小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

真相・清河八郎の無礼討ち その3

2011-11-30 17:54:15 | 小説
 清河八郎の同時代人に藤岡屋由蔵という男がいた。表向きは古書店の主人だが、「御記録本屋」とも呼ばれた「情報屋」である。彼の蒐集した江戸市中の噂や事件に関する情報(記録)は有料で、諸藩の記録役や留守居役が購読者だった。むろん彼は克明な日記をつけていた。
 そんなわけで『藤岡屋日記』は、江戸後期の情況を知る史料として、いまなお史家たちに重宝がられている。その『藤岡屋日記』に八郎の事件のことが記録されている。
「神田於玉ヶ池港川隣角 酒井左衛門尉元家来、浪人儒者 清川八郎」
とあって「剣術ハ千葉の門人、酒狂之上、切殺逃去候、但、川越辺え逃去候由ニ付、公儀より討手差向られよし」
 そして弟の熊三郎(25)と「八郎女房れん(24)は23日召捕られ、「町奉行へ引渡し、同夜仮牢入、翌二十四日揚屋入」と書かれているのだ。
 八郎らは実際に川越まで逃げたのだが、そのことは筒抜けであったみたいだ。落首でからかわれているのであった。

   清川を濁し川越へ逃げたとて
         先へ揚って岡で捕える

 さて、お蓮のことである。
 川越に逃走する前、八郎の家に同志たちが集まったとき、誰かがこう発言したとされている。
「家を焼き、お蓮さんを殺め、そのまま宿願の夷人館焼き討ちを実行しようではないか」
 計画露見で追いつめられ、なかばやけくそ気味に必死の心情を吐露したのであろうが、聞き捨てならぬのはお蓮を殺しておこうという発言である。
 お蓮は同志たちにとって、足手まといなのであろう。さらに言えば、もし彼女が逮捕されるとどうなるか。女だから死ぬより辛い目にあうのは想像に難くない。だから、いっそ自分たちの手で殺しておこうということなのだ。
 むろんこのような極端な意見は採用されなかったわけだが、そのことをお蓮自身がどう考えたかはわからない。
 お蓮は、藤岡屋由蔵が記するように5月25日揚屋入りである。

真相・清河八郎の無礼討ち その2

2011-11-27 21:15:53 | 小説
 八郎に斬られた男が幕府の手先であり、幕府も捕縛の準備をしていたと早くから主張していた史家がいた。慶應2年、酒田に生まれた郷土史家の須田古龍である。須田は自分の母がかって清河八郎の花嫁候補だったことを知り、八郎に関心を持ち、生涯を八郎の事蹟調査にささげたとされる人である。
 大川周明が著書『清河八郎』の脚注で、「須田古竜氏は大略下の如き事実を語る」として、以下のように書き付けている。

「志士相会して話が酣になると、慷慨悲憤の声を放って柱を打つ。或時は中庭に生へていた椿の大木を伐り、大樹を仆す亦是くの如しなどゝ怒号した.而も一軒置いて隣の蕎麦屋の主人が岡引で、時々床下をもぐって密談を聞いて居たとのことである。幕府の方では、此の岡引の報告によって、既に捕縛の準備をして居たものであらう。万八楼の帰途に突当った無礼人も、恐らく幕府の手先であり、八郎を激して其の乱暴するところを、四方から偵吏を向けて捕縛する計画であったらしい」

 取材源はいったいどこだろうと驚くとともに、みごとな推理に感じいるが、あらかじめ捕縛のため包囲していて、八郎を挑発したのではないと私は思う。もっとも須田の主張の延長線で説をなす史家もいるし、藤沢周平や南條範夫の小説の該当場面は、この線で描写されている。(ちなみに司馬遼太郎の小説はたんなる無礼討ち説採用である)
 蕎麦屋の岡引の探索に頼らなくても、八郎らのテロ行動の謀議は鉄舟らによって、幕府当局は先刻承知であった。しかしなお鉄舟もふくめて同志たちは監視されていたということなのであろう。
 ところで、当日に八郎らが幕吏の包囲網にあったと考えられないのは、いったん散り散りに逃げた同志たちが、その日のうちに八郎の家に帰っているからである。八郎と五郎はいちばん遅れて帰ってくるが、ともかく皆が無事に集まっているのである。密偵というか岡引のすぐ近所の家にである。
 捕縛の体制が整っていたのならば、ここで一網打尽のはずではないか。
 ところが夜が明けて5月21日、さらに同志が続々と集まり、八郎らの逃亡準備ができるという余裕があった。
 察するに南北の奉行所の打合せになんらかの齟齬があったように思われる。
 お蓮と八郎の弟が逮捕されるのは5月23日である。
 

