小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

南学が結ぶ土佐と長州 完

2008-05-29 13:58:04 | 小説
 時代は、四国を統一した長宗我部元親がまだ土佐一国を統一する前の話である。天文20年(1551)吉良宣経は戦場で病死、やがて吉良家は滅亡する運命をたどった。
 南村梅軒にとって、土佐は安住の地ではなかったのである。
 かってこの国に仏教を導入した為政者たちも、その仏教をいわば富国強兵の観点から公認した。朱子学もまた同じだと思う。人間としての徳目を高め、ひととしての生き方の指針となすというよりも、富国強兵のツールとしての実利的側面を優先した。だから為政者や権力者が積極的に学ぼうとしたのである。
 もしも富国強兵という言い方に語弊があるとすれば、「治民経国」あるいは「国家昇平」と言い換えてもよい。いずれにせよ、たんなる教養としての学問・思想ではなかったということだ。ちなみに朝鮮の朱子学は政治的党争に結びついていた。
 吉良家を去った南村梅軒のその後の消息は詳らかではない。
 しかし梅軒の朱子学は、つまり南学は3人の僧侶によって承継され、土佐の地に根づいた。3人とは、宗安寺の信西、吸江寺の忍性、雪蹊寺の天室(質)である。
 信西と忍性は長宗我部元親に招かれて岡豊城で忠孝を説き士風を高めたという。このふたりの亡きあと、長宗我部家で朱子学を講じたのが天室であった。
 その天室の門下に、やはり僧侶で谷時中という逸材があらわれる。谷から薫陶を受け、やがて野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らが土佐山内家の学問的背景をになってゆくのである。
 山崎闇斎は京都の針医者の四男で、若くして僧となり土佐に遊学して南学と出会い、僧をやめて学者になった。晩年、京に帰って多くの支持者を集めた。神道を研究し、その神儒一致の学説は幕末の勤王志士たちに小さくない影響を与えている。
 話は脱線するけれど、30才を過ぎてから蘭学にのめりこんだ佐久間象山も、もとはといえば朱子学の信奉者であった。
 さて、この稿は最初に結論めいたことを書いてしまったら、書きつづける意欲を失ってしまった。尻切れとんぼみたいだが、ここらで筆を擱いておこうと思う。 

南学が結ぶ土佐と長州 2

2008-05-26 00:05:13 | 小説
 南村梅軒の師は桂庵玄樹であった。やはり周防の出身で、赤間関生まれの臨済宗の僧侶である。朱子学にあらずんば学にあらずという風潮の明に5年間の留学経験のある人物だ。
 梅軒は桂庵の晩年の弟子であったらしい。
 梅軒の生没年、家系など詳しく知る手だてはないが、桂庵から朱子学を学んだこと、大内義隆の臣になったこと、さらに天文年間に土佐に来て弘岡城主吉良宣経の賓師となり、宣経のために朱子学を講じたという経歴は明らかにされている。
 大内義隆は周防の守護大名で、文治主義的な戦国大名として知られている。周防、長門、石見、豊前、筑前の守護職だった。フランシスコ・ザビエルと面接した大名として記憶されている方もいるかもしれない。
 寺石正路は書いている。「而して天文の末大内氏の全盛少しく傾いて時勢稍不安となるに及び當時大内氏と竝び日本名門にして地方文化の中心地又安全地たる土佐一條家を慕ひて土佐に来り又一條家の最も昵近ある弘岡吉良氏の客を好むを幸と此に居を卜し南学の端を開きしものなるべし」
 なぜ梅軒が土佐くんだりにやってきたかという私の疑問は、寺石氏が戦前にあっさりと考証されていた。学浅くして、私が気づかなかっただけである。寺石氏も掲げている大内、一條両家の系図をみれば、両家が親密なのはすぐにわかることだった。
 大内氏の娘は一條氏の室となり、一條氏の男は大内氏の養子になるというように、互いに婚を通じて親を結び、両家は親類同士だったのである。
 一條家の幡多郡中村には「大内家使者屋敷」まであったというから、その親密さは並大抵のものではなかったのだ。
 一條家を頼って土佐に来たとわかれば、一條家と親密な土佐吉良氏の客となることは、さらによくわかることであるが、この吉良氏がまた名門であった。むろん忠臣蔵で有名な吉良家とはまったく無関係である。吉良宣経は、平治の乱で土佐に流された源頼朝同母弟源希義19代の裔だった。
 ところで土佐を安全地帯と梅軒が考えたとしたら、それは少し考え違いということになる。

