小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  12

2009-05-31 22:50:45 | 小説
 ロシアの駐韓公使ウェーベル(1885年10月赴任)の随員にソンタクという女性がいた。
 公使夫妻の親類筋にあたる人物のようだが、ロシア語はもとより、フランス語、ドイツ語を解し、英語と朝鮮語も使えた。
 列強との外交上、朝鮮王朝にしてみれば彼女は得難い人材となって、閔妃も自分より三歳年下の彼女と個人的にも親しくなったらしい。
 ソンタクとの親密さ即ロシア公使との親密まではよいとして、閔妃はその関係を朝鮮王朝とロシア本国との親密さにひとしいと錯覚したようである。そしてロシア提案による三国干渉に屈服した日本を見て、朝鮮から日本を追い出すチャンスとばかり速断してしまった。
 ほんとうは閔妃の知らぬところで国際情勢は激しく動いていた。閔妃が考えたほど事態は単純ではなかったのである。
 干渉三国の同調は、それぞれの利害関係から、くずれはじめていた。それも2カ月も経たないうちにだ。
 ロシアの対清借款に反発したドイツが、日本を支援する側に回ったのである。清に下関条約を日本の講和案のまま批准させることになった。国際的な立場からすれば、朝鮮における日本の地位は弱くなるどころか、逆に強化されていたのである。
 日本は遼東半島の領有はうしなったけれど、韓半島における権限はうしなっていなかったのである。
 閔妃にしてみれば、ロシアにすり寄って日本の干渉から抜け出そうとしても、弱体化した日本からは抵抗をうけるはずがないと踏んだかもしれない。しかし、ロシア本国には、日本とことを構えてまで朝鮮問題に深入りする考えはなかった。シベリア鉄道完成までは、満州を侵害されない限り日本との衝突は避けるというのがロシアの基本路線だった。
 閔妃は、おそらくそんなことは知らなかった。だが王妃は朝鮮政府から親日派を一掃するために、動いた。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  11

2009-05-28 20:41:33 | 小説
 およそ半島と名のつく場所は、地球上のいたるところで紛争の火種になるというのが、地政学上の宿命である。
 遼東半島を日本に領有されるのは、ロシアにとっては容認しがたいことだった。ロシアはまずドイツに働きかけ、ついでフランスを巻き込んで、日本への共同干渉提議に同調させた。イギリスにも声をかけたが、イギリスは同調せず、世にいう「三国干渉」となった。
 三国それぞれの日本駐在公使が日本外務省を訪れたのは、日清講和条約の調印直後の4月23日のことだった。
 ロシア、ドイツ、フランスの主張はこうである。
 日本が遼東半島を占有するのは、朝鮮の独立を有名無実のものとし、東洋の平和を威嚇するものである。だから返還を勧告する。
 結局、日本はこの三国干渉に屈服して、遼東半島は放棄することになり、そのことを明らかにする勅語が、5月13日付の新聞に掲載された。
 戦争の勝利に酔っていた世情は、かえって鬱屈した。端的にいえば、誰もが口惜しがったのである。不平不満のムードが日本中にただよったといってよい。
 福沢諭吉は書いている。

「…およそ人間世界に不平の一念こそ奮発勉強の原動力なれば、念々これを忘れずして何時か一度はその不平の欝を散ぜんことを心掛け、これも他日の為めなり、それも多年の用意なりとして、不平の一念発起すると共に一段の勉強を加へ、堪へ難きに堪へ、忍ぶ可らざるを忍び、ただ国力の増進を謀る可きのみ」(5月14日付『時事新報』)

 福沢の文章には、その後の日本が日露開戦に向けてまっしぐらに軍備拡張路線に走った「心情」がよくあらわれている。
 親露派に転向した閔妃もまた、日本を敵にまわしたのであった。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  10

