小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

荒木又右衛門の謎  2

2006-11-30 14:45:40 | 小説
 さて彼が「又右衛門」と名乗ったのも、正確にはいつの頃からかわからない。
 前名は巳之助とも丑之助ともいわれる。慶長6年生れ説の史家は丑之助とする。その年が丑年であるからだ。しかし、彼の妥当な生年はあくまで慶長4年であって、6年ではない。そもそも生年の干支にちなんで名をつけたとは限らない。たぶん丑之助ではなく、巳之助が正しいと思われる。
 なぜ慶長4年が妥当かといえば、伊賀越えの決闘後、伊賀の城代が藩公に事後の様子を注進した公文書があり、そこに「荒木又右衛門年三十六」とあるからだ。逆算すると慶長4年の生まれということになる。
 ともあれ荒木又右衛門、もと服部巳之助であったということになる。しからば、なぜ又右衛門なのか。
 柳生宗矩は但馬守に任じられるまでは、又右衛門と名乗っていた。だから柳生宗矩が自分の前名を荒木に与えたのであろうというのは、江戸学の泰山北斗と仰がれる三田村鳶魚である。三田村鳶魚は荒木が柳生宗矩と師弟関係にあったことを疑っていないが、これはいかかがなものか。
 柳生宗矩は荒木が生れる以前の文録3年(1594年)旗本として徳川家康に仕え、以降秀忠、家光と将軍家の剣術指南であった。家光の時代には総目付として幕閣の中枢を占め、大名に列した人物だ。いわゆる江戸柳生の総帥である。江戸に居る柳生宗矩と西国にいる荒木と接点がないのである。
 なんのことはない、荒木の祖父に又右衛門なる人物がいて、その名を踏襲したという説もあるが、こっちのほうがよほど信憑性がある。

荒木又右衛門の謎  1

2006-11-29 18:12:57 | 小説
 日本三大仇討といわれるのは、曽我兄弟の仇討、赤穂浪士の討入り(忠臣蔵)と「鍵屋の辻の決闘」である。前の二つに関してはブログに書いたが、残るひとつが気になっていた。ご存知、荒木又右衛門の活躍する歴史的事実である。
 ところがである。この荒木又右衛門なる剣豪、謎だらけなのであった。
 たとえば、その生年も慶長3年説、4年説、6年説がある。どうやら4年説が正しいらしいが、平凡社の『日本人名大事典』は慶長6年説を採用している。(ちなみにこの大事典の記述は事実の検証を怠っており、鵜呑みにすると講談のような荒木又右衛門像ができあがってしまう)
 つまり1599年生れと確認して先に進もう。
 私たちは時代劇映画やTVドラマによって、荒木又右衛門といえば、柳生新陰流の達人であるとすりこまれている。柳生十兵衛あるいはその父柳生宗矩の門人だったという説が信じられている。この説、調べれば調べるほど疑わしくなってくるのだが、そのことは後に触れる。まず姓名の謎。
 父の名は服部平左衛門、この父ははじめ藤堂高虎に仕え、のち岡山藩の池田忠雄に召抱えられている。又右衛門は次男であったらしく12才のときに養子に出されているが、養家も服部姓であった。実父・養父の服部姓を彼はなぜ名乗らなかったのか。たしかに、伊賀の国服部郷荒木村の生れであるから、村名を姓にしてもおかしくはないが、一時期は「菊山」姓を名乗ったりもしている。姓を変えるということは、ある意味では素性を隠すということである。彼にも素性を隠す必要があったのではないか。伊賀国服部郷といえば、忍者の産地であるからだ。

