小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 13

2014-03-28 14:45:53 | 小説
 上之山藩(上山藩と表記されるのが一般的である)は、現在の山形県上山市周辺を領有した藩で、金子は八郎と出羽国という郷里を同じくした間柄でもあった。
 その金子は泥舟のいうように「純正無二の佐幕家」ではなかった。むしろ朝廷に軸足をおいた公武合体論者であった。泥舟は金子のことを、よく知らなかったか、あるいは知っていて、わざとこういう決めつけをしたのである。
 ところで上山藩士の増戸武兵衛の史談会における発言は、金子の八郎暗殺関与の傍証のように扱われることが多いが、増戸の談話にはバイアスがかかっていると見たほうがよさそうである。
 なにしろ泥舟にしろ増戸の談話にしろ、金子や佐々木の死後のものである。死人に口なし、言いたい放題のことが言えるのである。
 増戸は、暗殺された直後の八郎の遺体を目撃していた。
「……七つ頃即ち今の午後四時頃に、表門の方で人殺があると云ふから出てみた。一ノ橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が前に倒れて、首が右に落ちかゝって転げて居ました。其の様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一二寸程かけて、右の方首筋の半ば過ぎまで。美事に切られて居ります。其上に腮の下辺に更に一刀痕あります。多分倒れた後で一刀を浴せかけたものと見えます。(略)右の手に鉄扇を持って居りましたと見え、右の手を伸べて其側に棄てゝありました。髪は総髪でありました。
 其処に大勢寄って、誰だらうと言ふて居るうちに、中村平助と云ふ者が、此は清河八郎のやうであると申しました。(略)清河ならば金子の友人である。金子に行って聞けば判らうと思ふて、中村等四五名と屋敷に戻り金子に聞くと、それは清河に相違ない、今朝から私を訪ね、午食を共にし酒も飲み、色々談話の末帰ったのである。惜しい事をした残念である……帰る時に、此節刺客が油断ならぬから、駕籠を傭はぬかと言っても、白昼そんな心配はないと言ふて出かけたが、惜しいこ事をしたと金子は申された」
 この金子の言葉を額面通りうけとらず、増戸は金子の暗殺関与を疑ったのであった。その理由に、金子が目付の杉浦と昵懇であり、杉浦に金子を紹介したのが佐々木だと聞かされたからだと語っている。

清河八郎暗殺前後 12

2014-03-27 16:01:16 | 小説
 泥舟によれば、浪士取締役の佐々木只三郎らの誣言(ないことをあることのように嘘を言うこと)を信じて、金子与三郎は八郎暗殺に加担した、という。「討幕の密謀」というのが誣言の中身である。
『泥舟遺稿』には、こう述べられている。
「……誣ゆるに正明が討幕の密謀既に成り、其期将に近きにありと告ぐ、金子は純誠無二の佐幕家なり、之を聞て怫然として怒り、乱賊の奴輩茲に至る、決して恕す可きものにあらず、之を鎮する須らく正明を除くに如かず、之れを為す其謀将に如何とするか、佐々木曰く、正明を君が家に招き、大いに酒食を侑めよ、我輩正明が帰途を要して、之を暗殺せん」
 泥舟はさらに、この前段で、佐々木は誣告によって閣老監察などを籠絡し、八郎の暗殺許可をとっていたと述べている。なぜなら佐々木は八郎に私怨を抱いていたからだと。
 佐々木は立場上は八郎より上なのに、「正明に及ばざること遠し、是を以て時々凌辱を加へられて憤懣に堪えず」「正明を忌むこと久し」と言っているのだ。男の嫉妬のようなものが、佐々木にあって、それが八郎暗殺に向かわせたとでも言いたげである。
 佐々木のことはさておき、金子与三郎のことである。
 金子はかねてより八郎と昵懇だったし、八郎の思想信条はよく知っている人物だった。八郎も金子を信頼し、自分の「著述もの」をすべて金子に預けていた。
 そのことは暗殺される前日に八郎が父の雷山に宛てた手紙にも書いている。「著述ものは羽州上之山城主松平山城守殿御守金子与三郎にあつけ置候間、上之山官庫に納め置筈に御座候」
 自分の信条を綴った著作を金子に託していたのである。そういう間柄であった。だから金子は佐々木などより、はるかに八郎のことは知っている。佐々木の誣言などに短絡的に反応するわけはないのである。
 八郎が暗殺される前のことであるが、金子はある日、小笠原閣老の屋敷に行って、小笠原の重役多賀隼人に、次のような質問を発していた。
「実は清河八郎を暗殺しようという者がいるらしいが、どう思われるか」そして「幕府の御家人のようだが……」とも語っている。
 この質問を発したことを金子の供をした上之山藩士増戸武兵衛が語っている。(史談会速記録)
 金子が泥舟のいうような暗殺当事者だったら、こんな質問はしないだろう。泥舟はなぜこんなつくり話をしなければならないのか。