南学が結ぶ土佐と長州 1

2008-05-25 07:37:00 | 小説
 南学、と聞いて土佐の朱子学のことと、とっさにおわかりになる人はたぶんあまり多くはないだろう。なにしろグーグルで検索しても「みなみ・まなぶ」という人名のほうが先にヒットしてしまう。
「土佐の朱子学」という言い方も妙なものだが、御存じのとおり朱子(本名朱熹・1130-1200)は中国の南宋時代の思想家である。彼の思想・学説が朱子学というわけだが、鎌倉室町時代に輸入された外来思想だった。主な輸入者は宋に留学した禅僧たちであった。いわゆる五山の禅僧たちだ。
 京都に五山があり、鎌倉にも五山がある。「京学五山禅僧派」などと総括される学者グループがあって、京都の公卿、博士たちと学術的交流があった。しかるに応仁・文明の乱は禅僧たちを地方へ移住させることとなる。疎開のようなものだ。彼らは地方で禅寺を建て、朱子学(ばかりではないが)を講じた。
 つまり、戦乱が朱子学を各地に普及させる契機となったのである。
 九州の薩摩では薩南学派とよばれるグループが形成され、土佐では海南学派が活動した。この海南学がすなわち「南学」なのである。
 その土佐の南学を「土佐勤王の泉源」と評したのは徳富蘇峰である。ところで南学の開祖とされる人物は実は土佐人ではない。周防(山口県)の南村梅軒である。土佐の南学は長州からの輸入思想なのであった。
 もう私がなにを言いたいのか、お察しのついた方がおられるかもしれない。蘇峰の言葉をかりれば、幕末の土佐の思想の「泉源」は南学であった。その南学は長州に淵源があった。土佐と長州の幕末思想の根っこのところは過去からつながっていたということだ。さらに言えば、これに薩南学派の潮流を加えれば、薩長土は鎌倉室町時代から思想・学問上の土壌は同じだったといえるかもしれないのだ。
 さてところで、南村梅軒はなぜ土佐にやってきたのだろう。なぜ他の土地でなく土佐を選んだのか、かねて疑問に思っていた。その疑問が寺石正路『南学史』(冨山房)を読んで氷解した。そのことを次に紹介しておきたい。

歌びとと二・二六事件  完

2008-05-18 23:13:42 | 小説
 斎藤史の歌には、誤解をおそれずに言えば、ときおりテロリストのような気配がただよう。血の匂いと、憎しみに似た暗い情念。
 はじめに引用した初期の歌5首のなかの一首、

   さかさまに樹液流れる野に住んでもくろむはただに復讐のこと

 この歌には続きがある。

   あまたたびわれの憎しみに刺されたる彼の内臓も熟るる紫

 さらに、平成3年の歌に続く。

   斃(たふ)すべき男見逃がしたりしかば毛虫千匹年毎に抹殺す

「斃すべき男」がなんの隠喩であるか、この歌1首だけではわかりようがない。直喩と理解せよと見せかけた隠喩であるからだ。ともあれ呪詛の対象となる何ものかは「逃げた」のである。 
「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪ってゐた」と『文化防衛論』に書きつけたのは三島由紀夫だった。三島由紀夫がなぜ自裁の直前に「天皇陛下万歳」を叫んのだのか、いまだに理解しかねている私には、『英霊の声』や『憂国』を二・二六事件にからめて語る資格はない。ただ「みやび」を言うのなら、歌の世界こそ「みやび」の世界そのものだといえるのではないか。
 その「みやび」の世界に、斎藤史という心情的テロリストがいたけれど、現実世界の彼女は晩年に父親や夫の介護に悩まされた普通の主婦のひとりなのである。
 だから彼女は、こんな歌も歌わなければならないのである。