刃傷松の廊下の「真相」  完

2006-11-23 11:58:07 | 小説
「士は耕さずしてくらひ、造らずして用ひ、売買せずして利足る」として武士のあり方に一種のコンプレックスを抱いていたのは山鹿素行であった。では、「士」の職分とはなにか。それはひとえに「士道」というモラルをつらぬくことだ、というのが素行の思想の核にある。もしモラルをまっとうできないならば、士は「天の賊民」あるいは「遊民」であり、農工商の三民に劣る存在になるというのが素行の考え方だった。浅野家に浸透していた素行の士道論はそういうものである。むろん内匠頭の心情にも通底している。そこのところをくまずして、内匠頭をたんなる乱心者、思慮分別に欠けた短気な殿様とみてはいけないと思う。世俗の利害得失や思慮分別に「士」の倫理が優先してこその「士道」なのである。
 内匠頭の惹起した刃傷事件は、赤穂浪士の吉良邸討入りにつながるわけだが、赤穂浪士はなぜ義士と呼ばれるのか。いや義士ではないだろうという説は当初からあった。内匠頭は幕命によって切腹させられたのであって、吉良に殺されたわけではない。敵討ちならば幕府を討たねばならず、吉良を討つのは筋違いだという(荻生徂徠の門人太宰春台の説)見方からすれば、敵討ちにすらならない。敵討ちだからこそ義士・忠臣となるのだが、敵討ちと解釈できなければ、ただのテロリスト集団になる。ではふたたび問おう。なぜ義士と呼ばれるのか。 さまざまな論述が可能であるが、ただ一点、赤穂浪士たちは「亡君の遺志」を継いだから忠臣であると断言しておこう。内匠頭は上野介を討ちもらしていた。だから家臣は亡君にかわって討ち取ったにすぎない。素行は『山鹿語類』で述べている。
「身を委ねるというのが臣の道なのであるから、緊急時にのぞんで、そのようにせねばならないというときには、自分の身を捨てて死をもいとわぬというのが、すなわち、臣の義である。つねに死の覚悟で事をつとめるというのならば、自分の家やその身を忘れることが根本とならねばならない」
 死をいとわず「家やその身を忘れること」ここに内匠頭と浪士たちを結ぶ心情の論理がある。「忠臣蔵」がひとの心を打つのは、ひとはふつうそのような激越な心情の論理から遠ざかった日常を生きているからである。

刃傷松の廊下の「真相」  18

2006-11-19 11:43:54 | 小説
 吉良に関する文書、とりわけ上野介に対する意趣あるいは宿意を明らかにする書付のようなものは、内匠頭はおそらく残していなかった。それでも屋敷に侵入した曲者集団に収穫がなかったわけではない。公儀に不利になる書類はなさそうだと確認できたからである。
 内匠頭の宿意の根底にあるのは、吉良上野介という存在そのものが許せない、という思想のようなものであった。思想のようなものというのは、まだ言語化されていないもやもやとした感情と言い換えてもよい。
 刃傷の直接のきっかけは上野介の吐いた雑言であったはずだが、もともと内匠頭の胸中には、その「もやもや」の水位があがっていて、いつ堰をきってもおかしくはなかったのである。切腹の直前に家臣に伝えて欲しいといった、いわば遺言「このこと、かねて知らせておこうと思っていたが、……やむをえず知らせられなかった」という言葉は内匠頭の心中を素直に吐露していると思う。吉良に対して以前からこんな宿意があると伝えておけば、自分の行為も理解してもらえたかもしれない、と言っているのだ。それ以上を語れば愚痴になる。だから内匠頭はそれ以上を語らなかった。理解されがたいだろう、と内匠頭自身わかっていたのである。
 刃傷の理由は、かくして後の世まで謎になった。
 上野介と男色の相手をめぐる確執があったなどという荒唐無稽な説、さらには塩田技術をめぐる葛藤があったなど、私は一顧だにする価値はない説と決めつけているが、もはやその根拠を述べる必要もないだろう。 

