小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

あれから100年

2009-10-26 06:43:06 | 小説
 伊藤博文が中国のハルピン駅で暗殺されたのは、100年前の今日である。暗殺者は韓国のアン・ジュングンとされている。MSN産経ニュースに今日という日をめぐる中国と韓国の様子が記事にされていた。
 韓国における式典については、朝鮮日報や中央日報のウェブニュースを検索しても、なるほど100年目という節目で、いろいろとあるんだと、よくわかる。

 この暗殺事件については、4年前、このブログでも書いたことがある。「哀しきテロリスト」である。
 ぜひお読みいただきたい。

龍馬暗殺事件・考  完  

2009-10-21 21:35:00 | 小説
 谷は講演の最後で切々とこう述べていた。
「随分あの時分は斬り自慢をする世の中であったから、誰がやった彼がやったということは、実に当てにならぬと思う。どうぞご参考に供しますが、なお御取調べを願いたいと思います」と。
 これは前段の次の発言に呼応している。
「もはや古ぼけたお話になっているが、大学には歴史専門の諸君も沢山おありなさることでありますから、どうか私がお話申し上げるところをご参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば、誠に大慶に存じます」
  谷は講演では、たしかに新選組 の原田実行犯説を主張した。しかし谷の真意は、その黒幕を「吟味」してほしいというところにあるのだ。単純に新選組の犯行に固執しているわけではないのである。世間では谷をとかく龍馬暗殺犯を新選組と決めつけた頑迷で単細胞的な人物とみなす気味があるけれど、違うのである。
 思えば天満屋事件にしても、実行犯の背後に紀州藩がいると判断したことから生じたことだった。龍馬暗殺は実行犯と黒幕の二重構造になっているという見解は、当時から当たり前のようにあったのだ。
 谷が板垣の私信をあえて披露したのは、龍馬暗殺に土佐藩の佐幕保守党が関与しているのではないかと、それとなく示唆していたのだ。そう考えるしかないではないか。
「なお御取調べを願いたい」さらには「事実の真相を御吟味」してほしいと歴史専攻の若い学徒らに呼び掛けた谷の言葉を、私は真摯に受けとめたい。
 いつだったか、ある歴史作家のブログで、私が以上のような趣旨のコメントを寄せたら、それは谷が自説を聴衆に押し付けてもなんだから、空疎なリップサービスをしたのであろう、「刺身のつまですね」などいうような返答が返ってきた。唖然として、議論する気が失せたものだ。ちなみに、この作家は薩摩出身で、黒幕説とりわけ薩摩藩黒幕説などありえないというご仁だ。
 おそらく土佐人でありながら、龍馬暗殺に土佐藩関与を疑った谷の苦衷というか、その語らざる心情など、このご仁には理解不能であろう。
 故・西尾秋風さんの言葉を借りるけれど、龍馬暗殺犯に時効はない。
 谷の呼びかけを素直に受け取り、これからも事実の真相解明にこだわっていこうと思う。 

龍馬暗殺事件・考 14 

2009-10-19 23:01:49 | 小説
 谷の講演『坂本中岡暗殺事件』は、明治39年の龍馬追弔会で行われたものであった。この講演録は、龍馬暗殺の状況に言及した後半部分のみが取り上げられて、抄録のかたちで紹介されることが多い。つまり長い長い前半部分がカットされた文献となるのだ。
 講演録全体をお読みになれば、谷へのおおかたの印象はかなり変わるはずである。
 谷は前段として「当時の土佐の景況についてひととおりお話を申し上げておきたい」として、土佐藩の内情を長々と説明しはじめる。
 上士と下士との軋轢、つまり武士の種類が複雑化していたこと、そして藩論が必ずしも統一されていず、佐幕開国党と尊王攘夷党、それに佐幕保守党の三つに党派が分かれていたと語る。
 その上士と下士を調和させ、開国党と攘夷党を融和させたのが龍馬と慎太郎のふたりであったと谷はいう。
「両人が一時に殺害に遭うたは、もとより天下の為に不幸でありますが、最も土佐の国の為には非常な不幸である」と谷は嘆いた。なぜなら土佐にはまだ頑固な保守党が存在していたからだと。
 そして、ここでほとんど唐突に、慶応3年10月18日付の板垣退助から谷宛に届いた手紙の全文を読み上げるのである。
 手紙は、江戸にいた板垣が保守党の放ったスパイによって、あやうく命を落としかねない事態になったことを告げるもので、板垣はそのスパイを名指しして、その人物が近々京都に行って「何らの姦を為し候も図り難し」と谷に注意をうながした内容のものだった。
 名指しされたのは、当時豊永姓を名のっていた左行秀である。江戸詰で土佐藩の深川砂村屋敷の「掃除方」(つまり御庭番のようなもの)、表向きは刀鍛冶で、刀工を兼ねていた。
 さて龍馬の暗殺されるひと月前に谷に届いた板垣の手紙、それも近々京都に出没して姦をなすかもしれないという人物名まで明かした手紙を、なぜわざわざ、ここで谷は読みあげたのであろうか。
 しかもこの手紙を読みあげたあと、一気に本題の龍馬暗殺事件に言及していくのであった。一般に龍馬暗殺関係資料として紹介される谷講演録はここから始まる後半部分なのである。
 いったい谷は聴衆に何を伝えたっかたのか。

