あらら、と思わず声を出してしまった。朝日新聞の夕刊の文化欄『転換古代史 新たな古墳時代像』(平成16年2月17日付)に目を通しはじめて、すぐにである。
考古学の学者たちが「邪馬台国の所在地がわかった」と言いはじめたというのである。
よく知られているように、邪馬台国がどこにあったかというのは、わが国古代史の最大の謎とされ、九州説と近畿説に大きくわかれている。考古学界は以前から近畿説が主流であった。なにをいまさらという感もあるが、要するに奈良県の纏向遺跡の周辺に邪馬台国があり、箸墓古墳が卑弥呼の墓だと断定する先生も現れたようなのである。古墳の年代測定の技術が進歩し、箸墓の築造時期が従来考えられていたより30~40年古いとわかり、3世紀の卑弥呼の時代と重なったからだという。「径百余歩」あったとされている卑弥呼の墓は巨大古墳になるわけだが、そんな古墳は九州には見当たらないから、九州説を消去するのがこれまでの考古学者の態度である。
朝日の記事は日本列島くまなく古墳を調査したうえでの結論のように印象づけているけれど、ちょっと待った。
吉野ヶ里や三内丸山の遺跡発見のように、これまでの考古学の常識を覆すような、あるいは学説の変更を迫るような遺跡の発見は今後ありえないとたかをくくっているのであろうか。
もともと私は考古学者を信用していない。(二人の学者を除いては)なぜか。学術的な宝庫であるあまたの天皇陵とよばれる古墳をきちんと発掘調査した事がないくせに近畿の古墳について語れるという神経がよくわからないのである。卑弥呼が畿内にいた女王であるならば、大和朝廷とどう結びつくのかお考えはお持ちであろうか。それとも後は文献史学のほうで勝手に結びつけてくれというわけか。
中国の正史には紹介されているのに、わが国の正史(つまり大和朝廷史)には不思議なことに登場しないのが、邪馬台国であり、卑弥呼である。 わが国のことが記載されている中国の正史は18ある。その中でわが古代史とかかわりの深いものをあげると後漢書、三国志、宋書、随書、旧唐書、新唐書、宋史、元史などがある。
邪馬台国と卑弥呼のことを記した魏志倭人伝は、正確には「三国志」のひとつである「魏志」の「東夷伝・倭人」の条のことである。
さて、後漢書から随書まで中国はわが国のことを一貫して倭とよんできた。ところが旧唐書になって、倭国と日本の両条二本立てとなっている。そして新唐書以降は日本という呼び方が定着する。つまり、隋の時代の7世紀にわが国になにか重大事があったのである。
注目すべきは旧唐書で書き分けられている倭と日本の地理的状況の違いである。倭はどうみても九州、日本は大和地方である。(日本はヤマトの当て字である。日本武尊と書いて、だからヤマトタケルノミコト。しかし、古事記ではヤマトタケルの表記は倭建命)中国は倭を一貫して、九州とみなしていることは正史を年代順に読んでみればすぐわかることである。
魏志倭人伝の記事を微細にとらえて、中国の帯方郡から邪馬台国に至る里程の検証、さらにはやれ方角に誤りがあるなどと、いささか不毛な論議が多い。木を見て森を見ず、といった事態に陥りやすいのが邪馬台国論争である。
帯方郡から女王国まで「万二千余里」という。帯方郡から韓半島を南下するのに7000余里使って、対馬、壱岐を経てマツラ国(北九州)に辿り着くのに3000余里と記す。これで合計一万余里。残り2000余里で奈良まで行けるわけがない。
魏志倭人伝は書いている。「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋5千余里ばかり」
ごらんの通り倭は島として認識されている。大和を含む本州が周旋可能な島と認識されるのは、はるかに後のことであって、私などは邪馬台国を九州以外に考えられない。「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」とも倭人伝は書いている。これが奈良なら東に海はない。九州だからこそリアリティのある文章である。
だから、いまさら、考古学者に邪馬台国は奈良にあったと主張されると、ずっこけてしまうのである。それにしても、邪馬台国の問題は、古代史上の最大の謎だろうか。最大の謎はその先にあるのではないだろうか。
邪馬台国はイクオール倭国ではない。卑弥呼も邪馬台国の女王という言い方をされるが、あまり適切ではない。卑弥呼は倭国の女王であり、30国からなる倭国連合国のひとつ邪馬台国にいたという事実を倭人伝は伝えているのだ。さらにいえば、倭は現代の日本と同じではない。