真相・清河八郎の無礼討ち

2011-11-26 13:08:40 | 小説
 文久元年5月20日の薄暮、日本橋甚左衛門町(注1)路上で、清河八郎は町人らしき風体の男を斬り捨てた。
八郎の無礼討ちとして有名な事件であるが、これによって八郎は逃亡生活を余儀なくされるばかりではなく、妻のお蓮や実弟さらに一部の同志まで逮捕されてしまう。八郎自身が「自叙録」に記している。
「或日一会座にいたる帰路に、無礼なるものありて血気に忍びかね、遂に一撃しけるこそ短気なれ。それよりして大事の露見と相成、忽ち同志のもの及び、家弟及び妾(注2)まで逮座せられて、我四人のものばかり潜匿の身とはなれり」
 会座というのは両国万八楼で開かれた書画会のことである。八郎は無理に誘われて同志7人と渋々参加していた。会が終わって途中別の店に立ち寄ったりして、ともかく酒は飲んでいたようで、よそ目にはそぞろ歩きに見えたかもしれない。
 町人風の男が付き当たってきて、八郎がこれを咎めると無作法な態度をとった。あるいは杖(一説には棒)を持っていて、打ちかかろうとした。
 だから八郎は、この男を無礼討ちにしたのであった。その旨を町役人に届け、主人の庄内藩主酒井繁之丞に報告しておけば無礼討ちは余儀ないこととして済む事件だった。ところが事件は違った展開になっている。
 八郎はなぜ町役人に届け出をしなかったのか。
 この切り殺された男、ただの町人でなかったからであろう。おそらく八郎を八郎と確認するために、故意にぶつかってきたこの男は町役人の手先であった。そうとしか考えられない。しかも想像するに、「おう、てめえらの悪事はとっくに露見しているぜ。すぐに一網打尽だ」ぐらいの捨て台詞を吐いたのではないか。
 そういうニュアンスが八郎らに伝わったからこそ、同志散り散りとなって逃げ「潜匿の身」となったとしなければ、この無礼討ち事件の腑に落ちなさは解消されないのである。まして酒に酔った八郎が激情にまかせて町人を無礼討ちにしたなどというエピソードに終わらせてはいけないのである。
 昨年夏、東京都千代田区の区立4番町歴史民俗資料館の蒐集史料から北町奉行所同心・山本啓介の手帳が発見され、文久元年5月19日に清河八郎ほか7名に捕縛命令の出ていたことが明らかになっている。まさに無礼討ち事件の前日の日付ではないか。