龍馬暗殺事件・考  13

2009-10-18 22:55:26 | 小説
 今井信郎の口書は、刑部省のほかに兵部省にも残されていた。その兵部省においても彼は「公務」としての行動だったと主張していた。
 兵部省口書の該当部分を現代口調に置き換えると。次のようになる。
「坂本龍馬を殺害したのは、見廻組与頭佐々木只三郎の指図であった。龍馬は不軌を謀ったため、かねて召し捕ろうとしたが、取り逃がしていた。(注:寺田屋事件のこと)だから、このたびはきっと召し捕れ、万一、手に余れば討ち果たしてもよい、とのお達しがあった。私は上京早々の身であったから、詳しいことは知らないが…」
 これまた白々しい言い分である。龍馬を逮捕しに近江屋に行ったのなら、なぜやにわに藤吉を斬り、さらに同席の中岡慎太郎を襲う必要があったか。いかにも、手に余ったから、やむなく討ち果たしたと言いたげである。しかし、これが実際の状況と異なることは、兵部省からまわされてきた今井を取り調べた刑部省取調官には、すぐに分かったと思う。したがって佐々木高行は「私殺」つまり暗殺と断じようとしたのである。
 ところが結果的には今井の遁辞どおり、見廻組の公務ということになった。公務ということであれば、彼らを動かしていた者の姿があぶりだされることはないからである。
 くどいようだが、あらゆる状況から見て、公務としての見廻組の仕事ではありえない。
 けれども今日、定説化しつつあるのは見廻組公務説である。そういう方向に落ち着かされようとしている。なぜだろう。
 そうすれば、暗殺の黒幕について考えなくてよいからである。あるいは考えて欲しくない人々がいるからである。
 はっきり言っておこう。龍馬暗殺は、実行犯と黒幕がいると考えなければ、いたるところで辻褄が合わなくなるのである。
 そして黒幕説といえば薩摩藩というのが巷説の代表的なものであるが、私は島田庄作に疑いの目を向けたように、土佐藩の関与もあったと思っている。すると、土佐藩士だった法務官佐々木高行の事件後の沈黙の意味も納得がいくのである。
 土佐藩が関与していることは、あの谷干城も薄々感じていたはずだ。一般に、谷は新選組犯人説に固執した頑迷な男というイメージが定着しているが、どっこいそうではなかったのである。

龍馬暗殺事件・考  12

2009-10-15 22:17:01 | 小説
 ところで、丸毛の文章にある「法官佐々木某」とは土佐の佐々木高行のことである。ああ、やっぱり、佐々木には圧力がかかっていたのか、と妙に納得がいった。平成11年、高知・龍馬研究会の『龍馬研究』121号に『龍馬暗殺「事件」の見直し』を寄稿したとき、私はこの丸毛の文章の存在を知らなかった。ただただ佐々木の態度が解せなかったけれど、いまはよくわかる。
 当時、私はこう書いたのであった。