清河八郎暗殺前後 11

2014-03-25 11:41:15 | 小説
 その朝のことを、泥舟はこう述べている。(『泥舟遺稿』より)
「四月十三日、正明将に金子が寓所(松平山城守が邸内)に行かんとして、突如として予が所に来たり、予一見するに、意色共に悪しく、殆ど病めるが如し」
 すると八郎は前夜より頭痛や目まいがすると答え、ほんとうは寝ていたいのだが約束だから行くという。泥舟はしきりと止めるのだが、八郎は「肯せざりき」と語り、そして八郎は「昨宵一首の国風を詠ず、之を書して以て閣下に呈せんと、予が側に在る白扇を取り、一首の和歌を書す」と言って例の歌を書きつけたというのである。
 泥舟は驚いて、これは「辞世の歌」ではないかというと、八郎はうなずいたとも述べている。
 しかし、これは泥舟の脚色だらけの回顧談である。
 なぜなら泥舟の妹の桂(のちに石坂周造の夫人となった)の談話によれば、八郎は泥舟が登城した後で、桂や泥舟夫人と雑談しており、そのときに数本の白扇を求めて例の歌をしたためているからである。泥舟は、その朝、この歌を見てはいないのである。
 八郎は、このときに別の歌も書きつけている。

  砕けてもまた砕けても寄る波は岩角をしも打砕くらむ

 この歌などは、とても泥舟のいう「辞世の歌」ではない。挫折してもひるまずに、なにごとか成し遂げようという強烈な意志を表明している。そして桂、泥舟夫人、さらに鉄舟夫人(泥舟の妹)のために三本の白扇に次の歌を書いている。

  君はただ尽しましませおみの道いもは外なく君を守らむ

 泥舟は、前日には目付と浪士組に関して深刻な話し合いをしており、八郎は八郎で泥舟に幕府の返答に関して督促を迫っていたのだから、この朝の二人のやりとりはもっと切迫したものがあったはずである。泥舟に歌を披露するいとまなど八郎にはなかったはずだ。八郎は、泥舟との会話の緊張を解くようにして、女性たちと雑談し、はじめて歌を白扇にしるしたのであった。
 さて、『泥舟遺稿』は金子に関して、名指しで八郎への殺意があった、と述べている。ほんとうのことだろうか。