   良妻のなれの果にて肩の力ぬけばジグソーパズルが合はぬ

 そのジグソーパズルは最初からピースが欠けているので、合わないのではないですかと声をかけたいような気分になるが、すでに史もまたこの世の人ではない。

   革命を持たざる国に生まれ来て風雨ほどほどに有りて終るか




【主要参考文献】
ジェイムス・カーカップ 玉城周 英訳『斎藤史歌集 記憶の茂み[和英対訳]』(三輪書店)
斎藤史『歌集 秋天瑠璃』(不識書院)
工藤美代子『昭和維新の朝 二・二六事件と軍師斎藤瀏』(日本経済新聞出版社)  

歌びとと二・二六事件  10

2008-05-16 11:36:43 | 小説
 斎藤史は青年将校たちの「無限の怨み」を歌でひきつぎ、昭和と平成を生きた。
 
   年月を逆撫でゆけば足とどまる かの處刑死の繋ぎ柱に

 処刑の「繋ぎ柱」とか額を弾丸で撃ち抜かれたと歌った彼女は、銃殺刑の様子を詳しく知っているもののようである。栗原の追慕のためにも、誰かに、あるいは父からかもしれないが、問いただしたものと思われる。
 繋ぎ柱というのは刑架であるが、十字架で、そこに栗原らは正座させられて縛られた。白い布を頭からかぶせられる。その白布には額のところに照準を合わせる黒点が塗られている。処刑者ひとりにつき射手は2名、10メートルの距離から小銃の第一弾は眉間を撃ち、第二弾は心臓を撃つのである。
 栗原を撃ち抜いた弾丸は、比喩的にいえば、史の心とそれからの歌業を貫通したのである。
 昭和が終り、平成となったとき、史は80才だった。

   昭和終わりてのちのきさらぎ二六日 小雪のあとすこし明るむ

 平成2年の作である。事件は彼女の中でいっこうに風化する気配はない。彼女にとって「昭和」は血塗られた時代だった。その昭和の終りに、かえって事件のことがよみがえるのである。

   血紅の木の実踏まれて惨たれば血塗られた昭和また終わるべし

   友等の刑死われの老死の間(あひ)埋めてあわれ幾春の花散りにけり

 斎藤史は青年将校たちに強硬な態度を取りつづけた昭和天皇に対して、ある種の思いのあったことを隠そうとはしていない。次にような歌がある。

   ある日より現神(あきつかみ)は人間(ひと)となりたまひ
                    年號長く長く続ける昭和

   みづからの神を捨てたる君主にてすこし猫背の老人なりき

 戦後、いわゆる天皇の「人間宣言」を聞いたとき、史は衝撃をうけている。栗原が聞いたらどう思うか、彼が生きていなくてよかったと述懐している。「猫背の老人なりき」などと書きつけるには蛮勇のようなものが必要だが、さらっと詠むところが史のすごさである。