〈今井が刑部省で龍馬殺害に関与したと自供したのは明治3年のことである。30年後に谷ははじめて今井のことを知るわけだが、そんなことがあってよいのか。
 今井を取調べた人物に佐々木高行がいる。彼は明治14年に漸進的な立憲政治の樹立を唱え、大隈重信らの急進派と対立したことがあるが、そのときの盟友は谷干城である。さかのぼって戊辰戦争のときは谷は会津攻略に参加し、佐々木は龍馬亡きあとの海援隊を率いて長崎奉行所の接収にあたった。その佐々木が龍馬暗殺犯探しにやっきとなっていた谷に、いっさい今井のことを秘密にしていたことになる。なぜだ。
 刑部省で今井信郎の判決文を書いたのは佐々木高行である。佐々木は「中正党」の盟友である谷に、なぜ刑部省での取調べのことを話さなかったのか。
 佐々木高行、元土佐藩大目付。維新後、岩倉具視の欧米視察団に随行し、司法制度の調査に当たった。きわめて冷静な人物であったように思われる。龍馬暗殺の第一報を事件後2週間経って長崎で聞いている。ニュースをただちに海援隊に伝えると、隊士の渡辺剛八が憤怒して、すぐさま上京して仇討ちをすると言い出した。佐々木は当日のことを日記に書いている。「自分云フ、今日ノ天下、一人ノ仇討ノ時ニ非ズ、大仇討ノ策肝要ナリト」
 佐々木のこのセリフは、いささか龍馬の死に対して冷淡にすぎるともとれるし、あるいは悲しみを押し殺したともとれる。
 いずれにせよ、佐々木は刑部大輔という役職のときに、今井信郎と対面しているのである。今井の刑は軽かった。箱館降伏人として伝馬町に入牢中から、西郷隆盛からの助命運動があった、と今井信郎の孫の今井幸彦が語っている。しかも西郷が征韓論に破れて鹿児島に帰る途中、静岡にいた今井を訪ねた形跡があるという。さらに西南戦争が始まると、こんどは今井が西郷のもとに駆けつけようとしたという。元見廻組隊士と西郷はなぜ知り合いだったのか。
 ともあれ、佐々木の今井に対する取り調べには何らかの干渉があった筈で佐々木は龍馬暗殺の黒幕の存在に気づいたのだと思う。黒幕は新政府の中にいた。だから佐々木はうかつなことが言えなくなったのである。見廻組の公務執行による龍馬殺害という単純な図式ならば、佐々木は谷にとっくにそのことを話したはずだ。佐々木高行の沈黙は、今日なお定説化しつつある見廻組犯行説が全面的真実ではないことを暗に裏づけているのではないのか。〉

龍馬暗殺事件・考  11

2009-10-13 21:24:43 | 小説
 よく知られているように、今井信郎は箱館戦争の降伏人として収監されたとき、刑部省より龍馬暗殺に関して取調べを受けた。
 そのことについて、あまり知られていないが、注目すべき説がある。
 以下の文章である。

「法官佐々木某(土藩士)、信郎を訊糺のすえ、私に龍馬等を殺害せしというのを執りて、罪案ほぼこれに決せしに、いかなるゆえにや、さらに転じて児島某(今の維謙氏か)の糾問するところとなり、信郎等は龍馬を殺害せしは当時、市尹の照会により、すなわち職務をもってこれを捕縛せんとせしも抗拒せしため、やむをえず斬殺したるなりとのこと、同局(刑部省)より静岡藩に移牒し、当時の見廻組頭小笠原石見守(弥八郎)現存せるをもって、これを同人に質し、まったくその私殺にあらざりしこと判明するに至れり」

 筆者は丸毛利恒である。彰義隊に加わり、箱館戦争も戦った幕臣で、今井と同じく青森で収監されていた。
 明治31年4月の『同方会報告』で大鳥圭介の「獄中日記」を発表したさいの補注に、丸毛は以上のように記述しているのである。今井同様の降伏人であったから、仲間の取調べ状況にはことさら関心があったはずである。
 いったんは今井らは、つまり見廻組は「私に龍馬等を殺害」という判決になっていたのに、あとでひっくり返って「私殺」でなく、「職務」つまり公務で、やむなく斬殺したとなったというのである。
 そしてそのことは静岡にいた小笠原弥八郎が証明したというのだが、丸毛の知らない事実がある。
 静岡藩公用人を通じて刑部省に提出した書面で、小笠原はこう書いていたのだ。
「坂本龍馬召し捕り方差図儀はもちろん、それこれの始末いっさいあい心得申さず候。誠に驚き入り候次第に御坐候」
 当時の見廻組頭取は、「私殺にあらざりし」などと言ってはいないのであった。それどころか、召し捕りの指図も自分は出していないし、「いっさいあい心得申さず」という有様だった。
 なにかがおかしい。
 刑部省の中で、いわば新政府の中で、龍馬暗殺の真相にベールをかけようとする動きがある。そう疑われても仕方がないではないか。 

