小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

新選組の悲劇  16

2007-01-31 17:23:26 | 小説
 慶應3年11月18日、坂本龍馬が暗殺された3日後のことだ。その日夕刻、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に出かけてゆく。近藤や土方ら旧同志と酒宴となって、したたかに酒を飲んだ。徒歩での帰路、油小路七条下ルで闇討ちにあった。
 近藤は最初から伊東を酔わせて襲うつもりだった。伊東は国事について語りたいという近藤の招きに応じたとも、あるいは政治資金の借用を申し入れており、その金を受け取りに行ったともいう。いずれにせよ、伊東の無警戒さは、近藤勇の暗殺を策謀している人間のとる行動ではない。伊東の近藤抹殺説は嘘としか思えない。それにしても、これから殺そうとしている男と飲む酒はうまいのかまずいのか、当夜の新選組の面々に訊いて見たい気がする。
 伊東を待ち伏せしていたのは、守護職屋敷で佐野に切りつけられて怪我をした大石鍬次郎、それに横倉甚五郎、宮川信吉、岸島芳太郎の4人ということになっている。大石が物陰からくりだした槍の一撃を、伊東は最初に受けた。刺客らと抜きあって、本光寺の門前まで来て力尽き、「奸賊ばら」と叫んで絶命した。
 さて、刺客はほんとうにその4人だけだったのか。斉藤一はいなかったのか。未見だが、斉藤の家伝に伊東に関しては「近藤の命で自ら手を下した」とあるらしい。気になる近藤の手紙がある。当日の日付で、紀州藩士の三浦休太郎に宛てたものだが、紀州藩に預けていた斉藤一の身柄を無断で引き取った詫び状である。斉藤を「少々相用い候事件出来候」とある。定説の斉藤スパイ説に疑義があると前に書いた。彼が潜入者でなかったとすれば、この日、伊東暗殺に自ら手を貸すことによって、新選組復帰の信頼を得なければならないわけである。ちなみに彼は高台寺党から失踪後は山口次郎と名を変えていたが、実に要領よく名を変える人物だった。戊辰戦争に参加して会津落城後の斗南に配流されたときは一戸伝八となのった。明治になると藤田五郎となのって新政府の警視局に就職、退職後は女子等師範学校の書記などを務め、大正4年まで生きた。だが同じ年まで生きた永倉新八と違って、新選組については公には一切語ることがなかった。語れなかったはずだ。新選組隊士という過去を封印することによって72才まで生きたからだ。 

新選組の悲劇  15

2007-01-30 22:31:26 | 小説
 死の間際ですさまじい闘魂をみせた佐野七五三之助は、元治元年の池田屋事件後に伊東甲子太郎に同道するようにして、新選組に入隊していた。
 伊東が佐野の死をどう受けとめたか詳しくはわからない。なぜ佐野は伊東の離脱のときに行動を同じくしなかったのか気になるところだが、伊東にしても万感胸に迫るものがあったはずだ。
 ところで元治元年は甲子(きのえね)の年であった。その年に入隊したから甲子太郎(かしたろう)と改名した伊東のもとの名は大蔵である。江戸は深川佐賀町で北辰一刀流の道場を開いていた。旧知の藤堂平助に口説かれて新選組入りしたのである。道場をたたんで、実弟の鈴木三樹三郎、佐野ら同志をひきつれて上洛したのであった。政局は京に移っているというのに、江戸で町道場などやっていられるかというところだけは、かっての近藤勇に似ている。
 国事に男の命を燃やしたいという思いから、新選組を足がかりにしようとしたのだ。のちには攘夷というより開国論に傾き、政権を徳川にではなく公卿に移そうなどという構想を抱く人物だから、徳川政権の崩壊をもっともおそれた近藤らとは水と油のような関係になる。
 伊東は新選組参謀となって、いわば隊士たちの学問師範をつとめたらしいが、むなしいものである、その伊東を新選組隊士が襲うのである。
 伊東のいわゆる高台寺党には斉藤一がいた。定説では最初から近藤勇の密命を帯びた新選組のスパイということになっている。斉藤スパイ説には、いささか疑義を感じるのだが、この斉藤の密告が、有名な油小路の惨劇のひきがねになるのだった。
 斉藤は女にいれあげて高台寺党の公金50両を横領、衛士に戻ることができなくなって、新選組にかけこんだ。(阿部隆明の史談会における証言)
 斉藤は告げる。「伊東は近藤勇らを殺し、新選組を乗っ取ろうとしている」と。おかしな話だ。幕臣たちの組織となった新選組が乗っ取りの対象になるわけがない。ともあれ近藤が感じたのは、自分が暗殺されるかもしれないという危機感だ。だから先手を打った。 

