小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

【旧稿再掲】私の邪馬台国小論

2010-09-29 17:51:44 | 小説
 あらら、と思わず声を出してしまった。朝日新聞の夕刊の文化欄『転換古代史 新たな古墳時代像』(平成16年2月17日付)に目を通しはじめて、すぐにである。
 考古学の学者たちが「邪馬台国の所在地がわかった」と言いはじめたというのである。
 よく知られているように、邪馬台国がどこにあったかというのは、わが国古代史の最大の謎とされ、九州説と近畿説に大きくわかれている。考古学界は以前から近畿説が主流であった。なにをいまさらという感もあるが、要するに奈良県の纏向遺跡の周辺に邪馬台国があり、箸墓古墳が卑弥呼の墓だと断定する先生も現れたようなのである。古墳の年代測定の技術が進歩し、箸墓の築造時期が従来考えられていたより30~40年古いとわかり、3世紀の卑弥呼の時代と重なったからだという。「径百余歩」あったとされている卑弥呼の墓は巨大古墳になるわけだが、そんな古墳は九州には見当たらないから、九州説を消去するのがこれまでの考古学者の態度である。
 朝日の記事は日本列島くまなく古墳を調査したうえでの結論のように印象づけているけれど、ちょっと待った。
 吉野ヶ里や三内丸山の遺跡発見のように、これまでの考古学の常識を覆すような、あるいは学説の変更を迫るような遺跡の発見は今後ありえないとたかをくくっているのであろうか。
 もともと私は考古学者を信用していない。(二人の学者を除いては)なぜか。学術的な宝庫であるあまたの天皇陵とよばれる古墳をきちんと発掘調査した事がないくせに近畿の古墳について語れるという神経がよくわからないのである。卑弥呼が畿内にいた女王であるならば、大和朝廷とどう結びつくのかお考えはお持ちであろうか。それとも後は文献史学のほうで勝手に結びつけてくれというわけか。

 中国の正史には紹介されているのに、わが国の正史(つまり大和朝廷史)には不思議なことに登場しないのが、邪馬台国であり、卑弥呼である。 わが国のことが記載されている中国の正史は18ある。その中でわが古代史とかかわりの深いものをあげると後漢書、三国志、宋書、随書、旧唐書、新唐書、宋史、元史などがある。
 邪馬台国と卑弥呼のことを記した魏志倭人伝は、正確には「三国志」のひとつである「魏志」の「東夷伝・倭人」の条のことである。
 さて、後漢書から随書まで中国はわが国のことを一貫して倭とよんできた。ところが旧唐書になって、倭国と日本の両条二本立てとなっている。そして新唐書以降は日本という呼び方が定着する。つまり、隋の時代の7世紀にわが国になにか重大事があったのである。
 注目すべきは旧唐書で書き分けられている倭と日本の地理的状況の違いである。倭はどうみても九州、日本は大和地方である。(日本はヤマトの当て字である。日本武尊と書いて、だからヤマトタケルノミコト。しかし、古事記ではヤマトタケルの表記は倭建命)中国は倭を一貫して、九州とみなしていることは正史を年代順に読んでみればすぐわかることである。

 魏志倭人伝の記事を微細にとらえて、中国の帯方郡から邪馬台国に至る里程の検証、さらにはやれ方角に誤りがあるなどと、いささか不毛な論議が多い。木を見て森を見ず、といった事態に陥りやすいのが邪馬台国論争である。
 帯方郡から女王国まで「万二千余里」という。帯方郡から韓半島を南下するのに7000余里使って、対馬、壱岐を経てマツラ国(北九州)に辿り着くのに3000余里と記す。これで合計一万余里。残り2000余里で奈良まで行けるわけがない。
 魏志倭人伝は書いている。「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋5千余里ばかり」
 ごらんの通り倭は島として認識されている。大和を含む本州が周旋可能な島と認識されるのは、はるかに後のことであって、私などは邪馬台国を九州以外に考えられない。「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」とも倭人伝は書いている。これが奈良なら東に海はない。九州だからこそリアリティのある文章である。
 だから、いまさら、考古学者に邪馬台国は奈良にあったと主張されると、ずっこけてしまうのである。それにしても、邪馬台国の問題は、古代史上の最大の謎だろうか。最大の謎はその先にあるのではないだろうか。

 邪馬台国はイクオール倭国ではない。卑弥呼も邪馬台国の女王という言い方をされるが、あまり適切ではない。卑弥呼は倭国の女王であり、30国からなる倭国連合国のひとつ邪馬台国にいたという事実を倭人伝は伝えているのだ。さらにいえば、倭は現代の日本と同じではない。
 韓半島の南部も倭人の領域であったらしいからである。現代の国民国家の国境概念は古代には当てはまらない。倭人伝は韓半島にあった狗邪韓国という国を「倭国の北岸」と記すのである。韓半島の南部も昔は倭国の領域であったなどというと、韓国の人から不快感を表明されそうだが、かって日韓同祖論が半島植民地化の原理論に利用された不幸な事実を私も知らないわけではない。現代の政治的版図を古代にトレースしても無意味なように、現代の政治状況になんら特別な意味を付与するものではない。国境の概念などは、きわめて現代的な問題であって、倭人伝にも出てくる対馬など、15世紀になっても、朝鮮の領域なのか日本の領域なのか定かでない局面もあったのである。