2009-05-27 22:18:48 | 小説
 さて、日本の朝鮮出兵は朝鮮から要請されたわけではないから、名目は在留邦人の保護というものであった。
 ところが清と日本の両軍が出兵してみると、農民軍と朝鮮政府軍の間では「全州和約」が結ばれ、なんのことはない内乱は一応終息していた。6月11日、農民軍は自主的に解散していたのである。
 それにもかかわらず、清と日本両軍は朝鮮にいすわって、起こしたのが日清戦争である。
 まことに出兵よりも難しいのが撤兵であった。
 ロシアは日清両軍の同時撤兵を持ちかけるけれど、日本はきかない。いずれロシアと戦争になることは勘定に入っている。日本は清に、朝鮮の内政共同改革案を提案、これを清が拒否すると、兵力を継続駐屯して単独で断行すると告げた。戦争はかくして起こり、日本が勝利した。
 開戦以来、日本で従軍記者を送った新聞社の総数66社(地方紙含む)。報道関係者129人という。
 1895年4月、下関条約を結んで講和が成立する。
 4月17日付時事新報号外は伝えている。

「本日午前十時、清国全権は我が要求を承諾し、媾和条約を調印せり。(略)平和定約調印の結果として、日本の受取るべき土地償金は、左のごとしといふ。
 土地
 第一、鴨緑江より遼河に至る一線を本として、その南部の地ことごとく皆。ただしその内に営口、海城、九連城等をも包含するならん。第二、台湾島、澎湖島及び付属の群島。
 償金
 銀貨二億両(六「七」箇年賦)
 この支那人の治外法権の撤去、日本人の治外法権の保存、及び商売上の利益に関する種々の項目ありと聞く。」

 遼東半島の領有がうたわれているのだが、これに神経をとがらせたのがロシアであり、そのロシアの動きをもっとも歓迎したのが閔妃であった。 

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  9

2009-05-26 15:27:26 | 小説
 引用文の「甲午農民戦争」は、「東学農民戦争」あるいはふつう「東学の乱」として知られている。
東学というのは、西の学つまりキリスト教とは違う朝鮮の学という意味で、民間の宗教団体であった。信徒数20万人と、当時の東京日日新聞は報じている。教祖を弾圧された彼らの抗議運動が、民衆の不満を代弁するかたちとなって、やがて農民の組織的な武力蜂起となったものである。
 明治27年6月8日、時事新報は次のように報じた。
「東学党蜂起して日をふる既に久しきも、朝鮮政府の微力なる、これを討平するあたはず、今は如何ともするに道なく、遂に清国政府にむかひて援兵を請ひ、清政府直ちに承諾して、このほど李鴻章伯、しきりに部下に命じて、出師の準備中なりといふ」
 この記事はいささか実際の緊迫感と乖離している。
 清国は6月6日、天津条約に基づいて出兵を通告していた。そして日本は7日、お返しのように出兵を通告していたのだ。実は日本出兵の報道は陸海軍省令によって報道禁止が布告されていた。ちなみに違反した東京日日新聞は発行停止の処分をうけている。
 さて、与謝野鉄幹が歌の師である落合直文の推薦で勤めた二六新報は、明治26年10月の創刊であったから、当然この頃の朝鮮問題にも深い関心を寄せていた。それどころか主筆の鈴木天眼は「天佑侠」(てんゆうきょう)のメンバーだった。
 天佑侠は、1894年の東学党の乱を支援するために釜山外国人居留地の日本人たちが結成した壮士集団である。鈴木天眼はこの天佑侠に参加し、東学党に合流していたのである。
 堀口久万一や鮎貝槐園らは天佑侠と往来があったとされているが、与謝野鉄幹は直接には天佑侠とは接点がないだろうと、当初私は思い込んでいた。あにはからんや、鉄幹の身近に天佑侠のメンバーがいたのであった。
 ちなみに鮎貝の名を最初に記したとき付け加えるべきだったことを、あらためて書いておく。鉄幹の師の落合直文の落合は養子先の姓であって、元の名は鮎貝盛光であった。そう、鮎貝槐園は落合直文の実弟であったのだ。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  8

