小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

恋闕の人・真木和泉  3

2008-10-28 13:37:48 | 小説
 真木和泉は幕末の志士たちの中では、かなり年長者の部類に入る。吉田松陰より17歳年上、西郷隆盛より14歳年上だったといえば、わかりやすい。
 元治元年(1864)、いわゆる禁門の変で長州軍に参加、敗北して天王山で同志16名とともに自刃したのだが、享年52歳だった。52年の生涯だったのである。
 山口宗之氏は前掲の『真木和泉』に書いている。
「和泉が他の尊攘派志士のごとく血気・感憤しやすい年齢でなく、すでに人生の終わりに近い52歳、しかも内に外に多くの体験をつみ、内省と思考を重ねるに不足のない円熟の世代であったことは、その死が決して一時の激情にもとづくものではなかったことを物語っているといえよう」
 むろん、妻も子供(5人)もいた。
 結婚したのは19歳のときで、相手は9歳年上の女性だった。28歳の新妻睦子の実家は豪商で、藩の御用商人でもあった。真木家はというか和泉はこの妻の実家から、なにかと経済的援助をうけたもののようである。
 姉さん女房であった睦子は、晩年になってもその容色がひと目をひくほどの美人で、よほどあかぬけした女性であったらしい。
 和泉は26歳のとき、妻と一緒に島原小浜温泉に遊んでいるが、現地の人たちは、力士が芸伎を連れてきたと噂しあったという。芸伎にみられるぐらい艶やかな女性であったのだ。
 一方、力士とみなされた和泉のほうであるが、そう、5尺8寸の大男だったのである。私はなんとなく勝手に、真木和泉を神経質そうな痩身痩躯の人物としてイメージしていたから、このエピソードにはいささか驚いたものである。
 矢田一嘯筆の真木和泉の肖像をみると、二重瞼のぎょろりとした大きな眼、太い鼻梁の精悍な面立ちであって、なるほど力士と間違われても不思議ではなさそうである。

恋闕の人・真木和泉  2

2008-10-27 15:43:43 | 小説
 奈良本辰也監修の『図説 幕末・維新おもしろ事典』(三笠書房)という本がある。その中に「討幕を最初に打ち出したのは誰か?」というコラムがあって、真木和泉の名があげられている。
 真木は「文久元年(1861)、『義挙三策』を書き、倒幕の指導理念を打ち出した。尊攘志士のなかではもっとも早く倒幕意見を主張した人物である。
 その三策とは次のようなものである。
 上策=諸侯に挙兵を勧める。
 中策=諸侯の兵を借りて、挙兵する。
 下策=義徒によって挙兵を断行する。
 上策、中策では、その兵力をもって大坂城の占拠をとき、下策では、京都攪乱戦術をおしすすめ、天皇を比叡山に移すべしと説いている」
 と説明している。
 もとより学術書ではないが、この記述は正確ではない。
 真木和泉は『義挙三策』よりも早く、その著書『大夢記』において具体策を打ち出していた。天皇みずから幕府親征の兵をあげて東征し、箱根で幕吏を問責、大老以下に切腹を命じ、徳川家茂を甲駿の地に移し、親王を安東大将軍として江戸城に居らしめるというのが『大夢記』の骨子であった。
 これが書かれたのは、文久元年より3年前の安政5年のことだったのである。真木和泉は46歳だった。
 安政5年といえば、たとえば坂本龍馬はまだ24歳、江戸の千葉道場で剣術修行から帰国する年だ。土佐勤王党に加盟したのが文久元年であった。
 坂本龍馬が尽力した薩長同盟は、よく知られているように慶応2年(1866)のことであるが、それよりはるか前に真木和泉は薩長同盟の必要性をみきわめていたようである。
 すなわち、大名に挙兵を勧めるという考え方の、その大名つまり雄藩には薩摩と長州が視野に入っていたのだ。
 文久元年に真木が平野國臣を介して、薩摩藩に『薩候に上る書』など三篇を献呈している。その三篇は残念なことに現存していない。しかし、雄藩同盟の必要性を説いたものだったと思われる。

