小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

孝明天皇 その死の謎  16

2007-06-30 19:59:36 | 小説
 慶応2年7月20日、14代将軍徳川家茂は大坂城で死んだ。まだ数え年で21才だった。江戸に残されていた和宮が夫の死を知らされるのは7月25日になってからだった。和宮は24日まで、家茂の平癒祈願の黒本尊へのお百度参りと塩断ちをしていた。重態という知らせは江戸にも入っていたのである。
 いわゆる第二次征長、つまり幕府と長州の戦争のただ中での将軍の死であった。
 死の前日のこと、松平春嶽は家茂を見舞いに登城していた。
 容体悪化で面会はできず、病室の隣の間からそっと様子をうかがっている。薄暮で、ぼんやりとしか姿はとらえていないが、それでも「煩躁御苦悶の御容子にて容易ならざる後容躰」と観察している。
 春嶽は思わず落涙していた。
 家茂は4月頃から胸の痛みを訴えてはいた。政局の重圧が、この年若い将軍に深甚なストレスをかけていたに違いない。将軍職を辞して江戸に帰りたい、と言い出したこともあって、そのときも胸痛を奏聞書で訴えていた。
「臣家茂、幼弱不才の身を以てこれまでみだりに征夷の大任を蒙り、及ばずながら日夜勉励罷りあり候ところ、内外多事の時にあたり、上 宸襟を安んじ奉り、下万民を鎮る事能はず。しかのみならず、国を富まし兵を強くして、皇威を海外に輝かし候力これなく、職掌を汚し申すべしと心痛の余り胸痛強く鬱閉罷りあり候」
 なんとも正直に自信のなさを吐露しているのだが、「胸痛強く鬱閉」という文言が痛々しい。
 さりながら、ストレスが直接の死因ではむろんない。孝明天皇のときと同じように症状の異変は記録によって、ある程度たどれる。

孝明天皇 その死の謎  15

2007-06-28 22:32:57 | 小説
 ここで、孝明天皇「刺殺説」について触れておきたい。「九穴から御脱血」という死の状況からは、「刺殺説」は無視したいところだが、幾つかの異なる口伝は刺殺されたというのである。
 たとえば閑院宮家の侍医・菅修次郎が甥に伝えたところによると、天皇は脇腹を刺されていた。
 あるいは同じく閑院宮家の侍医・土肥春耕の日記(焼失)を見た孫の記憶では、やはり脇腹を刺されていた。
 この両説は、実は脇腹を刺された人物が天皇だと特定されていない。たぶんに、内密に診断を依頼された人物を天皇だと勘違いしているように思われる。
 問題なのは、宮崎鉄雄氏の証言だ。宮崎氏は父の渡辺平佐衛門から天皇刺殺のことを教えられ、また一部始終を目撃していた老女にも会ったというのである。天皇は厠の床下にひそんでいた伊藤博文に、下から突き刺されたという説だ。この話がにわかに信じがたいのは、その場所が堀河紀子の家になっていることだ。天皇が宮中で亡くなっているのは動かしがたいのである。しかも、宮崎氏の語るエピソードはなかばポルノまがいで、どこかまともに付き合いかねるところがある。
 もっとも宮崎氏の話とよく似た説はあるらしい。典薬寮送り山下正文の孫山本正英が祖父から聞いた刺殺説は厠が犯行場所という。詳細は私は知らない。あまり知りたいという意欲も起きない。
 ただ、刺殺説が流布されているという事実には、それなりに考えなければならない背景があるということだろう。
 孝明天皇の死の半年前に死んだ天皇の義弟にあたる将軍家茂の死も、思えば尋常ではなかった。