新選組の悲劇  14

2007-01-29 20:45:04 | 小説
 幕臣になることを潔しといなかった10人は、6月13日に守護職邸を訪問したが、その日は結論が出なかった。近藤や土方らも駆けつけ帰隊を説得するが、彼らは応じなかった。翌14日に再び話合いがもたれた。おそらく話合いが膠着状態なったときのことだろう。佐野七五三之助が中座し、別室から茨木、富川、中村の3名を呼んだ。どれほどの時間が経ったのかはわからない。新選組隊士島田魁が気になって、彼らの部屋の襖を開けたら、4人は切腹していた。俄然、大騒ぎとなる。
 隊士大石鍬次郎が遺体の検分をしようとしたときのことだ。喉に短刀を刺していた佐野は、その短刀を引き抜くや最後の力をふりしぼって大石に切り付けている。大石はなぜ切りつけられたか。『黒川秀浪筆記』にこうある。「大石と申す人は元来、禄を貪り、進席を悦び候人にて、佐野氏かねて悪くみおり候」と。ともあれ佐野は志村武蔵の脇差でとどめを刺された。ほかの3人も3ヶ所ないし4ヶ所とどめを刺された。遺体を何ヶ所も刺したりするから、4人は数本の槍で不意打ちのように刺されたなどという説も飛びかった。西村兼文『新撰組始末記』は4人は新選組によって虐殺されたと記している。
 残された6名が放逐という処分で済み、命までとられていないのだから虐殺説はありえないだろう。なにより佐野の懐には辞世の歌があった。

     二張(ふたはり)の弓引かまじと武士(もののふ)の
                  ただ一筋に思いきる太刀

 二張りの弓は引かない、という言葉に決意がよくあらわれている。新選組のダブルスタンダードに対する死の抗議、あるいはポリシーの変節への痛烈な皮肉がこめられていると読めなくもない。
 この守護職の屋敷で自裁した4人こそ、ほんとうは最も本来的な新選組隊士だったのだと私は思う。

新選組の悲劇  13

2007-01-28 17:33:47 | 小説
 山南の切腹事件とほぼ同一線上にあるような事件が2年後に起きる。こんどは4人の隊士が死んだ。
 慶應3年6月初旬、新選組全員が幕臣に取り立てられることになった。局長近藤勇は「御目見以上之御取扱」、副長土方歳三は「見廻組肝煎之御取扱」その他の隊士は、見廻組平組員、あるいは見廻組並、さらにそれに準ずる格付けだった。全員が幕府直参になれたのだから願ってもない大出世といえるけれども、隊士のうち10人が幕臣になることを拒絶した。
 実は文久年間に幕臣取り立ての話があったとき、禄位を受けては攘夷の志が鈍る、として幕臣になることを辞退したのは近藤勇そのひとであった。だから会津藩お預かりとなっていたのだ。
 それなのに攘夷という初志をいまだ貫くことができず、京都の治安部隊に変容し、さらに幕臣となっては尊王思想の変節ではないか、と思う者が出てきて当然なのである。
 幕臣取り立てに反対した10人とは、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎、富川十郎(以上4人が切腹)、中井三弥、高野良右衛門、松本俊蔵、木幡勝之進、岡田克己、松本主税であった。
 茨木司の年齢は不詳であるが、近藤勇の信任厚かったらしい挿話が残っている。その茨木が新選組離脱をはかるのである。佐野七五三之助は32才の壮年だが、富川十郎は24才、中村五郎にいたっては19才だった。中村は慶應元年の入隊なのだ。
 佐野は池田屋事件後の元治元年秋、伊東甲子太郎と一緒に入隊しており、いわば伊東の同志だった。その伊東はこれより3ヵ月ほど前、新選組を合意の上で離脱しており、孝明天皇の山陵の衛士、つまり御陵衛士となっていた。いわゆる高台寺党である。十人余の新選組隊士が離脱し、彼と行動を共にしていて高台寺月真院を屯所にしていたから、そう呼ばれる。
 さて、茨木らもまた高台寺党にくらがえしようとするが伊東に拒まれる。伊東らが離脱するとき、追加離脱者を受け入れないという約束事があったからである。そこで10人が次にとった行動は会津藩への直訴だった。京都守護職の屋敷が悲劇の場所となるのだった。
 

