小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

凌霜隊の悲劇  9

2008-07-07 17:56:10 | 小説
 城明渡しは9月22日と決まる。
 その日、大手先には「降参」という幟が立った。会津公父子が凌霜隊の前に姿をあらわす。城の主が凌霜隊にどんな言葉をかけたのか矢野原はなにも記録していないが、こう書いている。
「御様子見上げ奉り一統恐れ入り、涙を流さぬものはなし」
 彼らはここで泣いたのであった。自分たちの運命よりも、会津公父子の運命に泣いたのであった。
 22日の城明渡しは翌23日にずれた。あとかたづけと武器類の取りまとめに手間取ったからである。
 その日、凌霜隊は埋門から隊列を組んで場外に出た。昼頃である。官軍の注視を浴びながら猪苗代まで行く。午後6時過ぎ、菓子屋と町医者の家に分宿謹慎させられた。このときはまだ帯刀は許されていたが、24日には大小刀は取り上げられ、それから10月11日までの19日間を猪苗代で厳寒の謹慎生活となった。
 10月12日、大垣藩の護衛のもとに江戸に向けて出発する。
 千住に到着したのが10月24日の朝だった。ここで彼らは旧藩お預けの処置となり、郡上へ護送されることになった。
 千住より伝馬船二艙に分乗し、隅田川を下って品川沖へ出、翌日の早朝、淡路帰りの千石船に移乗した。
 遠州灘でおおしけにあい、救船に移るなど、彼らの帰郷は波乱含みだった。
 志摩明神浦に上陸したのが11月2日であった。破船のおりに路銀を失っており、ここで7日間足止め。
 なんとか郡上に着いたのは11月17日であった。(ちなみに尾州船に助けられた4人のみは11月8日に先着している)
 即日、揚屋入り禁固となった。
 親類縁者との面会、通信も禁じられた。


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1 コメント

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凌霜隊の悲劇  9 (パトリオット)
2014-01-14 08:06:51
会津公父子は声をかける余裕は
なかったでしょう。
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