恋闕の人・真木和泉  1

2008-10-26 20:12:30 | 小説
 安産祈願で有名な水天宮の総本山は、福岡県久留米市の水天宮である。
 その起源をたずねれば、壇ノ浦の源平合戦における安徳天皇の入水にまでさかのぼる。源氏の軍船にかこまれた8歳の安徳天皇は、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院(平清盛の娘)とともに海に沈んだ(建礼門院は死ねなかった)。このとき逃げのびた官女のあぜちの局(名は伊勢)は、九州の筑後川にたどりつき、川のほとりの鷺野原というところに小さな祠を建てて、幼帝とその一族の霊をなぐさめた。これが水天宮の創始伝説である。
 さて、文化10年(1813)、久留米の水天宮神官真木家に生まれた男子は、11歳のときに父の死により家督を相続し、第22代水天宮神官となった。真木和泉である。
 幕末の尊攘派あるいは倒幕思想の理論的支柱であった真木和泉は、私にはずっと気にかかる人物だった。吉田松陰と並び称されるのに、浅学にして真木和泉の人となりを何も知らなかったからである。
 このほど、山口宗之氏の『真木和泉』(吉川弘文館・人物叢書)を読んで、多くのことを教えられた。そして、ああ真木和泉こそは「恋闕の人」であるという思いを強くした。
 真木和泉について考えてみようと思う。
 安徳天皇をも祀る水天宮神官であったという彼の出自は、まず記憶しておかねばならない。


注:ちなみに真木和泉の父は江戸芝赤羽の久留米藩邸に水天宮を分祀した人物である。この功で、真木家は久留米藩から年60俵を扶持されている。東京水天宮は、だから久留米藩主有馬家の屋敷伸であったが、一般庶民の信仰対象として開放したので、「情けありまの水天宮」と称された。現在の日本橋蛎殻町の水天宮は、明治になって芝から移転されたもの。

追記:安徳天皇には生存説がある。近々、別稿でそのことも書きたい。

西郷隆盛と犬

2008-10-12 20:05:13 | 小説
 明治新政府の参事となった頃の西郷隆盛の東京の屋敷跡の碑が、人形町にある。日本橋図書館、日本橋小学校などの複合建物の玄関の横手にあるのだが、ややもすると見過ごされかねない微妙な位置にある。
 その碑に、こう書かれている。
〈明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827-1877)の屋敷がありました。
 明治6年(1873)の『第壱大区沽券図』には「蛎殻町1丁目壱番/2633坪/金1586円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。(後略)」
 さて、注目すべきは「猟犬を数頭飼っていた」というくだりである。
 上野にある有名な西郷隆盛の銅像は、御存じのように犬を一匹連れている。しかし西郷は実際は数頭(10頭以上)の犬を飼っていたのである。あの銅像から今日的な意味での愛犬家、つまりたんなるペット愛好家をイメージする向きが多いと思われるが、それは違う。
 猟犬を西郷はボディガード代りにしていたのだ。だからこその多頭飼育なのであった。西郷隆盛の飼っていたのは、薩摩犬である。ウイキペディアの「薩摩犬」によれば「獰猛な性格から、一時期人間の生活圏から姿を消していた」とされる犬種であった。実際、大正時代に絶滅したとされていたのだった。(いまは保存会がある)
 銅像の犬はむろん西郷の飼っていた犬種とは違って、製作者の高村光雲が雑種犬をモデルにしたものだ。
 ところで薩摩島津家はなにかと犬に関するエピソードが多い。
祖先の島津忠久が貞応元年の犬追物で申次を務めて以来、天正、慶長年間に鹿児島で犬追物を催し、正保3年、4年には江戸で行い、将軍の観覧に供している。犬を飼育することは、だから当り前のことだったかもしれない。
 もっとも太田南畝『一話一言』補遺3には「薩摩にて狗を食する事」として島津候も犬を食べたことを記事にしているそうだ。これは梶島孝雄『資料日本動物史』(八坂書房)で知って、いささか驚いた。
 猟犬も、たぶん役立たずになってからだろうが鷹の餌にされたり、人間に食べられたりしたこともあったらしい。