新選組の悲劇  12

2007-01-27 21:07:03 | 小説
 山南が出格子をはさんで恋人と別れを告げる場面は、当時15才の少年が目撃している。八木為三郎である。後年、老人となった八木為三郎から話を聞いた子母澤寛はそのことを『新選組遺聞』に書いた。
 女性は21、2才で、山南が島原で落籍した明里(あけさと)という。明里はたぶん源氏名だろうが、名はそれとしかわからない。遊女とはいえ、上品な女だったと為三郎は述懐している。ドラマチックな場面であり、潤色したい誘惑にかられるけれど、八木老の話をそのまま引用しておこう。

(山南と明里は)二、三十分も、そうしていましたが、隊士も出て来たし、明里のところからも人が来て、つれて去ろうとしました。明里がまだ格子にしがみついているうちに、内からすうーっと障子が閉ってしまいました。私はその時の事を思い出すたびに涙が出ます。
 明里は泣きながら去りました、私はその場を動くこともできずに、黙って西窓をみているうちに、次第に日が暮れて来ました。窓の障子の白い紙がぼんやりして来て、今に灯がつくかつくかと思っていましたが、とうとう灯は入りません。

 これだけでじゅうぶん感動的である。明里に思いを断ち切らせるように、障子を閉めて、暗くなっても灯もつけず、ぽつねんと耐えている山南の哀しさがわかる。
 新選組の副長、あるいは総長をつとめ、いわば重要人物だった男を、切腹という事態にまで追い詰める組織とはいったい何だろう。隊規違反による処罰というより、山南の死は、本旨を見失いつつある組織への抗議の死ではなかったのか。事実、西本願寺の寺侍であった西村兼文は、山南の死を「憤激ノ余リ」自刃したと伝えている。どちらかというと、西村説が真実に近いのではないだろうか。

新選組の悲劇  11

2007-01-25 23:24:03 | 小説
 山南敬助は土方歳三と同格の新選組副長として知られているが、元治元年6月には総長になっていた。局長の近藤勇の次席、副長の土方より格上だったのである。年齢も土方より2才上。試衛館はえぬきではなく、仙台脱藩浪人で北辰一刀流の免許皆伝をうけていたとされる。だから、もともとどこかで多摩剣士団とはそりが合わなかったかもしれない。弟のように可愛がっていたという沖田総司は別として、土方とは互いにライバル視しあっていたらしい。
 元治2年(慶應元年)2月、新選組を脱走、大津まで行ったところで沖田総司に追いつかれ、連れ戻されて切腹させられた、というのが一般に流布している説だ。永倉新八によれば、山南は「幕府の爪牙」となって功名を急ぐ近藤に批判的だったという。脱走のきっかけになったのは新選組の西本願寺移転に反対し、近藤や土方と折り合いが悪くなったためという説がある。そんな問題で脱走などするものか、と私などは思う。要するに山南の「脱走」の真相はよくわからないのである。「脱走」ではなく、山南はもともと大津で療養生活を送っていて、帰隊せよという命令を無視したような恰好になっており、沖田が迎えに行ったというのが真相ではないかと推理するのは菊地明氏『新選組全史』(新人物往来社)だ。卓見である。私は菊地氏より、もっと踏込んで、山南は新選組の仕事をサボタージュしていたのではないかとかんぐっている。屯所の移転話が起きたときも、だからそんなところへは行かないよ、とでも言ったのが移転反対説になっているのではないだろうか。さらに屯所に沖田ともどってきたとき、永倉新八が脱走をすすめたが、もう切腹は覚悟しているからと受けつけなかったことが、「脱走」のイメージを固定化したのではないのか、と推測している。
 山南が伊東甲子太郎と妙に気脈を通じ合って、近藤に猜疑の目を向けられ、脱走したという説もおかしい。伊東のことが新選組で問題になるのは、ずっとあとのことである。
 山南の切腹した部屋には出格子があった。彼はその出格子越しに、ひとりの若い女性と話を交わしている。今生の名残だった。

