小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 その8

2011-12-29 17:59:41 | 小説
在京老中の板倉勝清の命令で「清河八郎を暗殺せよ」という指示が芹沢鴨の組の者たちに達せられた、と永倉新八が後日になって明かしている。八郎がまだ京都にいるときの指示である。
 芹沢らは八郎を尾行し、土佐藩邸近くの四条あたりで殺害する手はずであった。ところが八郎には山岡鉄太郎が同行しており、しかも山岡が幕府の御朱印を携帯していたため決行をためらったとしている。
 京都に八郎がもっと長く滞在していたら、あきらかに彼は京都で暗殺されていただろう。しかし八郎は、つまり浪士組は3月18日京都を出立、28日には江戸に到着した。その京都出立の朝、浪士出役が追加任命されて披露されている。
 講武所師範の速見又四郎、佐々木只三郎、高久保二郎、依田哲二郎、永井寅之助、広瀬六兵衛らである。なんのことはない、このメンバーが江戸における八郎暗殺団となるのである。あるいはこの時点で暗殺の密命をおびていたかもしれない。
 文久3年4月13日の朝、八郎は頭痛と気分の悪さを訴えていた。高橋泥舟に、きょうは出かけるなと言われたものの、約束だからと出かけていった。
 訪ねたのは麻布一ノ橋の上之山藩邸の金子与三郎である。八郎は金子という人物をずいぶん信用していたが、金子そのもがどうやら暗殺に関与していたと疑う者が多い。金子の呼び出しが罠だった可能性はかなり高い。
「八郎遭難の現状は、当時の目撃者の談話によって明瞭に揣摩することが出来る」と書く大川周明の著書によると、刺客は複数で、二手に分かれて待伏せしていた。
 上之山藩邸の正門からすぐ前の一ノ橋を渡ったところに葦簀張りの店があり、老婆が大福を売っていた。時間は午後4時頃だとされている。この店に数人の武士が腰かけていて、藩邸方向に目を光らせていた。さらに、その店の道路をはさんだ反対側の柳沢侯の角屋敷沿いに二人の武士がいた。
 やがて、この二人の武士の合図で、店にいた武士たちが上之山藩邸の裏門のほうにまわった。八郎を挟み撃ちにするためである。
 ほどなく笠をかぶった八郎があらわれ、一ノ橋を渡る。
 黒羽二重の紋付、甲斐絹の裏付き羽織と鼠に縦縞の袴を着用し、右手に鉄扇を持っていた。
 その八郎に二人の武士が近づき、声をかけ丁寧に挨拶した。
 前方に佐々木と速見の二人を認めた八郎は、挨拶を返すべく笠をとろうとした。その刹那だった。うしろから来た刺客の一撃が八郎を襲った。ほとんど同時に首のあたりを狙って佐々木の白刃がひらめいた。
 

清河八郎の最期 その7

2011-12-27 16:16:53 | 小説
 浪士組に東下せよという関白からの命令の出た翌日、つまり3月4日、将軍家茂が京都に到着、二条城に入った。
 老中の水野忠精と板倉勝静らが随行している。将軍の上洛は家光以来で、なんと236年ぶりのことであった。
 その翌日の3月5日、清河八郎は3通目の建白書を提出した。
 こんどは具体的な提案を幾つか書き連ねているが、力点はひとつである。将軍勅を奉ずる上は速やかに帰府して天下に号令し、征夷の大業を遂ぐる事、そのことであった。京都守護は会津侯に委任すればよいと八郎は書いている。
 八郎の心づもりでは、将軍は滞京10日で江戸に帰るし、そのスケジュールと軌を一にして浪士組も東帰する、というものだった。
 しかし、もう八郎の思惑通りに事は運ばない。
 3月13日早朝東下と決まったが、浪士組の中から京都に残留したいという者たちがあらわれ、浪士組は分裂したのであった。よく知られているように京都残留組には、のちに新選組となる14人がいる。
 残留組の言い分は、将軍が攘夷の勅命を奉じて江戸に帰るという運びになっていない、将軍が京都にいる限りは京都に留まって将軍を守護したいというものだった。
 この言い分は、浪士組に賜った勅諚と達文(朝旨)を無視するものであった。自分たちは幕府に雇われているのだから幕府の指示がなければ動かない、というわけである。
 ここで面妖なのが浪士組の正式なリーダーである鵜殿鳩翁の態度である。
 残留か東帰か、彼が幕府の一員として態度を鮮明にすればよいものを、それができない。というよりも残留したいものがあれば申し出よ、などと組織の分裂をむしろ助長し、残留者の取締を殿内義雄と家里次郎に命じていた。のちに新選組となる面々を松平容保に仲介したのも、この鵜殿である。
 その鵜殿、例の勅諚を山岡鉄太郎から預かっていたが、東下が決まって八郎が山岡と一緒に返却を迫ったら返さなかった。江戸に帰ったら返すといって態度を曖昧にしたのである。
 江戸に帰っても返さなかった。閣老の手に渡してあるから手元にないと八郎の使者藤本昇に言うのである。藤本が、では直接閣老から受け取るようにするというと、おおいに狼狽して藤本をなだめたようである。八郎が暗殺されるのは、この数日後であるから、勅諚問題が暗殺の原因のひとつになっていると推定するのは大川周明である。
 八郎の暗殺は、たしかに幕府から指示が出されていた。