龍馬暗殺事件・考  10

2009-10-12 16:47:57 | 小説
 早すぎるのは、犯人たちが「多分新撰組等」という「報知」内容もである。遺留品の刀の鞘から、新選組の関与という結論めいたものを出すのは、事件から数日後のことであったのに、これは何を根拠に寺村の耳に入れられたのであろうか。
 事件の一報は、まず土佐藩邸に伝えられ、そこから寺村の家来が主人を探して近喜の道筋に走ったはずである。
 寺村らは芝居見物のあと、近喜で食事をとることを、あらかじめ伝えていたのであろう。だから「近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有」なのである。
 では土佐藩邸に、事件の詳細を驚くべき的確さで、いち早くコンパクトに伝えたのは誰であったのだろうか。
 繰り返すが、近江屋新助ではない。谷干城の証言(講演記録)でも、そのことは裏付けられる。
 谷は語っている。
「そこで此坂本の斬られたと云ふ報知のあった場合に直ぐに駆付けて行った者が、私と毛利恭助と云ふ者である。是は京都三条上る所の高瀬川より左に入る横町の大森と云ふ家がある。毛利両人は其大森の家に宿をして居った。それで先づ速い中であった。土佐の屋敷と坂本の宿とは僅に一丁計りしか隔て居らぬから、直ぐに知れる筈なれども、宿屋の者等は二階でどさくさやるものだから、驚て何処へ逃げたか知れぬ。暫くして山内の屋敷に言って来たものも、余程後れ私が行った時も最疾うの後になって居る」
 談話の筆記だから、ややくどく、わかりにくいところもあるが、重要なのは土佐藩邸と近江屋は目と鼻の先だから、事件のことは「直ぐに知れる」はずなのに、近江屋の者たちはどこかに逃げてしまっていて、土佐藩邸に言って来たのは谷が現場に駆け付けた後だったというのである。
 さて菊屋峰吉は白川の陸援隊に急を知らせに走った。そのことは田中光顕の証言があるから確かだ。つまり土佐藩邸への通報者は峰吉でもない。
 峰吉が土佐藩邸に駆け込む必要がないと判断したのは、藩邸への報告者が別に居たからである。
 誰か。
 島田庄作しかいないではないか。
 藩邸への報告がリアルであるのは、その報告者が、そのとき現場に居た者だからなのだ。島田庄作を暗殺グループの一員と見なすと、事態はすっきりと呑みこめる。寺村は島田の報告内容を日記に書いているのである。
 龍馬暗殺事件には、たしかに見廻組の者たちが実行犯として関与していた。しかしそれは見廻組の公務としての仕事ではない。見廻組の者たちは、暗殺というアルバイトをしたのである。事実、明治になって見廻組は公務ではなく、「私」ごととして龍馬らを殺害したと判断する取調べ経緯があった。

