真木和泉は幕末の志士たちの中では、かなり年長者の部類に入る。吉田松陰より17歳年上、西郷隆盛より14歳年上だったといえば、わかりやすい。
元治元年(1864)、いわゆる禁門の変で長州軍に参加、敗北して天王山で同志16名とともに自刃したのだが、享年52歳だった。52年の生涯だったのである。
山口宗之氏は前掲の『真木和泉』に書いている。
「和泉が他の尊攘派志士のごとく血気・感憤しやすい年齢でなく、すでに人生の終わりに近い52歳、しかも内に外に多くの体験をつみ、内省と思考を重ねるに不足のない円熟の世代であったことは、その死が決して一時の激情にもとづくものではなかったことを物語っているといえよう」
むろん、妻も子供(5人)もいた。
結婚したのは19歳のときで、相手は9歳年上の女性だった。28歳の新妻睦子の実家は豪商で、藩の御用商人でもあった。真木家はというか和泉はこの妻の実家から、なにかと経済的援助をうけたもののようである。
姉さん女房であった睦子は、晩年になってもその容色がひと目をひくほどの美人で、よほどあかぬけした女性であったらしい。
和泉は26歳のとき、妻と一緒に島原小浜温泉に遊んでいるが、現地の人たちは、力士が芸伎を連れてきたと噂しあったという。芸伎にみられるぐらい艶やかな女性であったのだ。
一方、力士とみなされた和泉のほうであるが、そう、5尺8寸の大男だったのである。私はなんとなく勝手に、真木和泉を神経質そうな痩身痩躯の人物としてイメージしていたから、このエピソードにはいささか驚いたものである。
矢田一嘯筆の真木和泉の肖像をみると、二重瞼のぎょろりとした大きな眼、太い鼻梁の精悍な面立ちであって、なるほど力士と間違われても不思議ではなさそうである。
元治元年(1864)、いわゆる禁門の変で長州軍に参加、敗北して天王山で同志16名とともに自刃したのだが、享年52歳だった。52年の生涯だったのである。
山口宗之氏は前掲の『真木和泉』に書いている。
「和泉が他の尊攘派志士のごとく血気・感憤しやすい年齢でなく、すでに人生の終わりに近い52歳、しかも内に外に多くの体験をつみ、内省と思考を重ねるに不足のない円熟の世代であったことは、その死が決して一時の激情にもとづくものではなかったことを物語っているといえよう」
むろん、妻も子供(5人)もいた。
結婚したのは19歳のときで、相手は9歳年上の女性だった。28歳の新妻睦子の実家は豪商で、藩の御用商人でもあった。真木家はというか和泉はこの妻の実家から、なにかと経済的援助をうけたもののようである。
姉さん女房であった睦子は、晩年になってもその容色がひと目をひくほどの美人で、よほどあかぬけした女性であったらしい。
和泉は26歳のとき、妻と一緒に島原小浜温泉に遊んでいるが、現地の人たちは、力士が芸伎を連れてきたと噂しあったという。芸伎にみられるぐらい艶やかな女性であったのだ。
一方、力士とみなされた和泉のほうであるが、そう、5尺8寸の大男だったのである。私はなんとなく勝手に、真木和泉を神経質そうな痩身痩躯の人物としてイメージしていたから、このエピソードにはいささか驚いたものである。
矢田一嘯筆の真木和泉の肖像をみると、二重瞼のぎょろりとした大きな眼、太い鼻梁の精悍な面立ちであって、なるほど力士と間違われても不思議ではなさそうである。