歌びとと二・二六事件  9

2008-05-15 00:03:24 | 小説
 栗原が家族に宛てた遺書がある。
 処刑前日の夕刻にしたためたもので「一筆望を書き残申候」とあって、ひとつは自分の葬式の指示である。肩身の狭い思いなどする必要ないから、堂々と盛大に行えというものだ。ただし「元の上長官の御焼香御断り申し候」とある。よほど上長官には腹をすえかねているのである。
 いまひとつは「墓の事」である。「維新完成までは断じて成仏仕らず、従って墓は不要にて候」と書いてある。無念さのにじむようなせつない遺書である。
 ところで処刑された15名は全員が最後に「天皇陛下万歳」と叫んで死んだとされている。しかし、ひとりだけ「秩父宮殿下万歳」と叫んだ者がいた。
 そう叫んだのは安藤輝三大尉だというのが定説のようになっている。だが、それは栗原だったと証言する者もいる。斎藤史は栗原だと信じていた。
 なぜ「秩父宮殿下万歳」なのか。そこには重要な意味がありそうだが、深くは追及しないことにしよう。栗原や安藤らが決して語らず、自分たちの死とともに封印したことがらに触れそうだからである。
 いずれにせよ、栗原の「断じて成仏仕らず」は、たとえば同志香田清貞大尉と思いは一致していた。
 香田は娘と息子に宛てた遺書に、こう書いている。「父ハ無限ノ怨ヲ以テ死セリ。父ハ死シテモ国家ニ賊臣アル間ハ成仏セズ」
 ちなみに香田はその遺書に「軍幕僚並ニ重臣ハ、吾人ノ純真、純忠ヲ蹂躙シテ権謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ。公判ハ全ク公正ナラズ、判決理由全ク矛盾シアリ」と書きつけてあった。
 成仏せずという呪詛のような無限の怨みを、ひきついだのが女人の歌びとだった。栗原が初恋の人だった(と断定しよう)斎藤史である。

   額(ぬか)の真中(まなか)に弾丸(たま)をうけたる
             おもかげの立居に憑きて夏のおどろや 

 史の代表的な次の秀歌にも事件の影は色濃く落ちている。

   この森に弾痕のある樹あらずや記憶の茂み暗みつつあり

 斎藤史にとって、栗原安秀は北海道時代に、牧歌的な環境の中でともに遊んだ幼なじみ以上の存在であった。

   見返れば少年少女野を駈けて 述志・刑死の語も知らざりき

 しかしこの少年少女は「恋」という言葉は知っていたはずだ。淡いその恋を成就させるすべを知るには、まだおさなすぎたけれど。

歌びとと二・二六事件  8

2008-05-14 01:07:28 | 小説
 事件は2月29日のうちに終結する。午前8時には立川から飛行機が飛びたち、「下士官ニ告グ」という帰順勧告のビラを三宅坂上空で撒いた。戒厳司令部はラジオでも「兵に告ぐ」を繰り返し放送した。
 結局、三宅坂一帯は、幕末に挙兵した天誅組の吉野の山中のような事態にはならなかった。反乱部隊は午後2時頃までには、すべて帰順投降している。
 詰めが甘いといえばそれまでだが、決起した青年将校たちは上官に委ねた事後の政治処理が思惑通り進展せず、投降するよりほかなかった。青年将校たちのうち野中四郎大尉は拳銃自殺し、ほかは憲兵隊に逮捕された。
 栗原中尉は赤坂憲兵分隊で、当然ながら斎藤瀏との関係を訊問されている。訊問調書にみる栗原の答えは以下のようなものだ。むろん決起の資金調達を依頼したことなど白状するわけはない。
 
「将軍は父親の同期生であり、其一人娘は私の幼友達の関係上、昔より親類の様に附き合ひ、私的にも密接に出入りして居ました。将軍は私の信頼して居る立派な方で、短歌を二箇年ばかり教わった外、色々御指導に預って居たので、平素より時局に関する御意見等も承って居ります」
 
 斎藤瀏は栗原の短歌の師でもあったことがわかる。斎藤が反乱幇助の容疑で憲兵隊本部に召喚されたのは3月4日であった。物的証拠があったわけではないから自宅に帰されていたが、5月29日に再び召喚され、そのまま陸軍衛戍刑務所(渋谷区宇田川町)に収監されたのであった。そこには栗原もまた収監されていた。
 監房には鏡がなかった。斎藤は歌を詠んでいる。