2009-05-25 21:26:03 | 小説
 甲申政変の翌年の1885年10月、清は大院君を釈放し、帰国させた。ロシアに接近する閔妃とその一族を監視するためだった。大院君の帰国は、金玉均も望んだことであったが、清はいわば閔妃の天敵として大院君を朝鮮に戻したのであった。
 民衆は彼の帰国を熱烈に歓迎した。むろん歓迎しなかったのは、閔氏一族と、閔妃の言いなりになっていた王の高宗だった。高宗は、大院君を出迎えたが言葉を交わさなかったという。なんという父子だろう。
 結局、大院君は以後10年間、なかば監禁状態ともいえる蟄居生活を余儀なくされたのであった。
 1885年は色んなことのあった年である。この年の4月には清の李鴻章とわが国の伊藤博文の間で天津条約が結ばれている。朝鮮に対する日清間の意見調整であった。
 条約は①共同撤兵②軍事教官の派遣停止③出兵の際の事前通告などが盛り込まれていた。
 問題は③である。朝鮮に軍隊を派遣するような事態が起きた時は、清と日本はお互いに事前に通告しあいましょう、という取り決めは、すなわち日本の派兵権を認めていたということなのである。派兵権を前提にしなければ、事前通告は、そもそも問題になりえないのである。
 日清戦争における日本の派兵は、この条約に基づくものであった。
 以後の情況をコンパクトに理解するために、李景監修・水野俊平著『韓国の歴史』(河出書房新社)の第5章概要から、引用する。

〈1894年に大規模な農民の蜂起(甲午農民戦争)が起こり、これを口実に朝鮮に出兵した日清両軍の間に戦端が開かれ、日清戦争が始まった。(略)やがて日清戦争で勝利を収めた日本は、朝鮮王室から清の勢力を排除して朝鮮の内政改革に乗り出した。
 日本は軍国機務処という議会機構を設置させ、官制改革、科挙の廃止、租税の金納化、身分差別の撤廃など甲午改革といわれる幅広い国政の改革を進めていく。しかし、これに反発した閔妃(明成皇后)の勢力は、三国干渉(1895年)を主導したロシアと結び、日本を牽制する。〉

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  7

2009-05-23 20:48:42 | 小説
 壬午軍乱の2年後の1884年12月、またしても王宮から閔氏勢力を一掃しようというクーデターが起きた。宗主権を強化する清の束縛から抜け出そうとした急進開化派の金玉均らによる「甲申政変」(カプシンチョンビョン)である。
 清仏戦争が勃発して、朝鮮半島に駐屯していた清軍の半数が引き上げたのを好機ととらえたクーデターであった。
金玉均らは守旧派の大臣たちを処断して、革命政権を樹立した。
 ところが文字どおり三日天下だった。閔妃がひそかに出動を要請した清軍による攻撃で、あっけなく新政権は崩壊したのである。
 金玉均は同志たちと日本に亡命するが、のちに上海におびき出され、閔妃の放った刺客によって暗殺された。遺体は清の軍艦で朝鮮に送られ、バラバラにされるという凌遅刑を受けた。
 福沢諭吉をはじめ日本に知己の多かった金玉均の暗殺と凌遅刑のことは、日本のマスコミがとりあげて、大衆の知るところとなった。
 反清反韓感情をあおり、日清戦争を支持する世論を醸成したとまでいわれる。たとえば明治27年4月24日付けの時事新報は凌遅刑の模様を挿絵入りで報じていた。明治27年といえば、その年の秋に鮎貝が渡韓し、鉄幹が二六新報で売出し中の頃だ。
 さて、話を戻さなければならない。
 甲申政変後の閔妃は対外政策の転換を迫られることになった。清に依存したツケとして、清の宗主権はさらに強化され、朝鮮王の権威まであやしくなっていた。だから閔妃もまた清のプレッシャーを排除したくなったのだ。
 米英には依存できなかった。閔妃には、頼りとすべきはロシアしかなかった。
 いわゆる「引露」政策がとられ、反対に「拒清」および「拒日」となったのである。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  6