清河八郎暗殺前後 10

2014-03-16 13:59:23 | 小説
 石坂周造の回顧談によれば、八郎暗殺の当日に、石坂も八郎に会いに行ったことになっている。はからずも石坂は八郎が金子の家に行った目的を述べている。
「之(金子)を同盟させると、五百や六百の有志ができるだらうと云って金子の家へ行くので私は丁度冨坂で別れました」(『石坂翁小伝』)
 まだ同志を集めようとしている八郎なのである。
 同志の横浜焼討ちを中止するために殺されに行ったとする説は、およそ成立しがたいのである。
 八郎の死は、「横浜焼討ち」と関係はないのである。それは暗殺側からしても、直接的な暗殺動機ではない、といえるだろう。
 なぜならば、八郎暗殺後に幕府は直ちに浪士組幹部を罷免させ、浪士組そのものを改編して「純乎たる幕府の御用団体」(大川周明・評)にしてしまうのだが、浪士組幹部を評定所に呼び出しての吟味内容が、横浜焼討ちの共同謀議ではないからである。いわゆる偽浪士とされる神戸、朽葉を勝手に斬首して両国橋に梟首した件であった。幕府は、なぜ、このことにこだわるのか。
 暗殺の翌日、幕府側の高橋泥舟、山岡鉄舟、松岡萬、窪田治部右衛門らは浪士組担当から免職され、石坂周造、村上俊五郎、和田理一郎、松沢良作、藤本昇の6名の幹部は15日に諸藩預かりとして、それぞれの江戸藩邸に禁固処分となっている。
 そして17日には、浪士組は庄内藩の所属となって、「新徴組」と命名されて江戸市中の巡警団体になってしまうのである。大川周明が「純乎たる幕府の御用団体」になったという所以である。
 かって松浦玲氏は、新選組を評して、「新選組が浪士組から引き継いだ『尽忠報国』を掲げていたときは、曲がりなりにも思想集団だった」が「思想集団であることを止めた」(『新選組』岩波新書)と書いたことがある。
 新徴組も、清河八郎という理論的支柱を失って、骨抜きにされ、やはり思想集団ではありえなくなった。
 新選組も新徴組も、いわば浪士組の鬼子であった。清河八郎が新選組あるいは新徴組の生みの親などと称されるとき、鬼子の親といわれて喜ぶひとはいないぜ、と私はいつも思う。
 さて、幕府にとって八郎は暗殺対象となる人物ではあったが、なぜ13日暗殺であったか、そのことに立ち戻らなければならない。

清河八郎暗殺前後 9

2014-03-14 14:06:44 | 小説
 ところで、その4月13日に、八郎は自分が襲われるとわかっていて、わざわざ殺されるために出かけたという説がある。小山松勝一郎は『清河八郎』にこう述べている。
「八郎の心は決まった。それは金子与三郎の招待を受けている十三日にある。一人で外出することは死を意味する。それは自分の死が浪士組の横浜焼き討ちをとどめる唯一の方法である。黙って死ぬ、これは『木雞』の精神である。(略)選ぶべき道は木雞のごとく黙って死んで行くことである」
 小山松勝一郎の八郎評伝を鵜呑みにしている藤沢周平の『回天の門』も、この、いわば八郎自殺説である。藤沢周平も書いている。
「しかし、八郎はいま、金子の招きに応じる決心を固めたのであった。走り出した同志を引きとめ、横浜焼打ちを停止させる手段は、いまはただひとつしかない。そのことが明瞭に見えていた。多分、金子がその決着をつけてくれるだろう」
 同志の横浜焼討ちを中止したいために、自ら殺されに出かける、というのは奇妙な論理である。
 八郎と浪士組が強固に結びついているのであれば、むしろ八郎の死は、残された同志の思いに火をつけ、弔い合戦として過激な行動に走らせることになるのではないか。
 もはや横浜焼討ちの有効性を疑っていた八郎は、同志たちにも、そのことは語っていたはずだし、雄弁をもって同志の無謀な計画ぐらいは中止できたはずだ。
 八郎の死は、横浜焼討ちを止めるための自己犠牲のような行為の結果とする見方は、泥舟ファミリーの談話にミスリードされているのである。
 その朝、泥舟の家で八郎は辞世のような歌を白扇に書いた。だからその日に死ぬことを覚悟していたというのもファミリーの談話からの類推である。

  魁てまたさきがけて死出の山まよひはせまじ皇の道

 辞世にするつもりの歌かもしれないが、この歌を八郎がいつ作っていたかは実のところ定かではない。この日、即興的に詠んだとは言い切れないのである。
 この日、八郎は死ぬつもりはない。夜になれば、あるいは明日以降、小栗上野介との対決が予定されているのに、むざむざと殺されに行くわけはないのだ。(続く)

