時代は、四国を統一した長宗我部元親がまだ土佐一国を統一する前の話である。天文20年(1551)吉良宣経は戦場で病死、やがて吉良家は滅亡する運命をたどった。
南村梅軒にとって、土佐は安住の地ではなかったのである。
かってこの国に仏教を導入した為政者たちも、その仏教をいわば富国強兵の観点から公認した。朱子学もまた同じだと思う。人間としての徳目を高め、ひととしての生き方の指針となすというよりも、富国強兵のツールとしての実利的側面を優先した。だから為政者や権力者が積極的に学ぼうとしたのである。
もしも富国強兵という言い方に語弊があるとすれば、「治民経国」あるいは「国家昇平」と言い換えてもよい。いずれにせよ、たんなる教養としての学問・思想ではなかったということだ。ちなみに朝鮮の朱子学は政治的党争に結びついていた。
吉良家を去った南村梅軒のその後の消息は詳らかではない。
しかし梅軒の朱子学は、つまり南学は3人の僧侶によって承継され、土佐の地に根づいた。3人とは、宗安寺の信西、吸江寺の忍性、雪蹊寺の天室(質)である。
信西と忍性は長宗我部元親に招かれて岡豊城で忠孝を説き士風を高めたという。このふたりの亡きあと、長宗我部家で朱子学を講じたのが天室であった。
その天室の門下に、やはり僧侶で谷時中という逸材があらわれる。谷から薫陶を受け、やがて野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らが土佐山内家の学問的背景をになってゆくのである。
山崎闇斎は京都の針医者の四男で、若くして僧となり土佐に遊学して南学と出会い、僧をやめて学者になった。晩年、京に帰って多くの支持者を集めた。神道を研究し、その神儒一致の学説は幕末の勤王志士たちに小さくない影響を与えている。
話は脱線するけれど、30才を過ぎてから蘭学にのめりこんだ佐久間象山も、もとはといえば朱子学の信奉者であった。
さて、この稿は最初に結論めいたことを書いてしまったら、書きつづける意欲を失ってしまった。尻切れとんぼみたいだが、ここらで筆を擱いておこうと思う。
南村梅軒にとって、土佐は安住の地ではなかったのである。
かってこの国に仏教を導入した為政者たちも、その仏教をいわば富国強兵の観点から公認した。朱子学もまた同じだと思う。人間としての徳目を高め、ひととしての生き方の指針となすというよりも、富国強兵のツールとしての実利的側面を優先した。だから為政者や権力者が積極的に学ぼうとしたのである。
もしも富国強兵という言い方に語弊があるとすれば、「治民経国」あるいは「国家昇平」と言い換えてもよい。いずれにせよ、たんなる教養としての学問・思想ではなかったということだ。ちなみに朝鮮の朱子学は政治的党争に結びついていた。
吉良家を去った南村梅軒のその後の消息は詳らかではない。
しかし梅軒の朱子学は、つまり南学は3人の僧侶によって承継され、土佐の地に根づいた。3人とは、宗安寺の信西、吸江寺の忍性、雪蹊寺の天室(質)である。
信西と忍性は長宗我部元親に招かれて岡豊城で忠孝を説き士風を高めたという。このふたりの亡きあと、長宗我部家で朱子学を講じたのが天室であった。
その天室の門下に、やはり僧侶で谷時中という逸材があらわれる。谷から薫陶を受け、やがて野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らが土佐山内家の学問的背景をになってゆくのである。
山崎闇斎は京都の針医者の四男で、若くして僧となり土佐に遊学して南学と出会い、僧をやめて学者になった。晩年、京に帰って多くの支持者を集めた。神道を研究し、その神儒一致の学説は幕末の勤王志士たちに小さくない影響を与えている。
話は脱線するけれど、30才を過ぎてから蘭学にのめりこんだ佐久間象山も、もとはといえば朱子学の信奉者であった。
さて、この稿は最初に結論めいたことを書いてしまったら、書きつづける意欲を失ってしまった。尻切れとんぼみたいだが、ここらで筆を擱いておこうと思う。