清河八郎の最期 その6

2011-12-25 23:11:24 | 小説
最初の建白書を奉呈するにあたっては、清河八郎は6人の浪士を選んでいた。河野音次郎、西恭助、草野剛三、和田理一郎、森土鉞四郎、宇都宮左衛門で、草野(のちの中村維隆)らの回顧談によれば、八郎は彼ら6人に、もし受理されなければ生きて帰るな、と言ったらしい。
 すんなりと受理されるとは考えていなかったからである。
 案の定、まず幕府に提出するのが正規の順序であろうと、いったんは受理を拒否されている。しかし決死の覚悟の6人に気圧されて、学習院に詰めていた国事参政が渋々受け取ってしまうのであった。
 この結果、2月29日、劇的な事態が起きた。
勅宣と関白からの達文が届くのである。
 ここでも大川周明の筆をかりる。
「…重大なる攘夷の勅諚を、直接浪士に賜はると云ふことは、破格非常のことであるから、之を聞いた幕府の吃驚は察するに余りある。のみならず関白の達文は、天下の政事に関して草莽の意見を建白する路を開いたものである。されば八郎は、此の勅諚さへ拝領すれば、最早幕府の覊束を受けず、独立独行して攘夷が出来ると云ふので、其の喜び言はん方なく、即夜新徳寺に於て盛大なる祝宴を開いた」
 これはもう、八郎に有頂天になるなというほうが無理な情況になったというしかない。
 2月末、八郎は二度目の建白書を書く。
 趣旨は関東で攘夷の先鋒を務めさせて欲しいというものだった。浪士組の東下を願い出たわけである。
 月が変わって3月3日、その八郎の思惑通りの命令が関白より下る。
 ただし今度は浪人奉行鵜殿鳩翁と同取締役山岡鉄太郎連名宛の命であった。
 いわゆる生麦事件がこじれていた。横浜へイギリス軍艦が渡来しており、いつ戦端を開くかわからない。であるから速やかに浪士を東下させ、「粉骨砕身可励忠誠候也」という命令だった。
 さて、ここまでは八郎の思うとおりに事が運んでいる。しかし、そのことが八郎の命運を縮めることになるのだが、もとより八郎はそんなことは知るよしがない。 

清河八郎の最期 その5

2011-12-23 12:00:43 | 小説
この頃、八郎が郷里の父に宛てた手紙がある。以下のような内容である。

 公儀において自分は特別扱いで、浪士頭取役を仰せつけらたものの断りました。私の名声が盛んになるにつれ、そねみ妬む者も多く、わざと辞退したのです。それでも浪士たちからは自然と頭取的にみなされ特別な存在になっています。