刃傷松の廊下の「真相」  17

2006-11-16 20:27:55 | 小説
 当日の浅野屋敷の様子をもっと微細に見てみよう。
 浅野家の家中の者たちは、吉良に関する情報が錯綜とし、重体説、死亡説こもごも飛びかい、ともかく続々と上屋敷に終結したもののようだ。『堀部武庸筆記』によれば、「家中之者共屋敷に相詰」とある。以下の記述は同史料によるが、武庸とはむろん安兵衛のことである。
 まず屋敷に三河岡崎城主の水野監物が来た。「騒動をおこさないように」と伝えに来たのである。これが午後4時半頃のこと。入れ替わるようにして、戸田采女正と浅野美濃守が来る。戸田采女正は美濃大垣城主で内匠頭のいとこであった。浅野美濃守は内匠頭の叔父にあたる人物だ。内匠頭の親類ふたりは、家臣たちの暴発を懸念して、なだめに来たのである。
 次に室鳩巣の『赤穂義人録』を参照する。こちらの史料によれば、戸田采女正は「士卒をひきいて邸を環守す」とある。ものものしいのである。そして「安芸守浅野綱長、将卒二百人を遣はし、すみやかに邸内の人衆をを出だし、及び門巷屋舎を掃除せしむ。夜に至りて、邸を以って氏定(戸田采女正)に授け、すなはち去る」と書いている。
 つまり、主を失った浅野屋敷は、身内の戸田采女正の管理にゆだねられたということだ。
 いずれにせよ、夜になって邸内に人がいなくなったとしても、つい先ほどまではものものしく士卒が取囲んでいた大名屋敷なのである。すべてのタイミングを呑みこんでいなければ、当夜の浅野屋敷を襲うことは不可能ではないか。市井の泥棒集団であるわけがないと、くどいようだが念をおしておこう。

刃傷松の廊下の「真相」  16

2006-11-15 20:34:06 | 小説
 その夜は皓々した月明かりが下界を照らしていた。多門伝八郎は記録している。彼が内匠頭の切腹を見届け、直ちに登城してしかるべき報告をして「表四番丁帰宅は四つ頃なり。元禄十四年辛巳年三月十四日夜四つ頃にて月は昼のごとし」と。
 曲者集団は闇に乗じてというわけにはいかなかったのである。しかも大勢で大名屋敷を襲って泥棒するとは、なんと大胆不敵であることか。町人の集団にそんなことができるだろうか。そしてなにより浅野家に突如勃発した事件、それも城中で起きた事件を、そんなに早く町人たちが知りうるだろうかという疑いが残る。
 私は、この曲者集団をずばり公儀の手のものと思っている。曲者たちは金目のものを狙ったのではない。「軽きもの共諸道具」というのは文箱とか書類の入った箱の類ではなかったのか。彼らが探していたのは、内匠頭の日記あるいは書き付けのようなもので、つまり上野介に対する遺恨の理由が明文化されているものがあれば、見つけたかったのあろう。なぜか。その文書を抹消するためである。もしも吉良上野介に非のあるような証拠書類があって、公表でもされれば公儀は面目を失うことになる。浅野、吉良両者に多門のいう「片落ち」の仕置きをしたこと、それも内匠頭に即日切腹させたことを、公儀は後悔しはじめていたのだ。たぶん、多門がしきりに気にしていた外様大名たちに与える影響も気がかりになりはじめたのだ。
 公儀と抽象的な言い方はやめよう。浅野と吉良の裁定を指示したのは松平美濃守つまり柳沢吉保であった。幕閣で絶大な権勢を握っていた柳沢吉保は、ほとんど老中などの意向もたださず、今回も独断で処理していた。しかし、さすがの彼も気になりはじめたのだ。だから曲者集団を動かした。

