さて彼が「又右衛門」と名乗ったのも、正確にはいつの頃からかわからない。
前名は巳之助とも丑之助ともいわれる。慶長6年生れ説の史家は丑之助とする。その年が丑年であるからだ。しかし、彼の妥当な生年はあくまで慶長4年であって、6年ではない。そもそも生年の干支にちなんで名をつけたとは限らない。たぶん丑之助ではなく、巳之助が正しいと思われる。
なぜ慶長4年が妥当かといえば、伊賀越えの決闘後、伊賀の城代が藩公に事後の様子を注進した公文書があり、そこに「荒木又右衛門年三十六」とあるからだ。逆算すると慶長4年の生まれということになる。
ともあれ荒木又右衛門、もと服部巳之助であったということになる。しからば、なぜ又右衛門なのか。
柳生宗矩は但馬守に任じられるまでは、又右衛門と名乗っていた。だから柳生宗矩が自分の前名を荒木に与えたのであろうというのは、江戸学の泰山北斗と仰がれる三田村鳶魚である。三田村鳶魚は荒木が柳生宗矩と師弟関係にあったことを疑っていないが、これはいかかがなものか。
柳生宗矩は荒木が生れる以前の文録3年(1594年)旗本として徳川家康に仕え、以降秀忠、家光と将軍家の剣術指南であった。家光の時代には総目付として幕閣の中枢を占め、大名に列した人物だ。いわゆる江戸柳生の総帥である。江戸に居る柳生宗矩と西国にいる荒木と接点がないのである。
なんのことはない、荒木の祖父に又右衛門なる人物がいて、その名を踏襲したという説もあるが、こっちのほうがよほど信憑性がある。
前名は巳之助とも丑之助ともいわれる。慶長6年生れ説の史家は丑之助とする。その年が丑年であるからだ。しかし、彼の妥当な生年はあくまで慶長4年であって、6年ではない。そもそも生年の干支にちなんで名をつけたとは限らない。たぶん丑之助ではなく、巳之助が正しいと思われる。
なぜ慶長4年が妥当かといえば、伊賀越えの決闘後、伊賀の城代が藩公に事後の様子を注進した公文書があり、そこに「荒木又右衛門年三十六」とあるからだ。逆算すると慶長4年の生まれということになる。
ともあれ荒木又右衛門、もと服部巳之助であったということになる。しからば、なぜ又右衛門なのか。
柳生宗矩は但馬守に任じられるまでは、又右衛門と名乗っていた。だから柳生宗矩が自分の前名を荒木に与えたのであろうというのは、江戸学の泰山北斗と仰がれる三田村鳶魚である。三田村鳶魚は荒木が柳生宗矩と師弟関係にあったことを疑っていないが、これはいかかがなものか。
柳生宗矩は荒木が生れる以前の文録3年(1594年)旗本として徳川家康に仕え、以降秀忠、家光と将軍家の剣術指南であった。家光の時代には総目付として幕閣の中枢を占め、大名に列した人物だ。いわゆる江戸柳生の総帥である。江戸に居る柳生宗矩と西国にいる荒木と接点がないのである。
なんのことはない、荒木の祖父に又右衛門なる人物がいて、その名を踏襲したという説もあるが、こっちのほうがよほど信憑性がある。