 八郎の得意や思うべし。たしかに八郎は浪士組を実質的にとりしきっており、黒幕的存在となっていた。浪士の隊列には加わらず、ひとり悠々と監督者然として中山道を闊歩していたらしい。
 浪士組が京都に着いたのは2月23日である。宿舎は壬生村だった。
 先に紹介した『新選組』に松浦玲氏が書いている。
「その晩、清河は浪士一同を新徳寺に召集し、京都朝廷宛の建白書を示して署名を求める。自分たちは尽忠報国の志により集められ、将軍が尊皇攘夷の任務を遂行するために上京した。幕府の世話で上京したけれども禄位は受けておらず、天皇の命令を妨げるものがあれば幕府の役人といえども容赦はしない。この真心が貫徹できるよう取り計っていただきたいというものであった」
 大川周明も、この場面をこう描写している。
「…此時 満座を睨みまわしたる八郎の権幕は非常なもので、一言でも異議を唱へる者あらば、即座に掴み殺さん勢であったから、一同悉く賛成して了ふ…」
 あたかも全浪士を前にして、激烈なアジテーターぶりを発揮している清河八郎像がイメージされるが、八郎がこのとき新徳寺に召集をかけたのは幹部級の浪士だけであって「浪士一同」ではない。俣野時中の証言(『史談会速記録』)によれば「重立者」をだしぬけに呼び出したとなっているのだ。
 なにしろ総勢230名を超える団体である。幾つかの豪農宅や寺に分宿している。新徳寺は取締役旅宿だったけれども、ここに浪士全員が参集できるスペースがあったかどうかさえ定かではない。松浦氏の著書だからといって、すんなりと浪士一同をアジっている八郎の姿を定着させてはいけない。
 ところで建白書の原文には尽忠報国の文言が三回出てくる。浪士たちがことさら賛成できないという内容ではないが、ただ「禄位等は更に相承不申」という箇所にひっかる者たちはいただろう。それが目当ての幕府の傭兵気分の浪士たちからすれば、よけいな文言であるからだ。
 いずれにせよ、春嶽に上表を提出して自分の立場を逆転させたという生々しい成功体験のある八郎は、またしてもおのれの文才に賭けて、朝廷への建白書を書いたのであり、あと二度書くことになる。

清河八郎の最期 その4

2011-12-18 16:31:34 | 小説
 幕府から浪士募集命令が正式に出たのは文久2年12月19日だった。2千500両の予算を計上して、50人募集するつもりだった。一人当り50両の手当ということになる。ところが実際は230余名を採用してしまった。拙速と杜撰さの目立つ結果となったのである。
 尽忠報国の志士ばかりが集結したとはとても言い難い。たとえば甲州の博徒で岡引経験もあるらしい山本仙之助とその子分たちも採用されていた。のちに新選組を結成する近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らが参加していたことはよく知られているが、大川周明は彼らを「運よくば旗本にでもならうと云ふ野心で応募したのであるから、固より八郎等とは志を異にして居る」(『清河八郎』)と評している。ともあれ近藤勇らは年が明けて文久3年となった正月に募集を知り、応募したもののようである。
 文久3年2月5日、小石川伝通院に応募浪士一同が参集するが、浪士取扱の松平主税助改め上総介は前日に辞任していた。
 浪士募集の不手際で、引責辞任といったところである。後任に鵜殿鳩翁が選ばれた。隠居して鳩翁という号を名のっていた元駿府町奉行である。
 トップの人事といい、玉石混淆の応募浪士の構成といい、スタート時から、波乱含みの浪士組なのであった。
 伝通院に集合した3日後、早くも京に向けて江戸を発つた。将軍家茂の上洛にさきがけて京都警戒のためとされているが、いかにも慌ただしい。だから大川周明の次のような見方も出てくる。
「幕府の此の処置は如何なる動機であったか明瞭でない。思ふに幕府は、浪士を集めて見たものゝ、五十人と思って居たのが其の五倍の大勢となり、之を江戸に於いては厄介であるから京都に送り、京都に送りさへすれば吾々の肩が一時安まると云ふやうな因循姑息の考で、一日も早く江戸から追立てたものであらう」(前掲書)
 鵜殿鳩翁が浪士組に申し渡した道中規則があるが、まるで修学旅行の小学生に対するような注意事項と道中の禁酒が定められている。およそ尽忠報国の志士たちへのそれではない。集まった連中への鵜殿の危惧がよくわかる。事実、禁酒事項があるにもかかわらず焼酎を入れたらしい一斗入り瓢箪を背負って歩く者が一人ならずいたと、鈴木半平が『東西紀聞』に記録している。
 しかし清河八郎に浪士組の質を憂慮した様子はない。そんなことに頓着する暇がなかったといってよいかもしれない。
 なにしろ彼は、ほとんど有頂天になっていた。