孝明天皇 その死の謎  14

2007-06-27 21:33:42 | 小説
 天皇の御葬送は1月27日夜のことであったが、この夜も緊迫の空気に包まれていた。
 牛車の霊柩を東山の泉涌寺まで供奏、従者らが松明を照らすなか、徳川慶喜らは徒歩で従った。ところが慶喜は途中でそっと行列を抜け出している。慶喜は泉涌寺にはわざと遅れて到着したのだった。
 にわかの病が原因ということに表向きはなっているが、実は暗殺を避けるためだった。大喪の夜に不穏な企てがあるという情報が流されたからである。結局、なにごともなかったけれど、当時の天皇、慶喜らのおかれた環境が厳しいものであったことは、このことからもうかがえる。偽情報だったかもしれないが、謀殺の連鎖を予感したからこそ、慶喜は用心をしたのである。
 さて、孝明天皇はなぜ謀殺されたのか。なんどでも問い直してみなければならない。
 明治も28年になって、朝鮮国駐在特命全権公使となって、閔妃暗殺にも関与したとされる三浦梧楼に、こんな述懐がある。
「忌憚なく申せば、先帝の御在世が続いたならば、ご維新は出来なかった。これは明らかな事実だ」(『観樹将軍回顧録』)
 三浦はもと長州の奇兵隊士であった。先帝、つまり孝明天皇は、維新をはばむ最大の障害と見られていたのである。
 憶測をたくましくすれば、三浦は孝明天皇を謀殺したのは、自分たちの勢力であったと朝鮮で、ふと誰かに洩らしたかもしれない。長州出身の伊藤博文を狙撃した安重根が、狙撃理由のひとつに伊藤の孝明天皇暗殺をあげていたことは前にも紹介した。案外、こんなところに起因しているのではないのかと推測する。伊藤博文が直接刺殺したという驚くべき説よりも、蓋然性は高くはないだろうか。

孝明天皇 その死の謎  13

2007-06-26 21:48:17 | 小説
 魑魅魍魎の跋扈する朝廷と言っては、言い過ぎだろうか。「幼い」としかみなされなかった新天皇、つまり明治天皇は、父である孝明天皇の死が、ただならぬものだと身にしみて感じていたはずだ。
 だから明治天皇は毎夜、孝明天皇の亡霊に悩まされたのであった。いや、夜ばかりではないらしい。朝、昼にも亡霊はあらわれて、たとえば朝、天皇は気絶したことが記録されている。
「何分異形の物の御話これ有り候事の由也。現れ候由、俗に鐘軌の形のようにウワサこれ有り候。剣も持ち候て、口さし候由也。その後、朝より(気が)御とおくあらせられ由也。」
 あるいは、
「ますます先帝昼夜ともに新帝にばかり、御見上の由、さてさて困り候事の由伝承候也。右に付き、長福寺尼寺・龍山高峯両人、内参候様、明日文をもって頼遣遊ばされ候」
 これらは『朝彦親王日記』にある記述である。
 祈祷師がよばれるほどの騒ぎになっているのだ。この事実は、千種有文が岩倉具視に宛てた手紙によっても裏付けられる。
「新帝には毎夜々々御枕へ何か来り、御責の申候に付き、御悩みと申す事にて、昨日申し上げ候通り、御祈祷仰せ付けられ候」
 1954年、戦後初めて孝明天皇暗殺説を唱えた、ねづまさし氏はこの孝明天皇の亡霊出現にも注目、こう述べている。
「天皇家の歴史において、非業な最後をとげた皇族の多くは、その怨霊のたたりが非常に恐れられ、それを弱めるために、彼らは御霊神社などに祀られている。このように異常死者の怨霊を信じた宮廷において、新帝がこのように悪夢に悩まされたことは、毒殺のウワサを十分信頼させる一つの証拠となるものではなかろうか」
 枕元にきたものが「何か」などと、千種有文はその「何か」がわかっているくせに、あえてそう表現するから、私はかって千種を疑いもしたのである。
 

孝明天皇 その死の謎  12

2007-06-25 22:32:47 | 小説
 関白・二條斉敬あての宸翰で、孝明天皇は「列参、実に予は泣涕候ばかりに候義、関白も承知と存じ候」と嘆いていた。
 泣きたくなるほど腹にすえかねていたのである。とりわけ、八・一八の政変で処分された三條実美ら公卿の赦免要求に関しては、許すつもりはないと、はっきりと意思を表明していた。
 もっとも、列参組に「閉門」処分の下ったのは10月27日であるから、処分決定までに、ほぼ2か月の期間を要している。長すぎるのだが、必ずしも天皇の即断でものごとが進まないような事情もあったのであろう。
 話は飛ぶ。孝明天皇が崩御し、10代半ばの新天皇の誕生した慶応3年1月には大赦令が発せられた。過去に処分を受けた公卿たちの赦免が行われた。ところが、岩倉具視、千種有文、久我建通、富小路敬直や、このときの列参組公卿は許されなかった。なぜか。
 二條斉敬は健在だからである。関白から新天皇の摂政に転じている。彼はまだ、岩倉や公卿たちを警戒しているのだ。野放しにはできない、と踏んでいるのだ。千種有文は、この措置に怒り、「二條斉敬に天誅を加えよ」と言い出している。
 私ははじめ、この千種有文を孝明天皇や二條家に生物テロをしかけた黒幕ではないかと疑ったが、考えてみれば、ここで「二條に天誅を」と表だってわめくようでは、以前に「天誅」を企てたことはないという証明かもしれない。大赦令から除外されるいわれはない、と本気で思っていなければ、こんな発言は出てこないだろう。摂政の仕打ちは、自分たちへの報復だろうと、じっと黙している者こそ、あやしいと見なければならない。 