 私は何を言いたいのか。

 実は「日本」という国号の発生こそ、古代史上の最大の謎だと思っているのだ。この国号の発生の由来は韓半島にあるというのが泥沼のような古代史を永年さまよって、私が得た推論である。私は通説のごとく、「日の本」つまり東の国という解釈をしない。逆に「もとは日」と解釈する。県名の熊本がもとはクマ地方をあらわしているように。帰化された人名の張本さんは本は張さんだったように。李姓の人が帰化して岸本と名乗るように。「本は木(き)子(し)」つまり李。これらと同じような意味合いで、日本国号を解釈してみたのである。詳細は後日にゆずるけれども、すると私の結論は半島に辿り着いたのである。

 最後に歴史学者網野善彦氏の文章を引用しておこう。
〈「日本」という国号が、いつ、だれによって、いかなる意味でさだめられたのかという「日本史」にとっても最も重要で基本的な事実について、(略)敗戦後のあらゆるレベルの歴史教育はまったくとりあげることもなく、またいっさい教えてもこなかった。その結果、ごくごくわずかの例外をのぞき、現代日本人のほとんどすべてが、自らの属する国家の名前が、いつ、いかなる意味で定まったかについてまったく知らないといってよかろう。このような世界の諸国民の中でも、まことに「珍妙きわまる」といわざるをえない事態が、いまも続いているのである。〉『日本とは何か』(講談社)

 むろん、網野氏は国号の成立について述べているのだが、根本的にはさまざまな疑念をいだきながらも、日の本という解釈でしかない。本は日と解釈するととてつもなく話はひろがるのだが、これは、ある種の無責任さが許容される在野の強みというものである。

【旧稿再掲】聖徳太子はいなかった

2010-09-23 09:01:53 | 小説
 法隆寺は、聖徳太子の建立した寺とされている。世界最古の木造建築としてユネスコ世界遺産にも指定されている。けれども現存する法隆寺は実は聖徳太子の時代よりかなり後に再建されたものである。
 もとの法隆寺は二度も火災にあったことを『日本書紀』は記録しているのだ。
 最初は669年の冬。さりげない書きぶりで、全焼ではなかったらしい。二度目の670年4月の火災がひどかった。落雷による全焼で「一屋も余ることなし」と表現している。
 ところが、現存する法隆寺には聖徳太子ゆかりの仏像があり、たくさんの太子の遺物と称する物がある。それらの物は焼けて無くなったはずではなかったのか。ないはずのものがあるいうことは、この寺の発願者の「実在」の問題と絡んでいる。聖徳太子という人物をデッチあげた人たちからすれば、実在の証拠の品揃えは必要であって、仏像や遺物は再建後に搬入されたものである。
 日本歴史上のスーパースターである聖徳太子が創作された人物、ないしは架空の人物であったとする説は、私の知る限りでも中部大学教授の大山誠一氏、在野では、いき一郎氏らがいる。とりわけ大山氏の『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館・1999年刊)は衝撃的な論考だった。
 まことに聖徳太子は謎だらけの人物で、教科書的常識はすこし古代史をかじればすっとんでしまうのだ。
 たとえば太子が作ったという十七条の憲法。有名な「和をもって貴しとなす」は『論語』の「礼の用は和を貴となす」のパクリ。十七条すべて中国古典からの借用集であって、太子以外の人物の偽作であるらしい。
 私は聖徳太子にあまり関心のあるほうではなかったが、中国側の歴史書と太子の実在がかみ合わないことについては、永年、疑問を抱いていた。太子は推古女帝の摂政として中国外交に力をそそぎ、小野妹子を遣隋使として派遣したと学校では教わった。ところが『随書』には太子のことが出てこない。それどころか、朝貢して来た倭王は男であって、女帝ではない。太子の名は「利歌彌太弗利」と書かれている。リカミタフリであろうか。むろんウマヤドとかトヨトミミといわれた太子の名とは似ても似つかない。これはいったいどういうことであろうか。
 聖徳太子はいなかったと考えれば、一応矛盾はなくなるが、ではリカミタフリは誰だという新しい問題が生じる。寡聞にして、この問題をつきつめた学者を私は知らない。