 わが顔を映す鏡とこの牢にひそかにのぞく尿(ゆまり)の槽(おけ)を

 便器の水たまりを鏡がわりに眺めている自嘲に満ちた歌である。
 7月5日に青年将校たちに死刑の判決が下った。執行は7月12日。その前日の夕刻、看守の同情的なはからいで栗原は斎藤にメモ書きを渡すことができた。遺書ともいえる丸めた紙片が斎藤の監房にそっと投げ込まれていたのである。
「おわかれです。おぢさん、最後のお礼を申し上げます。史さん、おばさんによろしく。 クリコ」
 と書かれていた。
 29才の陸軍中尉は、あえて少年時代の愛称「クリコ」と署名しているのだ。
 その紙片をあらためてぎゅっと丸めて、斎藤は口の中に入れた。何度も何度も噛みしめながら、飲み下し、固く目をつぶった。
 処刑の朝、隣の棟のざわめく雑音の中から斎藤は「おじさあん」と呼ぶ声を聞いている。クリコの声だった。
「くりはらっ」と斎藤は大声で呼び返している。声は栗原に届いたと思いたい。ひとは生涯の間に、幾度こんな思いで他人の名を呼ぶだろうか。この若人とともに行かなむと思った栗原。
 ざわめきは静まり、それからしばらくの静寂ののち、最初の銃声が聞こえている。
 この日、銃殺されたもの15名。5名ずつ3回にわけて処刑されている。栗原は最初の組だった。 

歌びとと二・二六事件  7

2008-05-13 01:49:06 | 小説
 戒厳司令官香椎浩平に出された奏勅命令は次のような文面である。
「戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠しある将校以下ヲシテ速ニ原姿勢ヲ撤シ各所属師団長ノ隷下ニ復帰セシムベシ」
 決起部隊はいまや反乱軍となり、戒厳司令部は28日午後11時「断固武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」という命令を発した。29日の午前9時を期して反乱部隊を攻撃と発令したのであった。集められた重武装の鎮圧軍は2万3,841名。決起部隊の15倍の兵力である。
 斎藤瀏と栗原中尉の電話が盗聴されたのは、そういう緊迫した状況下の29日未明であった。中田整一の著書から抄録してみる。Aとあるのが斎藤である。

栗原 あのね。
A   うん。
栗原 もしかするとね。
A   うん。
栗原 今払暁ね
A   はあ。
栗原 攻撃してくるかもしれませんよ。
 (略)
栗原 向こうもとにかく奏勅命令でくるかもしれませんよ。
A   うん。
 (略)
栗原 間に合わんでしょうね。
A   うん。間に合わないと思う。
 (略)
栗原 お別れですね。
A   うん。
栗原 ま、これでお別れですね。
A   うん、それでね。
栗原 はあ。
A   何とかまだやるけどね。
栗原 はあ。
A   うん。
栗原 ま、お達者で。
A   うん。
栗原 これが最後でございます。
A   うん。
栗原 それでは、皆さんによろしく言ってください。
A   うんうん、じゃ。
栗原 それでは。
A   はい。

 斎藤瀏は、もう間に合わないとわかっていながら、栗原らを救うための政界工作を「何とかまだやる」と言っているのである。彼には栗原の絶望がいたいほどわかっているから、ただ「うんうん」とうなずくだけで、ほとんど言葉を失っているけれど、ふたりの別れはこの通話で終わったのではない。もっと悲痛な別れが別の日にやってくる。