2009-05-21 20:03:40 | 小説
 高宗が国王となったのは11歳のときだった。だから父の大院君が実質的な摂政となっていた。というわけで王としてのスタート時から高宗は政務を他人任せにすることに抵抗がなかったかもしれない。それも32年間、と先に書いたけれど実状はそういうことである。
 閔妃が王妃になったのは1866年、高宗は14歳で、彼女は王より一歳年上であった。
 さて大院君を王宮から追放し、閔氏一族が政権を掌握したのは1873年頃からである。
 実は閔妃は、乙未事変の13年前にも殺害されそうになったことがあった。1882年の壬午軍乱(イモグルラン)と呼ばれる事件だ。
 閔氏による軍政の改革に憎悪を抱いた軍人たちと、米価高騰に不満を募らせた貧困層の民衆が呼応した騒乱だった。
 1882年7月24日、軍人たちは王宮に押しかけ、閔妃をはじめ要職についている閔氏の人士を殺害しようとした。このときは日本公使館も襲撃されている。公使の花房義質は、辛うじて仁川に逃れ、日本に帰ったのだった。
 閔妃もいったんは死亡説も流れたようであるが、王宮を脱走して身を隠していた。
 軍乱によって、ふたたび大院君が政権を握り、閔妃の国葬を宣布したりする。むろん生きていた閔妃のほうもしたたかだった。清国に支援を要請するのである。
 軍乱終結後、朝鮮には3,000人の清国軍が駐屯、なんと大院君を拉致し、清は閔政権と組んだのである。この結果、宗主国として朝鮮への内政干渉を強めることになったのだ。
 日本は江華条約によって朝鮮を独立国として承認し、清と朝鮮の宗属関係を否認したのだが、壬午軍乱は清の宗主国としての立場を回復させてしまったのである。そういう情況をつくりあげたのは、閔妃であった、というしかない。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  5

2009-05-19 23:12:31 | 小説
 もしそう言ってよければ、閔妃包囲網は、三浦公使着任のはるか以前にできあがっていた。すくなくとも鉄幹は、三浦公使とは接点のない時点で、その包囲網の一端を握っていたと思われる。
 では、閔妃はなぜ狙われたのか。
 それを明らかにするためには、必然的に当時の朝鮮の政情と王朝のありかたに触れざるをえない。さらに背景としては、日本の大陸への野心と列強のアジア進出をめぐる国際紛争に言及しなければならない。
 そして、政治に深入りしすぎたひとりの女性の閲歴をなぞることになるけれど、閔妃暗殺の理由の一端を簡潔に知ることのできる文書が事件の二日後に出されていた。朝鮮国王の勅書である。
 内容は以下のようなものだ。

〈朕が位について以来32年が過ぎ、治化が至らないのは、皇后閔氏が親戚を引き入れ、彼らを左右において朕の耳目を塞ぎ、人命を迫害し、政令を乱し、官職を売買したためだ。
 閔妃の虐待は天まで昇り周囲に詐取が起き、宗社は危ういほど傾き、礎石を保つことができない。朕が閔妃の極悪無道な事実を知りながらも、罰を下せないのは朕が不明であることにも理由があるが、かの一党を恐れてのことなのだ。(中略)閔妃の罪悪は実に天にみなぎり、二度とは宗廟を継げない。我々王家の習わしによって閔妃を庶人に廃するものである。〉

 この勅書は朝鮮王である高宗本人によって作成されたものではないとされるが、閔妃の夫である王の気持ちは代弁されているだろう。妻とその一族に政治の実権を握られ、実の父を排除された王の嘆きはである。
 もっとも妻を極悪無道という王は、みずから政務を怠っていたふしはある。それも32年間。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  4

2009-05-18 21:30:46 | 小説
 血気盛んとか意気軒昂という形容は、この頃の鉄幹のためにあると思えるほどだが、渡韓前の彼は文学青年でもあり、熱烈な政治青年でもあった。
 与謝野晶子と同じ堺出身の河井酔茗は、鉄幹・晶子と生涯にわたって交友があったが、この頃の鉄幹を、こう評している。
「彼(鉄幹)自身は全く政治熱に左右され、たとへ一時的にもせよ、身を挺して国事に殉ずるのを男児畢生の快心事と思ってゐたに違ひない」(「『明星』以前の鉄幹」昭和24・12『明治大正文学研究』)
 鉄幹自身、この頃は自分はあたかもドン・キホーテであり、「ひとかどの志士」を気取っていたと、のちに述懐している。
 この志士気取りは、たぶん父親の影響である。
 鉄幹の父の礼厳は、いわば勤王僧であった。薩摩藩の志士たちと親交が深く、西本願寺を拠点に、慶応3年12月頃までは、薩摩藩のために諜報活動を行っていた。諸藩の内情を探って、薩摩藩に報告していたのである。薩摩藩士で歌人の八田知紀と親友で、薩摩藩士らと歌会を通じて会合していた。歌会には会津藩の歌人らもいたという。
 話は横道にそれるけれど、礼厳の参加した歌会には会津出身の京都見廻組与頭・佐々木只三郎もいたはずである。佐々木もまた八田知紀の歌仲間だった。佐々木らによって坂本龍馬が暗殺されたのは慶応3年11月、まさに礼厳が薩摩のために働いていた時期と重なっている。私が佐々木の背後に薩摩の陰を見るのは、この歌会の存在があるからである。
 さて鉄幹に話を戻す。
 鉄幹は、彼の渡韓の前年つまり明治27年秋にいち早く渡韓していた鮎貝のあとを追うように、かの地に渡った。明治26年11月に創刊された二六新報の記者は円満退社してである。
 鮎貝に関しては、鉄幹に次のような歌がある。