【旧稿再掲】ヒマラヤにいたイエス

2010-09-22 20:28:41 | 小説
 スペインの歌手フリオ・イグレシアスに「33歳」という歌がある。もうずいぶん前に日本でも流行ったが、「33歳はまだ人生の半ばだ」というフレーズのサビの部分を、いまでもときどき、口ずさむことがある。トレインタ イ トレス アニョス ナダ マス ソン メディア ヴィダ……。
 そして二人の人物のことを思い出す。ひとりは坂本龍馬。彼は33歳で死んだ。いまひとりはイエス・キリストである。
 イエスと龍馬では唐突な対比と思われるかもしれないが、この二人はその実質的な活動期間が、たった3年間なのに後世に甚大な影響力を及ぼしたという共通点はあるのだ。
イエスは32歳で殉難したとされているが、私はなんとなく33歳ではなっかたかと思い込んでいる。
 宣教の開始が30歳頃からとわかっているだけで、イエスの正確な出生データはない。
 さて、イエスの謎に迫る話が本題である。
 イエスの生涯で12歳頃から30歳頃までの17、8年間は「イエスの失われた歳月」と呼ばれている。どこで何をしていたのか、さっぱりわからないのだ。
 実はその期間、イエスはヒマラヤの麓で過ごしていたという説がある。あるというより、現地にはそのことを伝える古文書も存在する。イエスはイッサと呼ばれていたらしい。驚くなかれイエスはインドで仏教を学んでいたのである。
 そんな馬鹿なと、ひいてはいけない。たしかにキリスト教は西洋精神文化の支柱であるが、イエスの教えにブッダの法が影を落としていても悪かろうはずはない。私は仏教徒でもなくクリスチャンでもないからあっさり書くけれども、では仏教のほうがキリスト教よりも上位にあるなどとは思わない。青年イエスは貪欲に学ぶべきことはすべて学んだと考える者である。紀元前後のバビロンには仏教の一基地もあったらしいのだ。
 エリザベス・クレア・プロフェット著『イエスの失われた十七年』(下野 博・訳 立風書房)はイエスがインドにいたことの状況証拠集である。ミステリよりも面白くて、私は一晩寝不足になった。

※私の本名名義のサイトに7年ほど前に掲載していたコラムだが、このサイトをリニューアルせざるを得なくなった。10月一杯で楽天infoseekのサービスが打ち切られるからである。でもって、あちらに掲載していたコラムをこちらに移すことにした。「旧稿再掲」というのはそういう意味である。



司馬さん、そこは違います

2010-09-16 19:20:50 | 小説
 私の次の本(日本文芸社より刊行)は、メインタイトルかサブタイトルが「司馬さん、そこは違います」となるらしい。このブログのコンテンツをセレクトして再構成したものだが、書き下ろしではないから楽ちんだと思っていた。ところが初校で、編集者から若干の加筆を求められた。その加筆をさきほど終えた。
 ブログでいえば「『薩摩』に暗殺された赤松小三郎」の記事の末尾にである。その加筆部分を以下に事前公開。

 おそらく東郷平八郎も、うしろめたさに似た思いを赤松に抱いていたのであろう。先に紹介した上田城址公園の赤松顕彰碑の裏面の文言によれば、東郷は明治三九年五月に上田市にある月窓寺の赤松の墓(遺髪を埋めただけの墓)に参詣している。「月窓禅寺に展墓し先師の英霊を弔はる」とあるのだ。日露戦争終結の翌年のことだ。日本海海戦に勝利したのは、維新前夜の赤松の薫陶に淵源していると、報告したのかもしれない。
 ところで日本海海戦の勝因として、よく知られているのはドラマティックな二つのことがらであった。
 バルチック艦隊の通過コース予測的中と秋山真之創案の「丁字戦法」である。
 司馬遼太郎『坂の上の雲』のハイライトもこの海戦史上の「奇跡」にあった。たとえば東郷が海戦に臨んで、とっさに丁字戦法を決行する劇的な場面が描かれるけれども、じつはこの戦法はあらかじめ決められていてリハーサル済みだった。そしてこの戦法の考案者も秋山真之ではなく、山屋他人であった。日本海海戦では「笠置」の艦長だった山屋である。
 以上のことは海軍の『極秘明治三七八年海戦史』の発見によって野村實によって検証されている。(氏の『日本海海戦の真実』講談社現代新書に詳しい)司馬さんは野村氏が防衛大学で教鞭をとっている頃に取材に訪れたことがあるらしいが、いかんせん史料の発見は昭和五七年であって、『坂の上の雲』の完結後十年が経っていた。もしも司馬さんがこの史料を見ていたら、『坂の上の雲』を書くことは難しかったかもしれないとは野村實の言葉である。敵の艦隊の通過コース予測のプロセスも小説と海軍極秘資料とではずいぶんおもむきが違うのである。なお「極秘」というのは戦前の軍隊の機密文書のランクでは、「部外秘」「秘」の上で、さらにその上に「軍極秘」「軍機」がある。