清河八郎の最期 その3

2011-12-14 21:18:17 | 小説
春嶽は浪士取扱の任に松平主税助を採用した。家康の6男忠輝の後裔である彼は、やはり浪士利用を建白していたから、適任とみなされたのであろう。幕府内には浪士募集に反対するものも多かったのである。
 その松平主税助が町奉行に差出した文書に、こうある。
「出羽荘内 清河八郎。右者有名の英士にて、文武兼備、尽忠報国の志厚く候間御触出し御趣意も有之、私方へ引取置、他日の御用に相立申度、此段奉伺候」
 さて、ここに「尽忠報国」というキーワードがひそんでいる。
 松浦玲氏は著書『新選組』(岩波新書)の冒頭部分(6ページ)で、こう述べていた。
「『尽忠報国』は後に新選組の中心スローガンとなり、近藤勇や土方歳三の愛用タームだった。それが実は幕府の達文(たっしぶん)に書込まれ、その志を持つことが旧悪免除の取引条件になっていた。なにかカラクリがある」
 カラクリもなにも「尽忠報国」はもともと清河八郎のスローガンであった。前に引用した『急務三策』の「皆な公あって私なし、忠誠以て国家に報ずるのみ」も熟語にすれば尽忠報国である。「報国の臣」とか「報国の盟」というのも八郎のいわば口癖のようなものだった。
 尽忠報国といえば、中国南宋の武将岳飛(がくひ)は、その言葉を背に刺青していた、という。もとよりその故事を幕末当時の教養人は共有していたはずだが、この時期にその成語を流行らせる契機は八郎にあったのではないかと私は思う。
 ちなみに岳飛ももとは豪農の出身で、人気が出ると危険視されて謀殺された。八郎もこの点は岳飛に似ているのだ。
 ところで松浦玲氏も書いているが、清河八郎が「報国」というとき、その「国」は日本国である。出羽の国でもなく、幕府でもない。
 しかし新選組は、あるいは近藤勇や土方歳三は、「国」を幕府に縮小して、幕府の爪牙となって功名を急いだ。松浦氏が概ねそのように述べている(前掲書106ページ)。
 まったく同感である。浪士組のストレートな延長線上に新選組があるのではない。

清河八郎の最期 その2

2011-12-10 21:16:29 | 小説
 清河八郎の赦免が確定するのは、文久3年正月のことである。くどいようだが、その3ヶ月後には彼はこの世を去る。彼が公然と清河八郎であったのは、正月から4月までのたった4ヶ月なのだ。
 実際、前年の暮に彼が幕府の「浪士取扱」の客分として招聘される話がまとまったとき、殺人犯としての「清河八郎」では都合が悪いという意見も閣老の中にはあった。彼の変名「大谷雄蔵」を名乗らせようという姑息な案も出されていたのだった。
 正月18日、清河八郎は庄内藩留守居黒川一郎の立会で町奉行所に先の無礼人斬殺を届け出ている。幕府の指示によるものだから、出来レースのようなものだが、奉行浅野備前守は即座に赦免とし、庄内藩には「…この上は召捕候には及ばす候…」と布告した。
 かくて文久2年という暗闇の世界から一気に陽光の世界に躍り出たのが文久3年だった。おそらく、奈落から抜け出した舞台の眩しさが彼の命運を縮めたのである。
 急激に明るい場所に出すぎたのだ。自己陶酔にも似た高揚感に八郎はとらわれたはずである。そして幕府くみしやすしと内心甘く見たはずである。そのことが彼の油断になったのではないか。だが、まだ彼の暗殺を語るときではない。
 さて、八郎はなぜ幕府の「浪士取扱」客分になりえたか。彼の文章力が大きく作用していると思われる。
 文久2年11月に八郎は春嶽あてに二度目の上書を献じていた。
 攘夷の断行と大赦令の発布と人材の糾合を説いた、いわゆる『急務三策』である。格調の高い、堂々とした文章であった。八郎はいわばプレゼンテーションの名人であった。人材の糾合というのが、つまり浪士の募集であり「浪士取扱」につながるのである。
『急務三策』中の一節。
「それ草莽の身を殺し族を棄て、四方に周旋するもの、皆な公ありて私なし、忠誠以て国家に報ずるのみ。(略)それ非常の変に処する者は必ず非常の士を用ふ。故によく非常の大功を成す。(略)願くは執事疾く度外の令を施し以て天下非常の士を収めんことを」
 春嶽は八郎の文章に心を動かされたはずである。その春嶽のもとに関白からも浪士募集の命が下されたと報告が入る。関白に浪士募集案を持ち込んだのは、経緯は省くが池田徳太郎と石坂周造である。八郎が春嶽に上書したことを知ったふたりが、八郎の援護射撃をしたのであった。

