小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

吉井勇の歌と土佐  4

2009-12-23 23:37:08 | 小説
 吉井勇はおそらく龍馬夫妻のありようが羨ましかったのである。ともあれ、彼にとって龍馬は無関心でいられない存在だった、
 19歳の時、つまり明治37年に明治座で上演された永谷秀葉作『坂本竜馬』6幕を観に行っている。おりょうさんの回顧談にもとづいて脚色された芝居だった。
 昭和3年8月には帝国劇場で上演された『坂本竜馬』を観ている。この芝居は真山青果作で、新国劇の沢正こと沢田正二郎が青果に脚本を懇願し、自分が龍馬を演じたものだ。大詰めの幕切れでは「吉井幸輔」も登場する芝居であった。
 蛇足ながら龍馬は司馬遼太郎の小説ではじめて大衆に知られた人物だと勘違いしている人が多い。違う。龍馬は明治末期から、すでに芝居の主人公だったのである。
 さて、吉井勇は、沢正の龍馬の芝居の感想を『眈眈亭劇談』の中で綴っている。以下はその抜粋である。

〈真山氏はこの「坂本竜馬」で、主人公である竜馬を、「英雄」と云ふよりも「先駆者」として書いてゐる。「先駆者」の焦燥、苦悶、悲哀―それが序幕から最後の幕まで、竜馬の口を通して叫ばれてゐる作者の声なのである。封建制度を破壊した後に、直ちに来るべき藩閥の打破を思ひ、更に立憲政治の確立を夢見る竜馬の思想が、真山氏の戯曲に描かれ沢田君の口から叫ばれると、強く胸に迫るものがあって、「先駆者の悲哀」が如何に底深いものであるかと云ふことが、はっきりと私にも感じられる。〉

 吉井勇は芝居の幕が閉まると、興奮でぐったりと疲れるほど、感激したと書いている。「しかし私はかう云ふ快い疲労を、近頃久しく感じたことがなかったのである。」と。
 思えば新国劇の創立者沢田正二郎の父は高知藩士だった。2歳で父と死別し、東京生まれの母の実家で育っているけれど、土佐には格別の思い入れがあったに違いない。月形半平太という架空の勤皇志士を演じるのにあきたらなくなって、龍馬を演じたくなったのであろう。
 吉井勇は沢正とは数年前に酒席をともにしていた。酔って、よく意味はわからないが、「君と天下を二分しよう」などと沢正に言ったらしい。龍馬、沢正の故郷土佐に吉井勇がはじめて訪れるのは昭和6年5月であった。