刃傷松の廊下の「真相」  15

2006-11-14 17:16:17 | 小説
 刃傷事件の起きた時刻は午前11時頃、そして内匠頭が切腹の場所となる田村右京大夫の下屋敷の裏門をくぐったのが午後3時頃。
 たしかに早すぎる処断である。内匠頭を訊問し、状況を老中らに報告して裁定を待っていた多門伝八郎は憤慨している。「かりそめにも五万石の城主、しかるところ今日直ちに切腹とはあまり手軽の御仕置きにござ候」「家名を捨て、お場所柄をも忘却仕り、刃傷に及び候ほどの恨みこれ有り候は、乱心とても上野介に落度(原文は越度)これ有るべきやも計り難く」と多門は書いている。彼はもっと日数をかけて自分たちに吟味させろと若年寄りらにしつこく詰め寄っている。しかし一介の目付けの意見で裁定がくつがえることはなかった。多門は逆に叱責されたらしいが、検使として田村邸には赴き、内匠頭の切腹は見届けている。多門は内匠頭の遺恨の理由をなんとしてでも知りたかったに違いない。吉良がお構いなしというのは、「片落ちのお仕置き」と怒っていたからだ。
 ところで、気になる話がある。
 内匠頭が切腹した3月14日の夜、鉄砲洲の浅野家上屋敷に泥棒が入っている。それも4、50人という集団である。その夜は屋敷の出入りは厳重で、亥の刻(午後10時頃)から表門は閉っていた。曲者集団は屋敷裏の水門から忍び込んでいる。おびただしい数の舟で来ているのだ。水門の番人の知らせで堀部安兵衛が駆けつけ一喝したら、あわてて舟で逃げ去った、という。
 曲者たちが持ち出したものは「軽きもの共諸道具」とある。(堀部安兵衛が吉川茂兵衛にあてた手紙)
 さてこの泥棒集団は、浅野家断絶と聞いた町人たちの、いわば火事場泥棒みたいなものだろうか。そうは思えない。

刃傷松の廊下の「真相」  14

2006-11-13 16:07:12 | 小説
 さて、吉良上野介は額に一撃を受けた時点で失神していた。その吉良を高家衆のふたりが引きずるようにして医師の間へ連行、内匠頭は梶川によれば「大勢」で「取りかこみ」大広間の後の方へ引き据えていた。 
 内匠頭は大声で「上野介事、この間中意趣これ有り候ゆえ」と叫んでいたという。目付けの多門伝八郎が現場に駆けつけたときは、しかし興奮はおさまっていて、神妙な様子だったらしい。
「私儀、乱心は仕らず候、お組留めの義はごもっともにござ候へども」もう放して欲しい、と言った。多門はそう「覚書」に書いている。
 多門の事情聴取に対しても、私的な遺恨から前後も考えず刃傷に及んだ、と答えたのみで、内匠頭はその「意趣」「遺恨」の内容については語らなかった。
 切腹の直前に家来に伝えてほしいとした口上も「このことはかねて知らせようと思っていたが今日までやむをえず知らせられなかった。不審に思うであろう」というものだった。
 内匠頭は胸の内をうまく表現できないのである。吉良上野介に抱いていた悪印象は、他の大名たちに関わる挿話の積重ねであって、これを「かねてよりの意趣」とすれば刃傷の理由を他人のせいにするようになる。雑言をあびて逆上したのは確かな事実であるが、こんな雑言をあびたと明らかにするのも矜持が許さない。金銭で態度がころりと変わるような武士は、山鹿素行の薫陶をうけた内匠頭には許しがたい存在なのだが、上野介がそういう武士であると証拠立てるには、もはや手遅れのような状態だ。言い訳のようなくだくだしいことがらをあげつらっても仕方がない。内匠頭の無念は、家臣たちが「不審に思うであろう」とわかっているから、なおさらなのである。
 その無念さを、彼を訊問した多門伝八郎はじゅうぶんすぎるほど感じとっていた。多門の「覚書」は極端な浅野びいきであった。内匠頭の有名な辞世の歌は多門の記述によるものだが、もしかしたら多門の創作ではないかとされている。
 風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとかせん
 もし、そういう言い方があれば「無念さの美学」のような歌だ。