(注1)現在の人形町界隈
(注2)妻のお蓮のこと。正妻にたいしての愛人という意味ではない。実家に正式に認められていないから妾という字を使っている。

清河八郎・素描  6 八郎と鉄舟 その2

2011-11-24 21:22:37 | 小説
 幕府の間者は鉄舟のほかにもうひとりいた。やはり幕臣の松岡昌一郎である。松岡万といったほうがわかりやすいかもしれない。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の片腕を刑場から盗み出し、神棚に供えていたというエピソードの持主だ。
 鉄舟と松岡連名で、幕府当局に出した上書が二通のこされている。その上書の中で、両名は「間者」であったと明確に証言している。
「…私共両人、間者と為り、仮に同腹いたし探索致すべく仰せ聞けられ候につき、命を塵芥に比し相索(たずね)候処…」
 ご覧のとおりである。
 上書の原文は山岡家に伝わっていて、昭和4年に葛生能久が著書『高士山岡鉄舟』で採録している。
 ちなみに、この上書は文久元年5月の八郎の下人殺害事件のあと、さらに弟や妻のお蓮、また同志の幾人かが逮捕されたあとに書かれたものだ。
 全文を引用したいところだが、私は孫引きで読んでいるし、煩雑になるから要点だけを紹介しておこう。ある意味では、鉄舟の苦しい胸のうちが明らかにされている文章といえる。
 鉄舟らは「清河懇意の者」たち、つまりお蓮や弟までが逮捕されたことに同情し、事実不文明な者たちを重罪にしないように助命嘆願し、また自分たちふたりが彼らの容疑の証人とされることは勘弁してほしい、なぜなら士道が立たないから、というのが上書の趣旨である。
 最初から間者であったわけでなく、八郎の決起を止めたくて幕府当局と気脈を通じただけだからという訴えでもあった。
 ただ八郎に外夷館焼き討ちを決行するような動きがあれば、「立処に切殺し」するつもりであったとも書いている。 鉄舟にすれば二重スパイの疑いをかけられても仕方ないから、八郎を斬るつもりだったというのは、あるいは幕府向けの発言で本意ではなかったとも考えられる。
 ともあれ、そういう鉄舟らの切羽詰まった気配に、八郎は無頓着だった。

清河八郎・素描  5 八郎と鉄舟 その1

2011-11-24 00:17:39 | 小説
 清河八郎には美丈夫という形容がよく似合う。たとえば彼に槍術を教えた高橋泥舟は、八郎の印象についてこう述懐している。
「…天性猛烈にして、義気強邁、身材堂々として、威風凛々たり。音声鐘の如くにして、眼光人を射る。予一見して超凡の俊傑なるを知る」(「清河八郎正明の事蹟」『泥舟遺稿』所収)
 いわゆる押し出しのいい人物であったことは間違いない。
 高橋泥舟に八郎を紹介したのは、泥舟の義弟の山岡鉄舟であった。鉄舟と八郎は千葉道場で知りあったものと思われる。同門なのである。八郎のほうが鉄舟より8歳年上だった。
 安政6年夏、清河八郎は千葉道場もあった神田お玉が池は二六横町に土蔵付きの家を買い、これを改築して「文武指南所」という塾を開いた。儒学と剣を同時に学べる塾は他になかったから、注目をあびた。清河八郎という名が知られるようになる。
 塾開設のほんとうの狙いは、八郎が「自叙録」に書いている。
「…皇国の武威を天下万国にあらはさん事、この時にありと、断然志をきはめ、門戸を建て生徒を招くといへども、その深意は専ら磊落奇偉の士を結ひ、万一の用に致さん為なり」
 見てのとおり彼は目的があって同志の糾合を図ろうとしているのである。目的とは攘夷にほかならない。
「自叙録」にさらにこう書き付けている。「凡東都に会集する奇士は率ね相結ひ、頗る世上に慷慨激烈の名をあらはしける」
 そして「当時に名高き文武忠勇の士」と「義旗を揚ぐ」べく同盟を結んだと述べている。その義士の数は「凡十七、八人」。
 その中には、むろん安積五郎がいる。薩摩の伊牟田尚平、益満新八郎などがいる。麹町でやはり私塾を開いていた芸州浪人池田徳太郎がいる。そして山岡鉄舟がいた。
 彼ら同盟者の間で、横浜の外夷館の焼き討ち計画が俎上にあがっている。伊牟田らの薩摩出身者はとりわけ過激で、八郎に実行を迫るのだが、八郎はためらっていた。
 この彼らの不穏な動きは、実は幕府に察知されていた。スパイがいたからである。
 いったい清河八郎には、お坊ちゃん育ち特有のお人好しなところがあって、彼は同志を少しも疑っていない。山岡鉄舟が幕臣であることにもっと深く注意をはらうべきだった。
 八郎の同盟者である鉄舟の立場はなやましい。もとより鉄舟は最初から八郎を裏切るつもりはなかった。外夷館焼き討ちに反対だった鉄舟は、あえて幕府の「間者」になっていた。