吉井勇の歌と土佐  3

2009-12-21 22:09:21 | 小説
 勝海舟の元治元年8月3日に日記に、吉井幸輔と龍馬がセットであらわれる。ふたりはともに京に向かう(神戸から)と勝に告げているのである。
 翌元治2年(慶応元年)4月22日付の勝宛吉井の手紙では、龍馬と「無事同居仕候」とあり、京都では吉井幸輔は龍馬と同居しているのであった。
 慶応2年1月24日、龍馬は三吉慎蔵と寺田屋にいるところを伏見奉行所の捕り方に襲撃され、薩摩藩の伏見藩邸にかくまわれた。おりょうさんも一緒だったことはよく知られている。
 龍馬とおりょうさんは、たぶん吉井の熱心なすすめもあって、西郷隆盛、小松帯刀、吉井らの薩摩帰郷組と一緒に鹿児島に行くことになる。薩摩の三邦丸に乗り、3月10日に鹿児島に到着している。
 龍馬夫妻は加治屋町の吉井の屋敷にも滞在、吉井のすすめで日当山、塩浸、霧島などの温泉で遊んでいる。いわゆる新婚旅行のさきがけといわれる小旅行だ。
 吉井の方が龍馬より7歳年上だった。吉井は龍馬をあたかも弟のようにみなして世話を焼いていたふしがある。
 京都で龍馬が近江屋を下宿先としたとき、吉井はなぜかひどく心配をしていた。土佐藩邸に入ることができなければ、薩摩藩邸に来いとまで龍馬に言ったのである。いささか複雑な思いのする話だが、龍馬はどちらの藩邸に入るのもいさぎよしとしなかった。どちらかの藩邸に入っていれば、龍馬はあるいは暗殺をまぬがれたかもしれない。ただしそうなると路上で襲撃された可能性はある。
 さて吉井勇の祖父と龍馬に、以上のような深い親交のあったことから、吉井家ではおりにつけ龍馬のことが話題にされていたのは容易に想像がつく。
 先頃、吉井勇が昭和4年に『月刊キング』に寄稿した「或日の龍馬」が新資料として発見されたと話題になった。吉井家の口伝を紹介したものだろうが、新資料というのはおおげさであろう。吉井幸輔つまり吉井友実は勇が6歳のときに亡くなっている、と前に書いた。勇が祖父から直接に龍馬のことを聞いているとは思われない。聞いたのは父からであって、こういう間接的な口伝はまるごと信用しない方がいいのである。
 ともあれ吉井勇は龍馬をたいへんなフェミニストとして紹介しているらしい。妻を「おりょうさん」とさん付けで呼んでいた、喧嘩をすると「仲直りしよう」と泣いてあやまっていた、など。
 ところで吉井勇の結婚生活は、昭和4年には、事実上破綻していた。

吉井勇の歌と土佐  2

2009-12-20 21:23:26 | 小説
 吉井勇の祖父は、薩摩の吉井幸輔であった。龍馬となにかと縁の深かった人物だ。龍馬が暗殺されたときも、近江屋に駆けつけていた。
 吉井勇は『私の履歴書』(日本経済新聞社編)で、こう書いている。

「祖父の名は友実、前名を幸輔といって、明治二十四年四月六十四歳で世を去ったが、いわゆる維新の志士の一人であって、西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走した仲間である。最後は枢密顧問官になって没したのであるが、私はそういった官職の高かった祖父よりも、子供の時代に父から聴かされた『思ひきや』の歌が、いまだに思い出されるように、むしろ南画を描いたり歌を作ったりした祖父の方に親しみが感じられる」

「思ひきや」というのは、吉井幸輔が戊辰戦争後に詠んだ次の歌のことである。
 
  思ひきや弥彦の山を右手(めて)に見て立ちかへる日のありぬべしとは

 その祖父の歌は、勇の父の幸蔵が酔うと繰り返し歌って、幼い勇に聞かせたのだという。このように祖父のエピソードは、勇はたぶん父を通して知ったはずである。このことは後で書くことと関連するので、おぼえておいていただきたい。
 敬愛する祖父のことを吉井勇は、数多くの歌にしている。

 おほちちの戊辰のころの胸痛み心いたみを思ひつつぞ病む

 祖父(おほちち)の葬りの列にわれありて赤坂見附は過ぎにけるかも

 吉井勇が祖父の葬式の行列に加わっていたのは、彼がまだ6歳のときだった。

 六歳(むつ)の秋祖父(おほちち)の死に会ひてより無常のおもひ知りしならぬか

 吉井勇は自分が歌人となったのは、祖父の間接的な影響ではないかと思っていたふしがあるが、さて、その祖父吉井幸輔と龍馬の交流に触れておかねばならない。

吉井勇の歌と土佐  1

2009-12-18 00:30:06 | 小説
 昭和8年といえば今上天皇のお生まれになった年であるが、この年の11月に華族の男女たちのスキャンダルが公にされて世間を騒がせた。俗に「不良華族事件」と称される事件の中心人物は徳子という人妻であった。
 溜池あたりのダンスホールに、徳子は夜な夜な出没していたが、近藤廉平男爵の息子廉治とダブル不倫の関係にあった。近藤廉治にも泰子という妻があったからである。この近藤泰子は、ほかでもない白洲正子の姉であり、そして徳子はといえば、あの柳原白蓮の姪にあたる女性だった。つまり柳原義光の次女なのである。その徳子が有閑マダムたちにダンス教師を紹介したり、あるいは情人交換をしたりと、乱倫ぶりを喧伝されたのであった。
 この年、徳子は37歳、むろん子供もいた。下女に子供の世話を任せて、夜遊びにふけっていたのである。
 その夜遊びを、伯爵歌人の夫は「夜戸出」(よとで)と表現している。
  