龍馬の殺された部屋

2008-10-08 20:09:50 | 小説
 もう幾度目を通したかわからないが、谷干城の講演録『坂本中岡暗殺事件』を、またぞろ読み返していて、次の箇所で目がとまった。
「それで行って見た所が、丁度階子の上り付けた所に坂本は斬倒されて居る」
 谷が暗殺現場の近江屋に駆けつけたときの状況である。この「階子の上り付けた所」という表現を、なぜ私は見過ごしていたのか。
 龍馬関係の書物によく掲載されている近江屋の二階の復元見取り図は岩崎鏡川が菊屋峰吉に描かせたものである。この見取り図では龍馬の倒れていた場所は「階子の上りつけた所」にはならない。
 近江屋の二階には4部屋あって、河原町通りに面した東側から順に8畳、6畳、6畳、8畳と鰻の寝床のようになっている。龍馬が倒れていたのは西側の8畳であって、階段のある東側の部屋ではない。
 谷は思い違いをしているのか。
 ところが、この見取り図とは異なる証言があって、そちらの見取り図だと谷の証言が合ってくるのだ。
 別の見取り図の証言者は近江屋を買い取って住んでいたという薬局(佐々浪ファーマシー)の御隠居ナミさんという老婦人である。昭和55年9月に京都在住の史家・故西尾秋風氏が当時91歳だったナミさんから直接聞き取っている。西尾氏が例の見取り図をナミさんに見せたところ、近江屋の二階には階段に続いて廊下があり、その突き当りが西の8畳だったと従来の見取り図を訂正しているのである。
 西尾氏は述べている。「従来の通説ならば、階段を昇りつめた刺客は襖を三回開けないと、奥の間の龍馬に斬り込めない。ところが(ナミさんの)新証言によれば、廊下を真っしぐらに突っ走り、一気に奥の間に斬り込めることになる」(『龍馬殉難西尾史観(総集版)』
 龍馬に関する史料には目配りのいい菊地明氏は、著書『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社)で、ナミさんの見取り図にも言及(ある説として)し、否定的な見解を吐露している。
 しかし谷の証言は、むしろナミさんのいう二階の構造に合致するのである。
 ちなみに、龍馬らの襲われた部屋の写真がある。書物に掲載されたものより、京都大学付属図書館維新資料データベースより、「京都維新写真帖」をクリック、32枚目(画像番号3765075)で鮮明に見られる。
 明治初年撮影のものらしいが、ほかに近江屋の古写真はないのだろうか。

相楽総三と赤報隊を考える  完

2008-10-01 22:32:32 | 小説
 相楽総三に対する「罪文」を写しておく。

「                            相楽総三
右之者、御一新之御時節に乗シ 勅命ト偽リ強盗無頼之党ヲ集メ、官軍先鋒嚮導隊ト唱ヘ総督府ヲ欺キ勝手ニ致進退、剰ヘ諸藩ヘ応接ニ及ヒ或ハ良民を劫掠シ、莫大之金ヲ貪リ種々悪業ヲ相働其罪数ルニ遑アラス、此侭ニ打捨置候而ハ弥以賊徒横行シ、遂ニ天下之大憂ヲ醸シ其勢制スヘカラサルニ至ル、依之誅戮梟首之上遍ク諸民ニ知シムルモノ也」

「赤報記」も「三日」の記事に、この「罪文」を転載しているが、その前に「夜五ツ時頃下諏訪上入口於田中断頭之上梟首」と記すのみである。
 ただそれだけである。客観的な記録に徹して、主観を押し殺しているとはいえ、いかなる思いで、この虚偽と誇張に満ちた罪文を写したか、察するにあまりあるではないか。
 相楽の悲報が江戸の実家にいつ届いたか正確にはわからない。かなり遅くに知ったのではないだろうか。相楽の妻照子は7月に夫に殉じて自害している。だから一子河次郎は、相楽の姉はま子の嫁いだ木村家の養子として育てられた。
 その河次郎の子、木村亀太郎が祖父相楽総三の雪冤に心血を注いだ人物である。ことは長谷川伸の『木村亀太郎泣血記』にくわしい。まことに胸を打つ執念のノンフィクションである。
 木村が芝公園の板垣邸を訪ね、板垣退助と面談するくだりがある。木村が相楽の妻の自害を告げると、板垣は驚く。
「ふうむ俺は今初めて聞いた、そうか、奥さんが自害したか、ふうむ」と遠くを見る目つきになったという。
 なぜ相楽は処刑されねばならなかったのか、木村が板垣に聞くけれども、板垣の答えはこうだった。
 その真相を自分の立場としては言えない、また現在の知名の人に迷惑をかけるからだ。
 この言葉を引き出しただけでも、木村亀太郎の収穫というものであった。
 相楽と赤報隊の雪冤は、必然的に維新史の改訂を迫るものであったが、その先鞭をつけたのは木村亀太郎であり、長谷川伸であったといえる。


【主要参考文献】西澤朱実編『相楽総三・赤報隊史料集』マツノ書店