清河八郎・素描  4

2011-11-19 21:40:55 | 小説
温泉地で豆まきのように金銭をまいたというけれど、節分にはまだまだ早い季節のことであった。清河八郎が安積五郎を伴って郷里に帰ったのは9月10日である。そして翌10月25日には、五郎と八郎は江戸に戻っている。この間に八郎はお蓮と出会っているいるのだが、たぶん9月中、遅くても10月初旬のエピソードということになるだろう。
 それにしても田舎大尽のような安積五郎のふるまいは、彼らしくない。なにより女たちに金をばらまくほど彼は金をもっていない。なぜか。
 清河八郎は母孝行の大旅行の帰路、江戸で偶然ばったりと安積五郎に出会ったのであった。八郎の旅日記『西遊草』の跋を書いた五郎自身も二州橋(両国橋)での偶然の再会を記している。互いによほど嬉しかったのであろう。八郎は五郎に一緒に郷里まで旅しないかと誘ったのであった。
 しかし五郎は親類に病人がいるから「残念ながら参り難きぞ」と断った。
 ところが五郎は一行を千住まで見送りに来て、やはり一緒に行きたいと言い出すのである。むろん旅支度はなにもしていない。さすがの八郎も驚いたが、言いだしっぺは自分だから同道させるのであった。路銀その他すべて清河持ちである。
 だから五郎は遊ぶ金も清河まかせなのである。自分の金はもっていないのである。その彼がまるで紀伊国屋文左衛門なみに女たちに金を投げ、拾わせるというようなふるまいをするだろうか。しかも彼は女遊びには不慣れな堅物であったではないか。
 通説の八郎とお蓮の出会いのエピソードは、私にはお蓮を他の遊女と差別化するための創作のように思われる。もっとも、このエピソードの原典不詳のまま私は断定しているけれど、できすぎた話という印象はぬぐえない。
 お蓮については清河八郎の詩の言葉を信じればいいのだ。

 姿態 心と艶に
 廉直 至誠を見る
 未だ聞かず 他の謗議するを
 只期す 婦人の貞を

 ずっとあとになってお蓮を詠った漢詩からの引用である。
 姿や態度は心と同じように艶っぽく、正直で誠をつくし、他人の悪口は言わず、ひたすら貞節を尽くそうとする女性だと言っているのだ。そんな女性だから遊里にいても、八郎は惚れたのである。 

清河八郎・素描  3

2011-11-18 20:27:31 | 小説
 清河八郎と安積五郎は、なにかというと行動をともにすることが多く、まさしく刎頚(ふんけい)の友というのは、こういう友人関係を言うのであろうと思わせる。
 安積五郎の実家は江戸呉服橋で、父は易者だった。ご存知清河八郎は出羽国(山形県)庄内田川郡清川村の出身である。幼なじみというわけではない。
 ふたりは江戸の神田お玉が池の東条一堂の漢学塾で塾生仲間として出会っている。八郎18歳のときで五郎は2歳年上の20歳だった。
 ちなみにこの漢学塾の隣に千葉周作の道場があった。八郎が千葉道場に入門したのは、22歳のときである。
 遊郭にも出入りするなど結構な遊び人ぶりを発揮し、江戸の独身生活を謳歌していた八郎だが、他の友人と一緒でも五郎だけは誘った気配がない。五郎は両親と一緒に住んでいるから、おいそれと登楼などの付き合いはできなかったのかもしれない。というより五郎は逆に八郎の遊蕩をいさめたような文章を残している。
 つまり五郎は八郎のように遊びに慣れていず、堅物なのであった。
 その五郎と八郎が、鶴岡の遊里でお蓮と出会ったという通説に、なにか違和感をおぼえるのは私だけだろうか。
「うなぎ屋」という風変わりな名の遊女屋であった。
 清河八郎記念館でまとめた「お蓮の生涯」という冊子の記事を以下に引用する。