新選組の悲劇  10

2007-01-25 00:32:23 | 小説
 8月の褒賞金の配分については記録が残っている。
 近藤勇に30両、土方歳三に23両、沖田総司、永倉新八、藤堂平輔、谷万太郎、浅野藤太郎、武田観柳齋に20両、他の隊士たちには17両と15両と若干の格差があった。
 ところで、文久3年9月頃の隊士たちの月給(京都守護職からの)は3両だった。この8月だけで、最低でも当時の月給の5倍の特別手当を手にしたわけである。
 生家を屯所とされていた八木為三郎が子母澤寛に語っている。 
 大金を手にして〈毎日毎夜、島原などへ通いつづけ、大変な騒ぎでした。誰でしたか真っ赤に酒に酔って、「大名になった、大名になった」と叫びながら、島原の方へ走っていった隊士がありました〉(『新選組遺聞』) 
 大名になった、とは大名遊びができる身分になったという意味だろうが、あるいは幕臣としての栄達を日頃夢見ていて、思わず言葉に出てしまったのかもしれない。
 新選組は池田屋事件以降、幕府の爪牙となってゆく。これも新選組の悲劇だ。「幕府の爪牙」というのは身内から発せられた言葉だ。尽忠報国の本旨を忘れて、幕府の飼い犬になってよいのか、そういう疑問を抱いた男に山南敬助がいる。
 山南敬助の不可解な切腹は、やはり悲劇のひとつだが、そのことに目を向けてみようと思う。

 追記:うっかり八木為三郎のことを「隊士だった」と形容詞をつけていた。訂正致しました。

新選組の悲劇  9

2007-01-23 22:24:54 | 小説
 池田屋事件を「此の災」と表現した海舟の日記を、再び最後部分を含めて引用する。「…此災に逢ふ、長藩士又然り、故に憤激して上京、七卿を復職し、橋公、中川親王を廃し、攘夷一轍にせんと云と」
 池田屋事件は明治維新を1年遅らせたとか、あるいは逆に結果的に早めたとか勝手な論評があるけれど、確実に言えることは、長州藩をいたく刺激し、長州軍の上洛を早め、「禁門の変」を惹起したことだ。
 むろん長州藩は池田屋事件について、海舟のいう橋公つまり一橋慶喜に抗議していた。長州藩京都留守居役乃美織江の抗議文には「尊攘の志を抱き候浪士の者共、奸賊同様無残捕縛致し候様」あるいは「一言の糺向もこれなく暴に斬殺等致し候由」などの文言がある。しかし幕府はもとより長州藩のこの抗議を無視したのであった。
 くどいようだが、攘夷を志していたはずの新選組が攘夷派の志士たちを襲ったのが池田屋事件なのである。攘夷とはいわば幕末のナショナリズムであって、簡単に言ってしまえば敵は外国人なのであるが、日本人、それも思想の根っこの似通った者が同士討ちしたのが池田屋事件ともいえる。
 新選組のスローガンの尽忠報国は尊王攘夷であった。しかし、この頃あたりからもはや思想集団とはいえなくなる。事件直後には会津藩から5百両、2ヵ月後の8月には幕府から6百両の褒賞金が新選組に与えられ、なにやら幕臣取立ての話などもちらつく。褒賞金は、新選組にたぶん麻薬のような作用を及ぼした。 
 