孝明天皇 その死の謎  11

2007-06-23 22:58:21 | 小説
 余談のようになるが、徳川慶喜の母は、有栖川宮織仁(おりひと)親王の娘だった。慶喜は天皇家の血筋にもつながっていたのである。「有栖川の孫」という出自が「慶喜の生涯にずっとついてまわっている」と指摘しているのは河合重子氏(『謎とき徳川慶喜』草思社)である。
 同じような見方をすれば、孝明天皇を補佐していた関白・二條斉敬(なりゆき)は水戸徳川家の血筋につながっていた公卿であった。母は徳川従子、つまり慶喜の父である徳川斉昭の姉であった。二條斉敬が親幕派といわれるゆえんは、あるいはその出自も影響しているかもしれない。いずれにせよ、慶喜と孝明天皇の補佐役は、いとこどうしの間柄だったわけだ。
 先に記した「列参」の公卿たちが孝明天皇につきつけた要求のひとつに、二條斉敬と同じく孝明天皇を補佐する朝彦親王の弾劾、罷免があった。過激派の公卿たちは、孝明天皇のいわば手足をもぎとろうとしたのである。
 二條斉敬は、このため「国事扶助の任に耐えず」と辞表を出したが、天皇は認めなかった。二條斉敬は、もしかしたら身の危険を感じ、辞意を表明したかもしれない。ともあれ、天皇は要求をつきつけた公卿たちの方を処分しただけだった。
 さて、ここで思い出していただきたい。二條斉敬の子息ふたりが天然痘で死んでいることをだ。ひとりは12月5日、ひとりは12月22日に死んでいた。この同じ12月に、前後して天皇と関白の子息ふたりが死んだのは、たんなる偶然だろうか。

孝明天皇 その死の謎  10

2007-06-21 17:01:53 | 小説
 思えば、孝明天皇の妹和宮の将軍家茂への降嫁のさい、最も強力に推進したのは岩倉具視であった。
 孝明天皇は15才の妹を「公武一和」という政略結婚の道具にすることに心をいためていた。「朕は一人の妹を庇蔭することあたわず」と嘆いたのであった。その和宮降嫁を、情況が変ると「公武の間に在りては無用の婚姻たり、皇妹に在っては、無用の艱苦なり」と後にいけしゃあしゃあと断ずることのできるのが岩倉だった。「ここは皇国のためと思し召され」と和宮を説得しろ、と天皇に迫ったのは岩倉ではなかったか。
 公武合体派から倒幕派にさっさと転身する、この変わり身の早さが、岩倉具視に権謀術数家あるいはマキャベリストというレッテルのはられるゆえんである。
 岩倉には孝明天皇を操り人形のようにあやつれるという傲慢さがあったように思われる。有名な全国合同策の密葬などは、信じがたいほどの無礼な文章である。「それ全国の合同を謀るには、陛下自ら罪を引かせられ候」とあって、詔書の煥発を提言しているのだが、その詔書には「朕の不徳、政令其の宜しきを得ざる」などという文言を入れろ、と指示するのであった。まるで遺書をむりやり書かせて自殺を教唆する脅迫者の態度みたいなものである。
 むろん、この密奏は無視された。当然である。でもって、次に打ったのが先に記した「列参」という団交であって、これで孝明天皇に圧力をかけた。これが天皇を本気で怒らせた。関係者22名を厳重処分したのが、急死の2か月前。
 孝明天皇の死によって、利を得た者はだれか。「列参」組の倒幕派公卿たちである。
 ところで佐々木克氏は、こう述べている。「不謹慎な妄想であることを承知であえて述べるが、孝明天皇が亡くなって、ある意味でほっとした気持ちになったのが慶喜だったのではなかろうか。兵庫(神戸)開港への道ががぜん開けてきたのである」(『幕末の天皇・明治の天皇』)
 あたかも慶喜だって孝明天皇の死で利を得ていると言いたげな、いやらしい書きぶりである。こんなことなら家近良樹氏がもっとストレートに書いている。「不謹慎な妄想」などという思わせぶりはよけいである。
「天皇の死は、むろん将軍職に就いたばかりの徳川慶喜にとって痛手となった。それまで、なにかにつけて、庇護してくれた朝廷内最大の権力者の支援を、これからは受けられなくなったからである。
 しかし、反面、慶喜にとって重い足枷がはずれ、自由にはばたける切っかけともなったと考えられる。それは頑なな攘夷主義者で、とうとう最後まで兵庫開港を許してくれなかった孝明天皇の呪縛から、初めて逃れることが出来るようになったという意味においてである」(『孝明天皇と「一会桑」』 )
 慶喜が孝明天皇のことをどう思っていたか、言外に知ることのできるエピソードがある。明治末年に彼は孝明天皇の御陵を詣でたさい、御陵近くに来ると「ここからは誰もくるな」といって、ひとりで長らく頭をたれていた、という。そして帰京すると「自分は徳川家代々の墓地には入らん。今後仏式ををやめて神式とする。自分の墓は質素な御陵の形にならい、それを小さくしたものとする」と言った。その言葉どおりに慶喜は上野谷中に眠っている。それが慶喜の天皇に対する哀悼の表現だった。