「八郎は、その年(安政2年)母を案内して半年以上も伊勢詣りかたがた関西を旅し、四国までも足を伸ばし、帰りに江戸から親友の安積五郎を誘ってきた。その折うなぎ屋に登楼したのであるが、翌日女たちを誘って湯田川温泉に出かけて豪遊した。その宴席で、安積が酔狂に女たちの前で節分の豆まきをまねて、金銭をばらまいた。女たちは我れ先にとお金を拾い騒然となった。このときただ一人、手を膝に端然として微笑んでいる若い、美しい女があった。これが高代である。
 それを見た八郎は、その可憐な気品のある高代の姿に心を打たれたのである。それはまさしく泥中に咲く蓮であった。これが二人の出会いであり、純愛の始まりとなるが八郎の両親は許さなかった」

 書き写しながらも、私には疑念がむらむらと湧きあがる。このエピソードほんとうだろうか、と。

清河八郎・素描  2

2011-11-17 22:15:23 | 小説
 遊里から身請けした女性を妻とし、泥沼に咲く蓮の花にたとえて名を蓮(れん)と変えさせたという意味の文章は、「自叙録」にはなかったのであるが、成沢米三は思い違いしたようである。
 孫引きしたくなる文章だから注意を喚起する意味でもこだわっておきたいが、成沢米三は大川周明の著書から該当箇所を引用したと思われる。(注1)
 大川周明は昭和2年に伝記『清河八郎』(行地社出版部)を刊行しており、その中で、「八郎自ら記して曰く」として「吾れ野妾を遊里に挙ぐ…」の箇所を紹介していたのであった。
 大川周明による伝記執筆の契機は、彼が清河八郎にゆかりの人物と友人関係にあったからだ。
 清河八郎の生家斎藤家では八郎に関する史料を蒐集、しかし彼の伝記を書こうとしていた斎藤清明は病に倒れ、あとを友人の大川周明に託したもののようである。だから伝記草稿と史料一切を大川周明は譲り受けて、執筆したのであった。
 オリジナルの史料は大川周明の手にあったのだが、大川がどこから例の文章を引用したのか、いまの私にはわからない。
 その大川周明は、八郎の妻蓮についてこう書いている。
「蓮は羽前東田川郡熊出村の医師の女、養家の悪漢のため鶴岡の娼家に売られたものである」
 なんという偶然だろう、医者の娘を妻とし、佐々木只三郎らに暗殺されたという点で清河八郎は坂本龍馬と同じであった。さらに北辰一刀流を学んだという点でも。
 さて、蓮は娼婦とはいえ、すれっからしではない。八郎が彼女を妻としたときの蓮の年齢は18歳だった。安政2年のことである。清河八郎は26歳だった。
 八郎と蓮の出会いの場所には、八郎の親友安積(あずみ)五郎(注2)がいた。天誅組に参加し、京都六角の獄中で斬首されたあの安積五郎である。


(注1)成沢米三は著書の参考文献に大川周明の本をあげており、さらに大川周明と同じような文章を書きつけるなど深甚な影響を受けていると推測される。
(注2)安積(あさか)五郎と読む文献がある。逆に安積(あさか)艮斎を「あずみこんさい」というようなものではないか。

清河八郎・素描  1

2011-11-17 05:33:32 | 小説
 幕末の志士清河八郎の旅日記『西遊草』の原本は、ほぼB6判の大きさで8冊あるそうだが、全文の翻刻を岩波文庫1冊で読むことができる。清河八郎がかほどの文章家だとは認識していなかった私は、校注者の小山松勝一郎氏の解説を含めて549頁と分厚い文庫本をめくりながら、興奮に近い気分にとらわれている。
 もとより清河八郎は「自叙録」(『清河八郎遺著』所収)にこう書いていたのであった。
「元来文章を以って天下に鳴らんと志を盡しけれ共、衆務鞅掌して遂に宿志を遂げかねたり」
 たしかに、時代が彼を国事に奔らせ、文章家あるいは学者と言い換えてもよいが、にはさせなかった。
 ところで「自叙録」は清河のつけた表題ではない。彼の遺著を整理した編者の付けた仮題であるけれど、清河が自分の著書や閲歴を述べているから、さしずめ詳細なプロフィールといったおもむきをなしている。清河を知るための貴重な史料のひとつであるわけで、有名な妻お蓮との出会いのことも詳細に語られているのかと、私はひそかに期待していた。そう思い込まされる文献をいくつか読んでいたからである。
 清河八郎研究者のたとえばこんな文章がある。