新選組の悲劇  8

2007-01-19 21:58:11 | 小説
 その夜、新選組は分散して不穏分子の探索を開始した。10人ほどを近藤勇が率いて、20人余を土方歳三が率い別行動だった。ちなみに、なぜか山南敬助はどちらにも参加していない。ともあれ近藤隊が池田屋にたどりつくのだった。
 一方、長州屋敷に潜伏していて古高が新選組に捕縛されたことを知った志士らは、善後策を協議するため同志に召集をかけていた。その集合場所が池田屋だった。皮肉なことに、新選組にまとめて襲撃されやすいように集まってしまうのだった。
 池田屋に集結した志士は30人ほど。これを急襲したときは近藤隊だけだったが、ほどなく土方隊が合流、数は少し新選組がまさった。さらにのちには京都守護職の会津藩士たちが池田屋を取囲むから、志士たちには絶望的な状況となる。
「池田屋事件の悲劇性は、新選組が多くの人材をむざむざと殺しながら、どんな相手を斬ったかの自覚がまるでないところに醸し出される」と野口武彦氏は『新選組の遠景』(集英社)に記している。そのとおりなのだ。それは当時、勝海舟が「無辜を殺し」たと嘆いた感懐に通底している。近藤勇らは相手をすべて「長州人」だと思い込んでいた。
 しかし、この夜、池田屋に集まった者のなかには、たとえば宮部鼎蔵ら肥後出身者がいた。さらには土佐の北添佶摩、望月亀弥太らがいた。
 海舟の日記(元治元年6月24日付)に望月の名が出ている。
「当月五日浮浪殺戮之挙あり、壬生浪士輩、興之余無辜を殺し、土州之藩士又我が学僕望月生など此災に逢ふ…」
 望月亀弥太は神戸海軍塾で勝の塾生だった。この夜、池田屋に足を運んだのは、尊攘激派の志士たちに北海道開拓を呼びかけるためだった。志士たちの暴発しかねないエネルギーの方向を蝦夷地開発に向けようという坂本龍馬の意向を汲んでである。だから前年に蝦夷地を視察した北添と一緒に志士たちの説得におもむいていたのだ。望月は池田屋から脱出したものの重傷を負っていて、河原町二条角倉屋敷の前で自害した。
 海舟の「興の余り」という文言には、新選組に対する憤怒の思いがこめられている。 

新選組の悲劇  7

2007-01-18 23:47:12 | 小説
 ひとりの男の拷問による自白から、池田屋事件は始まった。男の名は古高俊太郎。枡喜という薪炭店の主人だが、店は実は長州尊攘派のアジトだった。6月5日早朝、ここに踏込んだ新選組は家宅捜査で弓矢、槍、甲冑、鉄砲、火薬など、さらに密書の類を発見する。何かの準備だ。
 古高は壬生の屯所へ連行される。屯所は前川という人の屋敷を借りたものだが、二階建ての蔵が二棟あった。その一棟の蔵が古高の拷問部屋になった。古高を天上の梁から逆さ吊りし、鞭打ったが、彼は口を割らない。で、土方歳三がさらに苛酷な拷問を加えた。足の裏に五寸釘を打ち込み、そこに百目ろうそくを立てて、火をつけたのである。溶けた熱い蝋が傷口にじわりじわりと流れ込むというわけだ。拷問は2時間ほど続いたという。
 古高は、長州の尊攘激派の計画を白状したらしい。京の町に放火し、混乱に乗じて要人を暗殺、あるいは天皇を長州に連れ去ることなどだ。そして長州の志士たちが舞い戻っていることを認めたようだ。舞い戻ったというのは、前年のいわゆる「8・18の政変」で薩摩と会津が組んで、長州の尊攘激派を京から追放していたからである。
 ところで土方歳三は、あるいは近藤勇らはよくもこんな拷問方法を思いついたものではないか。人間の尊厳を踏みにじる拷問を工夫し、それを実行できる人間を、私は士道に殉じる人間とは思わない。拷問をしたと証言しているのは新選組永倉新八であり、拷問部屋は写真でも紹介されているが、『燃えよ剣』では、司馬遼太郎はその史実から目をそらした。京都所司代の六角の獄舎で「獄吏」が拷問したと書いている。うまいものである。土方歳三のイメージづくりには、そう変えた方がよかったのであろう。
 話を戻す。古高はしかし志士の居場所など肝心なことは喋っていない。新選組は、だから最初から池田屋に「長州人」たちがいると確信して行ったわけではない。