孝明天皇 その死の謎  9

2007-06-20 23:17:37 | 小説
 ところで、こんな主張がある。「岩倉犯人説であるが、証拠があっていっているのではない。岩倉ならば動機があると考えられる、という一点をその根拠とするものである。(略)岩倉が構想する『王政復古』は孝明天皇を抜きにして考えられないものであった。その岩倉が毒殺を企てることなどあり得るわけがないだろう。毒殺説は史実を丁寧に検討しないで、憶測だけで作られた妄説である」(『幕末の天皇・明治の天皇』講談社学術文庫)
 これが先に引用した「しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮びあがってくる」として岩倉黒幕説を示唆した佐々木克氏の文章である。まるで、同一人物の文章とは思えないのだが、これをもって論考の進化というべきか、あるいは後退というべきか、迷ってしまう。
 もとより佐々木氏は、自身の転向について、こう述べている。
「(孝明天皇の死因は)悪性の出血性痘瘡(天然痘)による病死だったことが、病理学の研究者の検証で明らかになった。1990年のことである。それまで、死因について、あれこれと論じられてきた。その一つが毒殺説で岩倉具視が計画したものだとする説である。かって、私も、これを信じたことがあるが間違っていた。自分で十分に検討することを怠り、他人の説を受け売りしていたのである」
 正直、おやおや病理学の研究者が1990年に明らかにしたことって何だろう、と皮肉でなく思う。その年に出血性痘瘡死因説を主張したのは歴史学者の原口清氏だった。岩倉には動機がないとも原口氏は書いた。佐々木氏はこんどは原口氏の受け売りではないのか。
 孝明天皇の死因が天然痘であって、毒殺ではないと明らかにされても、ではその死は謀殺ではなかった、という証明にはならないのである。岩倉を含む列参公卿たちには、天皇謀殺の動機はないと断言できないのである。毒殺説を引っ込めると、産湯を捨てるのに赤子も捨てるように「動機」や「当時の政治的状況」を捨ててしまうのは、なぜだろう。

孝明天皇 その死の謎  8

2007-06-19 21:00:47 | 小説
 ここで、孝明天皇の死の直前の政治情況について、おさらいをしておこう。長い引用になるが『歴代天皇総覧』(『歴史と旅』平成5年4/30臨時増刊)の「孝明天皇」の項(石井孝執筆)を抜粋したい。