韓半島の南部も倭人の領域であったらしいからである。現代の国民国家の国境概念は古代には当てはまらない。倭人伝は韓半島にあった狗邪韓国という国を「倭国の北岸」と記すのである。韓半島の南部も昔は倭国の領域であったなどというと、韓国の人から不快感を表明されそうだが、かって日韓同祖論が半島植民地化の原理論に利用された不幸な事実を私も知らないわけではない。現代の政治的版図を古代にトレースしても無意味なように、現代の政治状況になんら特別な意味を付与するものではない。国境の概念などは、きわめて現代的な問題であって、倭人伝にも出てくる対馬など、15世紀になっても、朝鮮の領域なのか日本の領域なのか定かでない局面もあったのである。
私は何を言いたいのか。
実は「日本」という国号の発生こそ、古代史上の最大の謎だと思っているのだ。この国号の発生の由来は韓半島にあるというのが泥沼のような古代史を永年さまよって、私が得た推論である。私は通説のごとく、「日の本」つまり東の国という解釈をしない。逆に「もとは日」と解釈する。県名の熊本がもとはクマ地方をあらわしているように。帰化された人名の張本さんは本は張さんだったように。李姓の人が帰化して岸本と名乗るように。「本は木(き)子(し)」つまり李。これらと同じような意味合いで、日本国号を解釈してみたのである。詳細は後日にゆずるけれども、すると私の結論は半島に辿り着いたのである。
最後に歴史学者網野善彦氏の文章を引用しておこう。
〈「日本」という国号が、いつ、だれによって、いかなる意味でさだめられたのかという「日本史」にとっても最も重要で基本的な事実について、(略)敗戦後のあらゆるレベルの歴史教育はまったくとりあげることもなく、またいっさい教えてもこなかった。その結果、ごくごくわずかの例外をのぞき、現代日本人のほとんどすべてが、自らの属する国家の名前が、いつ、いかなる意味で定まったかについてまったく知らないといってよかろう。このような世界の諸国民の中でも、まことに「珍妙きわまる」といわざるをえない事態が、いまも続いているのである。〉『日本とは何か』(講談社)
むろん、網野氏は国号の成立について述べているのだが、根本的にはさまざまな疑念をいだきながらも、日の本という解釈でしかない。本は日と解釈するととてつもなく話はひろがるのだが、これは、ある種の無責任さが許容される在野の強みというものである。
考古学の学者たちが「邪馬台国の所在地がわかった」と言いはじめたというのである。
よく知られているように、邪馬台国がどこにあったかというのは、わが国古代史の最大の謎とされ、九州説と近畿説に大きくわかれている。考古学界は以前から近畿説が主流であった。なにをいまさらという感もあるが、要するに奈良県の纏向遺跡の周辺に邪馬台国があり、箸墓古墳が卑弥呼の墓だと断定する先生も現れたようなのである。古墳の年代測定の技術が進歩し、箸墓の築造時期が従来考えられていたより30~40年古いとわかり、3世紀の卑弥呼の時代と重なったからだという。「径百余歩」あったとされている卑弥呼の墓は巨大古墳になるわけだが、そんな古墳は九州には見当たらないから、九州説を消去するのがこれまでの考古学者の態度である。
朝日の記事は日本列島くまなく古墳を調査したうえでの結論のように印象づけているけれど、ちょっと待った。
吉野ヶ里や三内丸山の遺跡発見のように、これまでの考古学の常識を覆すような、あるいは学説の変更を迫るような遺跡の発見は今後ありえないとたかをくくっているのであろうか。
もともと私は考古学者を信用していない。(二人の学者を除いては)なぜか。学術的な宝庫であるあまたの天皇陵とよばれる古墳をきちんと発掘調査した事がないくせに近畿の古墳について語れるという神経がよくわからないのである。卑弥呼が畿内にいた女王であるならば、大和朝廷とどう結びつくのかお考えはお持ちであろうか。それとも後は文献史学のほうで勝手に結びつけてくれというわけか。
中国の正史には紹介されているのに、わが国の正史(つまり大和朝廷史)には不思議なことに登場しないのが、邪馬台国であり、卑弥呼である。 わが国のことが記載されている中国の正史は18ある。その中でわが古代史とかかわりの深いものをあげると後漢書、三国志、宋書、随書、旧唐書、新唐書、宋史、元史などがある。
邪馬台国と卑弥呼のことを記した魏志倭人伝は、正確には「三国志」のひとつである「魏志」の「東夷伝・倭人」の条のことである。
さて、後漢書から随書まで中国はわが国のことを一貫して倭とよんできた。ところが旧唐書になって、倭国と日本の両条二本立てとなっている。そして新唐書以降は日本という呼び方が定着する。つまり、隋の時代の7世紀にわが国になにか重大事があったのである。