龍馬暗殺事件・考  9

2009-10-08 22:57:23 | 小説
 さて通説(『坂本龍馬関係文書』)によると、近江屋新助は二階の物音に驚いて、近江屋の裏口から迂回して土佐藩邸に駆け込み、異変を告げたことになっている。(近江屋のすぐ斜め前が土佐藩邸だった)刺客の襲撃をいち早く土佐藩邸に通報したのは新助ということになっているのだ。
 しかしこれは菊屋峰吉の証言とはおおいに矛盾するのである。
 峰吉が鳥新から帰ってくると、近江屋の表戸が少し開いていた。いぶかしく思いながら中を覗くと、抜刀した大男の姿があった。思わず後ずさりして車留めの石に腰を落とした。すると、その大男が「なんだ峰吉じゃないか」と声をかけた。そして「いま坂本と中岡がやられた」と言ったのである。土佐藩士の島田庄作だった。
 峰吉は中に入って、台所にとりあえず軍鶏肉を置いた。すると裏口近くの物置に人の気配がした。物置の戸を開けると、近江屋主人夫妻が、ガタガタふるえながら隠れていた。
 以上が峰吉の証言である。
 近江屋新助は土佐藩邸に急を知らせてはいないのである。
 いや、急を知らせていたから島田庄作が来ていたという解釈は成り立たない。
 刺客たちが複数とわかっているのに、島田ひとりがやってくるわけはないのである。
 私は、島田は刺客グループの一員だと、かねてから思っている。彼こそ見張り役で、刺客たちが引き上げた後も残っていたのである。すぐ前が土佐藩邸だから、そこに居てもあやしまれない。むしろ、藩邸に帰る者たちの様子をにらみながら、刺客たちに早く引き上げるように合図する役目だったかもしれない。藩士たちが帰邸する時間だったのである。
 刺客たちが、龍馬や慎太郎にとどめを刺さずに、はやばやと引き上げたのは、そういう時間帯のせいもあったのではないか。
 ここで龍馬暗殺の一報に接した土佐の寺村左膳の日記を思い出してみよう。
 寺村は朝早くから四条の芝居小屋(南座)で歌舞伎を鑑賞していた。「夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様子ニ而注進有、子細ハ坂本良(龍)馬、当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助(中岡慎太郎)今夜五比両人四条河原之下宿ニ罷在候処、三四人之者参リ才谷ニ対面致度とて名札差出候ニ付、下男之者受取二階へ上り候処、右之三人あとより付きしたひ二階へ上り矢庭ニ抜刀ニ而才谷石川両人へ切かけ候処、不意之事故抜合候間もこれなく、そのまま倒候由、下男も共ニ切られたり、賊は散々ニ逃去候由、才谷即死セリ、石川は少々息は通ひ候ニ付、療養ニ取掛りたりと云、多分新撰組等之業なるべしとの報知也」
 なにか奇妙な感じがするではないか。報告が早すぎるのである。いったい事件の状況をこれほど詳しく寺村に報告できた人間は誰だったのか。 

龍馬暗殺事件・考  8

2009-10-07 23:39:08 | 小説
 近江屋新助の供述どおりなら、彼は刺客と顔を合わせていない。だから刺客が十津川郷士と名のったかどうか、直接に知りえなかったはずである。なにしろ取り次いだのは藤吉であるからだ。
 今井信郎はそれにしてもなぜ一貫して松代藩の者と名のったと主張したのであろうか。
 刑部省口書では「松代藩ト歟認有之偽名之手札差出」と供述、「歟」という字が入っているところを見ると、いささか確信はゆらいでいる。おそらく今井の思い違いであって、実際に名のった者のうしろに彼はいたのだ。彼が龍馬暗殺の主犯でなくて、あくまで共犯者であったことは、これでもわかる。
 ところで今井が、もし十津川藩の者と名のったと言っていれば、のちに谷干城から嘘つきよばわりされることもなかったかもしれない。谷は松代藩の者だったら取り次ぐはずはなく、十津川の者というから安心して二階へ上げたはずだと講演で述べたのであった。
 藤吉と慎太郎は即死ではなかったから、どちらかが虫の息で刺客は十津川郷士の名札(名刺)を差出したと明らかにしたのであろう。
 しかし不思議なのは、その名刺の存在である。現場から発見されていないのである。事件の証拠物件たる遺留品が消えているのだ。
 名刺は、藤吉あるいは龍馬の手に渡っているわけだから、事件現場に残されていなければならない。流血淋漓の現場で、鮮血に濡れた名刺は、血と一緒に拭い去られでもしたのであろうか。それとも誰かがひそかに持ち去ったのか。持ち去ったとすれば、なんらかの意図がはたらいたのである。
 刺客が十津川郷士を偽称したことは、十津川郷士にとってはやりきれない思いであっただろう。前述した天満屋事件で、三浦休太郎を討つべく、新選組に護衛されていた三浦の宴席に、真っ先に斬り込んだ中井庄五郎は十津川郷士だった。中井は陸援隊士だったが、おりょうさんによれば「坂本のためならいつでも一命を捨てられる」という男だった。
 同志をだしぬいて「お先に御免」と斬り込んだ彼には、十津川の名をかたられたという憤怒があったに違いない。その激情が彼を闘死させた。天満屋事件で襲撃側の死者は中井だけだった。