(幕府の)対長州戦の敗北で、佐幕勢力の牙城朝廷が大きくゆらいでいるとき、この牙城に迫る新しい行動を計画したのが、洛北に幽居中の岩倉具視であった。岩倉は佐幕朝廷の変革をめざして、姉婿の中御門経之を動かし、「列参」を企てた。岩倉の計画に従って、8月30日夕刻、中御門経之・大原重徳ら22人が「列参」し、天皇に対面を請い、最年長の大原が一同を代表して所見を言上した。すなわち大原は、長州解兵(長州征討をやめる)の朝命による布告、などについて今日中に決定するよう要請し、さらに将来は、幕府のいうままになってきた失体を反省し、朝廷の体裁を変革することを要望した。
 はたして大原の所見に接した天皇はひどい逆鱗で、その主張を蹴り、「列参」という行動を「不敬の至り」と叱った。しかし、大原はこれに屈することなく、天皇側近の賀陽宮(中川宮)をとらえ、その責任を追及してはばからなかった。ここに佐幕姿勢を固辞する天皇と倒幕勢力と結ぶ一団の公家との対立は発火点に達した。
 しかし、その後、慶喜の勢力は立ち直りをみせ、それを背景に10月末には、中御門・大原ら「列参」関係者が処罰され、「列参」の同調者正親町三条もこれに連座した。こうして朝廷は、天皇を中心とする佐幕勢力でがっちり固められ、12月5日、天皇の強い支持で慶喜に対して将軍宣下があった。

 その12月5日、もしかしたら天皇は生物テロにあった、というのが実は私の推測である。反対勢力の公家側には天皇暗殺の動機はじゅうぶんにあった。いや、死には至らなくても、天皇の政治能力を病によって奪おうという動機はじゅうぶんにあった。

孝明天皇 その死の謎  7

2007-06-18 22:50:50 | 小説
 安重根(アン・ジュングン)は孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文だと思っていたようだが、巷間に流布されているのは岩倉具視犯人説である。
 孝明天皇の典医たちのなかに、伊良子光順という人物がいた。この人物の日記を検討した医史学の佐伯理一郎博士は、昭和15年7月に大阪の学士会クラブで開かれた日本医師学会関西支部大会で、その日記が「岩倉の天皇毒殺を裏書する貴重な傍証である」と論じている。その日の大会には伊良子光順の曾孫の伊良子光孝氏も出席していた。
 ところで、岩倉具視の妹は宮中で女官をしていた。その妹を使って毒を盛ったというのが、大方の推理である。
 妹というのは堀河紀子のことだ。紀子は孝明天皇の寵をうけていたから、ただの女官ではなかった。岩倉には以前にも天皇暗殺未遂の噂が立ったことがあった。和宮降嫁をめぐって天皇と意見が対立したとき、天皇の筆先をなめる癖を利用して、筆先に毒を塗ったというのである。尊攘派の浪士たちの間でささやかれていた噂らしいが、孝明天皇の急死で、そのおりの噂が再燃したということもありえただろうと思われる。
 のちに毒殺説をひるがえすが佐々木克氏の『戊辰戦争』(中公新書)の一節を引用しておこう。
「天皇の死因については、表面上疱瘡で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長いあいだ維新史の謎とされてきた。しかし、近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに『急性毒物症状である』と断定された。やはり毒殺であった。
 犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、(略)親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。(略)直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう」

孝明天皇 その死の謎  6

2007-06-17 19:55:35 | 小説
 さて、東京大学医学部の前身は「西洋医学所」であった。その西洋医学所は幕府直轄の「種痘所」の名称を変えたものであった。さかのぼって、その種痘所の母体はというと、1858年に伊東玄朴ら蘭方医82名の出資によって神田お玉が池に開設された種痘所である。孝明天皇崩御の慶応2年は1866年であるから、その8年前にすでに種痘所というものがあったということだ。
 筑前秋月藩の藩医であった緒方春朔が、天然痘の予防接種である人痘種痘法を成功させたのは寛政2年、つまり1790年の昔のことだった。ちなみに、かのジエンナーの牛痘種痘法より早かったのである。
 緒方春朔が藩主に伴って江戸に赴き、江戸で各藩の侍医に種痘法を伝授したのが1795年。その三年後には、幕府は医学館に痘科を創設して、池田端山を教授にしている。
 大坂には「除痘館」なるものがあった。緒方洪庵らによって開設されたのは1849年11月であった。
 何が言いたいかというと、慶応年間に朝廷に天然痘の予防に関する知識がなかったのが、おかしいくらいのものだ、ということを指摘したいのである。そして、種痘予防施設があるということは、悪用すれば天然痘を生物テロに利用可能な施設もあったといえる、ということをである。
 話は明治42年10月26日に飛ぶ。その日、元勲伊藤博文を狙撃した韓国の安重根は、伊藤「斬奸状」のなかで、なぜか伊藤博文が孝明天皇を謀殺したことを狙撃の理由の一つとしてあげた。旅順法務院での裁判においても、安重根はそのことに言及しはじめ、裁判長があわてて彼の発言を中止させ、裁判の公開を禁止したということがあったらしい。このことはかって私は哀しきテロリストに書いたことがある。
 孝明天皇は謀殺されたという説は、韓国までひろがっていたのである。
 