 おなじ道、おなじ真ごころ。二人して、
          いざ太刀とらむ。いざ筆とらむ。

 ふたりは一蓮托生だった。すくなくとも鉄幹は鮎貝槐園に対して、そういう思いを抱いていた。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  3

2009-05-17 20:37:45 | 小説
 ふたたび与謝野鉄幹の回想文から引用する。

〈 …十月八日の夜の劇的光景には槐園君と自分とは参加しなかった。実は十一月上旬に大事を挙ぐる予定であったから、両人は木浦へ旅行して居た。その留守中に急いで決行せねばならぬ事情が起ったのであった。〉

 鉄幹も堀口も鮎貝も、当日の閔妃暗殺事件には参加していない。そもそも彼ら3人は、当日の挙行を知らなかったようである。
 さて、事件の首謀者は三浦公使というのが、ほぼ定説である。
 その三浦公使は、当初は朝鮮に「自分は赴任したくない」と言っていたらしい。何度も書くけれど、外交オンチであることは三浦自身がよくわかっていたからである。井上馨、そして山県有朋の強い要請で、着任したのが9月1日、これも前に書いた。
 さて、具体的な内容はわからないが、鉄幹らがなんらかの閔妃排除計画を練ったのは、三浦公使赴任前の7月だったことを思い起こしていただきたい。なにか釈然としない思いがわいてこないだろうか。
 鉄幹の回想文からすると、まず大院君と鮎貝、堀口の3者で密約ができており、そのことを着任した三浦に堀口が伝え、そして三浦公使を中心とした実行計画の合意があったような感じである。
 いったい鉄幹の渡韓のほんとうの目的はなんであったのか。
「よしや屍ハ行く国の、虎伏す野山にさらすとも、身の為すわざハ世に残り、長き丈夫の詩ともなれ」
 鉄幹が渡韓にあたって書いた文章の一節である。
 たかが日本語教師として赴任するにしては、死をも覚悟したようないささか大げさな感懐にすぎはしないだろうか。
 
 から山に、桜を植ゑて、から人に、
        やまと男子(をのこ)の、歌うたはせむ

 歌に詠んだ不遜な意気込みのほうが、むしろおだやかすぎるように見えるくらいだ。
 ちなみに鉄幹は日本領事館に居候して教師生活を送っていた。だから領事館補だった堀口と親しくなったのである。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  2

2009-05-14 20:49:45 | 小説
 引用した鉄幹の回想文に登場する人物について、まず述べておかねばならない。
「閉居中の大院君」の「大院君」は、朝鮮においては国王の実父の称号であったから、固有名詞ではない。しかし大院君といえば、閔妃の舅にあたる興宣大院君のことを指している。ちょうどわが国の仏教界で、大師は幾人もいるのに、大師といえば弘法大師空海を指すようにである。
 閔妃はつまり義父と敵対関係にあり、その大院君から憎しみをかっていたのである。
「堀口君」は、もとより堀口九万一のことであり、現地に赴任していた外交官である。詩人の堀口大学の父として知られる。東京帝国大学法学部在学中に誕生した息子だったから、大学と名付けたという。
 「三浦公使」は、いうまでもなく三浦梧楼のことだ。
 閔妃暗殺の首謀者とされる人物である。もともと外交の苦手な軍人だった。前任の朝鮮公使であった井上馨にかわって、事件の前月の9月1日に着任していた。
 井上と同じ山口県出身で、萩の明倫館の同門だったから、井上の強い要請によって三浦の朝鮮赴任が決まっている。だから事件の背後に井上馨の存在を示唆する論者もいないではない。
「岡本柳之助」は軍部兼宮内府顧問官。
「国友重章」は『漢城新報』の主筆であった。言論人なのである。
 驚くべきは、この事件、意外に多くの言論人が加担していることだ。『漢城新報』の社長安達謙蔵、編集長小早川秀雄は言わずもがな社員全員が加担、そのほか『国民新聞』、『日本新聞』の特派員、『報知新聞』の通信員が加担していた。
 ちなみに『漢城新報』は外務省の機密費から創立資金が出ていた。
 思えば与謝野鉄幹も、『二六新報』を辞して、渡韓したのであった。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  1