新選組の悲劇  6

2007-01-17 19:39:55 | 小説
 さて、文久3年9月、芹沢鴨が粛清される。この頃には「新選組」という組織名が与えられており、近藤勇は単独の新選組局長になるのだった。
 ちなみに江戸に戻った方の浪士組は、庄内藩お預かりとなって、「新徴組」と名のるが、新選組はそれとセットになったような組織名であった。
 その新徴組の隊員で、大正の時代にまで生きていた中村維隆という人がいる。その中村の談話によれば「近藤勇は芹沢鴨を殺して増長した」ということになる。芹沢鴨の寝込みを襲って愛人と共に斬殺したのは、土方歳三や沖田総司らであったことは定説になっている。こうして新選組は試衛館グループというか多摩剣士団のものになるのだが、以後の新選組にも粛清という暗い血のイメージはつきまとう。
 元治元年(1864年)6月5日、祇園祭の宵宮の前日、三条小橋で起きた襲う者、襲われるもの総勢約70人の大殺陣が京の人々を震撼させた。
 池田屋事件である。
 新選組がその名を轟かせ、その存在を世に認めさせた事件だ。幕臣勝海舟が日記に「壬生浪士の輩、興の余り無辜を殺し…」と激しい不快感を書きつけた事件だ。壬生浪士とはむろん新選組のことである。「無辜」といったのには理由があるが、そのことはあとで触れる。
 池田屋事件とは何であったか。

追記:勝海舟の言葉をうろおぼえで書き付けていたら、語句が違っていたので訂正した。

新選組の悲劇  5

2007-01-15 22:45:47 | 小説
 浪士たちを、いわば幕末のフリーターと見なしてみよう。日本を牛耳る大企業(幕府)の正社員登用の近道としてパート社員募集に応じてみたら、関連子会社に出向となった状態に似ているのが、会津藩お預かりとなった新選組である。しかも倒産の予兆のあることに気づいていない。
 そもそも彼らの雇用主となった会津藩主松平容保だって「京都守護職」という新設のポストに就任し、実際に京都入りしたのは浪士たちの入京より2カ月ほど早かっただけだ。京都の治安維持という職能は、まだ軌道にのってはいなかった。というより、京都そのもになじんでいなかった。標準語というもののなかった時代である。会津弁は京では珍しかったらしく、言葉の問題が実務に支障をきたしていたらしい。このことが近藤らに幸いした。江戸言葉の近藤らのほうが、京の人たちとは意思疎通がスムースだったのだ。即戦力になりうると判断されたのである。
 ところで、京都残留の浪士の人数は17人とも18人ともいわれるが、正確にはよくわからない。いずれにせよ、リーダーを失った浪士たちは自分たちの中から長を選んだ。最初の長は芹沢鴨である。近藤勇は二番手であった。彼らに松平容保から指示が下る。「奸物誅戮」であった。
 奸物とは京で暴れまわっている不穏分子のことであるが、彼らのスローガンもまた尊王攘夷なのである。誅戮する側もされる側も「攘夷」というところでは一致しているのである。
 

新選組の悲劇  4

2007-01-14 23:55:30 | 小説
 浪士取扱は急きょ鵜殿鳩翁にかわっており、浪士取締役に山岡鉄太郎(鉄舟)がいる。取締並出役にはのちに京都見廻組与頭となる佐々木只三郎がいる。陰の仕掛け人の清河八郎は浪士頭取であるが、いずれにせよ、にわか造りの組織であることは変わりない。わずか二ヵ月足らずの後、この組織のあり方に危惧をいだいた幕府は、佐々木只三郎らを使って清河八郎を斬殺するのだが、そのことに今は深入りはできない。
 要するに、近藤勇ら試衛館グループらが思い込んでいた組織と実態は違っていたのである。ちなみに試衛館グループというのは、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、藤堂平助らおなじみの面々である。
 浪士組が京都に着いたのは2月28日、警護の対象たる将軍家茂の京都到着が3月4日。清河八郎は、だしぬけに江戸へ帰ろうと言いはじめる。関東で攘夷を行なおうというのである。しかし将軍はただちに江戸に帰るわけではない。いや、帰れない。政局は江戸から京に移ってしまっているのだ。近藤勇と水戸出身の芹沢鴨らは清河八郎と訣別して京都に残留することになる。将軍が帰らないのに浪士組が先に江戸に帰っては、たしかに警護の名目は意味をなさない。
 この浪士組の、まことに組織としての一貫性のないところだが、またリーダーがかわる。3月8日、江戸に帰還する浪士組取扱は高橋泥舟(講武所槍術師範)に、鵜殿鳩翁は京都残留組のリーダーにと決定されたが、翌日には鵜殿も江戸に帰れと指示変更である。
 近藤勇らはリーダー不在となって、結局、京都守護職会津藩主の松平容保の「御預(おあずかり)」となった。新選組のこれが誕生だ。
 それにしても公募浪士たちは誰一人として疑いをもたなかったのであろうか。自分たち浪士を徴募するということは、幕府だけでは手に負えなくなっている証であり、すでに屋台骨がぐらつき始めていることにだ。さらに僅かな期間でリーダーが代わる浪士組という組織の脆弱性をだ。