注目すべきは旧唐書で書き分けられている倭と日本の地理的状況の違いである。倭はどうみても九州、日本は大和地方である。(日本はヤマトの当て字である。日本武尊と書いて、だからヤマトタケルノミコト。しかし、古事記ではヤマトタケルの表記は倭建命)中国は倭を一貫して、九州とみなしていることは正史を年代順に読んでみればすぐわかることである。
魏志倭人伝の記事を微細にとらえて、中国の帯方郡から邪馬台国に至る里程の検証、さらにはやれ方角に誤りがあるなどと、いささか不毛な論議が多い。木を見て森を見ず、といった事態に陥りやすいのが邪馬台国論争である。
帯方郡から女王国まで「万二千余里」という。帯方郡から韓半島を南下するのに7000余里使って、対馬、壱岐を経てマツラ国(北九州)に辿り着くのに3000余里と記す。これで合計一万余里。残り2000余里で奈良まで行けるわけがない。
魏志倭人伝は書いている。「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋5千余里ばかり」
ごらんの通り倭は島として認識されている。大和を含む本州が周旋可能な島と認識されるのは、はるかに後のことであって、私などは邪馬台国を九州以外に考えられない。「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」とも倭人伝は書いている。これが奈良なら東に海はない。九州だからこそリアリティのある文章である。
だから、いまさら、考古学者に邪馬台国は奈良にあったと主張されると、ずっこけてしまうのである。それにしても、邪馬台国の問題は、古代史上の最大の謎だろうか。最大の謎はその先にあるのではないだろうか。
邪馬台国はイクオール倭国ではない。卑弥呼も邪馬台国の女王という言い方をされるが、あまり適切ではない。卑弥呼は倭国の女王であり、30国からなる倭国連合国のひとつ邪馬台国にいたという事実を倭人伝は伝えているのだ。さらにいえば、倭は現代の日本と同じではない。
韓半島の南部も倭人の領域であったらしいからである。現代の国民国家の国境概念は古代には当てはまらない。倭人伝は韓半島にあった狗邪韓国という国を「倭国の北岸」と記すのである。韓半島の南部も昔は倭国の領域であったなどというと、韓国の人から不快感を表明されそうだが、かって日韓同祖論が半島植民地化の原理論に利用された不幸な事実を私も知らないわけではない。現代の政治的版図を古代にトレースしても無意味なように、現代の政治状況になんら特別な意味を付与するものではない。国境の概念などは、きわめて現代的な問題であって、倭人伝にも出てくる対馬など、15世紀になっても、朝鮮の領域なのか日本の領域なのか定かでない局面もあったのである。
私は何を言いたいのか。
実は「日本」という国号の発生こそ、古代史上の最大の謎だと思っているのだ。この国号の発生の由来は韓半島にあるというのが泥沼のような古代史を永年さまよって、私が得た推論である。私は通説のごとく、「日の本」つまり東の国という解釈をしない。逆に「もとは日」と解釈する。県名の熊本がもとはクマ地方をあらわしているように。帰化された人名の張本さんは本は張さんだったように。李姓の人が帰化して岸本と名乗るように。「本は木(き)子(し)」つまり李。これらと同じような意味合いで、日本国号を解釈してみたのである。詳細は後日にゆずるけれども、すると私の結論は半島に辿り着いたのである。
最後に歴史学者網野善彦氏の文章を引用しておこう。
〈「日本」という国号が、いつ、だれによって、いかなる意味でさだめられたのかという「日本史」にとっても最も重要で基本的な事実について、(略)敗戦後のあらゆるレベルの歴史教育はまったくとりあげることもなく、またいっさい教えてもこなかった。その結果、ごくごくわずかの例外をのぞき、現代日本人のほとんどすべてが、自らの属する国家の名前が、いつ、いかなる意味で定まったかについてまったく知らないといってよかろう。このような世界の諸国民の中でも、まことに「珍妙きわまる」といわざるをえない事態が、いまも続いているのである。〉『日本とは何か』(講談社)
むろん、網野氏は国号の成立について述べているのだが、根本的にはさまざまな疑念をいだきながらも、日の本という解釈でしかない。本は日と解釈するととてつもなく話はひろがるのだが、これは、ある種の無責任さが許容される在野の強みというものである。