小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

村上春樹新訳『高い窓』を読む

2015-04-06 11:18:34 | 読書
 チャンドラーの『高い窓』を村上春樹の新訳で読んだ。ほぼ50年ほど昔、たぶん清水俊二訳で読んでいるのだが、まるっきり筋立てを忘れていて、初めて読む本と同じだった。ところが妙なことに情景描写に既視感があった。たとえば次のような箇所。
「外はもう暗くなり始めていた。ラッシュ時の車の騒音はやや静まったものの、開けた窓から入ってくる風は、まだ涼しい夜風とは言いがたく、そこには一日の終わりにつきものの埃っぽい、くたびれた匂いが含まれていた。自動車の排気ガス、壁や歩道から放射される陽光の余韻、無数のレストランから立ち上る料理の匂い(略)温かい気候の中でユーカリの木が発する雄猫のような、あの独特の匂いだ」
 この描写はハリウッドの丘の住宅地のことである。私が初めてアメリカ西海岸を旅し、ハリウッドの安ホテルに泊まっていたとき、どこかでチャンドラーのこの描写を意識していたような気がする。
 一人称小説だから、情景描写はそのまま主人公の心理を暗示している。うだうだした心理描写などせずに、情景描写で登場人物の心理を暗示する優れた作家にスタンダールがいる。そのスタンダールに、おそらく文体上の影響を受けている作家に大岡昇平がいる。大岡昇平の『花影』はまさにハードボイルド的文体で描かれた恋愛小説の傑作だ。しかし、こうした文体は読者にある一定のリテラシーを要求する。昨今のわかりやすくて読みやすい万人受けする小説の文体とは別物なのである。
 チャンドラー自身、この小説は売れないだろうと出版社の社長に弱きな手紙を出していた。けれども読者に迎合して安易な物語にはしなかった。村上春樹もまた「超訳」などというバカな真似はしていない。
高い窓
レイモンド チャンドラー
早川書房



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。