〈「吾 野妾を遊里より挙ぐ。郷里頗る之を議する者あり。余はその色に耽けるにあらず、その賢貞を挙ぐるなり。亦なんぞその由って出ずる所を究めんや。遂に蓮を以て名づく。蓋し意あるなり」

 これは清河八郎の自叙録の中にある一節で、愛する妻蓮女について書いたものである。〉

 成沢米三著『明治維新に火をつけた男 清河八郎』(東北出版企画・昭和51年刊)からの引用である。
 この感動的な文章の前後の文脈を、原典の自叙録でたしかめたい、清河ってやはりすごい男だなあと感じ入りつつ、私は国会図書館に足を運び、自叙録を読んだ。
 自叙録に、しかし成沢氏の引用した箇所はなかった。
 蓮との出会いを回顧する文章もなかったのである。
(続く)

赤松小三郎のこと

2011-11-10 05:48:47 | 小説
「(龍馬の)その歩みは、埋火のような小三郎の生涯に対して、燃え盛る炎のような生涯であった。(略)小三郎と龍馬は、その死まで一枚の紙の裏表に似た思想を持ち、あたかも小三郎は龍馬の影のような人生を送ることになる」
 江宮隆之氏の『龍馬の影 悲劇の志士・赤松小三郎』(河出書房新社)の一節である。
同書の主調低音はここにあり、だからタイトルも「龍馬の影」なのであろうけれども、赤松小三郎の伝記小説は、ことさら龍馬と対比させなくても成立したのではないだろうか。そんな思いが江宮氏の小説を読んでいるあいだ、ずっとしていた。
 もっとも私自身、かって赤松小三郎を「あたかも信州の坂本龍馬」と評したことがあった。(注1)
 龍馬の新政府綱領八策とよく似た提言を小三郎がしていたからである。しかも龍馬にさきがけてだ。このふたりは歴史という舞台ではすれ違っていたが、ともに勝海舟の弟子であり、ともに暗殺されたという共通点があった。 
 しかし小説を読んだあとで、ああこの人は龍馬にそっくりだと読者が思ってくれればよいのであって、このことを最初から意識させたことが小説の興をそいだのでは、と感じたのである。2010年1月に刊行された江宮氏の小説を今頃になって、やっと読み終えての感想である。
 いずれにせよ赤松小三郎のことが小説化されて、彼の事跡が世に知られることは歓迎すべきことだと思っていた矢先、今月(11月)20日、信州上田城のほど近くに赤松小三郎記念館が開館するというお知らせ(注2)をメールで頂いた。行政ではなく地元の有志で開館にこぎつけたというのだから、心意気にうたれるではないか。
 上田城公園内には東郷平八郎の揮毫による赤松小三郎の顕彰碑がある。薩摩の東郷は小三郎の門下生だった。江宮氏は小説の「あとがき」に書いている。
「顕彰碑には薩摩藩門下生の名前がずらりと並ぶが、その最初に中村半次郎の改名である『桐野利秋』の名前があることを、真犯人を知っている後世の目から見れば、しらじらしく、しかも坂本龍馬暗殺への薩摩関与の疑問さえ湧いてくるのである」
 もっとも江宮氏は東郷平八郎は小三郎暗殺犯が半次郎は知らなかったであろうと述べている。また終章では西郷隆盛に「…薩摩の者は。友や師と仰いだ人を暗殺などしません。そんなことをしたら、薩摩の恥になり申す。人間の恥であり申す」と言わせている。
 私は江宮氏よりひねくれた見方をしているから、東郷も西郷も半次郎と同じ穴の狢だと思っている。

