慶應3年11月18日、坂本龍馬が暗殺された3日後のことだ。その日夕刻、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に出かけてゆく。近藤や土方ら旧同志と酒宴となって、したたかに酒を飲んだ。徒歩での帰路、油小路七条下ルで闇討ちにあった。
近藤は最初から伊東を酔わせて襲うつもりだった。伊東は国事について語りたいという近藤の招きに応じたとも、あるいは政治資金の借用を申し入れており、その金を受け取りに行ったともいう。いずれにせよ、伊東の無警戒さは、近藤勇の暗殺を策謀している人間のとる行動ではない。伊東の近藤抹殺説は嘘としか思えない。それにしても、これから殺そうとしている男と飲む酒はうまいのかまずいのか、当夜の新選組の面々に訊いて見たい気がする。
伊東を待ち伏せしていたのは、守護職屋敷で佐野に切りつけられて怪我をした大石鍬次郎、それに横倉甚五郎、宮川信吉、岸島芳太郎の4人ということになっている。大石が物陰からくりだした槍の一撃を、伊東は最初に受けた。刺客らと抜きあって、本光寺の門前まで来て力尽き、「奸賊ばら」と叫んで絶命した。
さて、刺客はほんとうにその4人だけだったのか。斉藤一はいなかったのか。未見だが、斉藤の家伝に伊東に関しては「近藤の命で自ら手を下した」とあるらしい。気になる近藤の手紙がある。当日の日付で、紀州藩士の三浦休太郎に宛てたものだが、紀州藩に預けていた斉藤一の身柄を無断で引き取った詫び状である。斉藤を「少々相用い候事件出来候」とある。定説の斉藤スパイ説に疑義があると前に書いた。彼が潜入者でなかったとすれば、この日、伊東暗殺に自ら手を貸すことによって、新選組復帰の信頼を得なければならないわけである。ちなみに彼は高台寺党から失踪後は山口次郎と名を変えていたが、実に要領よく名を変える人物だった。戊辰戦争に参加して会津落城後の斗南に配流されたときは一戸伝八となのった。明治になると藤田五郎となのって新政府の警視局に就職、退職後は女子等師範学校の書記などを務め、大正4年まで生きた。だが同じ年まで生きた永倉新八と違って、新選組については公には一切語ることがなかった。語れなかったはずだ。新選組隊士という過去を封印することによって72才まで生きたからだ。
近藤は最初から伊東を酔わせて襲うつもりだった。伊東は国事について語りたいという近藤の招きに応じたとも、あるいは政治資金の借用を申し入れており、その金を受け取りに行ったともいう。いずれにせよ、伊東の無警戒さは、近藤勇の暗殺を策謀している人間のとる行動ではない。伊東の近藤抹殺説は嘘としか思えない。それにしても、これから殺そうとしている男と飲む酒はうまいのかまずいのか、当夜の新選組の面々に訊いて見たい気がする。
伊東を待ち伏せしていたのは、守護職屋敷で佐野に切りつけられて怪我をした大石鍬次郎、それに横倉甚五郎、宮川信吉、岸島芳太郎の4人ということになっている。大石が物陰からくりだした槍の一撃を、伊東は最初に受けた。刺客らと抜きあって、本光寺の門前まで来て力尽き、「奸賊ばら」と叫んで絶命した。
さて、刺客はほんとうにその4人だけだったのか。斉藤一はいなかったのか。未見だが、斉藤の家伝に伊東に関しては「近藤の命で自ら手を下した」とあるらしい。気になる近藤の手紙がある。当日の日付で、紀州藩士の三浦休太郎に宛てたものだが、紀州藩に預けていた斉藤一の身柄を無断で引き取った詫び状である。斉藤を「少々相用い候事件出来候」とある。定説の斉藤スパイ説に疑義があると前に書いた。彼が潜入者でなかったとすれば、この日、伊東暗殺に自ら手を貸すことによって、新選組復帰の信頼を得なければならないわけである。ちなみに彼は高台寺党から失踪後は山口次郎と名を変えていたが、実に要領よく名を変える人物だった。戊辰戦争に参加して会津落城後の斗南に配流されたときは一戸伝八となのった。明治になると藤田五郎となのって新政府の警視局に就職、退職後は女子等師範学校の書記などを務め、大正4年まで生きた。だが同じ年まで生きた永倉新八と違って、新選組については公には一切語ることがなかった。語れなかったはずだ。新選組隊士という過去を封印することによって72才まで生きたからだ。