2009-05-13 20:50:36 | 小説
 日清戦争終結まもない明治28年(1895)4月、与謝野鉄幹は韓国に渡った。韓国政府学部省乙未義塾の教師として赴任したのである。22歳だった。
 乙未義塾の経営者兼総長は鮎貝房之進、槐園と号した歌人でもあり、鉄幹とは以前から親交があった。
 明治28年は乙未(きのとひつじ)の年であるから、まさにその年の干支を名称にした新設の学校(いつぴ義塾と読む)は、分校を含めて生徒は700名いたとされている。
 ところが鉄幹は渡韓したその年の夏、腸チフスに罹って、漢城病院に2カ月ほど入院している。
 入院中の7月、鉄幹を見舞ったふたりの人物がいた。
 ひとりは鮎貝、もうひとりは堀口九万一である。三人で、どうやら、ある計画を練ったらしい。のちに鉄幹は、こう回想している。

 それから両君(鮎貝と堀口のこと)は韓装をして閉居中の大院君を訪ひ、一回の会見で或る密約が出来、それから堀口君が三浦公使を説いたので因循党と目された領事の内田定槌氏などは事件の勃発まで之を知らなかった。三浦公使は堀口君の献策に聴くと同時に、岡本柳之助 国友重章二氏等の民間有志とも議る所があって、終に大院君の名に由るクウ、デターが実行された。(『沙上の言葉』大正13・10)

 さて、この年の10月8日未明、朝鮮王城において王妃の閔妃が暗殺された。乙未事変と呼ばれる歴史的事件であるが、閔妃暗殺事件というほうが、わかりやすいかもしれない。「事件の勃発」と鉄幹が書いているのは、この事件のことである。
 以前のブログ「陸奥宗光と日清戦争」8~11でも閔妃暗殺事件には言及したことがあるけれど、今回は鉄幹のかかわりかたを検証してみたい。

黒田如水と老子

2009-05-12 20:50:59 | 小説
 戦国の武将・黒田如水がお好きで、にょすいをハンドルネームにしていたネット上の友人がいた。いわゆるマイミクシィ(現在は退会)なのだが、あるとき、思いつきで「如水」というのは老子に由来している号なのでしょうかと質問したら、意外だというような反応をされた。どうやら、老子と結び付けるような説は、これまでになかったらしい。
 黒田官兵衛如水について、私はほとんど何も知らないにひとしかったから、にわか勉強したのだが、旧約聖書のジョシュアに由来した号などという説もあるようだ。なるほど、キリスト教の洗礼を受けた武将であるから、そう考えたくもなるだろうが、洗礼名が「ドン・シメオン」ならば、「朱門」などと付けそうなものだと私は思った。
 如水号は彼が44歳で隠居したときにつけたという。隠居したのは、秀吉に対する遠慮深謀である。出る杭は打たれるというような事態を懸念して、先手を打って逼塞したのである。となると、俄然、老子の言葉がぴったりではないか。
 老子、いわく。

 上善は水のごとし。水はよく万物を利して争わず、衆人のにくむところにおる。故に道に近し。(略)それただ争わず、故にとが無し。

 水のように低い位置にいるのが善いのだという思想。
「上善如水」は、いまでは日本酒の銘柄にも使われているが、老子の原文はふつう「上善若水」として知られている。(「上善如水」という写本もある)「若」も「如」も同義の漢字なのだが、案外、「上善若水」のほうが有名だから、黒田如水と老子が結びつかなかったのではないか。
 さて、黒田官兵衛は老子を読んでいたと証明できれば苦労はないが、いったい戦国武将の教養はいかなるものであったか、と大いなる命題にぶつかって、このところ不得意な分野をさまよっていた。戦国武将の教養の師は、ほとんど禅僧であった。中国の古典は禅僧によって伝えられていたのである。
 それにしても老子は面白い。論語よりも、私には面白い。