  われは旅に妻は夜戸出し子はひとり婢(はした)と遊ぶあはれなる家

 旅先で、母にかまってもらえぬ息子の不憫さに思いをやっているのは、吉井勇である。徳子は吉井勇の妻だった。
「昭和八年八月、土佐の山間にある猪野々に在ることおよそ一月、十月に至りて帰京。このころ徳子と別居、後に至って離婚す」
 吉井勇自身が作成した「年譜」に、そう書かれている。
 旅先というのは土佐であった。吉井勇にとって土佐は心のふるさとだったのだ。

 つるぎたち土佐にきたりぬふるさとをはじめてここに見たるここちに

 大土佐の海を見むとてうつらうつら桂の浜にわれは来にけり

 さて、昭和8年8月は「高知新聞」が1万号に達している。そのことを祝って、彼は次の歌を詠んだ。

 あたらしき龍馬出よと叫ぶごと一万の紙おのづから鳴る

 龍馬待望論は昭和8年にもあったのである。
 それにつけても、なぜ土佐は伯爵歌人を魅了したのか。

サガン『愛をさがして』を読む

2009-12-07 21:53:11 | 読書
 なぜかサガンが読みたくなって、ほとんど衝動的にフランソワーズ・サガン『愛をさがして』(朝吹由紀子訳・新潮社)を読み始めたのは2週間前だった。たぶん先頃亡くなった原田康子さんのことが契機になっている。原田さんは「日本のサガン」と称された作家だった。
 本文163頁の単行本である。読了までにこんなに時間がかかったのは、少しづつしか読み進めず、途中で幾度が読了を放棄したくなったからである。
 40歳の男が肺癌で、医師から余命6ヶ月と告知されるところから始まり、病院を出てからの1日の物語である。ちょっと重いテーマが、洒脱な文章とアンバランスである。そのちぐはぐさは、男の軽い錯乱状態を象徴する計算かなと思いつつ、結局苦行のようにして最後まで読んだものである。
 男には妻もあり若い愛人もいる。しかし、いちばん自分の死を告げたかったのは10年前に別れた、かっての年上の恋人だった。彼女を訪問する場面だけは精彩がある。しかしサガンはいったいどうしちゃったのだろうか。この彼女は45歳という設定なのだが、文中、「忘れているなら言っておくけど、あなたは昔から私より7歳も年下なのよ」というセリフを吐かせる。これでは主人公の年齢と勘定が合わない。
 そして、最終章にいたっては、医師の誤診だったというオチ。
 サガンを若い頃の私は嫌いではなかった。1969年の『冷たい水の中の小さな太陽』あたりまでは追っかけていた。サガンの深奥にあるひんやりとした寂寥感が嫌いではなかった。
 しかし、このたびの読後の言いようの無いむなしさなんだろう。
 私自身の感受性の枯渇という危惧、小説を読む悦びに不感症になったのではないかという、ひりひりとした恐れ、あれはもしかしたら余命6ヶ月の主人公に対する別種の感情移入だったのか。あやうくそう思いそうだった。しかし『悲しみよこんにちわ』から40年後のこの作品で、私はサガンの力量をかいかぶっていたにすぎないと思う。
 ちなみに邦題の『愛をさがして』自体、ある読者層にアピールしたいのであろうが、いただけない。作品の皮肉な結末を暗示している『過ぎゆく哀しみ』あたりが原題に近いのではないのか。