清河八郎の最期 その1

2011-12-08 22:31:09 | 小説
 お蓮の死んだのは文久2年閏8月7日であった。まさにその頃、八郎はお蓮や獄中の同志を救うために、彼らの釈放嘆願書を書いていた。政事総裁職に就任した松平慶永(春嶽)宛の上書である。
 安政の大獄で幽閉されていた尊攘派に同情的で、大赦に向けて動いていた春嶽のふところに飛び込もうというわけである。むろん「殺人犯」という自分の罪も帳消しにしたいのであった。逃避行を続けながらの尊攘運動には、どうしても限界があったからだ。
「…今や大赦独り在上に行はれて在下に達せざるは、亦豈無偏無党の道ならんや。故に方今の時天下の人心を安んぜんと欲せば、疾く大赦を行ふに若くはなし…」
 上書の中にそう書いた。
 その上書は、山岡鉄舟と土佐の間崎滄浪を経由して春嶽のもとに届いた。
 結果としては、嘆願は功を奏した。9月下旬には弟熊三郎、池田・石坂両同志は出獄(もっとも仮出獄)したという手紙を10月4日付で山岡鉄舟が八郎に送っている。
 あともう少しだったのにと思わずにいられないが、八郎はしかし愛妻お蓮を救出することはできなかったのであった。けれども、この夫婦は8カ月後には、あの世で再会することになる。
 清川八郎が江戸は麻布一ノ橋近くの路上で暗殺されるのは、文久3年4月13日であった。お蓮の死から数えて8ヶ月余、その短い期間に八郎は、清河八郎という尊攘思想の光彩を放った。
 文久2年から文久3年にかけて時代そのものが閃光を放って変転していた。
 文久2年1月には老中安藤信正が坂下門外で襲われ、2月には和宮降嫁、4月には島津久光の挙兵上京と寺田屋事件。8月には生麦事件が起き、将軍家茂は攘夷を奉答。閏8月には松平容保が京都守護職についている。
 幕吏から追われていた清河八郎は、青天白日の身となるばかりではなく、こんどは幕府から「有名の英士」で「文武兼備、尽忠報国の志厚く」とお墨付きをもらうのであった。 
 

お蓮の死 その3

2011-12-06 21:31:13 | 小説
 清河八郎がお蓮の死を知るのは、9月も半ばを過ぎてからだった。出羽の国の国境の川渡(かわたび)まで来ていた八郎は、9月20日夜、その知らせを親類筋から受け取る。
 愕然とし、やがて嗚咽し、男泣きに泣いた。
 と思う。このときの八郎の様子を小説風に描写したくなる誘惑をおさえて、彼が母に宛てた手紙、お蓮に言及した切々とした内容の手紙なのだが、その一節を引用しておこう。大川周明がそうしたようにである。彼の心情は彼自身の言葉によく表現されているからである。
「さて又おれん事、まことに悲しき憐れのこと致し、残念限りなく候。(略)まことに悲しき事致し申し候。(略)果敢なくなりてまことに残念に御座候。(略)なにとぞなにとぞ私の本妻と思召し、朝夕の回向御たむけ、子供とひとしく思召し下されたく、繰言にも願い上げ申し候。
 私ひそかに清林院貞栄香信女とおくり名いたし候故。くりことにも私の本妻同前に思召し、御たむけのほど偏へに願い上げ申し候。もことに評判よろしく。たとひ果てても嬉しく候へ共、憂目にて死にしこと悲しく限りなく候」
 お蓮の評判がよかったというのは、獄吏の責め問いに屈せず、凛とした態度を保っていることが評判になっていたからであろう。
 この手紙で、八郎はお蓮の母親のことにも思いをはせ、十両を渡すようにはかってくれと依頼している。
 そして手紙にはお蓮を詠った和歌も添えた。