孝明天皇 その死の謎  5

2007-06-16 12:03:02 | 小説
 潜伏期間を考慮に入れると、天皇の感染は11月末頃から12月5日までの間であったということになる。すると、前にあげた清水谷豊子は感染源からは除外できそうだ。なぜなら彼女は慶応3年正月上旬にはまだ宮中に参内しており、逆に彼女のほうが天皇から感染した可能性もあるからだ。
 かなりあやしいのは藤谷という稚児の存在である。中山忠能は12月22日の日記にこう書いていた。
「痘瘡75日相立、児(藤谷のこと)帰参のところ面体痘跡多し。上、甚だ御気味悪く思し召す中に、発痘の由なり。お忍びの仔細ついにわからず大事に及ぶ 遺憾々々」
 帰参した稚児の痘跡を天皇が気味悪がった時点が、いつのことかわからないが、中山忠能が彼を感染源ではと疑っていることはたしかだ。だから、もっと遠ざけておけばよかったのにと残念がっているのである。
 問題は、繰り返すが「九穴から御脱血」という病変の異常さであった。それを天皇のアレルギー性体質と相まった出血性天然痘の症状と断定するか、天然痘の発症にかこつけて毒物をもったと見るかだ。
 かって石井孝と原口清というふたりの歴史学者が『歴史学研究月報』(妙な場所だ)で、孝明天皇の死因をめぐって論争したことがある。仕掛けたのは毒殺説の石井孝で、病死説の原口清も相手をかなり見下したような反論をしたけれど、自分のほうで論争を打ち切ろうとした。どだい不毛なのである。歴史学者が不得意な法医学上の争いをするわけで、しかも検視の対象は生物体ではなくて、文献上の記述の断片である。ただ、原口清ももとは毒殺説であったのに、自説をひるがえした学者である。ついでに言うと、昨今は毒殺説をひるがえす学者が多い。天皇が毒殺されたとなると、犯人探しというややこしい作業にふみこまねばならず、それを回避するには病死説をとったほうが無難というわけでもないだろうが、私などは天皇はある意味では生物テロにあったと思うものだから、病死でも犯人探しはしなければならない。
 だいたい、典医たちにあまりにも危機管理のなさすぎるのが気にかかる。
藤谷という稚児を帰参させること自体、異常ではないのか。天皇御疱瘡の近例は、1773年と1819年の二例があった。それにもかかわらず、典医たちは予防にも治療にも無策であった。天然痘に関する知識は、外部のものがはるかに持っていた。 

孝明天皇 その死の謎  4

2007-06-13 16:19:44 | 小説
 ともあれ、孝明天皇の症状と死にいたる経過を確認しておかなばならない。『孝明天皇紀』や『中山忠能日記』の記述に頼るしかないが、発病は12月12日であった。以下は尾崎秀樹氏がかってまとめた経緯(『歴史と旅』63/1所収『にっぽん裏返史・孝明天皇の死因』)を孫引きながら参照させていただく。
 最初は風邪の発熱とみられていた。14日になって、山本典薬少允が痘瘡(天然痘)と診断した。翌15日には手に吹出物があらわれた。16日には朝から吹出物があって、典医たちがそろって痘瘡と診断した。17日、典医15名が連名で、武家伝奏(広橋家)に、痘瘡と診断したが「総体に御順よろしく、御相応の容態である」旨、報告している。18日、吹出物が多くなる。護淨院の湛海僧正が招かれて祈祷を行う。
 19日夜から丘診期、21日頃から水痘期、23日頃からは膿疱期に進み、カサブタが乾きはじめ、食欲も回復、夜中も安眠されるようになった。23日の湛海僧正の日記には「後静謐」とあって、症状は落着きはじめている。ところが24日夜、症状は急変、25日は「後九穴より御脱血」(『中山忠能日記』)という異常な死に方をされるのであった。
 九穴ということは、目や耳からも出血したということであろうか。『中山忠能日記』を確認してみたけれど、たしかに12月28日の記述に、その文言はあって、「実に以て恐れ入」ったと記している。
 さて、なにかがおかしい、と前に書いた。天然痘の感染は、飛沫感染や接触感染によるとされている。身近に天然痘をわずらった者がいたら、空気感染するといったようなものではないはずだ。患者の口や鼻からの分泌物、つまり唾液や鼻汁を口にでもすれば、一発で感染するだろうが、天皇はいったいどのように感染したのか、疑問は解消されないのである。しかも、潜伏期間がある。ふつう、感染しても発症するに12日、早くて一週間、遅ければ16日間の潜伏期間があるらしい。