清河八郎暗殺前後 8

2014-03-04 15:52:30 | 小説
 偽浪士の一件は、八郎たち浪士組の思想信条たる「尽忠報国」を冒涜するものであった。その策謀が、ほんとうに小栗上野介によるものかどうか、幕府側の態度が煮えきらないから、直接に小栗に確かめてみようと考えたのは、おそらく清河八郎である。浪士組の藤本昇らによる小栗上野介の拉致計画のあったことは、先に引用した大川周明の記述にも明記されていた。
 こんな大胆不敵なことを思いつくのは八郎ぐらいしかいないだろう。2月に上洛して朝廷に建白したおりにも「たとい有司の人」、つまり幕府の役人であろうと天皇の命令を妨げるものがあれば容赦はしない、と言い切った八郎である。
 八郎と小栗には因縁があった。八郎の儒学の師である安積艮斎が最初に私塾を開いたのは、神田駿河台の旗本小栗家の屋敷内である。つまり、そこは小栗上野介の父の屋敷であった。だから上野介も10歳の頃から安積艮斎の教えを受けていた。小栗上野介は八郎より4歳年上で、安積塾でも兄弟子にあたるのだった。
 その小栗を拉致して、というか強引に引きずり出して真偽をただそうというのは、並々ならぬ覚悟のいることだった。しかし同門の八郎だからこそ真偽をただすことも可能と周囲の者も思ったかもしれない。
 ところで、幕府側からすれば、小栗を拉致されるということなど許しがたいことだった。関東一円の治安維持を担う関東取締出役を配下にもつトップが拉致されては、幕府の威信は地におちるではないか。
 ちなみに、その拉致計画実行者として名のあげられている藤本昇は浪士組の三番組にいた。その組の小頭は石坂周造である。石坂の部下だった肥前長崎の浪人である。ところが石坂は、なぜか藤本の小栗上野介拉致計画についてなにも語っていない。
 いったい清河八郎暗殺については、史料に不自然な空白がある。なぜ、その空白が生じているかを類推すると、しだいに見えてくるものがあるのだ。
 さて、小栗の拉致計画の実行日はいつ予定されていたか。
 4月13日夜だった。
 そうなのだ、八郎が暗殺される日である。偶然、同じ日であるわけがない。八郎が暗殺されたので、この計画は中止された。
 その中止こそが八郎暗殺の狙いだった。(続く)

清河八郎暗殺前後 7

2014-03-02 19:39:21 | 小説
 高橋泥舟は、清河八郎の暗殺指令者を、小笠原長行と思うと名指している(史談会)ようだが、小栗上野介の名はあげていない。しかし、老中格小笠原図書頭長行の命令というのも、ある種のぼかしがある。暗殺指令は上洛中の老中板倉勝静から出ており、それを在府の小笠原図書頭が実行させたという証言があるからである。
『官武通紀』という記録がある。
 文久2年から元治元年に至る3年間の重要な出来事を、公私の記録をもとに玉虫左太夫(仙台藩士)が編纂したものだ。その中に「浪人召捕始末」という記事があり、「清川八郎逢殺害候大略調」という項目がある。そこにはこう書かれている。
「四月七日 京都行之御老中周防守(板倉)殿より御内書にて、速水又四郎(暗殺者のひとり)へ被仰付候は、清川八郎切支丹にて身を隠し候由にて、中々手取にては手に入兼候間、だまし打ちに討取候様御内々被仰付候に付……」
 攘夷論者として高名な八郎をキリシタンというのもどうかと思うが、ほかの伝聞が混じっているのかもしれない。ともあれ老中から内密の指示が出ていたというわけだ。
 暗殺せざるを得ない理由としては、後に続く文章で、四月十五日に江戸と横浜の焼討ちを手配しているから捨て置けなかったとしている。八郎を大将にして250名ばかりが長州と一手になり、とも記録している。
 ついでながら、八郎暗殺の翌日の4月14日の目付杉浦の日記には冒頭、両町奉行と小笠原図書頭の名が記されている。3人と会ったということなのである。会った目的は八郎の事件のこととしか思えないが、詳細はなにも書かれていない。
 さて、勘定奉行小栗上野介の話はどうなったのか。
 関東一円の治安維持を担う「八州廻」つまり関東取締出役は勘定奉行の配下であった。浪人たちの取り締まりが実務であったから、偽浪士として乱暴狼藉を働いた神戸や朽葉が小栗の名を使嗾者としてあげても不自然ではない。
 しかし八郎は、この小栗の一件の裏をとろうとしていた。(続く)