歌びとと二・二六事件  6

2008-05-09 22:37:44 | 小説
 二・二六事件は、いわゆる皇道派の青年将校によるクーデター未遂事件として概括されている。そして事件に至るまでの伏線的な史的事実あるいは当時の陸軍内の穏健的な統制派と急進的な皇道派の対立を語る史料にはこと欠かない。
 しかし、この事件にはかんじんなところで、よくわからないところがある。なにかが隠蔽され、あるいは封印されているという印象をぬぐえないのだ。
 たとえば須崎愼一は平成15年に刊行した『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館)でこう述べている。
〈もちろん本書は、二・二六事件のすべてについて明らかにしようとするものではない。いや、それは現時点では不可能である。「二・二六事件裁判記録」という史料に現われる陳述・証言が一部を除き、軍中央や宮中関係者――とくに最大の当事者・天皇――に及んでいないからである。〉
「裁判記録」といっても、今日的な裁判をイメージしてはいけない。戒厳令下にあるという理由から、戦場における軍法会議にならったものだ。陸軍大臣を長官とした特設軍法会議で、一審即決・非公開・弁護人なしという条件の裁判だったからだ。
 史が歌った「弁護人なき敗者に残る記録とてなし」は、まさにそのとおりなのである。
 ただ確かにいえることが一つある。青年将校たちは天皇の怒りをかうということをまるで予想していなかったことだ。昭和維新を標榜した彼らは、自分たちを尊皇義軍だとみなし、「君側の奸」を排除したつもりだった。ところが彼らの排除(殺した)した奸物を、天皇は「股肱の老臣」と評したのであった。
「朕の股肱の老臣を殺戮す、かくのごとき凶暴の将校ら、その精神において何の恕すべきものありや」
 と天皇は激高された。そう日記に書いたのは本庄繁侍従武官長である。本庄自身は彼らの行動に同情的だったのに、天皇からそう一喝されたというのである。
 青年将校たちの悲劇は、皇道派と呼ばれながら、天皇の逆鱗に触れて反乱軍となるという、その矛盾にあった。
 そして処刑されるときは「天皇陛下万歳」と言って死んだのである。
 史にも歌がある。

  天皇陛下萬歳と言ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ

 しかし栗原中尉が死の間際に「天皇陛下万歳」と言ったかどうかは別の問題である。そのことはあとで触れたいと思う。

歌びとと二・二六事件  5

2008-05-08 19:11:45 | 小説
 盗聴の録音盤(20枚)は、数奇な運命をたどってNHK放送文化財ライブラリーに埋もれていたが、昭和52年の資料整理の作業過程で偶然のように発見されたものである。
 この録音盤をめぐってNHKは昭和54年に「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』二・二六事件秘録」を放送した。中田整一はそのときの制作担当者であった。以来、二・二六事件に関心を抱きつづけていた。
 放送から8年後の昭和62年、中田は録音盤の1枚が栗原中尉と斎藤瀏の交信だとつきとめ、当時長野に住んでいた斎藤史に録音テープを郵送している。
 田中は書いている。

〈日をおかずして丁重なお礼の葉書が届いた。そこには、いずれ心が落ち着いたら聴いてみたいと述べてあった。その後の沙汰については聞き及んではいない。
 二・二六事件への幾多の挽歌を残した斎藤史は、二〇〇二(平成十四)年、九十三歳で世を去った。

  昭和の事件も視終へましたと
  彼の世にて申上げたき人ひとりある
  
                  (斎藤史歌集『記憶の茂み』)

 この「ひとり」が、青年将校に殉じた父・斎藤瀏なのか、あるいは幼友達の栗原安秀中尉であったのか、苦渋に満ちた昭和の歌人のこころを推し量る才は私にはない。〉(前掲書)
 
 ふつうなら、すぐにでも聴いてみたいと思われるテープを、史はそうしていない。「心が落ち着いたら」とは、なんという重たい言葉だろうか。事件から半世紀以上が経っていても、史にはまだ生々しい出来事なのである。簡単にはふたりの声が聞けないのだ。
 ちなみに、「申上げたき人」とはクリコつまり栗原であると私は思う。
 昭和63年の史の歌に、「冬 二・二六事件新資料発見の報あり」と添書きのある次の一首がある。