孝明天皇 その死の謎  3

2007-06-11 22:06:31 | 小説
 慶応2年12月当時、天皇の周囲で疱瘡をわずらった者がいた。
 そのことを吉田常吉氏は見つけている。
 まず、『慶応丁卯筆記』(鳥取池田家所蔵)と『二條家譜』から関白二條斉敬の子息二人が疱瘡で死んだことを明らかにしている。ひとりは12月5日に13才で、いまひとりは12月22日に3才で死んでいた。死因はどうやら疱瘡らしい。
 さらに『中山忠能日記』と『藤谷家父譜』から、藤谷常丸(当時15才か?)という稚児が疱瘡をわずらっていたと推理している。もっとも彼ならば、死んではいない。顔の疱瘡あとから世をはかなんで出家したらしい。
 さらに後宮の女房であった清水谷豊子(当時18才)という女性が疱瘡で退下していることも照合している。
 そして吉田氏は書いている。
「このように見てくると、当時天皇の御周囲で疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない。藤谷某といい、清水谷の女といい、共に天皇の側近で奉仕する人達である。したがって九重の奥深くおはします天皇は、疱瘡の如き伝染病には絶対に隔離され、安全であられるとは誰が保証できよう」
 吉田氏はさらにこう結論づける。
「‥従来の定説、すなわち天皇が御疱瘡にかかられ、これがもとで亡くなったという事実は、余程確乎たる反対史料がない限りこれを覆すわけにはいかない」
 たしかに、そう思い込まされそうにはなる。自然感染と考えてもいいような気に一瞬、私もなった。
 しかし、まてよ、なにかがおかしい。

孝明天皇 その死の謎  2

2007-06-10 16:25:05 | 小説
 宮中の事情に通じていた「浜」という女性がいた。その浜が中山忠能(ただやす)に宛てた手紙を、当の中山忠能が日記に転載している。
 中山忠能は、いうまでもなく明治天皇の外祖父として知られるが、つまり娘の慶子と孝明天皇の間に生まれたのが明治天皇というわけで、孝明天皇の義父であった。
 さて、浜は中山忠能にこう伝えていたのだ。
「この度の御痘、全く実疱には在らせられず、悪瘡発生の毒を献じ候。其の証は御容体大秘、御内の者も一切承らず、且つ二十五日敏宮を達って止められ候え共、押し切り御参り杯は怪しむべき第一と心得候。この後何様の陰計企行も計り難し由…」
 天皇が死んで10日後、1月4日付の日記である。
 孝明天皇の毒殺説は、疱瘡がよくなりかけていた天皇に砒素をもったという意味の毒殺説である。浜浦が伝えようとしているのは、疱瘡がいわば自然感染ではなくて、人為的に感染させられたという意味であるから、ニュアンスはまるで違う。
 天皇の死については、文献上の「検死」しか可能ではない。しかし急性毒物症状がみられたから毒殺、いやそれも出血性膿疱性痘瘡の症状とみなされるから毒殺説はありえないなどという論議は、浜浦のいうように「悪性発生の毒」をもられていたのなら不毛な論議となる。
 それにしても、天皇は誰の天然痘から感染したのか。
 吉田常吉氏に伝染経路をたどった論考がある。吉田氏は『孝明天皇崩御をめぐっての疑惑』(『日本歴史』16号所収)に書いている。「もとより医学的知識に乏しい筆者のことだから、それがはたして伝染可能な状態にあったかどうか断定することはできないが、ともかくも二、三の史料を得た」と。吉田氏の得た史料を再検討してみよう。

(追記訂正:最初、私は浜の手紙を浜浦という老女からと書いたが、浜と浜浦は別人であるらしい。浜は正親町家の女房で、浜浦は忠能夫人の養家の園家の老女のようだ)