龍馬暗殺事件・考  7

2009-10-07 07:21:56 | 小説
 近江屋新助は書いている。
「今井の実歴談の)私共は信州松代藩云々以下十行は全くなき事なり」と。
 その箇所を引用してみよう。
「そして私共は信州松代藩のこれこれと云うものですが、坂本さんに火急にお目にかかりたいと申した処、取次ぎのものが、ハイと云って立って行きましたから、こいつは締めた、居るに違いない。居さえすれば何様でもして斬って仕舞うと思って居ますと、其のうちに取次ぎが此方へと云いますのであとへついて二階へ参りました」
 先に今井の「捕縛にむかい云々」の回答を、しらじらしいと貶したのは、ここでは最初から斬るつもりだったと述べているからである。
 これが事実と違うという近江屋新助は、しかしそのことを言っている訳ではない。新助はここのところを以下のように叙述していた。
「…藤吉、来人ノアルヲ聞キ二階ヨリ下リテ戸ヲ明ケ、彼方ハ何方デスカト尋ネタレバ、私ハ十津川郷士ニテ名刺ヲ出シ、坂本君ニ御面会ヲ願度キデスガ御在宅デスカト尋ネタルニヨリ、藤吉ハ何心ナク唯答エテ名刺ヲ持テ二階ニ昇リタルニ…」
 刺客は十津川郷士と自称したのだから、松代藩の者となのったなどは嘘だというのである。さて、ここで気になることがある。刺客たちが入ってきたとき、その応対を二階にいた藤吉がした、という新助の証言にである。来客があれば、ふつう一階に居る者が出て行くのではないか。それで藤吉を呼び、取り次がせるのが段取りというものではないだろうか。
 状況のまったく違う証言がある。
 龍馬の暗殺は在京各藩に大きな衝撃を与えたが、なかでも鳥取藩は熱心に情報を集め、記録していた。『鳥取藩慶応丁卯筆記』は次のように書いている。
「…表より女の声にて、木村様より御手紙届け物の趣を申し戸をたたき候間、新助方家内、何心なく戸をあけ候ところ、何者ともわからぬ侍八、九人ばかり乱入、やにわに二階へ抜刀を振りて罷り上がり、…」
 近江屋の戸を開けたのは、階下にいた新助の妻だったというのだ。
 むしろ、こちらのほうが「ふつう」の状況であろう。鳥取藩がどこからこの話を聞き込んだかは不明だし、内容自体の信憑性は別にしても、新助がいうように一階の者が戸を開けなかったことのほうが考えにくいのである。
 一階に誰もいなかったのなら別である。あるいは、あらかじめ来客が刺客であるとわかっていて、身をひそめていたのなら別である。 

龍馬暗殺事件・考  6

2009-10-05 22:45:41 | 小説
 近江屋に残されていた刀の鞘が原田左之助のものだったという証言は、たぶんに暗殺が新選組の仕業であったとミスリードするための偽証であったように思われる。その鞘はまったく別人のものであったとする証言があるのだ。
 明治になって龍馬殺害を告白した元見廻組肝煎の渡辺篤は、こう述べている。

「刀の鞘を忘れ残し帰りしは、世良敏郎という人にて、書物は少し読み候えども、武芸のあまり無き者ゆえ鞘を残し帰るという不都合でき、帰途、平素剣術を学ぶこと薄きゆえ、呼吸あい切れ歩みも出来難き始末によりて、拙子(渡辺のこと)世良の腕を肩にかけ鞘のなき刀を拙子の袴の中へたてに入れて保護し連れ帰り候。河原町の四条へ出て四条千本通り迄、千本を下立売、下立売をち智恵光院迄、智恵光院を北へ入り西側の寺院(名相忘る)迄、ようやくあい帰り候」(表記は読みやすく変えている)

