった源義朝と平清盛が敵と味方にわかれてしまったことが重要だ。
 平治元年の冬12月9日の未明、後白河の院御所三条殿を源義朝ひきいる軍勢が急襲、御所に火を放ったのである。火勢から逃げ惑う者たちは、女房であれ誰であれ斬ってすてた。狙うは院近臣藤原信西とその一族の首であった。
 この日、平清盛は京にいない。熊野詣でのため紀州にいた。清盛の留守をねらったクーデターといわれるゆえんである。

武者の世  その3

2006-07-11 21:43:07 | 小説
 ふつう、源氏と平氏は氏族と氏族が全面的に対立したかのような印象を後世にもたれている。実情はそうではない。たとえば、源頼朝の義父となった北条氏は平氏の出自であった。頼朝を最初から支えてきた三浦氏もまた平氏の流れである。
 保元の乱に参戦した両氏族の重要人物の名を思い出していただきたい。ここでは源氏、平氏ともに身内同士がむしろ敵味方に分かれている。天皇側についた源義朝は上皇側の父の為義や弟と戦わねばならなかった。平清盛は叔父の忠正を敵にまわし、戦後処理では、その叔父および子息・郎党を六波羅の河原で斬首せねばならなかった。くり返すが、源平両氏族ともに公家たちのボディガード集団であるわけだから、それぞれ主人たちの都合で敵味方に色分けされるのである。
 保元の乱で源義朝と為朝の兄弟が敵と味方に分かれたとき、兄弟の命運を左右したのは主人側のジャッジだった。
 為朝は後白河陣営への夜討ちを献策したが、しりぞけられた。戦というものをまるでわかっていない藤原頼長が「天子の位を争う戦は白昼、正々堂々と戦うべきだ」というと、言い返せないのである。為朝はほとんど諦めの表情で呟いたにちがいない。「自分と同じ考えを兄の義朝は敵方で献策しているだろう」と。そのとおりだった。後白河天皇は義朝の策を取り上げて、上皇陣営に夜襲をかけたのであった。戦は、この夜襲で決着した。

武者の世  その2

2006-07-10 22:25:26 | 小説
 さて、慈円は「武者ノ世」の始まりという言葉で、ほんとうは源平争乱の始まり、と言いたかったのであろう。ところで、源氏と平氏とは、そもそも、いったいなんだったのか。かんじんなところをおさえておかなくてはならない。
 歴史はさかのぼるが、平安末期の国家財政は逼迫していた。そこで経費のかかる皇族のリストラを行なった。皇族に姓を賜って臣下に降したのであった。ここに誕生したのが源氏と平氏である。だから清和(天皇系)源氏、桓武(天皇系)平氏というような呼ばれかたをするのである。
 源平ともに、もともと朝廷貴族への奉仕を競った氏族である。つまり、貴族に拮抗する武士集団という対立の構造にはない。私たちはとかくそのことを忘れやすい。たとえば平氏とは「朝敵を平ぐる」意味の姓であった。
 もっとも両氏族には、それぞれ特徴があった。院政との関係が深かったのが平氏、摂関家に強いつながりのあったのが源氏というようにである。軍事、財政面で両氏族は朝廷貴族に奉仕してきたわけだが、その奉仕先の色合いは異なっていたのだ。
 はっきりいって、院と摂関家が対立すれば、源氏と平氏もまた対立せざるをえないわけである。
 したがって、「源平争乱」という教科書的歴史用語は、争乱のなかみを誤解させるものである。保元の乱は、あくまでも天皇家の権力闘争と摂関家の内紛が契機になっている。