 何が出るとも勝者の資料 弁護人なき敗者に残る記録とてなし

歌びとと二・二六事件  4

2008-05-07 16:49:34 | 小説
 昭和11年(1936)2月26日早朝、決起した青年将校たちは下士官・兵を率いて、時の首相をはじめとする重臣たちを襲撃した。
 決起の趣意書にいわく。「君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任」と。
 帝都を震撼させた反乱事件だった。
 決起部隊の参加人数を以下に記す。将校20名、准士官2名、見習医官3名、下士官89名、二年兵333名、初年兵1,027名、ほかに守衛隊として出勤したもの75名、民間人の参加者9名を加えて、参加総人数は1,558名となる。
 彼らは総理大臣官邸を襲撃して岡田啓介首相と誤認して弟の松尾大佐を殺害、ほかに4名の巡査を即死させた。また斎藤実内大臣私邸および高橋是清大蔵大臣私邸を襲って、両氏を殺害、さらに鈴木侍従長官邸を襲った部隊は侍従長に重傷を負わせた。官邸にいた巡査2名も負傷している。ついで渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸を襲撃、この陸軍3長官のひとりを殺害した。
 これらは朝の5時から6時までの間のことで、現場はいずれも都内。しかし、神奈川の湯河原温泉伊藤旅館にいた牧野伸顕前内大臣も襲撃対象だった。こちらは巡査の抵抗にあって目的は果たせなかったが、その巡査は殉職している。
 決起部隊の一部は、午前9時近くから10時頃までには、各新聞社に姿を現わしている。
 朝日新聞社では活字ケースをひっくりかえすなど損害約3万円を与えたらしい。マスコミに決起の趣意書の掲載を要求したのであった。
 事件のことが報道されたのは、午後7時過ぎだった。一部の夕刊がニュースを伝え、東京に戦時警備令が発令されたことをラジオが報じた。
 日付が変わって27日深夜午前1時30分、岡田内閣が総辞職。午前3時50分には東京市に戒厳令が交付された。
 昭和天皇が奏勅命令を裁可したのは午前8時20分だった。
 その奏勅命令が発令されるのは28日の午前5時8分である。
 さて、クリコこと栗原中尉は首相官邸にいた。
 官邸の電話を使って外部と連絡を取っていた。しかしその電話は戒厳司令部によって盗聴されていた。荏原局3368番にかけられた電話が傍受録音されている。
 栗原は電話の相手に「向こうもとにかく奏勅命令でくるでしょうから」と語っている。その局番の電話の持主は斎藤瀏だったと明らかにしているのは中田整一『盗聴 二・二六事件』(文芸春秋)である。 

歌びとと二・二六事件 3

2008-05-06 15:47:00 | 小説
 栗原の同志つまり青年将校たちの部下には、農村出身の兵士たちが多かった。大恐慌下とりわけ農村の窮乏はひどかった。
 斎藤瀏は栗原からこんな話を聞かされている。
「自分の中隊に満州事変で両手両足を失った兵がいました。東北の生家に帰った彼に会いに行ってみたら、彼の最愛の妹が遊女になって一家の凋落を支えていました。兵はなぜ自分は死ななかったのかと泣きました」
 そう語る栗原も涙を流していた。この話は史も聞いていて、もらい泣きして少女のように嗚咽をあげた。
 栗原の話に続けて、別の青年将校は次のようなエピソードを語った。
 ある少尉が初年兵の家族の聞き取り調査をしたときのこと。ひとりの兵が「姉は…」と言ったきり口をつぐみ、みるみる目にいっぱい涙をためて喋れなくなった。少尉はすべてを察した。「もうよい、なにも言うな」というのが精一杯だった。食うや食わずの家族を後に、国防のために命を散らす者の心中はいかばかりか。この兵に注ぐ涙があったらば国家の現状をこのままにしてはおけないはずだ。ことに政治の要職にある人は、と少尉は語り、栗原らの同志になったという。
 さらに斎藤はこんな話も聞いた。
 隊内で日夜生死をともにしている戦友の金を盗んだ兵がいた。盗んだ金は故郷の食うや食わずの母親に送ったのである。これを発見した上官は、ただその兵を抱いて声を上げて泣いた。
「おじさん、こういう部下たちの実情を知ってください」
 と栗原らは訴えたのである。
 決起する青年将校たちの行動に殉じようという「歌人将軍」の決意が先に紹介した歌になったのである。
「この若人とわれ行かんかな」 