刃傷松の廊下の「真相」  13

2006-11-12 15:48:05 | 小説
 内匠頭は思わず足早に吉良上野介に近寄って来ようとしたに違いない。饗応準備の調整のために内心あせっていたはずだ。振り返った上野介は、そんな内匠頭の様子に気づいたのである。
「なにを慌てふためいておる」とでも言ったのである。「田舎大名のご馳走役は、これだから困る」
 あるいはもっと侮蔑的な言葉を吐いたのかもしれない。殿中刃傷のきっかけは、こうとしか考えられない。
 このとき、梶川だけがいたのではない。近くには品川豊前守や畠山下総守などの高家衆、院使饗応役の伊達左京亮、むろんお城坊主など茶坊主もいた。吉良の罵詈雑言は、むしろ彼らに聞こえるように言ったのだ。公然の場で自分を罵倒した相手に斬りかかるのは、武士の本能のようなものである。内匠頭は、抜刀した。
「雑言、覚えたか」
 おそらく、その瞬間の言葉は短かく、こんなところだ。
 内匠頭の脳裏で、これまでの伏線が瞬時に収斂して発火したように思われる。それは津和野藩主ら各大名たちの吉良に対する確執と憎悪だ。天誅、というが如き思いが衝動になっている。だから手討ちのように刀をふりかざして吉良の額を撃ったのである。
 突き刺せば確実に仕留められるのに、そうしなかったのは元禄武士は軟弱になっていた、と内匠頭を非難する論者がいる。違う。むしろ刺さずに、手討ちのようにふりかざした刀にこめた内匠頭の憤怒を読みとるべきである。
 余談になる。手討ちといえば、「手打ち蕎麦」の由来は「手討ち蕎麦」だそうだ。赤穂浪士たちが討入りの前に蕎麦屋に集まった事から流行した呼称らしい。なるほど、江戸時代には機械打ちはないわけだから、「手打ち」は「手討ち」なのであろう。

刃傷松の廊下の「真相」  12

2006-11-11 14:29:21 | 小説
 もう少し『梶川氏日記』にこだわってみよう。
 注目すべきは「今日御使いの刻限早く相成り候義を、云々」のくだりである。勅使と院使の到着が予定より早くなっているのだ。『徳川実紀』も似たようなことを書いていた。つまり、吉良の意地悪によって内匠頭は「時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ」刃傷に及んだと。
 勅使らの到着時刻の変更で、饗応の手順に狂いが生じたことは確かなことのようだ。であるから梶川は最初は吉良に連絡をとろうと茶坊主に探させている。ところが吉良は老中と用談中と聞き、こんどは内匠頭を呼んでくれと頼んでいる。
「すなはち内匠殿参られ候ゆゑ、『拙者義今日伝奏屋敷へ御台様よりの御使い相勤め候間、諸事宜しきやう頼み入る』よし申す。内匠殿『心得候』とて本座へ帰られ候」
 と書かれている。これが事件寸前の状況である。内匠頭になんの変わったところもない。この時点で乱心、または逆上し、眼でも血走っていれば、梶川の筆は違ったものになったはずだが、内匠頭は梶川の要求に「心得た」と落着いた返事をしているだけだ。内匠頭もまた上野介を探しに行ったのではないかと思われる。段取りの是正のための打合わせが必要だからだ。
 ほどなく梶川は、おそらく中庭越しに白書院の方に吉良の姿を認め、あらためて茶坊主に吉良を呼びにやる。
 そしてふたりで立ち話、そこへ内匠頭の登場、となるわけである。その登場たるや、吉良の背後を斬りつけるというのは寸前の状況からしてもありえないだろう。内匠頭にすれば、まず早急に上野介と打合せをしなければならない。
 内匠頭は武を好んだ大名だった。松の廊下に登場した時点で上野介に殺意を抱いていたとすれば、儀礼用の小刀で斬りつけるようなことはしない。確実に突き刺すはずだ。そうしていないのは、なぜか。