新選組の悲劇  3

2007-01-13 18:21:35 | 小説
 ところで「尽忠報国」は「尊皇攘夷」と同じ意味合いを持っている。幕府は朝廷から攘夷督促をうけていて、本気でもないくせに「攘夷奏承」と回答し、文久3年には将軍家茂が上洛して天皇に挨拶することになっていた。公募した浪士たちを、将軍上洛の警護という名目に使うつもりだった。
 公募浪士の支度金予算は2500両。一人50両で50人採用と計算していたらしい。ところが実際には300人もの応募が見越されるようになる。あわてたのは「浪士取扱」の松平主税助忠敏である。事態収拾の自信をなくしたのか、浪士集合日の直前に「浪士取扱」を辞任してしまった。
 新撰組の母体は、この公募浪士組なのであるが、そもそもスタートからいい加減なところがあるのである。50人の予算と決めてあるのならば、50人に限定して人物を厳選すれば済むものを、そうしていない。あるいは、それができなかった。結局、集まった浪士たちで、支度金の減額に納得のいった者、240名内外を文久3年2月8日、京都に向けて出発させた。
 浪士公募については、もとより幕府内部に異論があった。なにも寄せ集め浪士たちの手を借りずも、外様大名はともかく譜代大名もいれば旗本もいる。攘夷など幕府の一手でできるものを、浪士たちの手を借りては幕府の権勢が落ちるではないか、という意見もあった。当然である。こちらの方が正論なのだ。それなのに、なぜ浪士を公募し、あたふたと京都へ送ったのか。つまりは朝廷に対する見せかけのデモンストレーションなのである。だから、あえて「尽忠報国」の志厚き者を募るなどいう文言が必要なのであった。(この文言、新選組結成時にもポリシーとして引き継がれるのだが)しかも、この浪士組公募には清河八郎という陰の仕掛け人がいて、さらにおかしな展開をみせるのだが、浪士組に身を投じた近藤勇や土方歳三には、江戸を発つとき、まだそのことはわかっていない。

新選組の悲劇  2

2007-01-12 19:52:06 | 小説
 武州多摩郡石原村(現調布市)の農民の三男宮川勝五郎が、江戸は市ヶ谷の試衛館の道場主近藤周助の養子になったのは嘉永2年(1849年)のことだった。16才だった。勝五郎すなわち近藤勇である。試衛館というのはマイナーな町道場だった。
 近藤勇は28才のとき4代目の道場主になった。流儀は天然理心流。
 この流儀、開祖は遠州の出身であるが、二代目、三代目ともに武州の名主の息子だった。近藤勇の養父周助も現町田市の酒造家の三男で養子に迎えられて道場主になった人であった。天然理心流は武州と縁が深く、門弟たちは武州の者が多かった。ちなみに試衛館に剣を学んだ土方歳三は多摩郡石田村(現日野市)の出身である。
 近藤勇や土方歳三の出身地の武州多摩は天領であった。つまり領主は将軍徳川家なのである。だから藩士などという武士はいない。百姓たちは、いわば半農半士となって、武器の使用も黙認されていた。剣術を習う農民も多かったのである。多摩の農民たちには「公儀の御百姓」という自負があった。年貢も割安だったから、「徳川恩顧」という気分に満ちていた風土といえる。
 そういう環境に生れ育ち、人に抜きんでて剣術に優れ、いずれは剣で身を立てようと志した青年が近藤勇であった。
 ある意味では彼は純朴に過ぎたかもしれない。剣と徳川恩顧という呪縛から自分を解き放てなかったからである。江戸講武所の師範になりたかったらしいが、農民の出自がネックになっていた。彼は本物の武士になりたくて、どこか鬱屈したものを抱えていたはずだ。
 そんな彼に、武士になるチャンスのようなものが訪れてきた。幕府の浪士募集である。文久2年12月、老中は松平主税助に「尽忠報国」の志厚き浪士を集めろと指示を出したのであった。