吉井勇はおそらく龍馬夫妻のありようが羨ましかったのである。ともあれ、彼にとって龍馬は無関心でいられない存在だった、
19歳の時、つまり明治37年に明治座で上演された永谷秀葉作『坂本竜馬』6幕を観に行っている。おりょうさんの回顧談にもとづいて脚色された芝居だった。
昭和3年8月には帝国劇場で上演された『坂本竜馬』を観ている。この芝居は真山青果作で、新国劇の沢正こと沢田正二郎が青果に脚本を懇願し、自分が龍馬を演じたものだ。大詰めの幕切れでは「吉井幸輔」も登場する芝居であった。
蛇足ながら龍馬は司馬遼太郎の小説ではじめて大衆に知られた人物だと勘違いしている人が多い。違う。龍馬は明治末期から、すでに芝居の主人公だったのである。
さて、吉井勇は、沢正の龍馬の芝居の感想を『眈眈亭劇談』の中で綴っている。以下はその抜粋である。
〈真山氏はこの「坂本竜馬」で、主人公である竜馬を、「英雄」と云ふよりも「先駆者」として書いてゐる。「先駆者」の焦燥、苦悶、悲哀―それが序幕から最後の幕まで、竜馬の口を通して叫ばれてゐる作者の声なのである。封建制度を破壊した後に、直ちに来るべき藩閥の打破を思ひ、更に立憲政治の確立を夢見る竜馬の思想が、真山氏の戯曲に描かれ沢田君の口から叫ばれると、強く胸に迫るものがあって、「先駆者の悲哀」が如何に底深いものであるかと云ふことが、はっきりと私にも感じられる。〉
吉井勇は芝居の幕が閉まると、興奮でぐったりと疲れるほど、感激したと書いている。「しかし私はかう云ふ快い疲労を、近頃久しく感じたことがなかったのである。」と。
思えば新国劇の創立者沢田正二郎の父は高知藩士だった。2歳で父と死別し、東京生まれの母の実家で育っているけれど、土佐には格別の思い入れがあったに違いない。月形半平太という架空の勤皇志士を演じるのにあきたらなくなって、龍馬を演じたくなったのであろう。
吉井勇は沢正とは数年前に酒席をともにしていた。酔って、よく意味はわからないが、「君と天下を二分しよう」などと沢正に言ったらしい。龍馬、沢正の故郷土佐に吉井勇がはじめて訪れるのは昭和6年5月であった。
19歳の時、つまり明治37年に明治座で上演された永谷秀葉作『坂本竜馬』6幕を観に行っている。おりょうさんの回顧談にもとづいて脚色された芝居だった。
昭和3年8月には帝国劇場で上演された『坂本竜馬』を観ている。この芝居は真山青果作で、新国劇の沢正こと沢田正二郎が青果に脚本を懇願し、自分が龍馬を演じたものだ。大詰めの幕切れでは「吉井幸輔」も登場する芝居であった。
蛇足ながら龍馬は司馬遼太郎の小説ではじめて大衆に知られた人物だと勘違いしている人が多い。違う。龍馬は明治末期から、すでに芝居の主人公だったのである。
さて、吉井勇は、沢正の龍馬の芝居の感想を『眈眈亭劇談』の中で綴っている。以下はその抜粋である。
〈真山氏はこの「坂本竜馬」で、主人公である竜馬を、「英雄」と云ふよりも「先駆者」として書いてゐる。「先駆者」の焦燥、苦悶、悲哀―それが序幕から最後の幕まで、竜馬の口を通して叫ばれてゐる作者の声なのである。封建制度を破壊した後に、直ちに来るべき藩閥の打破を思ひ、更に立憲政治の確立を夢見る竜馬の思想が、真山氏の戯曲に描かれ沢田君の口から叫ばれると、強く胸に迫るものがあって、「先駆者の悲哀」が如何に底深いものであるかと云ふことが、はっきりと私にも感じられる。〉
吉井勇は芝居の幕が閉まると、興奮でぐったりと疲れるほど、感激したと書いている。「しかし私はかう云ふ快い疲労を、近頃久しく感じたことがなかったのである。」と。
思えば新国劇の創立者沢田正二郎の父は高知藩士だった。2歳で父と死別し、東京生まれの母の実家で育っているけれど、土佐には格別の思い入れがあったに違いない。月形半平太という架空の勤皇志士を演じるのにあきたらなくなって、龍馬を演じたくなったのであろう。
吉井勇は沢正とは数年前に酒席をともにしていた。酔って、よく意味はわからないが、「君と天下を二分しよう」などと沢正に言ったらしい。龍馬、沢正の故郷土佐に吉井勇がはじめて訪れるのは昭和6年5月であった。