 妙にリアリティのある証言ではないか。
 いずれにせよ、龍馬暗殺に関与したと供述しているのは、今井信郎といい、渡辺篤といい、京都見廻組の面々であった。
 では見廻組の仕業と単純に片付けてよいのかというと、これがそうはいかない。
 渡辺篤自身、はからずも述べた言葉に注目すべきだ。渡辺らは見廻組頭取の佐々木只三郎の下宿していた寺で祝杯を上げて夜を明かし、それから自宅に帰ったとしているが、こう書いているのだ。
「秘密の事ゆえ、父に相語りしのみて誰にも語らず候」と。なぜ「秘密」なのであろうか。暗殺であるからだ。
 見廻組の公務を執行したにすぎなかったならば、暗殺にはならない。「秘密」にするいわれは、ことさらないはずだった。
 事実、今井信郎は、のちに「暗殺にあらず」と、いささかむなしく居直っている。
 明治42年12月、大阪新報社の和田天華の質問に答えた今井信郎は、
 1、暗殺ニ非ズ、幕府ノ命令ニ依リ職務ヲ以、捕縛ニ向格闘シタルナリ。
 1、新撰組ト関係ナシ。余ハ当時京都見廻リ組与力頭ナリ。
 1、彼レ曽テ伏見ニ於テ同心三名ヲ銃撃シ、逸走シタル問罪ノ為ナリ。
 と回答しているのだ。
 しらじらしい限りである。
 今井は箱館降伏人として兵部省、刑部省で龍馬暗殺の関与について取り調べを受けた際、自分は近江屋に行ったが、階下で見張り役だったので二階の様子は知らないと供述していた。それが明治33年の「近畿評論」で突如として、龍馬を斬ったのは自分だと言い出したのであった。
 その「近畿評論」の記事に、近江屋主人が異様に反応した箇所があった。

龍馬暗殺事件・考  5

2009-10-04 22:41:02 | 小説
 12月19日朝にしたためたと記す佐々木多門の密書の本文は72行ある。龍馬暗殺に言及のあるのは末尾近くの67行目からである。つまり、この密書のメインテーマは京都の政情報告であって、龍馬に関しては、追記事項にすぎなかった。
 67行目から末尾までを、読みやすい表記に変えて引用する。

「右のほか、才谷(龍馬)殺害人 姓名まであい分かり、
 これにつき薩藩の処置など、種々
 愉快の儀これ有り、いずれ後便で
 書き取り申し上ぐべき存じ奉り候。申し上げたき儀、
 海山々ござ候えども取り急ぎ右、貴答
 申し上げたく、此のごとくにござ候。以上」

 さて、この箇所を、龍馬殺害人が特定されて薩摩藩が種々善後策(処置)にあわてふためいていると解釈すれば、龍馬暗殺・薩摩藩黒幕説の傍証となりうる。西尾秋風さんなどは、そう解釈してきた。
 しかし最近では、ここで佐々木の言う殺害人は新選組の原田佐之助のことであり、その特定に薩摩藩が間接的に協力した事実を指しているという見方が有力になっている。
 事件直後、近江屋には刀の鞘が落ちていて、刺客の者とみなされた。その鞘を原田のものだと特定したのは薩摩藩に保護されていた元新選組・高台寺党の連中だったからである。
 そうだろうか。それならば、新選組が才谷を殺害した、と書けばすんだのである。岡又蔵の主人の松平主税とは松平上総守忠敏のことである。かっての浪士組取締役、つまり、ある意味では新選組の生みの親といってもいい人物だ。新選組の動向に関しては神経をとがらしていたはずで、佐々木がそのあたりの機微を知らぬわけはない。
 姓名がわかったという、その人物名は、三浦休太郎のことだったのではないだろうか。三浦についてなら、詳しい説明が必要になる。だから詳細は「後便」に譲るしかなかっと、私は考える。
 12月7日だから、この密書の書かれた日の12日前に、両隊長を同時に失った海援隊および陸援隊の隊士たち16人が、龍馬、慎太郎の復讐とばかりに、ひとりの人物に狙いを定めた。
 それが三浦休太郎である。紀州藩公用人だった。
 いろは丸沈没の賠償金で龍馬に屈辱を味わった三浦こそ、龍馬暗殺の黒幕であると海援隊は判断したわけである。同志16人は、油小路花屋町下ル天満屋に止宿していた三浦を襲撃した。世に言う天満屋事件である。
 結局、新選組に護衛されていた三浦を彼らは討ち果たすことができなかった。しかし海援隊の隊士であった佐々木は、密書を書いた時点では、彼らと同様に三浦を殺害人と認識していたと見るのが、自然ではないか、と考えたのである。

龍馬暗殺事件・考  4の2

2009-10-02 16:15:08 | 小説
 ところで佐々木多門は岡又蔵とは兄弟の間柄であって、身内に宛てた手紙だから密書でもなんでもないという論者がいる。しかし、手紙の中には次のような箇所があるのだ。

