上之山藩(上山藩と表記されるのが一般的である)は、現在の山形県上山市周辺を領有した藩で、金子は八郎と出羽国という郷里を同じくした間柄でもあった。
その金子は泥舟のいうように「純正無二の佐幕家」ではなかった。むしろ朝廷に軸足をおいた公武合体論者であった。泥舟は金子のことを、よく知らなかったか、あるいは知っていて、わざとこういう決めつけをしたのである。
ところで上山藩士の増戸武兵衛の史談会における発言は、金子の八郎暗殺関与の傍証のように扱われることが多いが、増戸の談話にはバイアスがかかっていると見たほうがよさそうである。
なにしろ泥舟にしろ増戸の談話にしろ、金子や佐々木の死後のものである。死人に口なし、言いたい放題のことが言えるのである。
増戸は、暗殺された直後の八郎の遺体を目撃していた。
「……七つ頃即ち今の午後四時頃に、表門の方で人殺があると云ふから出てみた。一ノ橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が前に倒れて、首が右に落ちかゝって転げて居ました。其の様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一二寸程かけて、右の方首筋の半ば過ぎまで。美事に切られて居ります。其上に腮の下辺に更に一刀痕あります。多分倒れた後で一刀を浴せかけたものと見えます。(略)右の手に鉄扇を持って居りましたと見え、右の手を伸べて其側に棄てゝありました。髪は総髪でありました。
其処に大勢寄って、誰だらうと言ふて居るうちに、中村平助と云ふ者が、此は清河八郎のやうであると申しました。(略)清河ならば金子の友人である。金子に行って聞けば判らうと思ふて、中村等四五名と屋敷に戻り金子に聞くと、それは清河に相違ない、今朝から私を訪ね、午食を共にし酒も飲み、色々談話の末帰ったのである。惜しい事をした残念である……帰る時に、此節刺客が油断ならぬから、駕籠を傭はぬかと言っても、白昼そんな心配はないと言ふて出かけたが、惜しいこ事をしたと金子は申された」
この金子の言葉を額面通りうけとらず、増戸は金子の暗殺関与を疑ったのであった。その理由に、金子が目付の杉浦と昵懇であり、杉浦に金子を紹介したのが佐々木だと聞かされたからだと語っている。
その金子は泥舟のいうように「純正無二の佐幕家」ではなかった。むしろ朝廷に軸足をおいた公武合体論者であった。泥舟は金子のことを、よく知らなかったか、あるいは知っていて、わざとこういう決めつけをしたのである。
ところで上山藩士の増戸武兵衛の史談会における発言は、金子の八郎暗殺関与の傍証のように扱われることが多いが、増戸の談話にはバイアスがかかっていると見たほうがよさそうである。
なにしろ泥舟にしろ増戸の談話にしろ、金子や佐々木の死後のものである。死人に口なし、言いたい放題のことが言えるのである。
増戸は、暗殺された直後の八郎の遺体を目撃していた。
「……七つ頃即ち今の午後四時頃に、表門の方で人殺があると云ふから出てみた。一ノ橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が前に倒れて、首が右に落ちかゝって転げて居ました。其の様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一二寸程かけて、右の方首筋の半ば過ぎまで。美事に切られて居ります。其上に腮の下辺に更に一刀痕あります。多分倒れた後で一刀を浴せかけたものと見えます。(略)右の手に鉄扇を持って居りましたと見え、右の手を伸べて其側に棄てゝありました。髪は総髪でありました。
其処に大勢寄って、誰だらうと言ふて居るうちに、中村平助と云ふ者が、此は清河八郎のやうであると申しました。(略)清河ならば金子の友人である。金子に行って聞けば判らうと思ふて、中村等四五名と屋敷に戻り金子に聞くと、それは清河に相違ない、今朝から私を訪ね、午食を共にし酒も飲み、色々談話の末帰ったのである。惜しい事をした残念である……帰る時に、此節刺客が油断ならぬから、駕籠を傭はぬかと言っても、白昼そんな心配はないと言ふて出かけたが、惜しいこ事をしたと金子は申された」
この金子の言葉を額面通りうけとらず、増戸は金子の暗殺関与を疑ったのであった。その理由に、金子が目付の杉浦と昵懇であり、杉浦に金子を紹介したのが佐々木だと聞かされたからだと語っている。