歌びとと二・二六事件 2

2008-05-03 22:40:37 | 小説
 史に言葉をかけた天皇は、おそらく歌人将軍と言われた斎藤瀏に関心がおありだったのであろう。史の父も歌びとだったのである。
 史17才のとき、若山牧水・喜志子夫妻が斎藤家に滞在した。歌人としての瀏を頼って来たのであった。そのおり史の才能を見抜いた牧水に「歌をつくりつづけなさい」とすすめられたことが、歌人となる契機だったと史は語っている。
 斎藤瀏の短歌を一首、紹介する。

 思いつめひとつの道に死なむとす この若人とわれ行かんかな

 若人とは、もはや説明の必要はないだろう、決起した青年将校のことである。斎藤瀏予備役少将は、彼らの実質的なスポンサーだった。「この若人とわれ行かんかな」と歌は特定の個人をさしているようだが、もしひとりの若者だとしたら、それは栗原安秀陸軍歩兵中尉のことである。
 栗原は瀏の陸士同期の栗原勇の息子だった。官舎も近く、斎藤家と栗原家は家族ぐるみの付き合いをしていた。だから瀏は栗原中尉を子供のころから知っていたのだ。「クリ坊」と呼んで実の子のように可愛がっていた。栗原の方は瀏を「おじさん」と呼び、それは大人になっても変わらなかった。
 むろん栗原は同じ年頃の史とも幼なじみだった。史は彼を「クリコ」と呼び、彼は「フミ公」と呼んでいた。「クリコ」と「フミ公」には、互いに初恋に似た感情が芽生えていたと思われる。大人になってそれぞれ別の異性を伴侶に選んだけれど、史の歌には、栗原のことが影をおとしているような気がする。
 さて、事件の6日前の2月20日、斎藤瀏は栗原と会い、彼から緊急に千円の資金提供を要請されている。
 そして事件前夜の25日、栗原は斎藤を東京駅の食堂に呼び出し、明日の早暁の決行を告げていた。
「おじさん、資金調達で無理を言ってご迷惑をおかけしました。許して下さい。おじさんのことは同志のみんなが感謝しています」
と栗原は言った。 

歌びとと二・二六事件  1

2008-05-01 23:57:49 | 小説
 平成6年5月、宮中の午餐会に招かれた老婦人がいた。日本芸術院新会員となった85才の女流歌人斉藤史である。
 その斉藤史に、天皇陛下は思いがけない声をかけていた。
「お父上は、斉藤瀏さんでしたね」と彼女の父のことを突如切り出されたのである。「軍人の…」と。
 斉藤史は汗のふきだすような思いで答えている。
「はじめは軍人で、おしまいはそうではなくなりました。おかしな男でございます」
 のちに、彼女はこのときのことを歌に詠んでいる。

「おかしな男です」といふほかはなし天皇が和やかに父の名を言いませり

 たしかに、そういうよりほかなかったであろう。
 斉藤史の父瀏は二・二六事件で、反乱幇助の故をもって位階勲功を剥奪された軍人だった。禁錮5年の刑を受けている。事件当時は皇太子だった陛下は、そのことをご存知らしいのである。
 さて、このほど斉藤史の歌集を読みはじめて、なぜもっと早く読んでおかなかったのだろうかと悔やんでいるところだ。
 斉藤史は三島由紀夫の『豊饒の海』シリーズに登場する鬼頭槙子のモデルとも言われている。そのことがむしろ邪魔になって、斉藤史には深入りしたくないような気分が続いていたような気がする。
 彼女の歌集は、ある種の衝撃だった。
 とりあえず、初期の歌で、私が心ひかれた歌を5首あげてみる。

 指先にセント・エルモの火をともし霧深き日を人に交れり

 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守唄

 さかさまに樹液流れる野に住んでもくろむはただに復讐のこと

 たそがれの鼻歌よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ

 天地(あめつち)にただ一つなるねがひさへ口封じられて死なしめにけり

 なにかぞくぞくとするような、ただならぬ気配のただよう歌ではないか。