小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

菊地明『京都見廻組 秘録』を読む

2011-09-19 16:39:18 | 読書
 洋泉社歴史新書の近刊、菊地明氏の『京都見廻組秘録』を読んだ。たいへん読みやすく工夫されているから、ほとんど一気呵成の読了となった。副題に「龍馬を斬った幕府治安部隊」とあるように、見廻組の誕生と終焉を概括しながらも、龍馬暗殺の実行犯である佐々木只三郎と今井信郎に焦点が合わされている。
 与頭の佐々木只三郎が紀州藩士の娘と結婚していて、その妻の名が美津であることなど初めて本書で知った。美津はいったい紀州藩士の誰の娘であったのだろうか。紀州藩といえば例のいろは丸事件との関連が当然思い出されるから、なんとなく心が騒ぎ、妙な想像がふくらんで、想念が横道にそれたりしたけれど、読書の愉悦のひとつはこういうところにもある。
 定説では佐々木只三郎は戊辰戦争で敗走し、和歌山の紀三井寺で死んだことになっており、実際に墓もあった。しかし紀三井寺では死んでいないという説もあって、直感的には死んだ場所は違うだろうと、ずっと私も思っていた。本書では、佐々木の最期を目撃した人物の証言が紹介されている。銃撃を受け負傷していた佐々木は、海路を江戸に帰還する軍艦富士山丸の中で死に、水葬に付されたという記録者がいるのだから、著者の菊地氏の主張するように、こちらのほうが真実だろう。
 さて、ところで私は本書の第4章「近江屋事件と佐々木只三郎」だけには、違和感をしきりに覚えた。菊地氏は別の著書でも菊屋峰吉の証言を偽りと決めつけておられたが、本書でも同様の見解が披瀝されている。要するに、龍馬暗殺当夜、刺客が語るところの近江屋にいた「書生」あるいは「小僧」あるいは「給仕」をどう見るかが問題なのだが、菊地氏は刺客と遭遇した書生を峰吉とみなすのである。これはちょっと無理な見解ではなかろうか。さらに峰吉が佐々木を認識していた、しかも声でわかった(ほんとうは近江屋主人のこと)などとするのは、かなりな行き過ぎである。近江屋にいた小僧の人数の解釈は暗殺の時刻とあわせて慎重に想像をめぐらすしかない。
 明治もだいぶ経ってから、谷干城が近江屋主人に、事件当夜小僧が何人いたかどうか問いただしていた。近江屋主人は、しどろもどろながら刺客の話を裏付けて小僧がいたと語っていたではないか。谷は近江屋主人の話を信用しなかったが、最初からうさんくさい近江屋主人の言動であっても、ここは本当のことを語っていると見るべきである。菊地氏は疑うべき人物を間違っている。峰吉ではなく、近江屋主人の方に疑惑の目を向けなくては、龍馬暗殺の真相はみえてこない。
 むろん本書は龍馬暗殺事件の解明が主題ではない。主題は京都見廻組の歴史である。コンパクトではあるが、その主題はじゅうぶんに達成されている。
京都見廻組 秘録―龍馬を斬った幕府治安部隊 (歴史新書y)
菊地 明
洋泉社




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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
京都見廻組 (森重和雄)
2011-10-13 11:42:15
菊地さんのこの京都見廻組の本、僕も先日読みましたが、面白かったです。
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菊地氏のこと (鏡川伊一郎)
2011-10-13 16:48:50
菊地氏の研究範囲は新選組、龍馬、京都見廻組と順に移ってきたように思いますが、原点は新選組なんでしょうね。
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状況 (森重和雄)
2011-10-24 02:01:30
鏡川さま

はい、菊地さんの原点は新選組ですね。
万代修さんが行方不明、生死不明になってから、京都見廻組について書いたわけです。(笑)
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佐々木只三郎のお墓 (森重和雄)
2011-10-25 17:10:25
全くの偶然ですが、先日、会津若松市内にある「会津武家屋敷」へ観光で行ったところ、園内に故・早乙女貢先生が改葬移転で協力された佐々木只三郎のお墓がありました。
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ご出張お疲れ様です (鏡川伊一郎)
2011-10-25 18:06:04
早乙女貢先生は、それはもう会津贔屓ですもんね。そうですか、佐々木のお墓はそちらに移されているんですか。
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当初の佐々木只三郎の墓 (森重和雄)
2011-10-29 20:30:31
「当初、只三郎の墓は和歌山市の紀三井寺に造られたが、1973年頃に墓石が真っ二つに割れ倒壊しているのが発見された(墓の上部は草むらから出て来た)。坂本龍馬ファンの恨みが爆発したと噂され、会津藩士の血を引く作家・早乙女貢(みつぐ)らがこの事態を憂い、会津若松市の武家屋敷内に只三郎の倒壊墓を改葬した。※後日、和歌山にも新しい墓が再建された。」とのことでした。
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