   さくら花たとひ散るとも壮夫(ますらお)の
            袖ににほひをとゝめざらめや

 季節は秋であるから、たとえば、
 
   秋ふけて寒さぞわかる山里の
            きのふの露は今日の白霜

 という歌もお蓮を悼む一首であったが、お蓮はやはり桜の花のようであらねばならなかった。

お蓮の死 その2

2011-12-04 17:16:00 | 小説
 お蓮の死ぬ陰暦閏8月の前の月はやはり8月だが、その24日、清河八郎は京都から江戸に帰っていた。山岡鉄舟と松岡万に会って、このときお蓮の消息を聞いている。
 4人の同志は牢死したけれど、獄中のお蓮と弟の熊三郎、それに同志の池田徳太郎と石坂周造は無事だと知った。しかも池田と石坂は牢名主となっており、獄外との連絡も取れていると聞かされたから、この時点では八郎はお蓮についてもいくらか安堵の気持ちを抱いたと思われる。
 ところで獄外との連絡はなぜ可能となったのか。
 池田の存在が大きい。池田の人柄に心服した牢番がいたのである。この牢番を通じて、池田は水野行蔵と連絡を取り、金子を差し入れさせたのであった。その金の一部をお蓮や熊三郎にも届けさせたのである。地獄の沙汰も金次第というけれど、たいそうな金額が使われている。
 お蓮が水野行蔵に直接に金子を無心する手紙が残されているが、手紙のやり取りは原則禁止だから、こうした連絡そのものにも金がかかったはずである。
お蓮の手紙の一節。
「…私事も入牢いたし候せつも御牢内へは、みやげも、もち参らず、とうはく(当惑)いたし居候所、徳太郎様よりいろいろ御しんぱへ(心配)被下、其御かげ様にて牢内も少々はらぐ(楽)にも相成。今日までしのぎおり候得共、かねて御ぞんじ様の事も御座候哉、牢内は金子なければ、らぐも出来不申候間、金子御むしん申上たく…」
 牢に入るのに、金という土産が必要で、それがなければ「らぐ」ができない、というのが哀れである。
 熊三郎が父に宛てた手紙からも事情がよくわかる。
「(水野は)たびたび御心づけの金子お送り下されお陰にて命をひろい助かり申し候。誠に有難き次第、この上もなき親切の御方に御座候。お蓮様の方へもいろいろ御心添え下され誠に有難き儀に存じ奉り候。頼り致し候は上野様ご一人に御座候」 
「上野様」というのは水野の本名である。元の名は上野禎蔵、庄内藩士で文久2年に目付の沢左近将監の家来だったらしいが、後に庄内藩によって投獄され、獄中で毒殺されている。お蓮と似たような最期をとげているのだ。
 先にたいそうな金額が使われていると書いたのは、八郎の実家から水野に返却した金を含め、3カ月に253両余りもかかっているからである。もっともそのうち100両は町奉行へのいわゆる賄賂であった。

お蓮の死 その1

2011-12-02 19:35:45 | 小説
 揚屋(あがりや)というのは伝馬町牢屋敷内の獄舎のひとつである。
総坪数2618坪の伝馬町牢屋敷には東牢と西牢があり、大牢、二間牢、揚屋、奥揚屋、揚座敷と呼ばれる獄舎があった。身分によって入る獄舎は違ったのである。西牢の通路の反対側には拷問蔵があった。
 女性は身分に関係なく西の揚屋と決まっていたから、お蓮は西牢に入れられた。
 お蓮の獄中生活は1年3カ月続く。24歳の手弱女の耐えに耐えた日数は450日を超えたのであった。
 八郎の事件に連座して、お蓮と同じく入牢していた同志のうち4人は、お蓮より早く牢死している。
 すなわち、ともに35歳の笠井伊蔵、北有馬太郎、45歳の西川練造、54歳の嵩(かさみ)春斎らである。春斎は篆刻家だったが、八郎をかくまったため逮捕され、入牢後数日で死んでいる。逃亡を諦めかけ、自害しようとした八郎を諌めた人物だ。
4人とも文久元年中に獄死したのであった。しかしお蓮は文久2年閏8月までは生きた。
 閏8月6日、お蓮は伝馬町牢屋敷から下谷の庄内藩邸(中屋敷)の牢に移された。麻疹に感染したからである。はしかのことらしいが、当時流行っていて、療養中は庄内藩預かりとなったのである。
 ところが翌7日早朝、お蓮は冷たくなっていた。獄中生活の劣悪な環境が感染症を重篤なものにしていたと考えられなくもないが、この急変はいささか不自然である。
 麻疹の薬として毒を盛られたという説がある。しょせん庄内藩にとってはお蓮は厄介者でしかなかった。まして公儀のお尋ね者清河八郎の妻である。毒殺をためらう理由はなかった。毒殺の噂は当時、公然とささやかれていたらしい。
 七夕の夜、お蓮の夢を見た八郎は漢詩を作って、その詩の最後をこう結んでいた。
「ああ汝とがむることなかれ、我 誓いあり」
 きっと救出すると誓うから我をとがめるな、と詠ったのである。だが、その誓いは実現しなかった。