「小子義は此節、何方よりも嫌疑無御座候間、必○御案披下間敷候。併決而油断不仕候間御案意被成下候」

 要するに、「この節は、どこからも嫌疑はかけられていないので心配しないでほしい。といって決して油断はしていないから、ご安心ください」と書いているのだ。「この節」はと、わざわざ断っているのは以前になんらかの嫌疑をかけられたことがあったのかもしれない。
 先に佐々木は幕府のスパイとしか考えられない、と書いた。この手紙が密書としての性格を帯びていることと合わせて、証拠となるに、じゅうぶんな文面ではないだろうか。
 いずれにせよ差出人を偽装すること、そのことに協力している近江屋は、すでにして龍馬を裏切っていたと言って過言ではない。

【注記】佐々木の手紙には、いかにも身内に対する私的な部分も、もちろんある。たとえば次の文面。「ななこ袷、もしお手元にそのまま御坐候はばお贈り下されたく候様、願い奉り候。お手元に御坐なく候はば、別にお贈り下され候には及び申さず候」

龍馬暗殺事件・考  4

2009-10-01 21:31:11 | 小説
 井口家文書は、京都を拠点とした龍馬研究家の西尾秋風さんの手によって公表されてきた。西尾さんは1979年に4代目井口新助氏を探し当て、銀行の貸金庫に預けられたままで中身も調べられていなかった文書類を開封、解読したのであった。
 これまでに紹介した近江屋主人供述・息子新之助筆記の草稿は、もともとは明治33年夏に京都で発行された『近畿評論』の「今井信郎氏実歴談」を反駁する目的で書かれたものだった。その雑誌記事はいうまでもなく龍馬を斬ったのは俺だ、という告白記事である。ところが聞き取りした記者の潤色が多く、あまりに実地状況と違った箇所が多いので、近江屋主人として批判したくなったのであろう。この記事には谷干城も厳しい批判を寄せたことは、よく知られている。潤色のせいで今井も谷もともに不幸であった。今井は売名の徒と決めつけられたし、谷は見廻組犯行説を認めず、新選組犯人説に固執する頑迷の輩と誤解された。しかし、このことに言及すると長くなるから話を前に進めよう。
 さて、井口家の文書から、西尾さんはほかにも重要な史料を発見している。そのひとつが佐々木多門の密書であった。龍馬が暗殺された約一ヵ月後の日付で、龍馬の「殺害人の姓名まで相分り、これにつき薩藩の所置等、種々愉快の義これ有り」という刺激的な文言のある密書である。
 密書とされるにはわけがある。宛先は幕府の要人で、差出人は別人の名が記載されているからだ。
 もう一昔前のことであるが、生前の西尾さんから佐々木多門の密書の現物コピーを送っていただいていた。いまあらためて、それを取り出してみた。
 封筒の表書きには「江戸浅草新堀幡端 松平主税様御内 岡又蔵様」とあって、差出人は「四条河原町上ル 土佐屋敷前 近江屋新助 急要用 貴答 平安」」となっている。封筒の裏面は「封 極月十九日 六日限 賃金相済」と読める。
 密書は他にも二通あって、差出人が新助の弟の小三郎名になっているものもあるが、いずれも中身は佐々木多門の手紙である。この佐々木多門、海援隊士なのである。
 どうやら彼は幕府のスパイとして海援隊に入っていたとしか考えられない。旗本の松平主税の家来の岡又蔵に京都の政情について逐一報告していたことがうかがわれるのだ。たとえば手紙の「貴答」という言葉や、手紙の末尾に「多門」とだけだけ署名して、書き手が誰だかわかるのは、頻繁な文通があった証拠である。
 それにしても、なぜ佐々木多門の密書は飛脚の手に渡されずに、近江屋に残ったのか。さまざまな想像が可能だが、それはさておき、近江屋が幕府の情報ルートの一拠点であったということは見逃せない点である。
 そしていまひとつ、佐々木多門が龍馬暗殺犯について幕臣にわざわざ報告していることの、その重要な意味合いに注意をむけなければならない。京都見廻組は幕府直属の組織であった。もしも見廻組が公務として龍馬らを殺害したのであるならば、幕府は当然承知していなければならず、佐々木が幕臣に「姓名がわかった」などという必要はないし、出すぎた真似である。しかも佐々木は、ふつうなら新選組とか見廻組とか組織名を名指すところを、そうしていない。
ただたんに「姓名」である。なぜだろう。