清河八郎の同時代人に藤岡屋由蔵という男がいた。表向きは古書店の主人だが、「御記録本屋」とも呼ばれた「情報屋」である。彼の蒐集した江戸市中の噂や事件に関する情報(記録)は有料で、諸藩の記録役や留守居役が購読者だった。むろん彼は克明な日記をつけていた。
そんなわけで『藤岡屋日記』は、江戸後期の情況を知る史料として、いまなお史家たちに重宝がられている。その『藤岡屋日記』に八郎の事件のことが記録されている。
「神田於玉ヶ池港川隣角 酒井左衛門尉元家来、浪人儒者 清川八郎」
とあって「剣術ハ千葉の門人、酒狂之上、切殺逃去候、但、川越辺え逃去候由ニ付、公儀より討手差向られよし」
そして弟の熊三郎(25)と「八郎女房れん(24)は23日召捕られ、「町奉行へ引渡し、同夜仮牢入、翌二十四日揚屋入」と書かれているのだ。
八郎らは実際に川越まで逃げたのだが、そのことは筒抜けであったみたいだ。落首でからかわれているのであった。
清川を濁し川越へ逃げたとて
先へ揚って岡で捕える
さて、お蓮のことである。
川越に逃走する前、八郎の家に同志たちが集まったとき、誰かがこう発言したとされている。
「家を焼き、お蓮さんを殺め、そのまま宿願の夷人館焼き討ちを実行しようではないか」
計画露見で追いつめられ、なかばやけくそ気味に必死の心情を吐露したのであろうが、聞き捨てならぬのはお蓮を殺しておこうという発言である。
お蓮は同志たちにとって、足手まといなのであろう。さらに言えば、もし彼女が逮捕されるとどうなるか。女だから死ぬより辛い目にあうのは想像に難くない。だから、いっそ自分たちの手で殺しておこうということなのだ。
むろんこのような極端な意見は採用されなかったわけだが、そのことをお蓮自身がどう考えたかはわからない。
お蓮は、藤岡屋由蔵が記するように5月25日揚屋入りである。
そんなわけで『藤岡屋日記』は、江戸後期の情況を知る史料として、いまなお史家たちに重宝がられている。その『藤岡屋日記』に八郎の事件のことが記録されている。
「神田於玉ヶ池港川隣角 酒井左衛門尉元家来、浪人儒者 清川八郎」
とあって「剣術ハ千葉の門人、酒狂之上、切殺逃去候、但、川越辺え逃去候由ニ付、公儀より討手差向られよし」
そして弟の熊三郎(25)と「八郎女房れん(24)は23日召捕られ、「町奉行へ引渡し、同夜仮牢入、翌二十四日揚屋入」と書かれているのだ。
八郎らは実際に川越まで逃げたのだが、そのことは筒抜けであったみたいだ。落首でからかわれているのであった。
清川を濁し川越へ逃げたとて
先へ揚って岡で捕える
さて、お蓮のことである。
川越に逃走する前、八郎の家に同志たちが集まったとき、誰かがこう発言したとされている。
「家を焼き、お蓮さんを殺め、そのまま宿願の夷人館焼き討ちを実行しようではないか」
計画露見で追いつめられ、なかばやけくそ気味に必死の心情を吐露したのであろうが、聞き捨てならぬのはお蓮を殺しておこうという発言である。
お蓮は同志たちにとって、足手まといなのであろう。さらに言えば、もし彼女が逮捕されるとどうなるか。女だから死ぬより辛い目にあうのは想像に難くない。だから、いっそ自分たちの手で殺しておこうということなのだ。
むろんこのような極端な意見は採用されなかったわけだが、そのことをお蓮自身がどう考えたかはわからない。
お蓮は、藤岡屋由蔵が記するように5月25日揚屋入りである。