(注1)「薩摩」に暗殺された赤松小三郎
(注2)赤松小三郎記念館開館式

    日程: 11月20日(日):
    朝8時30分:上田城二の丸、赤松小三郎記念碑(赤松の弟子の東郷平八郎が建立)の前で、                小三郎生誕180年記念の集会。
    11時30分: 赤松小三郎記念館で開館式。(上田城から徒歩15分ほど)

    詳しくは、地元の有志でつくる赤松小三郎顕彰会に連絡ください。
    追記:記念館予定地一帯で11月8日火災があり、開会式は無期延期となった由。 
追記:当ブログ左「ブックマーク」下方に赤松小三郎についてのアンケートコーナーを設置しています。ささやかな集計結果は「結果を見る」をクリックしてください。
龍馬の影---悲劇の志士・赤松小三郎
江宮 隆之
河出書房新社


 

怪談・安宅丸

2011-11-04 20:04:35 | 小説
 浅草の東京時代まつりの行列に「安宅丸の登場」という記事を、今朝(11月4日)の東京新聞で読んだ。平成中村座に出演する中村勘三郎らが「安宅丸」を模した台座に乗り込んでパレードする写真が添えられていた。
 記事に「初代中村勘三郎が、寛永年間、船の先に立って木遣りの音頭を披露、美声をたたえられたとされる江戸幕府の船」とあった。実は、現代版安宅丸は実際に運航されており、東京湾観光汽船株式会社が保有、今年から東京湾クルーズの目玉になっている。
 ところで安宅丸は「あたけまる」とよむ。広重の浮世絵・名所江戸百景に「大はしあたけの夕立」がある。ゴッホが模写したことで知られる絵だが、日本橋方面と深川をつなぐため架橋された新大橋とそこを往来する人物らに夕立が針のように降りそそぐ様子が描かれている。その絵の表題の「あたけ」が安宅である。新大橋の周辺に幕府の安宅丸が繋留されていたから、一帯は安宅町と呼ばれていたのである。
 さて、この安宅丸には怪談があった。
 どんな怪談だったかを述べる前に、とりあえず船の概要を紹介したいが、ちょっと史料に混乱がある。
『国史大辞典』では寛永9年に徳川家光が向井将監に命じて新造させ、同11年に伊豆の伊東で完成、同12年に品川沖で家光が試乗、以来深川に係留されたとある。ところが二代将軍秀忠が建造させたという説もあり、寛永10年には江戸に廻航されていたという説もあるのだ。だから初代中村勘三郎が舳先で音頭をとったのは寛永10年とされるらしい。これだと定説の家光試乗より2年早く歌舞伎役者が乗ったことになるわけだ。いや。そもそもまだ完成さていない船に乗ったことになる。
 こうした混乱はあるにせよ、ともあれ怪談は、深川に船が係留されてからのことだ。それも暴風雨で船が鎖綱を切って流れだしたのを捕えて、ふたたび深川の御船蔵にがんじがらめにつないでからのことである。
 毎夜、船底から「伊豆へ行こう、伊豆へ行こう」という悲壮な声が聞こえはじめ、泣き声がしたとか、青い光が見えたとか、あるいは船全体が真っ赤に染まったとか、噂されるようになったのだ。
 この噂に震え上がった深川住民を安心させるためといえば聞こえはいいが、天和2年、幕府は船を解体することにした。ほんとうは莫大な繋留維持費に耐えられなくなったのであった。怪談は船の解体推進派だった大老堀田正俊の仕組んだものとされている。
 船近くの水底に忍者めいた家臣を潜らせ、竹筒を使って「伊豆へ行こう」と怪しい声を出させたとか、噂を故意に増幅させたとか、考えられないことではない。比類ない巨船の解体で、大老は解体処分金を私したなどという噂がこんどは囁かれたりもした。
 さらに解体後に後日談的な怪談があった。
 安宅丸の解体資材の払い下げをうけ、それを穴蔵のふたにしていた酒屋市兵衛というものがいた。その酒屋の召使の女に安宅丸の魂が憑いたのであった。ふたにするとはなにごとぞ、とり殺すぞといったそうである。亭主はあわててふたを作り替えたという話がそれだ。