刃傷松の廊下の「真相」  11

2006-11-09 16:15:08 | 小説
 梶川のこの記述では、まるでいつの間にか内匠頭が吉良上野介の背後に忍び寄ってきて、いきなり、わめきながら吉良の背中を切りつけたことになる。 
 不自然ではないか。松の廊下は長いのである。当の吉良と立ち話をしている梶川の視界に、こちらに向かってくる内匠頭の姿が入らないわけはない。「誰やらん」などという語句は白々しいのだ。しかも切りつける瞬間に発した言葉が「この間の遺恨覚えたるか」では、いささか間延びするではないか。私は自分でこの言葉を発しながら、脇差(模造刀)の鞘をはらってみたけれど、なんとも力が分散して、さまにならなかった。実はたんに「声かけ切り付けた」とした別の梶川氏日記写本がある。妙なことに二通りの写本があるが、こちらが正しいと思われる。それにしても、背後から切りつけたというのも依然として変だ。
 医師の栗崎道有の所見は違う。こう記している。
「(内匠頭は)小さ刀を抜き打ちに眉間を切る、烏帽子に当たり烏帽子の縁までにて切り止まる。時に吉良横うつむきになる所を二の太刀にて背を切る」(原文はカタカナ)そして「額筋交眉間の上の骨切れる。疵の長さ三寸五、六分」で六針縫ったとしている。背の疵は浅く、三針縫ったとも記している。
 なぜ梶川の記述は不自然で、しかも太刀の順番で嘘をつくのか。日記に嘘は書かないだろうから動転していて思い間違えたということではなさそうだ。この日記は公用日記である。事件の五日後、梶川は5百石加増されている。内匠頭を押しとどめた褒賞にしては過分である。梶川日記には、浅野は乱心し卑怯にも背後から切りつけたとしたほうが都合がよいという幕閣の思惑が反映されているように、私には思われる。
 

刃傷松の廊下の「真相」  10

2006-11-08 17:37:06 | 小説
 さて、ここいらで事件当日の現場にもどってみよう。
 いわば目撃証言とも言える『梶川氏日記』と浅野・吉良双方を訊問した人物の記録『多門伝八郎覚書』それに吉良の傷の手当てをした医師のメモ『栗崎道有記録』の三つの史料がある。というより参照すべき史料はこの三つしかない、といったほうがよいだろう。かって森村誠一は小説『忠臣蔵』を書くにあたり、古書の小宮山書店に資料の蒐集を依頼したら、軽トラック10台分集まったという。それに全て目を通して作品を仕上げたというから頭が下がるけれども、こと刃傷に関する根本資料は僅かなものなのである。
 ともあれ大奥留守居役梶川与惣兵衛(当時55才)の日記を抄出する。
「(吉良と梶川が)互いに立ち居候て、今日御使いの刻限早く相成り候義を一言二言申し候ところ、誰やらん吉良殿の後より、『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけ、切りつけ申し候。(略)我等も驚き見候へば御馳走人の内匠殿なり。上野介殿これはとて後の方へふり向き申され候ところをまた切り付けられ候ゆゑ、我等方前へむきて逃げんとせられし所をまた二太刀ほど切られ申し候、上野介殿そのまゝうつむきに倒れ申され候。(略)右の節、我等片手は内匠頭小刀の鍔にあたり候ゆゑ、それ共に押し付けすくめ申し候」
 この梶川の記述によれば、内匠頭はまず吉良を背後から切りつけ、計四太刀浴びせたことになる。ところが、これは医師の記述とは違っているのである。実際は二太刀。目撃証言が必ずしも当てにならないのである。
ほんとうに内匠頭は「この間の遺恨覚えたるか」といったのか。

刃傷松の廊下の「真相」  9

2006-11-07 16:43:48 | 小説
 余談めくが、事件のあとで吉良上野介は妻と離婚したという説がある。妻の富子は、上野介に「浅野は腹を切ったのだから、あなたも万人の恨みを散ずるために腹を召されては」といい、不仲になったというのである。いまはやりの熟年離婚のさきがけのようなものだが、当時、60才を過ぎた者同士の離婚と言うのは珍しい。吉良家が呉服橋から本所松阪町に屋敷替えになったとき、富子は同行していない。芝白金の上杉家の下屋敷にひとり移っているから、別居したのは事実である。
 富子は出羽国米沢藩主上杉定勝の4女だった。30万石の国主大名の姫と4千200石の上野介の結婚は異例であった。最初から富子は微妙な葛藤をかかえていたのかもしれない。浅野内匠頭の切腹を知ったとき、大名の姫という矜持が頭をもたげ、夫に対する積年の不満が爆発したとも考えられる。
 しかも、あまり知られていないことだが、上野介には富子の兄で4代目米沢藩主綱勝の毒殺嫌疑がかかっていた。綱勝は吉良邸で馳走になったあと容態がおかしくなり、7日後に死んでいるからである。上杉家内部にくすぶっていた疑惑だ。世継ぎ問題にからんでいるのだが、ことが公になってはお家断絶の危機におちいるから、真相究明はあいまいにされていた。しかし富子は夫を疑っていたはずだ。
 そんなわけで富子は上野介の性格の酷薄さを妻ゆえによく知っていた。松の廊下の刃傷も詳細はわからないとしても、彼女は内匠頭に同情的になったと思われる。女の直感というものである。

刃傷松の廊下の「真相」  8

2006-11-06 20:46:29 | 小説
 さて、いささか吉良上野介の弁護をすれば、彼のほうから賄賂を要求したことはなかったと思う。いわば相場のない教授料を受け取っていて、その多寡によって勅使饗応役に対する態度を変えていたとしてもだ。
 もっとも、はっきり「賄賂をむさぼり」と記したのは『徳川実紀』であった。吉良は「公武の礼節典故を熟知精練」していて「名門大家の族も、みな曲折してかれに阿順し、毎事その教えを受けたり。されば賄賂をむさぼり、その家巨万をかさねしとぞ」ところが内匠頭は「阿諛せず」吉良に「財貨をあたへざりしかば」要するに吉良のいじめにあったというのである。
 上野介は、口の悪い嫌味な人物であったことは確かなことのように思われるが、もう一度彼の弁護をすれば、この時代の権力の二重構造、つまり朝幕のひずみを一身で象徴しているような人物だった。悲劇の要因はそこにあったのかもしれない。
 勅使饗応役に選ばれる大名は、石高は3万石から10万石までの家格と決まっていた。接待費は大名の負担であるから、石高の少ない大名は最初からお呼びではない。浅野家は5万石。これに対し吉良の禄高は4千200石。禄高でみれば、浅野と吉良では格が違うのである。ところが吉良上野介の官位はとなると従四位上少将だから、ときの老中の従四位下侍従よりもはるかに高いのである。だから公家のような武士のような、つまり獣のような鳥のような蝙蝠のごとき存在が吉良上野介だったのである。彼が大名に高慢な態度でのぞむときは官位を笠に着ているのだが、それがどれだけ大名たちの反感をかっていたかは考えもしなかったであろう。まして侮蔑的な言葉を吐かれたり愚弄されたら、武士がいかなる態度に出るか、理解しないまま齢を重ねてしまったのだ。

刃傷松の廊下の「真相」  7

2006-11-05 15:34:00 | 小説
 赤穂藩は、藩主はもとより家臣はみな山鹿素行の「教育」をうけていた。
 朱子学者山崎闇斎の高弟佐藤直方は「内匠家素(もと)ヨリ山鹿氏ガ軍法ヲ尊ミ、大石ヲ始(め)此教(え)ヲ学ブ」と『復讐論』に書いている。 
 朱子学の批判者だった素行のことを、佐藤直方は兵学者としか見ていないが、素行の教えの真髄は、むしろその思想性にあった。
 素行の門弟たちが師の教えを筆録した『山鹿語類』にこんな言葉がある。
 大丈夫たるものは心に清廉を守らなければならない、として「清廉というのは賄賂や自分の財産などに心をひかれることなく、世の人一般の行ないがたいところに高く立ち、屈しないことをいう。内に清廉なところがないならば、外のわずかばかりの利害にも心を奪われて、その本心を失ってしまうものである」(日本の名著12「山鹿素行」田原嗣郎訳・中央公論社より)
「賄賂」は受取ることはもちろん、渡してもいけないと、素行は教えているのである。
 こういう教えを叩きこまれていた内匠頭は、おそらくあからさまに賄賂を要求されたら断っていただろう。さらにいえば、側近たちにも浸透している素行の教えは、津和野藩のように機転のきく多胡真蔭のような人物を出難くしたのであろう。